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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.12 ~隠密行、戦国都市、衝撃の好敵手
162/590

秘伝の忍び道!浅間山麓、『自在』第一の手は…?

そうだ、松本さんだ。

真菜瀬さんが言っていた、東の互助組織の顔役である。

「事情は大体、福田くんから聞いているよ。私の寓居(ぐうきょ)は生憎、武蔵野(むさしの)なんだが、どうも東国は変わった動きがなくていかん。やはり戦国は関西が面白いようだね?」

松本さんは、ぎろりと僕を睨んでくる。

やけに鋭い眼光に僕は気圧されたが、考え直してみると松本さんは別に初対面の僕を睨んでいるわけじゃなくて、ただ単にこう言う顔の人だと言うだけだったのだ。

「よろしく、松本殿」

魁偉(かいい)な風貌に慣れている虎千代にとっては、どちらかと言うと親しみやすいみたいだ。屈託なく話しかけている。

「やあ、君が上杉謙信か。福田くんから聞いた通りの、かわいいお嬢さんだ。だとすると、私もいささか、見識を改めねばいかんね」

松本さんは破顔するが、僕から見るとどこか(いわお)が崩れたと言った迫力を感じざるを得ない。現代人と言うよりは、この時代にいそうな感じがする。まるで古格な武士、と言った魁偉(かいい)な風貌は、凪ぎの海のようにいつも温順な相談役とは好対照と言ってもいい。

砧さんによると松本さんは、相談役より少し先輩なのだ、と言う。

「松本さんも、相談役に負けず劣らず、博覧強記(はくらんきょうき)の人だ。何か困ったことがあったら、遠慮なく聞くといいよ」


松本さんの参着は予想もまるでしていなかったところだが、ともかくありがたかったのは、言うまでもなく、砧さんたち越山隊の到着だ。雪山の装備と武装をした足軽たちがいれば、『自在』も容易なことでは手を出してこれないだろう。

「これでわたくしは、ご案内に専念できますですよ」

黒姫なども、ほっとしたようだ。

こうしてどうにか、僕たちの越後行が動き出す。壁に貼られた地図には、砥石城を横切って山道に大きな印がつけられている。僕の目はそのまま、海に落ち込む果て、越中からの大きな街道と信濃から延びた線の交錯する場所に釘付けになった。

春日山城(かすがやまじょう)

ついに行ける。こここそが、虎千代が生まれ育った場所なのだ。

「見ての通り春日山城は日本海沿いだ。今の情勢では砥石を避け、越中に出た方が安全だが大周りしている時間は生憎ない。よって、砥石から浅間山、白根山の抜け道を通って一気に三国峠(みくにとうげ)を降る」

と、砧さんが説明を始める。

三国峠、と聞いて僕は、気が引き締まる思いだった。上古の昔からあるこの古街道はまさに、上杉謙信が他国へ進撃する際、最も使用された軍道である。

「出発は明後日。旅程は天候を考えても五日前後。かなり危険だが、綾御前様、秘伝の忍び道を行くことにする。移動中は、定期的に点呼を行い用心するけど、決して前の人からはぐれないよう」

砧さんによると、ここ数日は雪はなさそうだが、何しろ山の天候は気まぐれだ。途中で吹雪に遮られることなども、予想の内に入れておかなくてはならない。場合によっては、越山を断念することを決断しなくてはならないときすらあるらしい。

「へへッ、色々ありましたがいよいよ越後ですな」

楽観主義も甚だしい鬼小島などは、もう越後に着いたくらいの心持ちでいる。

「弥太、おのれはそうしていつも気楽でおるが、くれぐれも気をつけろ。此度、越後へ渡るは我々ばかりではないのだからな」

「分かってますって。小僧、俺さまがお前の命綱を持ってやるよ」

へっ、命綱?今、聞き流そうと思ったけど、さらっととんでもない言葉が飛び出して来たぞ。

「真人くん、弥太郎さんの言っていることは、物の(たと)えじゃないよ。崖伝いに移動する場所もあるから、場合によってはお互いを縄で(つな)ぎ止めて移動しなきゃいけないときだってある。いざと言うときのことくらい、覚悟しておいてもらわないと困るよ」

「えっ」

ちょっと待って、そんなに危険なのか。ロープで崖越えなんて、プロの登山家がやることだ。本当に僕、虎千代の生まれた越後を見ることが出来るのだろうか。

「そう深刻に考えるな。京では、鞍馬の山を供に歩いたであろう。道のりとしては、あんなものじゃ」

虎千代がすかさずフォローしてくれるけど、いや本当に大丈夫なのか?

