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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.12 ~隠密行、戦国都市、衝撃の好敵手
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確信に変わる疑念!?真紗さん狙う忍びたちの意外な正体!

「殺したのは、お前の仲間か?それともあの女かその仲間か?」

男の話しぶりはむしろ、夢うつつで聴いているようにぼそぼそとしたものだ。しかしなぜかその低い声音は僕のお腹の底に響いてくる。

「素直に話せば、殺さない。見たところお前は、ただのガキだ。玄人にはとても見えないからな」

背に自分よりも大柄な男の気配を感じながら、僕は細く長いため息をついた。とりあえず、問答無用ではなさそうだ。

「野秋は毒を(あお)った」

僕は、虚報の方を話した。この状況を作ったのが真紗さんか、幸隆かにしろ、それを確かめるよすがを探ろうと思ったのだ。

「自分で飲んだのか、誰かに飲まされたのかは判らない。でも、彼は、そう言う状況で死んだ」

と、言うと相手は少し黙った。考えているようだ。実際、僕は嘘は言っていない。話しぶりに不自然なところもないはずだ。他の誰かは知らないが、僕にとっては野秋の死は歓迎するべきものでもなければ、唐突で受け入れ難いものだった。

「彼は、死んだか」

男は試すように、言った。彼は、と言った方にアクセントを置く、それは言い方だった。

「あいつは毒は持っていなかった。死んだ、とするなら、誰かが殺したんだ」

「僕たちじゃない」

僕は、背中の重圧感に堪えながら言い切った。

「少なくとも、僕は、それに僕と一緒に連れ立ってきた人たちは違う」

何しろ動機がない。これは、考えるまでもなく、分かるはずだ。

「そうだな。お前たちは本来、なんの関係もない。しかし、関わってしまっている。この砥石城いくさに、そして何より瓜生真紗(くりゅうますず)に関わってしまった」

「僕たちはただの行きずりだ。武田や真田のことも、真紗さんのことだって、何も知らない」

「そうかな。少なくともお前たちは、持ちつ持たれつでこの諏訪まで来たんだろ?お前から話を聞けることは、まだまだあるはずだ」

「困ったな」

これはただの脅しだ。自分に言い聞かせながら僕はそこで、わざとらしくため息をついてみせた。

「おい、粋がるなよ。動けば、頸を折る」

「折ったら大騒ぎだ。それより、僕が今、本当に一人だとでも思ったか?」

「動くな」

その時だ。背後で声が立った。相手はぎょっとしたろう。実体がないから当たり前だが、気配も音もなく背後に立たれたのだ。

「不穏な奴め。我が結界を破って入ってきたのは誉めてやる。しかし、そこまでだ」

紛れもなく、晴明だ。よく、タイミングあやまたず僕の意図を汲んでくれた。

「なんだこいつは、どう言う仕掛けだ?お前、こいつとどうする気なんだ?」

「僕たちは何もしない。ただ、皆に報せるだけだ」

間髪入れず、晴明は印を切り、幻戯(めくらまし)の式神を放った。金色(こんじき)に輝く管狐(くだぎつね)の群れが、闇夜を融かす。その一瞬で僕は見た。思わず手で顔をかばった男は、年の頃四十前後と言った鍛え上げられた中年男だ。剃りこぼった頭は、僧形と言うまではいかなく、坊主頭程度に毛が生えている。

「敵かっ」「おのれ曲者っ」

叱咤の声が降ったのは、虎千代と幸隆の同時だった。

しかしだ。

その坊主頭の男に最も速く、音もなく殺到したものがいる。

何と、ベルタさんだ。

僕が離れたのを見計らってか、ベルタさんは鋭い蹴りを男に放った。ミドルを蹴るとみせて、後退した相手を上段で追撃する可変蹴りである。男はそれを辛うじて顔の前で受ける。急所を狙う角度といい、練り上げられた技だった。

