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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.12 ~隠密行、戦国都市、衝撃の好敵手
158/591

戦線離脱!?まさかの禁じ手をとった真紗さんを阻む最強の刺客は…?

「くそっ…いつの間に」

海童の顔面が、蒼白になる番だった。まさか虎千代がこのタイミングで現れることは、予想もしていなかったのだろう。だが、偶然ではない。確率と必然を重ねて僕と晴明が、そこに虎千代を導いたのだ。

「頃はよし。おのれも剣を携える身なれば、覚悟するがいい」

「くっ」

戦場に立つ虎千代の殺気は、相対したものにしか分からない。思わず海童がたじろいだのが、僕にも分かった。

血刀を下げた虎千代の気を浴びて尋常の精神でいられるものは少ない。その凛冽(りんれつ)、致死性の寒気を孕んだ気は、凄愴と言うよりもっと絶対的なものに近い。言ってみれば、逃げるより命をながらうよすがすらない、自然災害のようなものだ。

(みぞれ)のようにちらつく細かい雨をまとう虎千代のたたずまいは見た通りの小柄な少女剣士の姿には見えていないに違いない。さっきまでの立場は、再び逆転した。この海童こそが今や孤立無援、虎千代とその剣一つで対峙しなくてはならなくなったのだ。


「待たせたな、真田の(ねえ)ちゃん」

ゲオルグ・ギーズに苦戦を強いられた真紗さんに割って入ったのは、鬼小島である。物量で圧してくるゲオルグの相手としては、これほど格好の相手はいない。

「や、弥太さん」

「いいから、何か着ろよ。お前、見てるこっちがクソ(さみ)いや」

思わずほっとした顔をした真紗さんに鬼小島は、着ていた羽織を押しつけた。

「今まで飲ましてもらったツケの分くれえは、働かせろよ。次はまた、タダ酒飲ませてくれりゃあそれでいいからよ」

無言でゲオルグが迫ってくる。鉄板も踏み抜く勢いの前蹴りを、鬼小島は腰を落として難なく受け止める。

「くっ」

「戦場の組打ちなら、お手のもんよ」

足を取られたら逃げる術はない。焦ったゲオルグの顔面に鬼小島の特大栄螺(さざえ)のような拳がめり込んだ。

「くおらっ、男相撲ならな、こっちゃあ年季が違えんだよ!」


「武田さまっ、わたくし加勢致しますですよ!」

二人がかりに苦戦する信玄の元には、黒姫だ。

「ああ、君は人質じゃない方の黒姫くんだね。ちょうど今、君の偽者を倒すところさ」

信玄は意味ありげに目の前の江戸川凛と、黒姫を見比べた。

「こうしてみると、まるで似てないな」

「最っ初から似せてねえよバーカ!あたしはあたしだっつーの!言っとくけどクソ坊主、あんたはあたしが何があってもバラすッ!」

内臓ナイフを振りかざす江戸川凛の前方を阻んで、鉤棍を構えたのは黒姫だ。

「こいつは物騒な得物を持ってやがるですねえ!さすがは、わたくしのパクりだけはありますですよ!」

あろうことかその瞬間、ぶっ、と凛は黒姫に唾を吐きかけた。

「くおら!何しやがるですかっ!そうやってようくもわたくしの信用と乙女の沽券を傷つけてくれましたですねえ!絶対許しゃしねえですよ!あんたの相手はわたくしだってんですよ!」

案外割と似てるんじゃないかと思う二人は、こうして血みどろの死闘を始めた。


「君は、このお嬢さんの相棒なのかな?」

残る、信玄だ。

「名を訊こう。後学のためにね」

江戸川凛はこの少女を(あきら)、と呼んだが、それからこの少女は一言も発していない。武器は偃月刀(えんげつとう)のように湾曲した四尺に近い細長い大太刀である。

薄い桃色と白の小袖に鎖帷子を着こんでいる。この上なく切り揃えた前髪は若小姓のようにきりっとして、双眼は片時も外すまいと一途に、信玄だけを見ていた。

黒姫が割り入って来て、相棒の江戸川凛とのコンビネーションが途切れても、玲、と言われた少女は気にする風もなく、その大太刀を振るう。

刃筋は、海童の剣と同じだ。あれほど重い大太刀を腕力と手首の返しで使う、いわば手撃ちの剣だ。足腰に重心をとらない分、剣撃は自在になるが、普通に考えてあれでも四尺の大太刀を軽々と扱う膂力(りょりょく)は、細身の少女にそぐわない。

