玲をさいなむ斬殺の記憶!春日山緊急作戦、思わぬ罠…?
「人を…殺した?」
気持ちのついてこないままに僕は思わず、問い返していた。殺した?誰が、いつ?思考がまるでついていかない。そんな決然とした顔をして玲はこれから一体何を、話そうとしてるんだろう。
「ずっと…話そうと思ってたんだ…でも…決意がつかなくて。…だって、記憶がないんだ。だって!僕がっ…僕が自分でまさかそんなっ」
訳が分からない。とは言え、意を決した彼が僕に必死になって何かを、告白しようとしているのだけは、伝わってきた。
「玲、分かった」
僕は意識して、自分の中にある一番冷静な声を出した。
「ちょっと落ち着こう。話があるなら、部屋の中で。まだ、五分くらいなら、大丈夫だから」
「おい、真人、もたもたするなと言ったろう?」
ミケルが顔をしかめたが、こちらもそんな場合ではなさそうだ。
「松鴎丸、虎千代に事情を説明して少し遅れると伝えてもらえるかな?」
僕の今の話だけで、松鴎丸は察してくれたようだ。
「なんだ!一体どういうことだ!」
僕は黙ってミケルも、部屋の中に連れ込んだ。その頃には、多少察しがついてきた。玲が告白しようとしていることは、玲が現れた前後の経緯から、僕が薄々疑念を持っていたことだったからだ。
「ちょっとは落ち着いたかな」
戸を閉めて、あわただしい外の騒音を遮ると、僕は玲に話しかけた。
「君は今、僕と出逢った最初の晩に、人を殺したかも知れない、そう言ったんだよね?もしかしてそれは、梅酒屋で斬殺されていた黒姫たち軒猿衆のこと…かな?」
ゆっくりとした言葉遣いで、玲を刺激しないように努めた。しかしもちろん、これは一大事には違いない。正直言えば僕自身だって、ずっと玲が口を開くのを待ってはいたのだ。
「かっ、隠してたわけじゃないんだ…でもっ、記憶がなくて…あのときと同じでっ」
喰いつくように僕に反語した、玲の言葉尻は消え入りそうに小さかった。
「分かってる。君には、記憶がなかった。いつか話してくれただろ、夜の学校で暴力事件に巻き込まれたときと、状況はほぼ同じだったんだ」
玲は、はっとした表情で僕を見ると、何度も強く頷いて見せる。この時点で、多少口を挟みたいことはあるがここは、玲の話したいように話させるのが一番だ。
「軒猿衆が君を確保した、と言うような報せは、僕たちのところには入っていない。でも君は、あの晩、軒猿衆の忍び宿にいた。そして、目が覚めたら死体まみれだった。そう言うことだね?」
青白い顔をして玲は何度も頷いた。その頃には、膝が笑っていた。
「玲、君がなぜあそこにいたのか、前後の記憶はないの?」
「す、少し。あれから、思い出したんだ…」
あの日から三日も前の夕刻だったと言う。玲は自分の食事に何かが混ざっていたのではないか、と言うことに気がついたのだそうだ。吐き気がして横になったのだが、全身の痺れるような感覚が去らず、そのまま昏倒したらしい。
そして目が覚めるとすでに、見慣れない場所だった。
「君は軒猿衆たちに、どこで捕まったか、それも憶えていないんだね?」
玲は少し躊躇してから、それでもはっきりと頷いた。年かさの中忍頭が出て来て玲を尋問した。その男の話によれば玲は、村上方の忍びに売られたことになっていた、と言うのだ。
「でも違う。母さんだって、すぐに気づいた」
昏倒した日、玲は食事を三島春水と摂ったのだ。こちらの世界に来てから元気のない玲を気遣って、三島春水は手ずから食事を調えたと言う。
「心配しないで」
眠れない日が続く玲を、三島春水は何度も労わったそうだ。
「玲くん、あなたには才能がある。わたしには分かるわ。大丈夫よ、ママが応援してあげるから」
その言葉を最後に、玲は意識を喪った。
身柄は海童たちの忍び宿だったと言う、海岸通りにある漁師の古道具を商う店に放置されていた。