「マコっちゃん大丈夫、痛くない?我慢するOK!?」

日本語が思いっきり変だ。そしていつの間にか、変な仇名呼びされている。頭がぐらぐらしてきた。

たまらず庭に出た男だが、そこにはすでに虎千代が控えている。

「逃ぐるか、曲者」

抜き打ちに浴びせかけた虎千代の太刀を、なんと男は足で受け止める。

刃が削ぎ取ったのは、その靴先だけだ。ガン、と耳をつんざく衝撃音とともに、火花が散った。

男はまさか、ビダルみたいに鉄板入りの軍用ブーツでも履いていたのか。

それにしても、なんて奴だ。

牽制のため、手加減して撃ったとは言え、虎千代の抜き打ちを足底で受け止めるとは。この男も普通の人間とは言えない。

「OK、虎ちゃん!ちょっとどいて!」

ベルタさんが叫ぶ。なんと銃を装填していた。

「おいおい」

さすがに相手も苦笑して片頬を歪めている。向こうだって、まさか、撃たないよなと言っているのだ。しかしどういうつもりだったのかベルタさんは、銃を構えて、問答無用でそいつを撃った。だってすぐ背後には虎千代がいたのだ。危ないったらない。

だが弾丸は、土壁に音を立ててめり込んだだけだった。男は銃声がした瞬間、僕たちの視界から消えたのだ。なんとこの男はほとんど助走もなしで何メートルも跳び、背後の塀を乗り越えて姿を消していたからだ。

「ベル!危ないでしょ!酔ったら銃は使わないって約束忘れたの!?」

「OH、ごめんなさい、ついネ。真紗、怒らないで」

ベルタさんは、真紗さんにすっごく怒られていた。いや、侵入者の方が問題だと思うが、もはや僕がいちいちそれに突っ込むのは本気でめんどいので、やめた。


昨晩の賊は、野秋を追跡してきた村上方の忍びの上役、と言う見方が、真紗さんたちの見解だ。

「まあ、来るとは思っていたけどね」

真紗さんはこともなげに言ったが、あの晩のあの男は傀儡(くぐつ)の術を使った年配の男のものとは、声も雰囲気も違う。

それにだ。

(あの男は、野秋の死に個人的な思い入れを持っているんじゃないか)

これは、僕の勘である。そうだと確信をもって伝えきれないが、実際に侵入者に接してみた感覚としてそれは決して的外れなものではないと思う。昨晩現れた男は、純粋に野秋の死の真相を知りたがっているように思えた。だからこそ僕に、中々危害を加えるそぶりを見せなかったのだ。

そもそも敵方にとってみれば、野秋を殺したのはもっと漠然と僕たち、でことは済む。僕たちの誰が、野秋を殺したのかまで追及する必要は、必ずしもないのだ。

そして、やっぱり野秋は殺されるべくして、殺されたのだ。

敵方の話をそうそう鵜呑みには出来ないが、あの男の見解はそのまま、虎千代が持った疑念と符合する。

考えたくはないが野秋は、真紗さんたちが自ら始末したのだ。

問題はそれがなぜ、行われたか、と言うことである。

衆人環視、と言う言葉は変だが、僕たちの眼前で殺さなければいけないほど、切迫した事情があったのだろうか。殺そうと思えば本来、いくらでも殺す機会など後でうかがえるはずなのに、それをあえてしたことに何か意味があるのか?


しかしそれからこともなく、諏訪で数日が過ぎた。この古い門前町は、すぐ北の砥石城で攻城戦が展開しているとは思えないほどに、平穏だ。暖かく、ほどよい秋晴れの日が続いた。

だがもちろんのこと、そうした日数(ひかず)を消耗するごとに虎千代の越後での活動は遅れに遅れてくる。

言うまでもなくここより、越後の方が早く寒くなる。このまま諏訪で足止めが続くうち、季節が厳しくなれば越境の山越えは不可能になる。諏訪に着いたと同時に虎千代は、早速、山越えのタイミングを黒姫と(はか)り出した。

しかし当の真紗さんたちからは、相変わらずなしのつぶてだ。

「ごめん、もうしばらく待ってくれるかなあ」

あの晩の侵入者は、真紗さんたちにも緊張をもたらしたことは事実らしい。あれからにわかに真紗さんと真田幸隆の外出の機会が甚だしくなった。虎千代と話した内容を伝えに行っても、必ず片方か、下手をすると二人ともいないのだ。ようやく捕まえたと思ったら、さっきみたいな生返事である。