「真人サン、ワタシたちも初めてです」

「心配するな。落ちたら、おれが引き揚げてやる」

ラウラとミケルも励ましてくれるが、そもそも二人と僕とでは身体能力が違う。

「大の男がこの期に及んでがたがた言うんじゃねーですよ。真人さんも、いい加減へたれを治さないと置いてきますですよ。大丈夫だっての。何ならわたくしがねえ、後からついていってあげるですよ…うっかり滑落しないようにねえ。うふふふふふ」

「何だよその黒い笑い」

何故か黒姫に背後に回られる方が、よっぽど怖くなってきた。

「馬鹿、お前一人のへまくらい、私が何とかしてやる」

晴明が突然、存在感を主張してきた。て言うか僕、へまする前提で話されてないか?

「それよりな、聞いて驚け。今、雪除けの呪いを用意しておるわ。お前たちが越後に行く数日くらい、私が天候を守ってみせる。だから後はお前たちが考えるべきなのは、こやつも含めた身のこなしに自信がないもののことだけよ」

と晴明に言われ、僕をいじっていた皆が少し押し黙るのが分かった。真紗さんのことだ。西條と『自在』に暴行を受けた彼女は、日に数回は起き来したりはしているが、まだ完全とは言えない。

「真紗は、連れて行かねばなるまい」

静寂を破ったのは、虎千代だった。確かに、深宙さんの敵討ちを含め、越後軍の信濃乱入を防ぐためには、真紗さんの越後行は不可欠と言っていい。

「あやつが行かねば始まらぬ。真紗にはわたしから話をする」

「僕も一緒に話に行くよ」

「助かる」

虎千代は頷くと、佩刀を挿しこんで立ち上がった。こっちも待ちに待った越後行だ。

出発決まったとなれば、すぐに話さなくちゃだ。


真紗さんの部屋へ入ると、外の寒い風が盛大に吹き込んでいた。なんと、床ばかりか、部屋までもがすでに綺麗さっぱり片付けられていたのだ。

「ハイよ、虎ちゃん、マコっちゃんどいて。これ、ベルの分」

なぜか昭和な泥棒みたいに鼻の下でほっかむりをしたベルタさんが、ごってり荷物を持って現れる。何かと思ったらこれ、旅の荷物だ。そして本当にびっくりしたのは、ベルタさんが部屋に入った瞬間、天井の羽目板がごとん、と落ちてきたことだ。そこからなんと、忍び装束の真紗さんが、音もなく落ちてきた。

「うわあっ、な、なにしてんの!?」

「大掃除」

昨日まで布団を被ってのそのそしてた人とは到底思えない、やたらとイイ笑顔で真紗さんは親指を立てた。

「いやあ、部屋に色々隠してたものあるから、片づけるの大変だわ!罠とかも張ってあるから片付けないと留守中この部屋誰も使えないでしょ?」

そんなに色々仕掛けがしてあったのか。本当かよと思っていたら、出る出る。天井裏に爆薬やら折り畳み式の槍や鉄扇やら。畳の下はなんと漆で黒く塗り固め、棘を植えた侵入者除けのロープまで張ってあった。どんだけ忍者屋敷だ。でもまさかこれ、全部持ってく気がじゃないだろうな。