「その太刀筋、慮外(りょがい)に軽い」

信玄もそれに気づいているらしく、かわしながらその太刀先を鋭く洞察する。

「まさか、その剣に秘密があるのかな?」

すると全体重を込めて、初めて大振りの一撃が振り下ろされた。だが信玄の洞察眼はすでにそれを見切っている。自分に落ちてくる刃の横を、信玄は蹴り飛ばした。

コン、と鋭く短い音を立てて、宙に放り出される。素早く回転し、左後ろ回し蹴りで玲を遠ざけた信玄は、空中でそれを手に取った。そしてそれを海童たちがするように、縦横無尽に振り回して見せた後、なぜか満足げに微笑んだ。

「なるほどね」


「理解したか」

虎千代だけじゃない。ゲオルグには鬼小島が、そして二対一に苦戦する信玄には黒姫が。かくて三度(みたび)、戦況は覆ったのだ。

「誰も邪魔はせぬ。存分に斬り結ぼうぞ」

ゆっくりと膝をくつろげる虎千代は、いつもの無構えだ。利き腕に秘蔵の一つ、肉厚の備前無銘(びぜんむめい)の二尺七寸五分を引っかけ、対の手は拳を握ることなく、脱力している。猫足の伸び上がった立ち姿は、引きとためを必要とする日本刀の斬撃を見舞うには、一見、不向きな態勢とも見える。

だが総身に内在するしなやかな筋肉に込められた瞬発力と類いまれなばねは、視認不能の(はや)さで致命の斬撃を見舞う迫力を秘めている。

海童が攻撃を躊躇(ためら)っているのは、ひとえにその得体の知れない迫力に未知の恐怖を覚えるがゆえだ。性別差は言うまでもなく、体格や体重と言った物量やリーチから言えば、海童に一方的に利があるとしか思えないが、それすらも物ともしない虎千代の気迫は、常識では測り難いものだ。

だが、僕は目の当たりにしている。虎千代は常に、圧倒的な物量差のある相手に勝利を収めてきたことを。規格外の大太刀を振るう煉介さんや、現代軍事のエキスパートであるビダル・イェネーヅクの名を挙げるまでもない。見た目には一六〇センチに満たない虎千代だが、海童の目にはその身体は二倍にも三倍にも(おお)きく見えているに違いない。

「来ぬか」

のっそりと、虎千代は海童に歩み寄った。その影はノイズのような細かい雨に紛れて、相対する海童にとっては、死神と思えるほどに不吉な気配すら放ってみえる。虎千代は、儀式剣舞でもするときみたいに、一つ一つはっきりとした、でもゆっくりとした動作だ。しかしなぜかそれだけで、海童は一歩、また一歩と追い詰められていく。

「くっ」

苦し紛れに海童が、刃を繰り出した瞬間だ。

一足、踏み込んだ虎千代が腰を沈めて海童の剣を、斬り折った。

いや、確かに斬った。

虎千代は剣をへし折ったのではない。

鋼を入れて鍛え上げたはずの海童の剣を、斬った。耳を衝く短い金属音とともに確かに、海童の剣は斬って落とされたのだ。

常識で測り難いが、たった今、僕の目の前で起きた現実だ。あれだけの斬撃を繰り返した海童の剣だが、虎千代の剣とは一合も合わせられもしなかった。ただの一太刀、しかし、虎千代が放った即死性の一撃で、完全に息の根を止められたのだ。

物打ちから斬り落とされた剣の切っ先は、虚空に消えた。後に残された海童の剣の残骸は、(かね)の毛羽立ちすらもなく綺麗な切り口を残していた。まるで高水圧のカッターで瞬時に切断したかのようだった。