「天骸楼城にいたものだな!?」
人相は、ラウラが描いた手配書きで知られていた。
「仲間はどこだっ!知っていることを全て話せッ!」
何も知らない玲が答えられるのは、自分の名前と、母親によって意識を喪わされた経緯だけだ。
それは全く理不尽な尋問だった。要領を得ない答えをした玲は何度も殴られ、気絶すると指をひしがれたり、水をぶっかけられた。何を問われても、彼自身はほとんど、海童たちの考えを知らされていないのだ。尋問はエスカレートし、次の日には拷問に変わる寸前になったと言う。
「話せ!我々が知りたいことを話さねば、明日は五体満足でいられぬぞ。身体を焼き、手足の指を落としてくれよう。小娘とて容赦せぬ。覚悟しておけッ!」
平手を張られ、玲は土間に倒れ込んだ。また水をぶっかけられたが、そのまま動くことが出来なかったのだ。身体を抱え上げられ、玲は座敷牢に放り込まれた。薄い意識の中、陽が暮れるのを感じ真夜中、生きた屍と同じ状態のまま、尋問が再開した。
(拷問される)
この二日の経験で、身体が悟っていた。尋問は真夜中、陽の明けぬ早朝、半死半生の玲を無理やり起こして始められるのだ。
薄暗い裏庭には、釜が据えられ油が煮えたぎっていた。焼け火箸の具合を見ている下忍がおり、女性と紛う玲の風貌のどこを焦がそうか、品定めをしていた。
「殺される」
その四文字が、はっきりと玲の脳裏を掠めた。死、以外の解放はそこにはありえない。
「お嬢ちゃん、悪いなあ。裸になってもらえるかい」
雑な髭の剃り跡が見苦しい、その下忍の笑みで、玲の記憶は途切れている。
堪えがたい頭痛とともに目覚めた玲の耳に次の瞬間、轟いたのは、身も切れるような冬の外気の気配だった。狂犬のいきれに似た、涙ぐむほどに強烈な死臭が辺りに漂っていた。
全裸だった。いつの間に服を剥がれたのか、玲は一糸も身にまとわず、脂で曇ったまま、先が欠けた野太刀を一本、手に握り締めているばかりだったのだ。
「わああああッ!」
玲は野太刀を放り棄てると、釜の脇にあった自分の服を掴み上げた。全員殺害されていた。玲の逃亡を非難するものも、制止するものもそこにはもう、いなかった。玲はどうにか服を着るとパニック状態になりながら、外へ飛び出した。
「なるほど」
確かに一応、筋は通っている。
あの晩、僕に出くわした時点で玲の服は返り血を浴びてはいなかった。自分で脱いだのか、拷問される際に脱がされたのかは別にしても、狭い室内であれだけの数を斬ったとして、まったく血糊を浴びていない、と言うことの説明は一応、それでついた。
玲が話していたときと同じだ。
理解しがたいことだが、例の事件を再現するため、三島春水は実の息子の玲を生死の際まで追い込んだのだろう。
「あなたには才能がある」
彼女は言った。自分が応援する、と。
だとすると三島春水は、もう一度玲を試したのだ。
「その最中の記憶は、ない?」
玲はぶるぶると震えながら、かぶりを振った。代わりに震えながら、自分の手を差し出して来た。日にちは経っていたが、手にまだ新しい切り傷や胼胝のようなものがある。見覚えがある。斬人剣を振るう虎千代の手に、それは似ていた。
普通なら、信じがたい事態だ。殺害された男たちは、忍術の達人だ。バットや木刀で武装した不良少年どころではない。僕が憶えている限り、あの晩の玲には目立った外傷はなかった。玲はあれだけの惨状をほぼ無傷で創り出したってことじゃないか。
「悔しいですけど、やったのは相当の剣の達人ですよ」
黒姫の言葉が頭に浮かぶ。あれが出来るのは、僕の知る限りでは、虎千代か、三島春水か、と言うところだ。
「黒姫さんの仲間たちは、僕が殺したんだ」
「ふざけやがって!」
その瞬間だ。玲の顔を、ミケルが張り飛ばした。
「お前が殺しただ!?軽々しく、いい加減なことを言うんじゃない!」
「おっ、おいっ、ミケルッ!」