「いや、思ったよりあるわねえ。結構、長く使ってたからね。要らないものは、幸隆さんに預かってもらうしかないかあ」

頭についた埃を払うと、真紗さんは長い髪の毛を後ろでまとめた。そして傍らの蒔絵の小箱から、いつもしているあの日月のピアスを取り出して耳につける。

「どうやらもう、話は伝わっているようだな」

虎千代が苦笑を口元に含んで言うと、真紗さんは軽く頷いた。

「一応、諜報部員ですから」

「姉上の形見、わたしが取り戻すのを手伝おう」

虎千代は真っ直ぐに真紗さんと相対して、言った。

「そうね。真人くんから聞いていると思うけど、結構重要なものなのよ」

「それはすでに聞いた。だが何より、真紗の大事なものだろう?」

真紗さんはまた、はっとした顔をした。虎千代はいつも巧まずして、本音を言う。真紗さんも心なしか、虎千代に急所を突かれると途端に、どこか気弱げな表情を晒す。いつ見ても、不思議な関係の二人なのだ。

「…困るなあ。真人くんも虎千代ちゃんも、そうやって直球なんだもん」

「わたしはいつも心に映ったことしか、口にはせぬ。お前の心根が、わたしに響いてきたことを語っているに過ぎぬ」

真紗さんの真実は、敵討ちだ。

多くの事情や都合で隠れていようと、それがたった一つの目的だと、虎千代は判断したのだろう。

だからこそ虎千代は、これまでどこか疑っていた真紗さんに、心から肩入れすると決めたのだ。僕も同じ気持ちだった。

誰よりも、深宙さんのために。

あれだけの暴行を受けても、気持ちを()げない真紗さんの意志を、僕たちは信じることにしたのだ。

「それならさ」

真紗さんは微笑した。不意にほころんだ頼りない表情を、巾着を結わえるように笑顔で引き締めたと言う感じだった。

「あたしも直球で言っとく。嬉しいよ。…ありがとう」

「礼には及ばぬ。真紗、お前にも尽力してもらうゆえ」

と、言うと虎千代は、真紗さんの決意を試すように瞳の色を尖らせた。

「越後で西條を仕留めるぞ」


こうして、僕たちは旅立った。『自在』がすでに動いているのを見ても分かる通り、前途多難でありながら、時間との勝負、と言う強行軍だ。もはや寸暇の暇も惜しいと言うほどに、道行は急がなくてはならない。

「砥石までの安全は保障するよ」

と、信玄と幸隆さんが諏訪から僕たちを護衛してくれたのは、非常に助かった。砧さんの部隊と越山の装備はすでに、隠密行動が可能な規模を超えていたからだ。

「また、雪解けに会おう。今度は府中に来たまえ」

最後まで信玄は、相変わらずだった。僕が直接目の当たりにしたあの信玄の手腕であれば、村上方をけん制しつつ、甲斐兵たちを引き揚げさせるのは、それほど難しくはなさそうだ。

「浅間山までは、我ら真田の者が案内いたしまする」

と、幸隆さんは最後まで案内を買って出てくれた。

「私もついていき、『自在』をこの手で仕留めたいところでござったが、長尾殿には苦労をかけまする」

「いや、こちらこそ、この信濃では随分世話になった」

どこまでも武骨な真田の創始者の(はなむけ)を、虎千代も穏やかな微笑で応える。思えば、僕みたいな歴史ファンにとっては、この人との出会いも貴重だった。

「真紗殿も、これ以上力になれずに済まぬな。祖先としてもっと、らしいことをしてやりたかったものだが」

「なーに言ってんの」

しみったれてるなあ、と真紗さんは、幸隆さんの胸をどついた。

「たっ、何をするか真紗殿!」

「そう言う、テンション下がるのやめてほしいなあ。ったく、そうやって忍者率いてる癖にどこまでも一徹でくそまじめなんだから」

思いやりある祖先に対して、言いたい放題の子孫。

「砥石城、幸隆さんのものにするんでしょう?お屋形様の信濃工作は幸隆さんにかかってるんだから、余計なことは考えない。あたしを含めた真田家の系譜が歴史に残れるかどうか、一世一代の大博打、幸隆さんにかかってるんだから。て言うか、幸隆さんは一番責任が重いのよ?」