海童はそれを見てほぼ戦意を喪失した、と言っていい。虎千代の剣術は、現代科学にすら、もはや再現不可能な領域にいる。例えば鉄兜を両断する奥義は明治には喪われたと言うが、戦闘中に相手の剣を寸断する虎千代の剣はそれ以上である。で、なくてもまた剣を持ったとて、虎千代と斬り結ぶことの愚を、海童は痛いほどに思い知らされたはずだ。

「軽すぎる」

蒼白の顔色のまま硬直する海童を睨みつけると、虎千代は一言、吐き棄てるように言った。

「こは剣に非ず。戦場に何を携えるのも自由だが、元より、勝負にならぬ。これでは無腰の人間を斬るも同然よ」

すると虎千代は、不快そうに剣を退いたのだ。なんだ。わけが分からなかった。

「真人、真紗殿に代わってベル殿を」

虎千代はそれでも海童から目を離さずに、言った。そうか、虎千代は真紗さんに海童を引き渡す気で剣を退いたのだ。

「大丈夫?ベルタさん」

僕は真紗さんから、傷ついたベルタさんを引き取った。肋骨にひびが入っているのか、顔をしかめていたが、自力で動けなさそうではなかった。

「ありがとう、虎千代ちゃん」

「礼には及ばぬ」

虎千代は海童に剣を突きつけたまま、真紗さんに向かって目で合図した。そんなことより、西條がどこに隠れて僕たちをうかがっているのか、尋問を再開しろ、と言うのだ。

「俺からは、何も期待しない方がいい」

真紗さんに刺された海童の目は、凄まじい憎悪に煮えたぎっている。

「ええ、分かってるわ。ようく」

真紗さんは涼しい声で返すと、にべもなく宣した。

「だからあなたを人質に取らせてもらう。あなたがやりたかったことを、今度はあたしがやらせてもらうわね?言っとくけど当然、あたしは偽の人質は使う気はないし、海童さん、あなたにもそれなりの目に遭ってもらうことになるけど」

「ふざけるな」

思わず激昂した海童が身を乗り出した瞬間だ。

影のように二人の間に割って入った虎千代が、峰打ちを容赦なく浴びせかけた。的確に頸を強打された海童は、まるで図ったかのごとく、絶息した。それから、声も立てない。まさに一瞬の刹那だ。

「強引ねえ」

真紗さんが満更でもない視線を送るが、虎千代は詰まらなそうに鼻を鳴らすばかりだ。

「こうした方が話が早かろう」

虎千代は無駄な駆け引きは一切しない。ここで海童の身柄さえ確保すれば、戦闘を収束させ、一番手っ取り早く、西條にたどり着けると踏んだのだろう。

「しっかし、よくこれ斬ったなあ」

頭を掻き掻き真紗さんは、虎千代が斬った刀を取り上げて言う。それから真紗さんは、半分になった海童の刀の柄を僕に放り投げてきたが、驚いた。軽すぎるのだ。虎千代たちがしきりに軽い軽いと言った意味が、やっと分かった。

「実はさ、この刀、セラミック製なのよ。同じ大きさでも本物の日本刀より軽くて、女性でも扱いやすい」

海童の特殊機関が開発した対人兵器の一つだと言う。複数の物質を高濃度で焼き固めたセラミックは、純粋な金属よりも加工しやすく軽いために、秘匿武器を造りやすい。材料次第では、金属探知機をスルーする刃物を造るこのも可能らしい。

「ほら、最近はセラミック製の庖丁とかナイフとか通販で売ってるでしょ?暗殺の世界も日々、進化してるわけよ。日本刀も、鍛鉄だと血で錆びたり骨に当たって曲がったりするけど、セラミック製は錆びないし、すっごく硬いわけ」

確かにセラミック合金の刃物は、キャンプ用品などでも出回っている。鉄製のものより手入れが難しくなく、女性にも扱える軽さと言うので、それなりに注目されていると言うが。虎千代とこの時代に生きていると、日本刀を作る感性はやっぱりぴんと来ない。