留める暇もなかった。激昂したミケルの渾身のビンタを喰らって、玲は、後ろに吹っ飛ばされたのだ。それだけじゃなかった。なんとミケルはいきなり、腰のエスパーダを抜いたのだ。まっ、まさか玲を殺す気じゃないだろうな。
「どけ、真人。さっきから黙って聞いていれば、詰まらん話だ。お前が人殺しだって?三島春水の息子が聞いて呆れるぜ」
間に入った僕を突き飛ばすと、ミケルは玲に向かって自分の剣を放り投げて見せた。
「だったらおれが、試してやる。取れよ。悔しかったらおれを、それで殺してみろ」
声を放った瞬間、ミケルの気配が倍増した感じがした。その時点で彼は、誰が見ても分かるような殺気を放っていたのだ。
「そいつを使え。おれはそいつで何人も殺して来た。お前の、好きなように出来るさ。おれの首を斬ろうが、胸を突こうが好きにすればいい」
と、言うとミケルは、真っ向から玲を睨みつけた。
「その代り、殺り損ねたときは、覚悟するんだな。おれは、お前の首をへし折る。つまらんはったりは嫌いだ。しくじれば、必ずへし折ってやる」
ミケルはかすかに腰を落としている。ビダルに鍛え上げられたその実力は、確かなものだ。玲が攻撃してきたとして、その身体を抱え込み、首をへし折るくらいは簡単にやってのけるだろう。
「そいつを取れ。さっさと掛かってくるんだ。おれは容赦はしない。武器を取らない人間でも、首をへし折って殺す」
ミケルが叩きつけた殺気は、本物だった。それは、紛れもなく本当に人が殺せる気迫に他ならない。
「どうした?お前の、好きなようにしていいんだぞ」
話しながらミケルは、玲に近づいていった。もちろんだが、玲はミケルのエスパーダを取ることが出来ない。尋常な人間は、身動きが取れないはずだ。もし、ミケルが完全に玲を脅かす『敵』であったとしても。数々の修羅場をくぐってきたミケルが放った殺気は、それほどのものだった。
「どうした」
凶器に手を伸ばしかけた玲はその手を、反対側の手で思わず留めた。最後の理性だ。玲にミケルを刺す理由などない。人を殺せる刃物を手に出来るはずがない。大きく見開いた目で、ミケルを見つめると玲は唇を震わせてかぶりを振った。
「殺すぞ」
その瞬間だった。
ミケルが、刺すような気迫を浴びせかけたのは。それは玲が理性と常識の上で選択した行動の否定を、根こそぎ吹き飛ばす爆発力を持っていた。
「いいから取れえッ!」
これ以上はまずい。玲が、エスパーダを取ったのを見届けた刹那、僕は身体ごとそこに割って入った。
「やめろッ!」
僕の叱咤の声で、玲はやっと我に返ったようだった。びくん、と背を震わせ、まるで死神の誘惑に遭いかけた人間のように目を剥いて、玲は僕の顔を見返した。
「ま、真人くん…?」
エスパーダを取りかけた玲の手を僕は握り、そっと指を解いてあげた。無論、仲間を刺す気はなかった。分かっている。だがあのままやらせていれば、本当にどうなるか分からなかった。
「いい加減にしろよ、ミケル。今のはやり過ぎだぞ」
武器を取らせて人を殺させようなんて、まるでビダルだ。ミケルはミケルなりに、危険にならない範囲を自覚してやったのだろうが、危険すぎるにもほどがある。
「悪かったよ真人、確かに乱暴だった。だがな、おれたちには、こんな試し方しか出来ないんだ。そいつがおれと同じ人殺しかどうか、見極めるのに最適な方法って言うのは、たった一つしかない」
僕が渡したエスパーダを腰に装着すると、ミケルは玲へ言った。
「おれはお前を臆病者だなんて言わない。だが、これがおれたちの世界だ。あの虎姫も含め、武器を取って人を殺す人間のな。今のお前はこの世界の住人じゃない。そしてそれは、別に悪いことじゃない。こっちに来ないなら、それに越したことはないんだ。問題は、中途半端が一番、始末に負えないってことさ」