僕は鳥瞰図(ちょうかんず)を見せてもらったが、諏訪から北はびっくりするほど、要害・山城まみれだ。問題の砥石城の周辺は言うまでもないとして、越後の国境まで山と言う山を取り囲むようにびっしりなのは、さすがに呆れた。それらがいちいち敵方だとするならば、他国者の僕たちに通り抜けはいよいよ不可能だ。

いつの間にか、と言うべきか、僕たちは否応なく、真紗さんの協力なくしては、二進も三進もいかない場所へ足を踏み入れていたのだ。


「虎千代サン、侍ガール!?忍者にくのいちいるみたいに、侍も侍ガールいますネ!?」

当の虎千代にとっては、なんのこっちゃである。

「なっ、わたしは(さむらい)がる、などではないわっ!正真正銘の侍じゃっ!こらっ、抱きつくな暑苦しい!」

真紗さんたちの代わりに、いつもいるのがこの人だ。

真紗さんの相棒、山本勘助こと、ベルタ・クヌッセン。

当然のことながら、ベルタさんはあの武田信玄の参謀にして戦国三指に数えられる名軍師、山本勘助、であるはずがないので、ぶっちゃけ暇を持て余しているようだ。

バスク人で黒髪のラウラと違って、ベルタさんは(あお)い目に金髪のデンマーク人なので、目立って仕方なくてうかつに人里には出られない身なのだ。

一応怪しまれないためか、外出するときはすっぽり頭巾を被っているが、極端に焼け石に水である。

と、言うわけで山本勘助としての活動が一切できないベルタさんは、この諏訪屋敷を終日ふらふらするか、人里を避けて、野の獣を求めて山野を彷徨する毎日である。日本の戦国時代の山里を満喫していると言っていい。警戒心とか、緊迫感と言った言葉は、ベルタさんの辞書にないようだ。

「こっ、こらあっ、何してくれてるですかっ!虎さまに抱きつくのは、この黒姫の役目…あ、いやもとい、身分弁えやがれってんですよ。このお方はただの侍じゃないのですよ!越後守護代家長尾家ご当主となる長尾景虎」

「ワオ、黒姫サン、本当のくのいちですネ!何かクールな術、ワタシにも伝授お願いしマス!」

「ひっ、いちいち抱きつくなですよっ、暑苦しい!て言うかあーた、誰でもいいですか!?」

あの黒姫に正論を吐かせる辺り、只者ではない。まあ確かに、別の意味でも只者ではないのだが。


そう言えばベルタさんはあの男を見るなり、問答無用で攻撃した。その素早さは、ついで駆けつけた虎千代ですら、目を(みは)らせるものだった。

「まあベルは半分、あたしの用心棒みたいなものだから」

ベルタさんは小さい頃から、少林寺拳法をやっていたらしい。でも用心棒って。真紗さんは冗談めかして言葉を濁したが、あの動きの鋭さは喧嘩慣れくらいでは説明出来ない。あの男だって距離を取られる場所だったからしのげたものの、ベルタさんの鋭い蹴りに反応するのが精一杯だったのだ。


「どうしたデスか。顔怖いと、女の子モテませんヨ?」

いつの間にかベルタさんが僕の顔を覗き込んできていた。

「見てください。ワタシも侍ガール、虎ちゃんと同じデス」

なんと髪型が虎千代と同じになっている。黒姫にでも結ってもらったのだろうか。そして着ているのはサイズ的に幸隆さんの袖なし羽織で、挿しているのは虎千代の刀だと思う。寄せ集めの間に合わせ感が半端ない。

「良かったですねえ…」

ため息をついて顔を背けた方向に、侍ガールのベルタさんはどかっと座り込んだ。

「マコっちゃん、悩んでマスか?ワタシで良かったら訊きますヨ」

「あ、ありがとうございます」

顔がほとんどぶつかりそうな位置に来られている感じがする。鼻が高いせいか。いやこの人、誰に対しても距離が近い。そしてあの晩つけられた変な仇名は、そのまま継続しているらしい。勘弁してほしい。

「真紗さんや幸隆さんは、どこへ行ったんですか?」

「ワカリマセン」

ベルタさんは無邪気に目を丸くすると、小さく首をすくめた。嘘ではなさそうだ。今では思う。真紗さんは嘘はつけないけど、何も知らない人を体よく僕たちのところへ置いてどこかへ行ってしまったのだ、と。