案の定、よく分からない素材で武士の魂である日本刀を造られたと聞き、虎千代は、一気に難しい顔になった。

「ふん、かようなものに士魂が宿るとは到底思えぬがな。そも士大夫(したいふ)の剣たるは、芯に刀の魂たる玉鋼(たまはがね)を封じ入れたのち、刀工(とうく)が身命を込めて打った(つち)でもって鍛えるからこそ、その身に神意も帯びると言うもの。血錆びは手入れすれば落ちるし、曲がっても元に戻る。むしろ曲がるからこそ、折れたりせぬのだ」

「ま、まあ前半はともかく、後半は現代にも通じる理屈ね。最近では小銃の銃身もこう言う錆びなくて軽い素材になってきたけど、やっぱり鉄製の方がいざと言うとき、材質に安定性があるって言う人も多いからね」

でも、それにしてもだ。その硬いセラミック製の日本刀を、にべもなく斬って棄てた虎千代の剣、ってどんだけ凄いんだ。

「そんなことより、真紗と二人で馬に海童を積め。黒姫に煙幕を焚かせる。このまま一気にいくさ場を脱せん」


その黒姫だが、江戸川凛との膠着の中からまだ抜け出せていない。江戸川凛の超接近戦は予想以上に黒姫を苦しめていたのだ。そもそも黒姫の技は、最低でも中距離で威力を発揮するものの方が多い。凛のようにどんどんプレッシャーをかけ、間合いを詰めてくる技が黒姫には苦手とするところらしい。

と、言うより本人の生理的感覚に合わないらしいのだ。

「むっ、無暗に近づくなですよ!ど、泥がつくじゃないですか!て言うか、ぐにゃぐにゃ絡みついて気色悪い!女同士で抱き合うなんて、暑苦しいと思わないのですか!」

いつもとは真逆のことを言っている。自分がいつもそうやって虎千代にうざがられているのに。と言うか、相手が虎千代じゃないと、こうも豹変するものか。全く理解が出来ない。

「っさいわねえッ!そんなにやなら、さっさと捕まりな!アタシが五秒で頸をへし折ってやるからさあ」

江戸川凛にはそのケはなさそうだが、嫌がる黒姫に対してドSの魂に火が点いてしまったらしい。何だか嬉々としていた。

「くっ、このままでは黒姫貞操の危機ですよ…寝技って、こんな人目があるところでくんずほぐれつ、あんなことやこんなこと…信じられないですよ」

だから相手はその気違うって。どうも違う想像力が働いているようだった。

「黒姫、逃げるぞ。煙幕の用意をせい」

虎千代は剣を引っ提げ、二人の間に難なく割り込んでくる。

「と、虎さまっ!お待ちしてました!まずわたくしと寝技をっ」

と、飛び込んでくる黒姫の顔を左手で押さえながら。

「んだよ。邪魔すんなよッ」

食って掛かる凛だが、尋常ではない虎千代の気配にそれだけで阻まれる。

「動くな。もう斬り合いは終わりよ」

「どっ、どこへ行く気だよッ!」

「知れたこと。おのれが大将はもはや、我が手の内じゃ。奪い返したくば、黒姫になく、我を(たお)していくがいい」

「虎千代ちゃん!これでいいかなあ?」

真紗さんが声を上げる。僕たちは二人がかりで海童の巨体を馬に載せていた。

「上々、殿(しんがり)は任せるがいい」

「じゃあ、後はお願い!諏訪で逢いましょう!」

真紗さんは素早く飛び乗ると、海童を載せた馬を責める。

「こっ、こらあッ、ちょっと待てよお!」

思わず前に出た凛と虎千代の間を、爆音とともに噴出した煙が包む。黒姫が撒いた白煙玉が効力を発揮しだしたのだ。

「真人、ラウラたちが到着する頃ぞ。お前は武田殿とともに落ちよ」

と、虎千代が曳いてきた替え馬を僕は受け取った。


一時、撤退だ。

西條が姿を現そうともしない今、最良の次善策である。海童が率いて来た手強い特殊工作員と、これ以上命の削り合いをするのも、不合理とは言える。それにしても、

(西條はなぜ姿を現さなかったのか?)