「そ、そうか。そうでござるな」

確かに、真紗さんの言う通りだ。この砥石城攻略には、信玄ばかりでなく、真田家そのものの命運が懸っていると言っていい。あの武田信玄が武力で落とせなかった砥石城を、調略のみで占拠してしまう。まさに戦国史でも稀有の離れ業だ。その最大の功労者たる幸隆さんこそが、天下人徳川家康を畏れさせた、戦国一の策士の家、真田家の(いしずえ)となるのだ。

「それにねえ、あたし、春には、また戻ってくるんだから。もう帰ってこないみたいな湿っぽい挨拶はなし。あたしも、真田家のために働くんだからさ、よろしく頼むくらいの感じでいいのよ」

「う、うむ。そう言うことなら、よろしく頼む。がっ、がんばれ!」

「はいはい。て言うか、がんばるのお互い様でしょ?」

何だか、最後まで真紗さんのマイペースに翻弄される幸隆さんだった。


僕たちが足を踏み入れる浅間山は、世界でも有数の活火山地帯であると言う。標高二五六八メートル、火口付近では絶えず小さな噴火が続発し、山系は隆起と崩壊を繰り返している。現在でも近づくと、山頂付近から棚引く白煙が確認できるほどだ。

戦国時代に最も有名な爆発は、何と言っても天正十年二月十四日の大噴火だろう。信玄の後を継いだ陣代、武田勝頼の滅亡の遠因となったと言われる噴火である。このときの爆発は遠く京都からも見え、勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)をはじめとした公家衆の日記にも、

不思議(ふしぎ)(こと)

と書かれるほどの椿事(ちんじ)だったと言われる。

僕たちがいるこの時代にも、そんな大災害レベルの噴火は頻発している。享禄四年(一五三二年)の噴火では、なんと直径二五メートルもの巨岩が天から降り注いで来た、とされているそうだ。

そんな松本さんの説明を聞きながら、僕たちはまさにもうもうと白煙を吹く浅間の火口を横目に歩いていく。相談役に匹敵するほどに地理誌に精しい松本さんの説明は的確なばかりでなく、何より実地的だった。

「浅間から白根の山までは、現代なら有料道路が通っているんだよ。(折り畳みの地図で解説してくれる)信濃と上野(こうずけ)の国境がちょうどこの辺りだ。ほら、この浅間山の東向こうが、真田昌幸が領した岩櫃城(いわびつじょう)だよ」

鬼押出(おにおしだし)と言われる冷え固まった溶岩が連なる一帯は、僕たちが通る山のちょうど裏側だ。この絶景が出来たのは江戸時代と言われるが、火山灰や溶岩が絶え間なく降り注ぐこの辺りは、剥き出しの岩盤やら、風穴やらが歩くほどに散見出来るようになっている。


「さて、ここからがお待ちかね、我ら軒猿秘伝の忍び道ですよお」

そうやって黒姫が立ったのは、まさにその、大きく繰り抜かれたような風穴の開いた洞窟の入口だ。

「え、まさかここ行くの?」

思わず僕は声を強張らせた。真っ暗な風穴は、奈落の底に行きそうな勢いだ。黒姫は知らないだろうが、僕はちょっと洞窟にトラウマがあるのだ。比叡山で魏玲と入った七歩蛇窟の蛇穴以来、どうしても尻込みしてしまうと言うか。

「なーに怖気づいてやがるですか!行きたくなきゃ、置いてきますですよ。真人さん、わたくしたち、贅沢は言ってられねえって言うの分かって言ってますですよねえ?」

いや、そりゃそうだけど、覚悟ってものが要るんだよ。

「案ずるな。ずっと地下と言うわけじゃない。地上へ出たり、地下に入ったりするだけだ」

「そうそう、そんなにびびらないの。それにねえ、洞窟があった方がむしろありがたいのよ?」

虎千代は、どんな場所でも男前だ。現代人の癖に、真紗さんも抵抗がなさすぎる。

「野営をするのには、最適だ。屋根付きだと思えばいい。火さえ絶やさなければ、野生動物の襲来も防げるしねえ」

そうか、と納得しかけたが、砧さんがもっと、聞き捨てならないことを言ったのを僕は聞き逃さなかった。長野の山は、出るのだ。聞いていないのに松本さんが、そうだ、この時代にはニホンオオカミがいたね、と要らない解説を付け加えてくる。うわあ、それ以上、聞かなきゃよかった。