「武田の本陣、戻ると言ってましたネ。諏訪から北の方、危ない。通るの、難しいネ」

まあ嘘ではない。やはり戦場を通り抜ける僕たちは、武田信玄の陣に赴かなくてはならない、と言うことは不可避の事態なのだ。もしかしたらその段取りに戸惑っているのではないか、と黒姫などは危惧を口にしていた。

「…まあ、用心深いのは史実通りの人だからね」

色々用心深くない真紗さんが本当にうざったそうに顔をしかめていたが、あの信玄が(うん)、と言わなければ、それこそことだろう。

武田信玄と言う戦国武将は、他国の諜報者に情け容赦がないことで有名だからだ。信玄は自分の元に仕官を願い出てきた忍者を、

「腕が立ちすぎる」

と言う理由で殺させたほどの男だ。

信玄は自らも様々な諜報機関を組み合わせることで壮大な情報網を築き上げ、足長坊主(あしながぼうず)の異名をとった。

そんな信玄に少しでも疑念を持たれたのなら、越後へ越えることはおろか、この信濃を生きて出ることすら、困難になろう。

「大丈夫。虎ちゃんは侍ガール、マコっちゃんも忍者違う、怪しくない。ちゃんと、越後帰れますヨ」

ベルタさんに確約されても、ちっとも嬉しくない。本当にこの人、どこまで分かって話しているんだろうか。

「真人サン、頼まれたもの、出来ました」

ベルタさんと話していると、向こうからラウラが歩いてくる。僕は、昨日目撃したあの村上方の侵入者の似顔絵をラウラに描いてもらったのだ。

「似ていますか?あの晩、ワタシも少ししか、見ていません。真人サンの記憶(キオク)のが頼りなります」

僕はそのスケッチを眺めた。ラウラは自信がなさそうだったが、さすがひと目見て、あの晩のあの男だと言うことが分かるスケッチだ。間違いなくこの男が、野秋の死の真相を僕に問い質しに現れたのだ。

ラウラのスケッチを見る限り、四十年配と言う第一印象に狂いはなさそうだ。あごの尖った面長の輪郭に、支柱のように真っ直ぐ通った鼻。横長の庇の深い眼窩に、濡れた瞳が光っている。

あの晩の男の声は、この瞳の色と同様に深く沈んでいた。不意をついた僕を前に、憎悪を含むでなく、猛るでもなく、森に棲む獣のようにどこまでも静かに心を潜めて僕の様子をうかがっていた。

こうしたことに慣れきった人物だと言うことは、肌で感じた。この男に不要な残虐さを好む心はないが、必要とあれば躊躇なくどんなことでもするだろう、と言うことを。

虎千代の居合を足で受け止めた男の実力から推しても、敵に回すのには厄介な人物だ。

「どうですか?」

僕は何気なく、ベルタさんに訊こうとしてその言葉を呑み込んだ。

男の似顔絵を見つめるベルタさんの眼差しが細められ、鋭く冴えていたからだ。

この眼差しを、僕は憶えている。野秋のことを話していた真紗さんのそれと、同じなのだ。ベルタさんの眼差しはあの真紗さんに相通じる冷徹さを孕んで、似顔絵の男の顔を眺めていたのだ。

「もしかしてベルタさんは、この男を知っていますか?」

ふと、口をついて出たのは、そんな疑念だった。ベルタさんは、弾かれたように顔を上げた後、努めて何でもない風を装ってかぶりを振った。

「いえ、でもこの男、危険そう。良かったマコっちゃん、怪我なくて」

僕はこのことも憶えている。

あのときベルタさんは、問答無用であの男を撃った。野秋を始末した真紗さんと同様、この男も真紗さんたちにとって、見つけ次第殺さなければいけないような、そんな人間だったのか?