その疑問はいぜんとして頭に残るが、海童の身柄を確保したところで、まずもってそれなりの戦果を挙げた、とは言える。

「海童召し捕ったり!武器を棄て逃ぐるは勝手、我はと思うものは来るがいい。この長尾虎千代が斬って棄てようぞ」

煙幕の中でも虎千代の大音声(だいおんじょう)が響くのは、もちろん陽動である。虎千代は自らも馬を曳き、囮となって真紗さんを無事に落とそうとしているのだ。

「ふざけやがって」

一瞬、煙幕の中にひるがえった虎千代の後ろ髪に、ゲオルグが武器を持って殺到しようとする。が、当然、鬼小島の制止に遭った。

「おっと。待てよ旦那、男の勝負の最中だ。食い散らしは感心しねえな」

逆上したゲオルグが突き出して来たナイフを払い、鬼小島は容赦ない前蹴りを浴びせる。

「お嬢、こっちは任せて下せえ!小僧、人数まとめて頃合いで落ちろ!」


「ふふん、どうやら潮時と言うことか」

こっちはどうやら、戦闘が終局に入っていた。信玄は、玲と言う少女の武器を奪い、何かを試すように素振りをしている最中だったのだ。玲は体力を使い果たしたのか、そこに、膝を折ってたたずむばかりだ。

「あの海童めを人質にか。虎姫も中々、面白いことを考える」

僕の話を聞き、信玄は満足げに頷いた。虎千代が採った策は、謀略家の信玄のお気に召したようだ。

そしてちょうどそこに、晴明がラウラとミケルを導いてやってくる頃でもあった。僕はともかく、信玄でも手に負えないのに武器を持った手練れが後二人。その瞬間、玲の顔に絶望が走ったのが、僕にも分かった。

「あれは、敵か?」

「ああ。だがもう、戦う気はなかろう」

ミケルが聞くと、信玄はその刀を玲の方へ放り投げると穏やかな声で言った。

「兵練の不足だな。君はあの女と二人のときの方がまだ目が利いたが、一人になると、途端に散漫になった。手数で翻弄するのはいいが、決定打を織り交ぜない限り、君の剣はいくら速くても、脅威を感じないね。まずはこの軽い刀を棄て、精進することだ」

「こっ、殺せっ!」

玲は絶叫したが、信玄は歯牙にもかけない。

「それは殺す気で来たものだけが、吐くことの出来る台詞だよ。君はまだ、一人で戦うに値しない」

あれだけ信玄に言われながら、玲は刀を取らなかった。信玄の指摘は辛辣ながら、的確だったのだろうか。ミケルとラウラがそれでも油断なく見守っていたが、もはやあの子に戦う気力はないようだった。


馬を盗った僕たちは、天骸楼城の広間を越え、奈落へ。その墜ちるような坂を降る。

「長尾殿にも、血路を拓いておかなくてはね」

信玄は手下を集結させると、一手を真紗さんの護衛に、もう一手を虎千代たちの援護と先導に振り分けた。信玄が率いる忍びたちの動きは統率され、しかも的確だ。かねて準備してあったかのように手勢は粛々と任務を遂行する。

「私たちの案内(あない)は真人くん、君に頼むよ。向こうも心得ているはずだ。あのまま真紗を逃がすとは思えない」

降りしきる雨は(みぞれ)に変わりつつあった。陽が落ちかける夕間暮れ、空は茜色に輝いていても、山裾はすでに真っ暗だ。日中に憶えておいた山路も、その様相を(こと)にする。

小石のように撃ち当ってくる霙の冷たさに堪えかね、目を細めつつも僕たちはしきりに前方をうかがうが、このままこの坂を滑り落ちてしまうかに思える落差を感じる。真紗さんは海童を載せてはるか先を行ったと思われるが、前途は一歩先も定かでない闇の人外魔境に思えても、不思議はない。