虎千代も頼光と言う狼を飼っていたから、その洒落にならない大きさは知っているが、あれが群れで襲って来ることを考えただけで寒気がする。

「大丈夫です。真人サン、ワタシもベルタさんも初めてです」

ラウラもどっちかと言うと目が輝いている。OH!これ日本のダンジョンですネ!とか訳の分からないベルタさんは別にしても、うちの女の子たちってどんだけ男前なんだろう。

「真人サンは、ワタシとミケル、見てますから平気です。不安になったら言って下さい。ワタシ、真人サンの手、握っていてあげます」

「い、いやそこまでしてくれなくても大丈夫だから」

そして女子に心配される僕。へたれ過ぎる。

「なっ、何を言うかラウラ。真人、不安ならわたしの手を握っていれば良かろう!」

禁断のワードを聞きつけて、虎千代がぐいぐい食いついてくる。だからいいって。

「もてもてですなあ、真人くんは」

真紗さんは僕の横でくすくす笑っている。いや、ちっとも笑えない。

「夜、心細くなったら、来てもいいよ。この分じゃ夜一人で大変でしょ?いつもみたいにお(ねえ)さんが寝袋で、慰めてあげるから。ね?」

「火に油を注がないで下さいっ!」

今のはわざとだ。絶対に、面白がってやってやがる。

「なっ!真紗っ、いつもみたいとは、どう言うことだ!」「不潔です真人サン!」

「そっ、そうですよお!いっつも不潔で不埒(ふらち)なのですよ真人さんは!虎さまっ、寝袋を襲うならぜひっ、この黒姫の寝袋にい!」

「黙れ黒姫!」

ああもう止まらない。お約束とは言え、女子ばかりのパーティってどうしてこう、面倒くさいのだろう。

「どうするんですかこれ!真紗さん、一○○パーセントのでたらめをもっともらしく言わないで下さい!」

「ははは、やっぱ真人くんたちって見てて飽きないわー」

もうすっかり真紗さんは他人事である。引っ掻き回すだけ、引っ掻き回しといて。本当にいい加減にしてほしい。


と、こうして前途多難の危惧を持ちつつも、どうにか僕たちは忍び道を進んだ。

道のりが険しいことは予想以上ではあったが、そこから先の旅程は意外にも順調だ。

心配した浅間山の吹きおろしの風も、洞窟に守られながら進めば、さほどにも感じない。峻嶮な山肌を縫う忍びの道は、驚くほどに地の利を心得て、見つけ出された文字通り秘伝のルートなのだった。

「順調ですねえ」

この道の全行程を知る唯一知る黒姫も、まずほっとしたようだった。黒姫の話によると、中途に一泊する予定としてそれほど無理をしなくても、そこから次の日のうちには三国峠の中間に達することが出来そうだと言う。