ミケルはむしろ、穏やかな声で玲に呼びかけると大きく息をついた。
「話は済んだ。おれは行く。真人、お前も、あまり遅れるな」
「大丈夫…?」
頃合いをみて、僕は玲に声をかけた。玲の顔面は、蒼白だった。
「怖かった…」
玲はひざまずいたまま、その姿勢を変えなかった。身体が強張ってしまっているのか。さっきミケルに言われるがまま、刃物を手に取ろうとした手をまた、ぶるぶると震えながら掻い抱いた。
「気持ちは分かるよ。怖かったと思う。でも、分かって欲しいんだ。ミケルは…なんて言うか、荒っぽい奴だけど、玲のこと、本当に信じてやりたいからああしたんだと思う」
僕だって思った。
こんな玲に、人が殺せるはずなどない。
何があっても、それは信じてやりたかった。その気持ちは、ミケルも同じなのだ。今のもただ、脅したのではなく、ミケルなりに玲を気遣ってしたことなのだ。
「分かってる。でも真人くん、怖い、って言ったのは、ミケルのことじゃなくて」
言葉を待ったが、玲はそれ以上のことは、言わなかった。僕にはまだ、彼のことが十二分に理解してはいなかったのだ。玲が畏れていたのは、ミケルではなかった。
思えばそれは何かが、彼の感覚のスイッチを切り替えようとしていたことだった。僕はラウラのそれを、そして虎千代のその瞬間にも立ち会っている。彼が何を恐れているのかを、今の言葉で僕は、ぴんと来るべきだったのだ。
玲はいつまでも自分の手を反対の手で握り締めていた。刃物を持とうとしたその手が、自分の意に反して暴れるのを、懸命に抑えているかのように。
「それは、手荒い洗礼であったな」
ミケルとのことも含めて僕は虎千代に、ことの仔細を説明した。そのまま屋敷に残してきたことについても、虎千代は否やは言わなかった。ただ、どこか座りの悪そうな苦笑を、僕とミケルに見せただけだった。
「誤解するなよ、鬼姫。おれはあいつのためを思ってやったんだ」
「でも、兄さん、やり方があります」
ミケルの話を聞いて、むくれた顔をしたのは、妹のラウラだった。
「彼、この世界で、本当は戦う理由がない。だから、迷ってる。かわいそうです」
それはおおむね、ラウラの言う通りだと、僕も思った。この世界に無理やり連れてこられて玲は過酷な運命を強いられている。理由のない罪悪感が、玲を責めさいなんでいるのだと思う。
「とにかく、あいつは使い物にならない。連れていけば、死ぬ。腕っぷしの方だって、見たところ真人といい勝負だ。三島春水の息子が聞いて呆れる」
「そうか」
いきり立つミケルに対して、虎千代はなぜか苦笑を崩さない。そう言えば彼女はずっと、玲のことについては全く口を挟まずに来た。このときも、ミケルやラウラの話を聞きながら、どこか別のことを考えていたように、僕には見えた。
「三島春水の謂う、果たして玲の剣才はありや」
ぽつりと、虎千代は僕に言った。今のは問いかけたのではなく、どこか謎をかけた口調だった。後で僕たちは、その虎千代の不思議な言葉の真意について知ることになる。
「さておき、まずは春日山じゃ。さっさと片を付けるぞ」
僕たちが奇しくも虎千代の生家である、堅城春日山城と対峙したのは、粉雪がちらつく小さな吹雪が去って後、月の明るい晩だった。朧月が薄墨を刷いたように流れて、月明かりに名残を残している。
山上の城郭群は、死のような沈黙に静まり返っていた。夜半、快晴になったことを、春日山の住人たちは知らないかのようだった。まだ昼間の身が切れるような寒風が吹き荒んではいるが、無音の明るい晩だ。晴明が占いで時刻を択んでくれたとは言え、風も素直に、鬨に従ってくれた。
火付け役の軒猿衆たちと、黒姫に僕は今夜の風向きを教えた。
「今から四半刻してからが、ちょうどいい風だと思う」
「なっ、真人さん、どうしたですかっ!諸葛亮になったみたいではないですかあっ!?」