ふと、僕の背でベルタさんが身体を震わす。寒いと思ったので信玄が海童たちの陣幕を引き裂いて上着に与えてくれたのだが、ベルタさんの緑色の目は大きく開かれて、僕よりはるか前方を見ているのだった。

「だめ、真紗」

その瞬間、ベルタさんはなぜか、つぶやくように言った。僕にはまだ目の前が、ノイズのように霙がちらつく濃紺の闇にしか見えていない。ベルタさんは何かそこに不吉な気配を感じたのか、(おこり)にかかったかのように背筋を震わせ続けていたのだ。

「悪魔が来る」

「え?」

ベルタさんがデンマーク語で思わずつぶやいたその言葉の真の意味を、僕は間もなく知ることになる。


そこからどこまで行っても、真紗さんの姿はなかった。

来たときに通った、針葉樹の雑木林を抜けるときには、陽が落ちきっていた。その少し前から信玄は抜け目なく、松明を用意していた。寒さのせいか、ここに来て空気の濃度がぐっと押し詰まる感覚がした。僕たちは凍てつく闇に呑み込まれている。

振り返ると、あれほどの殺し合いを展開した天骸楼城の灯りは、すでに暗雲のおぼめく中にあった。坂を下ったところが少し広い間道になっているのだが、そこから少し行った辺りが、あの天骸楼城の灯りが視えるぎりぎりのところだろう。

ちょうどそのときだった。

そこに到った信玄は、越え難い一線に立ち入ったようになぜか馬を停めた。

「少し待つんだ」

その表情が、珍しく強張っている。理由は分からないが、胸騒ぎがすると言うのだ。

「真紗さんがいるんですよ!?」

僕は信玄に、食って掛かってしまった。海童を抱えた真紗さんは、ほぼ無腰だ。海童を取り戻そうと言う追手が真紗さんに襲い掛かる前に、一刻も早く追いつかなくてはならない。

「だからおかしいのさ」

信玄の語調はしかし、墓石のように冷え切っていた。

「私より早く放ったすっぱたちが追い付いているはずなんだ。彼らは真紗に会ったら、狼煙(のろし)を上げる手筈になっている。しかるにすでに四半刻(しはんとき)(三十分)は経っている。彼らが何の合図を寄越さないと言うのは、どのような可能性が考えられるからかね?」

信玄の緊迫した様子に、僕はうかつに答えを出せなかった。

やがて虎千代が単騎、追いついてきた。

「武田殿が?」

虎千代も同じ話を聞いて、さすがに前方に警戒感を持ったようだ。

「海童があらかじめ、手兵を伏せておいた、と言うことでしょうや?」

「そうとしか思えないが、そうとも考えにくい」

曖昧(あいまい)な返答で言葉を濁した信玄は、僕に松明を預けると自ら手槍を掻い抱いた。

「行くしかあるまい。長尾殿、同道を頼む」

虎千代は目頭で頷くと、信玄と馬を並べて歩を進めた。

(伏兵だって?)

信玄の調べでは、天骸楼城に集結した海童の手勢は、あれが手一杯のはずだと言う。それにあの局面で海童の身柄を虎千代が奪取しようと考えたのは、ことのなりゆきである。西條の正体の割れない真紗さんが、海童を連れてここを逃走しようと言うことも、あらかじめ予想がつくことではない。

だがたった一つの可能性を、信玄が言いよどんだのを僕は察している。言うまでもなく西條の存在だ。ついに海童との戦闘に姿を現さなかった西條は、必ずどこかで真紗さんや、僕たちの様子をうかがっていたに違いないのである。場の成り行きで真紗さんが海童を連れて逃走する、と言う事態が発生したとき、最も迅速に行動を取れるのは、状況を傍観していた西條本人に間違いはない。

だが真紗さんは馬上だ。弾丸のように疾走する単騎を留めるのには、周到な待ち伏せを張ったとしても、中々困難なはずなのだ。

それでも、僕の目論見は目の前に展開された現実のために、あえなく崩壊した。あまりに非道な、衝撃的な光景を前にして。

冷たく締まった空気の中に、獣じみた血なまぐさい激臭がするのにまず気づいたのは、虎千代だった。

しんしんと(みぞれ)が降る間道に、巨獣に喰い散らかされたかのように、遺体がばらまかれていた。いずれも凄まじい斬撃に身体を斬り裂かれていた。全員、信玄が放ったすっぱ侍たちの後詰である。