「ふうん、こんな道があったんだねえ」

真紗さんもやたらと楽しそうだ。ベルタさんと二人、まるでハイキングをするくらいのゆるういノリだ。こっちは毎度のことだが、やっとこさ着いてきてるって言うのに。

「油断はするなよ」

と、言いつつ、虎千代の声も、どこか弾んでいる。やっと故郷に近づいている、と言う実感が涌いてきたからかも知れない。はるか頭上を鷹が、巨大な両翼で舞っていた。

「困ったものだな。私の読みでは、山深くなってきたらすぐに襲って来るものだと、思っていたんだがね」

砧さんはずっと周囲を警戒してくれたらしく、やや拍子抜けしていたようだ。

「陽が落ちてからがまず、連中の真骨頂でございましょう」

虎千代は急に顔を引き締めて応えた。

「連中は山の忍びです。この山容すべてが、自らに利してくれる時刻(とき)を焦らずに待つつもりに相違なく」

「成る程。そうしている間に、私たちは連中の懐深く、誘い込まれる、と言うわけか」

「いかにも」

山岳修行者から起こり、山の掟を悪用することを覚えたものたち、それが『自在』率いる村上忍者たちだと、虎千代は言いたいのだ。

「故に襲撃なれば、中天の時はまずなく、日没、深山の闇にまみれて」

「或いは明けの頃、朝霧の深みに(まぎ)れて…かね?」

虎千代は我が意を得たり、と言うように頷いた。

「交代で寝ずの番をつけるのが、よろしいかと存じまする。侵入者除けの罠を巡らせれば、この中の誰でも容易に務めえまする」

「なになにー、なに話してんの?」

ふらふらと近寄ってきた真紗さんを虎千代は指さした。

「幸い、罠張りにはうってつけの名手がおりまするゆえ」


陽はほどなく落ちた。僕たちは予定通り、適当な洞窟を見つけて野営することにした。黒姫が場所を心得ているらしく、周囲を崖に囲まれたまるで要塞のような風穴を見つけてくれた。

こうして僕たちは装備を穴に仕舞い込み、夜通し火を(おこ)して眠ることになった。夕餉には大鍋一杯にベルタさんが持ってきた(きじ)の肉と根菜類、茸をたっぷりと煮込んだ雑炊が出た。お腹がいっぱいになるなり、筋肉痛が一気に出た。一日極端に傾斜した道を歩き通したのだ。一息つくと足腰に、かなり疲労が来ているのが分かった。

少し休んで、交代で寝ずの番を決めることにする。人数もいるので、晩は二人ずつ、一刻(二時間)交代のローテーションだ。『自在』はどれほどの人数を駆ってくるのか分からないが、見張りの合図で全員がすぐに戦闘状態に入れる状態を維持しなくてはならない。

組み合わせは籤引(くじび)きで決めたのだが、僕は虎千代と一緒だった。良かった。別の人とだったら、また昼間のひと悶着が再燃するところだ。

「こうしていると、あの鞍馬山の夜を思い出すな、真人」

心なしか、珍しく虎千代はうきうきしている気がする。いつもはそう言う鬼小島や黒姫を叱りつける役なのに、子供に帰ったみたいだ。

「ようやくお前に、あの春日山の(けい)を見せられるのだからな。中々美しいぞ、春日山から臨む越後の海は」

(そうか)

実感として忘れかけていたことを僕は、そこで思い出した。僕は虎千代に、虎千代の産まれた風景を見せてほしい、そう言ったんだった。

「越後はさ、どれくらい寒いの?」

僕が聞くと、虎千代は輝かせていた目線を少しそらし、

「寒い。京の冬に較べれば、だが。東北の国はみなそうだ。だがそれでも住み慣れれば、なんと言うこともない」

「今から行ったら綺麗だろうね、雪景色も」

と、僕が言うと虎千代は、目を丸くしてこちらを見つめた後、本当に嬉しそうに頷いた

「ああ、寒いが本当に美しい地なのだ」

「虎千代が産まれた風景かあ」

「そ、そうだ。わたしが育ってきた風景だ」

それは、戦国最強の軍神、上杉謙信が生まれた風景。だが僕にとっては、もうそうじゃない。僕の大切な人が愛し、生まれ育った風景だ。

「他には?越後って、どんなものが美味しいの?」

「海の幸も山の幸も美味い。そして何より水が()くてな」

吹雪にも負けず匂う寒椿を思わせる色鮮やかな唇を綻ばせて虎千代は、故郷の話を僕にしてくれる。

「そして何よりが人だ。寒さに身を寄せ合って生きるゆえ、越後の民は絆深く、義理に固く、情けを信ずる。英邁為景公(えいまいためかげこう)の元に集えるは、そんな頼もしき勇士ばかりじゃ。無論、領内に住まう民も同様。…まあ地は寒いが、心は限りなく温かい、そんな土地柄よ」

「そっか」

思わず微笑ましくなってしまう。いつもは自分の自慢など、どんなことでもしたことがない虎千代が、故郷の話になるとこんなに一生懸命になるのだ。よっぽど越後を愛していたのだ。そう思うと、越後を離れた二年、虎千代と越後長尾家の人々との間が、少しも離れていなかったと言うことが分かる。