プロである黒姫にも、今夜の風は読めない。僕が今夜の風の本名を呼び、てなづけ、根回しをしておいたお蔭だ。
「真人、ビダル師が畏れたわけだ。お前は、腕っぷしはない癖に、どこか得体が知れない度胸があるからな。弱っちい癖に」
ミケルはどん、と拳で僕の胸を突いた。
「よ、弱っちくて悪いか!?」
「ほめてるんだ、素直に喜べ」
何だろう、何か嬉しくない。
でもミケルの言うことは、一言も否定できない。思えば、玲どころか色々残念な僕が、こんな達人たちの中で、よく生き残って来たものだ。
「斬奸部隊は先導に従え」
虎千代は積もった雪を口に含むと、行動開始を宣言した。ここから先は、吐く息の白さにすら警戒をする隠密行動だ。
山岳ルートを往くのは、真紗さん、ベルタ、松鴎丸の案内役を従えた数十名だ。黒姫の破壊工作に乗じて虎千代自ら剣を執り、一夜にして春日山本城を乗っ取る。失敗は許されない。乾坤一擲の電撃作戦だった。
明け方には、この春日山城は虎千代のものになる。
「頃は良いか、ゆくぞ」
軍神とまで言われた、稀代の攻め巧者の虎千代の声がどこか上擦っている。それは戦歴百番を誇った父、長尾為景そのものに相対する想いの表れだったのか。二百メートルにも満たない山上、為景が設え、一度も侵略を受けたことのない堅城なのだ。
先行した黒姫の部隊と同時進行で、僕たちは春日山山中にいる。合図とともに本城めがけて斬りこみ、勢いそのままに軟禁されている虎千代のお兄さん、長尾晴景を救い出す考えだ。
「母上によれば、主郭はあの海童が守っているらしい」
自在の手配か、村上方の忍びたちを引き連れて、海童は我が物顔に主郭を占拠しているらしい。
「まっかしといて」
その相手は、真紗さんたちだ。海童の専横は許しがたい。これ以上好き勝手にさせておく道理はない。
「声を立てるなよ」
山装備を整えた斬奸部隊が、刃を抜連れていく。月明かりは、まだ明るかった。虎千代は馬を禁じ、具足の小札や鎖の着込みが擦れて金属音を立てぬよう、紐でしっかりと結わえさせる。
まだらに月明かりを享けた山中は思いのほか明るい。守兵が夜通し城を守るとは言え、山中には、人影はない。僕たちは軽々と、城郭設備の近くまで侵入出来た。
未整地の藪の中は、足が沈み、物音が立ちやすい。地の利を得た虎千代は、気配を悟らせないルートを択んで侵攻を続けた。
「そろそろ、黒姫の火の手が上がる頃であろう」
藪の中、虎千代は声をひそめ話しかけてきた。
「そうね。あたしたちもひと暴れしましょうか」
主郭に迫るにつれて、極端に遮蔽物が少なくなってくる。僕たちは身を隠せる場所を選んで最深部へと進んだが、夜営の灯りが見える頃、徐々に隠密行動を隠せなくなってきている。
「黒姫が花火を上げる。総員、武器を取れ」
虎千代が白兵戦闘の指示をする。急斜面の篠藪の中だ。真上には月明かりの他、人の明かりといきれが零れだしてくるようだった。
「突撃の下知はする。それまで、音は立てるな」
美濃鍛冶三尺五寸、突撃用の長巻を携えた虎千代は、辺りの気配に耳を澄ませる。黒姫の花火が突撃の合図だ。
しかし、だ。それはなぜか虎千代が予定していた時刻になっても、一向に上がらなかった。藪の中で虎千代は眉をひそめた。
「黒姫め、しくじったか」
だが山上は、いまだになんの騒ぎの気配もない。
「虎姫、おれが出るか」
ミケルが剣を携えて、進み出た。
「時間がないんだろう?おれが一人で中に斬りこんで行って、きっかけを作ろう」
特殊部隊出身のビダルに仕込まれたミケルは、隠密行動のプロだ。このときも、すかさず、単独特攻を買って出た。
「ミケル、無茶はするな」
虎千代が窘めたが、ミケルは聞かなかった。
「手遅れになってからじゃ、おれたちも身動きが取れないんだぜ?」
「ちょっ、ちょっと落ち着きなって」
真紗さんまでもが、ミケルを留めた。何か不吉な予感があったのだろう。