「むごすぎるな」

松明を(かざ)し、虎千代は信玄と遺体を検めたが、信じられないことにどれもほとんどが一太刀で仕留められたものだと言う。情け容赦などと言うものはない。まるで修羅が斬り抜けたとでも言うような、惨たらしい斬殺現場だった。

「真紗は!?ドコ!?」

僕は動転するベルタさんとともに、真紗さんを探した。祈るような気持ちでいたが、幸い真紗さんの遺体は、その中のどこにもなかった。だが戦慄を禁じ得なかったのは、その斬殺死体の群れからさらに行った辺りでだ。

首のない馬が、(たお)れていたのである。

毛の色を僕は憶えている。確かに真紗さんが、海童の身柄を載せて行ったものだ。

「これをたったの一太刀か」

馬は足をもつれさせ、骨折していた。首はなかったが、今にも斬撃を受けバランスを崩して(たお)れた、と言う形だった。このことから虎千代が驚愕したのは、大人の腕で一抱えもある馬の首を、これを成した人間は走行中に寸断した、と言う事実だ。

「真紗は…?真紗はどうなった?」

虎千代に言われ、僕は松明の灯りを翳す。

馬の血は冷えてすでに、どす黒く固まっていた。だがその馬体から転々と血痕が、前途に向かって続いているのである。

「真紗ッ!」

ベルタさんがそのとき、無惨な悲鳴を上げた。真紗さんが血まみれで倒れていたのである。まだ息があるのか、それすらも分からなかった。

全身に傷を負っているようだがはだけた着物の肩が、特に黒くにじんでいるのが分かるばかりだ。目を閉じたまま真紗さんは、鼠色(ねずみいろ)の霙に濡れ、身じろぎすらしない。死んでいてもすでにおかしくはなかった。そしてそこに、海童の姿はなかった。

「何者だ」

虎千代の声に、僕は思わず飛び出そうとするベルタさんを庇った。真紗さんが倒れている先、一人の女性が佇んでいたからだ。

見たところ三十過ぎと見える、髪の長い女だった。棒のように細長く、背が高い。艶やかな唇が闇の中でも、上等の(くず)のように光沢を帯びて輝いて見えた。思わず目を留めるような美女だが、この際、薄気味が悪いのは女が、武装したまま僕たちを待っていたことだ。

ラウラたちが装備しているような黒い革ベルトのついた独特のガードを、白に近い紫色の小袖でまとった女は、(つば)のない、目の覚めるような朱鞘(しゅざや)の長刀を携えていたのだ。恐らくはあれが武田の忍びたちを斬殺し、走行する馬の首を一刀で斬りおとしたに違いなかった。

「これを成したのは、お前か」

「ええ、その通りですよ」

虎千代の問いに、女は艶然(えんぜん)と応え、ふくよかな唇を綻ばせた。まさかこの女性が西條、とも見えないが、尋常ではない空気が僕たちを圧し返す。

「よもやお前が、西條ではあるまいな」

まさかとは思う問いを、虎千代が発した瞬間だった。

女は物も言わず朱鞘の剣を、鋭い太刀風とともに払った。びしゃりと黒い血の飛沫が、その刀身から虎千代の足元の泥濘(ぬかるみ)に、派手な音を立てて浴びせかけられる。今のは僕にも分かった。この女は血ぶるいすると同時に、おのれの太刀筋を敢えて見せた。それは虎千代と、僕たちに対する何よりの警告であることが、明確に分かる気迫を帯びていた。

「いいえ」

と、女は言下に宣した。万が一と問うた虎千代の言を、きっぱりと否定したのだ。

「わたくしは三島春水(みしまはるみ)。わたくしこそ、あななたちが拉致しようとした、海童英が妻」


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