「直江景綱さんと柿崎景家さんにも挨拶しなきゃね」

「そうだな。大和も和泉もああみえてせっかち者ゆえ、寄越す文にも早く真人を連れてこい、と言わんばかりであったからな」

つい先年、僕は彼ら率いる越後兵と戦陣を供にしていたのだ。尖り(ひげ)猛将、柿崎景家の塩辛声や、頼りがいのある直江景綱の悠揚とした笑みすらも、今でも簡単に思い出される。そう考えると不思議だ。虎千代の気持ちが分かる気がするのだ。僕もまた、自分の故郷に帰るかのように、わくわくしてきたから。

「なるべく早く帰ろうよ」

「そうだな」

もはや懐かしい越後の人たちが棲む土地へ。

疲れなど吹き飛んだ気がした。明日から、またペースを上げないとだ。


ヴウッ、と言う獣のうなり声と、人間のものと思われる悲鳴が上がったのは、そんなときだった。

「ついてきてくれ」

虎千代は僕に火のついた松明を渡すと、腰の柄に手を当てたまま、悲鳴のした方角へ歩いていく。見ると竹林の際に、頸を噛みちぎられた番兵が血まみれで転がっていた。頸動脈を噛み切られたのか、すでに死体だった。

「これ、まさか…?」

昼間話していたもう一方の敵。野生動物だ。狼をはじめとした大型肉食動物の捕食は、頸動脈を狙い、短時間で相手の息の根を止める習性が一般的だ。僕は思わず辺りを見回した。だが、この暗さですでに夜陰に紛れた肉食動物の姿を視認出来る筈もない。

「狼かな?」

「この遺骸、少々おかしい」

僕の声に被って虎千代が、ぽつんと言った。

「頸の狙い方が堂に入り過ぎている。狙いすましたように一発で噛み切っている。まるで、暗殺でも仕込まれたようよ」

「まさか『自在』たちが狼を?」

僕は愕然とした。確かに、考えられる話だ。例えばこの時代、軍用犬などの活用はすでに始まっている。野生動物を暗殺用に調教して、刺客に仕立て上げるなどと言うことも、決して有り得ない話じゃない。

「ど、どうしよう。皆を起こしてくる?」

と、遠吠えが立った。一方向からじゃない。この真っ暗闇の山のそちこちからだ。この番兵を仕留めたような、仔牛ほどの狼たちが今どの方向から、どのように襲って来るか、見当もつかない。

「虎姫、結界が破られた。これは襲撃だぞ」

ちょうどいいタイミングで晴明が現われた。森羅万象を知る、この陰陽師もすでに虎千代と同じく、『自在』の襲撃と判断したらしい。

「最初は山の獣と思い、狼どもに、話しかけたが全く聞く耳を持たぬ。あれは何者かに念入りに調教を施されておるぞ」

真っ白な獣の群れが、群れになって飛び出してきたのように見えたのは、次の瞬間だ。僕たちは一気に狼の群れに包囲されたのだ。

「みっ、見つかった!」

「当たり前だろう。そんな赤々と燃える目印を持っておれば、餌食にして下さいと言っているようなものだ」

血圧が一気に上がった。(たくま)しい獣たちが、十数頭はいた。薄汚れた銀髪から息が詰まるような臭気を発した肉食獣たちは、生臭い息を白く棚引かせつつ、かわるがわる僕たちを威嚇(いかく)し始めたのだ。

みるみる退路が断たれた。一瞬でも隙を見せれば、僕たちは奴らに群がられ、ぼろ雑巾のようにされてしまうだろう。

「松明を棄ててくれ」

虎千代は言った。今さら遅くないか!?