「兄さん、危ない。どうしても行くなら、ワタシも行く」
ラウラもついに、血気盛んな兄の身を案じた。
「好きにしろ」
うるさそうに言って、ミケルが未整地の篠藪の傾斜を昇り出したときだ。
パシッ、と何かが弾ける音がして、ミケルのうめき声が上がった。
「来るなッ、ラウラ!」
思わず駆け寄ろうとしたラウラを、ミケルの叱咤が留める。傾斜のすそに、ミケルが倒れ込んでいるのが見える。ミケルがやられた。だが、周りに敵の気配はない。
「罠だッ!」
ミケルの右の腿に、矢が突き立っていた。
「仕掛け弓が張られてるヨっ!」
いち早く見抜いたのは、ベルタさんだった。獣の通り道に、猟師が仕掛けるような罠が、侵入路となる篠藪一面に張られていたのだ。
「早くッ、ミケルをッ!」
ベルタさんは罠にかかるのも恐れずに、飛び出した。ミケルは立ち上がれない。あんなに小さな矢だが、仕掛けはそればかりではなかったのだ。
「こっちへ連れて来て!矢を抜くッ!毒が塗ってあるヨッ!」
ベルタさんは急いでラウラに、ミケルの身柄を預けた。肉に刺さった矢を、真紗さんが一気に引き抜いた。血の付いた矢先を舐めてから、真紗さんは切迫した声で言った。
「付子(トリカブトの毒のこと)よ。すぐに処置しないと手遅れになる。傷口の周りの肉を丸ごと、えぐり取りなさいッ」
葉にも根にも、致死性の毒がある、と言うトリカブトは、忍者の暗殺用のみならず、狩猟の矢毒にも使われた、代表的な毒草だ。
「ううッ!ああッ、くそッ…くッそおおおッ」
あの強靭なミケルが、我を忘れて呻くのも無理はない。
トリカブトは即効性の強い神経毒であり、不整脈、痙攣を引き起こし、最終的には窒息死に至る。傷口から入った場合、猛烈な痺れと、灼熱の刃で刺されたような痛みが全身を襲う。その毒は、熊でも殺すと言う。
「兄さんッ、ごめんなさいッ!」
ラウラが急いで毒矢の刺さったミケルの腿を露出させ、虎千代が肉を斬り取る。ショックで舌を噛むのを防ぐため、虎千代がすかさずミケルに布を噛ませたが、麻酔もなしに肉を斬られる痛みは、言語に尽くしがたい。
「ベルタさん、今の…?」
僕は思わず、聞いた。とっさにしては今のは、鋭すぎた。仕掛け弓の存在にいち早く気づき、さらには毒が塗ってあることまで誰よりも先に見抜いた。
「マコっちゃん、ワタシの前、出ちゃダメだよ。アイツ、仕掛けしてる。罠があったら、必ず近くにいる。ずっと待ってた」
「昔から得意技なのよ。あの男の」
口を挟んだのは真紗さんだった。彼女もまた、ベルタさんと同じく、今の罠だけで敵の正体を察したのだ。
「あの男!?」
「それだけじゃない。皆ッ、早く隠れるッ!」
撃たれる。
ベルタさんが言った瞬間だ。
不穏な風切り音とともに、巨大な何かがベルタさんの鼻先を掠め、僕たちの方へ飛んできた。なんて大きな矢だ。卑劣なことにミケルを介抱しようと、無防備なラウラの首をそれは狙ったのだった。虎千代はすかさず飛び下がり、長巻で空中でそれを真っ二つにしてみせた。
「卑怯者めっ、何者ぞ」
虎千代の叱咤と同時、ベルタさんは躊躇なく発砲した。矢が飛んできた方向をも、彼女は一瞬で見極めたようだ。人の腿周りの太さほどの真竹にそれは、風穴を開けた。その陰から、ヒグマのような巨大な影が姿を現したのだ。
ベルタさんを追ってきたゲオルグ・ギーズだ。月明かりに金色の後れ毛が光っている。鍛え上げられた猟兵。獣を駆る猟師の流れを汲む特殊部隊兵は、鼻の頭に皺を作って、ベルタさんと僕たちを睥睨していた。
「来たなッ溝鼠どもッ!」
ずっと罠を張って待っていたのだろう。ゲオルグ・ギーズは、銃を持っていない。その代り隠密暗殺に最適な、巨大な狙撃兵器を持っていたのだ。
小さな槍ほどの弓を番えた、長い弓をゲオルグは構えた。
「一人残らず、仕留めてやる」