だが、今ので確認できた。

ベルタさんも何も隠していない、と言うわけではなさそうだ、と言うことに。


麗らかに澄んだ秋晴れの空を背に、赤い山査子(さんざし)の実が群れをなしている。(ほの)かに色づいた銀杏の葉が黄色一色になり、林檎(りんご)の果実色に色づいた桜の葉が落ち切れば、初霜(はつしも)が降りるのは間もなくのことだろう。

眼下に広がる諏訪湖を眺めながら、僕は門前町辻の坂を下っている。土地勘のない異郷で、打つ手もなくただ待つだけの身と言うのがもどかしい。

その日の僕たちは秋の収穫後の門前市が賑わうと聞き、街へ出ていた。あの侵入者の件もあって諏訪についてしばらくは外出を厳に慎んでいた虎千代だったが、さすがに煮詰まってきたのだろう。

「籠って考えているばかりでは、ろくなことはないからな」

確かに考えるべき問題は山積しているが、こちらが手を打てない今、考えるほど、悪いことしか考えられなくなる気がする。

二人きりで出かけるのも久しぶりだ。

ラウラはスケッチブックを持ってベルタさんと森に出かけたようだ。気を遣ってくれているのだと思うのだが、よく黒姫が黙って承知したと思う。

収穫の終わった山里は、新米の匂いが立ち込めている。京都での往来物とはまた風情が違って、ここ諏訪の店屋物も馬鹿には出来ない。七輪で焙った餅や味噌で煮込んだ麺が、わくわくするような芳香を立てていた。

僕たちは、煮込み饂飩(うどん)を食べた。

ほうとう、と言う幅広(はばひろ)の麺は何と言っても信玄の本拠、甲斐の名物だが、この辺りでも食べられているらしい。真紗さんによれば、気候の寒冷な山間のこの辺りでは伝統的に裏作に小麦を植えると言う。また名物の蕎麦といい、多発した寒冷飢饉(ききん)救荒食(きゅうこうしょく)として、これらの料理が発達した経緯があるのだそうだ。

「越後に着く頃には、鍋だな」

熱く煮立った麺に息を吹きかけながら、虎千代は言う。たぶん一番、焦りを感じているだろうに、僕にも黒姫にも心配をかけまいとしているのがいじましいところだ。

「ごめんな。虎千代」

口を衝いて思わず、そんな言葉が出てしまった。虎千代は目を丸くして僕を見た。

「何がだ?」

「いや、ちょっと考えちゃうんだ。その僕が真紗さんに関わらなきゃ、今頃はもう越後に着けてたんじゃないかな、とかさ」

すると、僕の弱気を吹き飛ばすように、虎千代は声を立てて笑った。

「かようなことは、あるまい。越後越えには、村上方の小県(ちいさがた)を避けてはいけぬ。なんの伝手なくここに到れば、むしろ、更なる難儀を重ねていたところよ」

元々警戒心の強い武田信玄だが、村上義清については特に神経質らしい。さる上田原の戦いで信玄は、幼い頃からの傅役(もりやく)板垣信方(いたがきのぶかた)はじめ股肱(ここう)の重臣を多く喪ったからだ。信玄はこの敗戦が信じられなく、戦場に踏みとどまり二十日間も退き陣をしなかったと言う。

「聞くならく村上義清と言うのは、歴戦の槍仕だそうな」

虎千代が言うに、村上義清と言うのは野戦の名手らしい。この当時、二十八歳の信玄より、義清は二十歳も上の四十八歳である。後年作戦上手を謳われる信玄だが、戦場経験について義清には遠く及ばない。かの上田原の戦いでも、攻勢を覆されて逆転負けすると言う屈辱的な敗け方をしている。その義清相手に神経質になるのも、そう無理な話ではない。

加えて砥石城を包囲して攻勢に出ているかに見える信玄だが、現在、最大の恐怖は、村上義清の後詰(ごづめ)(救援)である。しかるに至急の救援を要する事態に、義清はいまだに動かない。なのに数百名の小勢にも関わらず、砥石城の戦意は益々盛んだ。

真紗さんが動いてくれているとは言え、僕たちが諏訪にやってきたタイミングは、正直言って最悪である。虎千代はそれでも武田方に伝手があるだけましだ、とフォローしてくれたが、村上方の忍びにはすでに目をつけられている。