「憶えているだろう。わたしはそれでも『視える』。わたしが活路を開いたら、奥へ走るんだ。皆を呼んで来てくれ」

僕は思わず息を呑んだ。虎千代じゃなかったら、自殺行為に等しい作戦だが、ここは採るべき方策はそれしかない。虎千代は腰を沈めた。もう一刻の猶予もないのだ。こうなったら、宿営へ全力疾走だ。あそこへ行きさえすれば、狩猟に熟れたベルタさんが狼を追い払う鉄砲を持っている。

「行け」

僕は遥か遠くに松明を投げ捨てた。その瞬間、四方から湧き上がる獣の咆哮、悲鳴。闇の中で何も見えなかったが、僕の感覚では松明を棄てた瞬間、虎千代の小さな身体があの巨大な狼たちの白い群れの中へそのまま呑み込まれたような気がした。

早く。とにかく、早く。

ろくに前も視えぬまま、僕は、転がるように駆けた。幸い、ベルタさんと真紗さんは、お酒を飲んでまだ騒いでいた。

「任せてマコっちゃん!狼、ジャーキーにすると美味しいヨ!」

酔っ払ったベルタさんは、すぐに銃を持ち出して駆けて行った。え、ジャーキー?

「あたしは皆を起こすから!真人くんは、ベルタが虎千代ちゃんを撃たないように気をつけて!」

そんな無茶な。

一瞬すっごく心配になったが、ここはベルタさんを頼るしかない。『四足(しそく)』によって、完全な暗闇でも戦える虎千代とは言え、あれほどの数の野生動物をすべて斬り伏せるのは、無理だ。

「アアアアアッ」

悲鳴が上がった。人間の、しかも女性ものだ。僕は心臓が停まりそうになった。獣たちの咆哮は相変わらず錯綜している。彼ら、群れで狩りをする肉食動物たちの第一の狙いは本来、頸の前は機動力だ。

ぐるぐると群れで取り囲み、獲物を翻弄すると彼らは手足を集中的に狙ってくる。そうして無力化した相手にじっくりと止めを刺すのが、彼らが最も得手とする野生の習性なのだ。

「た、松明」

「阿呆、松明では間に合わぬわ」

仕方ない、と晴明が印を切った。するとその護符が燃え上がり、炎の輪になると周囲を昼のように明るく照らし出した。そこで僕は衝撃的なものを見た。

「これは…」

地面をのたうち回っているのは、左腕を断たれた女だった。鋭い剣線が肩から下を、完全に斬り飛ばしている。帷子に忍び装束、明らかにそれは『自在』の手下だ。さっきのは紛れもなく、この女の悲鳴だったのだ。

「くそっくそっ、くそおおおおッ!」

女は血刀をひっさげた虎千代を睨みつけてわめいた。

「なっ、なぜっ!なぜ、狼たちに(あたし)が紛れているのが分かったッ!?」

「問われるまでもなし。狼の呼気の中に、人のいきれ。どう上手く紛れ込んでも、呼吸の拍子は誤魔化せぬわ」

「畜生ッ!畜生おおおっ」

無拍子の奥義を自得した虎千代にとっては、夜陰に紛れて奇襲してくる暗殺者の呼吸を図ることなど、造作もないことだったのだ。しかし何と恐ろしい相手だったのだ。もし虎千代がいなかったら、と思うと、背筋が寒くなる。

「まっ、まだっ!まだだっ!妾の狼が、あんたらをここで活かして帰すと思うかッ!」

まだ狼があんなにいるのだ。だが、虎千代はもう全くあわてていなかった。

「連中も元は野の獣よ。頭目のお前がやられたとあっては、戦意はあるまい。そうだ、晴明殿。そう言えば、貴殿は狼の言葉が分かるのであったな?」

「ああ。直接話が出来るぞ」

「ならば、連中に伝えてくれるか。『群れの頭がやられた。これ以上は無意味だ』と」

群れを率いる動物たちの習性を、虎千代は抜け目なく利用した。結局、晴明の狼語で、獣の群れは潮を引くように消えていった。

「くそッ!殺してやるッ!クソどもっ、必ず殺しに戻って来てやるッ!」

完全に敗北を悟った女は、罵詈雑言喚き散らしながら、一目散に逃げていった。

「好きにしろ。それよりお前は『自在』に伝えおけ。詰まらぬ刺客を送るくらいなら、今度は直接お前が来い、とな」

長い旅路は、まだ始まったばかりだ。


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