「難儀はもはや覚悟している」

虎千代は、椀に残った汁を飲み干した。

「後は坐して待つだけよ」

と、虎千代は華奢なおとがいを上げて秋の空を見た。横顔だけ見ていると、これほどかわいい女の子なのに、こう言う事態になると小憎らしいくらいにことを心得ている。

「立つな」

小声である。今のは、虎千代の分と自分の食べ終わった木椀を片付けようと、身体を動かした僕に言ったのだ。

「坐して待つだけにせよ、ただ待つだけでは芸がないからな」

虎千代は僕に目くばせすると、そっと傍らの柄に手をかけた。

「安心しろ。わたしと真人の二人だ。何か話す気があるなら、姿を現すがいい」

虎千代は虚空に向けて言い放った。

なんてことだ。虎千代は、自ら誘いをかけていたのだ。僕と二人きりの状況に乗じて、あの晩の男がまた、接触するのを待っていたのだ。

「どうした」

往来には、屋台の煮炊きに使う薪の焼ける香ばしい匂いが立ち込めている。味噌煮を炊く釜か、爆ぜた薪の音とともに、ごとん、と焼き割れた薪が傾き落ちる音がした。

その瞬間だ。

「…あんたに俺たちの、話を聞くつもりがあるのか?」

あの晩の男の声だ。僕は視線を巡らせた。しかし、あの夜目にも目立った男の姿はどこにも見えない。

「後ろだ」

虎千代は小声で僕に言った。優れた忍びは、声のする方角を錯覚させることが出来る。しかし気配を察する虎千代にそれは通用しないのだ。

「分かるのか」

男の声がした。なんとあのかすかな僕への囁きも、男は拾っている。

「分かるさ。後一歩入れば、おのれを斬るつもりでいたゆえな」

虎千代が何の気負いもなく言うと、男はくっくっ、と笑った。いかにも今、虎千代の要ったことが面白かったと言う風情だ。

「そんな危ない真似はしない。あんたは、本物だ。得体の知れない達人に斬られるなんて悲惨な死に方はごめんだからな」

「得体の知れなさでは、お前たちの方がそうであろう?」

「かも知れない」

と、虎千代の声に応えた男の次の言葉こそ衝撃だった。

「だが、俺は元々、忍者じゃない」

「村上方の草であろう?」

「今はな。だが目的が合って、協力しているだけだ。その意味では、武田村上、いずれにも肩入れせずに小県を抜けようと思っている、お前たちとはその点で近いかも知れない」

「砥石城攻めの顛末(てんまつ)に興味はないと?」

「まあ、ある意味ではそうだ」

男の話はどこまでも奇異だ。だが僕の中には予感めいた、その話がしっくりと受け入れられそうな疑念をいくつか持っていた。野秋の死を追究するために現れたこの男は、違うのではないか。そんな疑問が頭の中で形になりつつあった。

「目的があると言ったな。その目的とは、なんだ?」

「瓜生真紗」

何のてらう様子もなくきっぱりと、男は答えた。

「お前たちに、あの女との義理はないと聞いた。少しこちら側の話を聞いてみないか」

「なら一つ、はっきり答えてもらう」

堪え切れず、僕は意を決してその疑問を口にした。

「お前たちは、真紗さんと一緒に未来から来たんだな?」

村上方の忍びのはずの彼らと、真紗さんにずっと抜き差しならない違和感を持っていた。それがこれだ。今、口にしてみてその疑念は、みるみる具体像を増していく。

「思えば変なことだらけだった。あんたは鉄板入りのブーツを履いていたし、野秋は帰蝶のことを『濃姫』と呼んでいた。真紗さんは村上方の忍びだと言うが、あんたたちに限って言えばこの時代の忍者じゃない。それに真紗さんに個人的な因縁を持っている。となると、ベルタさんがあんたを問答無用で襲った理由も氷解する。つまりあんたが元々、真紗さんの敵だったからだ」

「後ろを向いてくれ」

男は言った。そこにあの晩と同じ、坊主頭の男が立っていた。疑念はもう、はっきりとした確信に変わっていた。

間違いない。

目の前の男は、真紗さんの正体と秘密を知っているのだ。

「改めて自己紹介をしたい」

と言うと、男は何かを差し出した。それはなんと一枚の名刺だった。英文混じりの横書きの名刺には男の名前が印刷されている。

海童英(かいどうすぐる)

それが、この男の本当の名前だった。


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