謀略の信濃へ!深まる疑惑…この人が山本勘助!?
まだ若い秋野をゆく。野桜の葉は色づいて落ち始めていたが、白い和毛を揺らすすすきの葉は、まだ青かった。まだ夜露に濡れた藪のそこかしこでは、秋の虫がすだく声がする。鈴虫やコオロギの音を聴きながら歩く街道は平穏そのもので、暗殺者の脅威などはまるでただの悪い夢だったかのようだ。
こうして僕たちは、中馬街道を北上していく。
まず目指すは諏訪だ。海への玄関口である三河岡崎を通り抜けて行くと、行く手は山間の止め処もない隘路の連続だ。道は山間を縫って進む水脈のような細々とした難所である。
真田幸隆と真紗さんに伴われて行くうち、僕たちは山の懐が急に深くなるのを感じた。初めて分け入る信濃の山はまた、王都京都を包み込む比叡や鞍馬の山嶺とはまた違う奥深さを持っている気がした。
どちらかと言えば腰高の、裾野が深い京都の山々に対して、信濃路はどこまでも広い裾野に吸い込まれて行くような印象があるのだ。それは川筋をさかのぼって山間を貫いていく道を通って行ったせいかも知れないが、例えば山底の奈落へ引き込まれるに思える閉塞感がなく僕にはありがたかった。
現在のこの辺りの都市を歩いても分かるが、この山の中に点在する川幅の広い平地を、細い水脈で断続的につないであるようなそんな印象を受けるのだ。
そのため狭い山道を流れる小さな川や滝が白い石を敷き詰めた川原として徐々に広くなっていくにつれ、僕たちは拓けた場所を目指して歩き続けているような開放感が得られるのだ。まるでこの北上は森のトンネルを通って広場として点在する川沿いの集落を辿って訪ね歩いているような感じである。
心なしか彼方に見える山も、中国の山水画のようにどこか長閑でのびのびしている気がする。まるで鏡の面のように鋭く切り立った岩肌の露出した崖などは、僕たちがいた西国の山では見られなかった風景だ。
と、和んでいる暇はないのだがつい、気が抜けてしまう。いや、楽しんでいたのは僕だけじゃない。
「キレイ、最高です」
を連発していたのはラウラだ。絵を描く彼女にとって、この旅は別の意味でも実りが多いものになっているのだろう。峠で休憩をすると言っては、高台に座ってラウラは飽かずにスケッチに耽っていた。サヴァンの異能を遺憾なく発揮するラウラの絵は、写真のように細密で、しかも信じられないくらい早く描き上がる。真紗さんがそれを見て、子供みたいに喜んでいた。
「すっごいねえ、あたしも描いてよ」
二人はやけに打ち解けたらしく、道々もしきりに取り止めない話をしていた。誰にでもフランクな真紗さんだが、日本の人よりも、外国の人の方が仲を深めるのが早いようだ。
ちなみにこの飯田、伊那、高遠へとつながる要所は、信玄晩年の海を求めての南進の侵略路をさかのぼっていくとも言える。広大な山岳国家を領した武田信玄にとって、唯一の泣き所は海路のないことだった。有名なのはやはり、駿河の塩留の話である。
度重なる侵略に怒った今川義元が、僕たちが歩く中馬街道を伝って信玄の領国に届くはずの塩の輸送を禁じた。海産資源を自給できない信玄の領国にとって、駿河の塩が手に入らなくなると言うのは、紛れもない死活問題であった。
「確かにね。海産物、特に塩を封じられることが、真人くんの謂う山岳国家のもっとも大きな懸念だった事実は、否定できない。宿敵のはずの謙信に、助けてもらったくらいだしね」
と、真紗さんは虎千代の方を意味ありげに省みて言う。自分が武田方のせいか真紗さんは、塩留の話題になると積極的に食いついてくるのだ。
「でもこの山岳地帯は、難攻不落と言っていい堅牢な要塞国家だった。全盛期の信玄はこの要塞国家を盾に関東北条勢、駿河今川勢、そして越後上杉勢と互角の渡り合いを演じたわけでしょ」
確かに、真紗さんの意見にけちをつけるところはない。ある意味では魔術的とも言える信玄の国家戦略を支えたのは、限られた街道を択んでしか侵入できないと言う、この地の利を味方につけたことが大きい。
ただこれも後年、織田信長の多方面侵攻作戦を受けて崩壊したが、と余計なことを口走りそうになると、みるみる真紗さんのへそを曲げさせてしまった。
「あれは跡を継いだ陣代・諏訪四郎勝頼の、内政と外交失策の失態が大きかったからでしょ?信玄が存命だったらああも裏切り者は出なかったはず」
真紗さんの言うことも道理ではある。外交交渉の抜群に上手い信玄ならば、信長の多方面作戦にあれだけの動揺を見せなかっただろう、と言うのだ。
特定の武将好きの人と話していると、ここが困るところだ。もちろん僕にだって多少のひいき目はあるにしろ、武田信玄一代をそれだけ祭り上げなくてもいい、と思う。
伝説的な信玄と比較するとどうしても言われるのは、跡継ぎの不出来だけど、信玄だって政策上の失策をいくつか犯しているし、勝頼が格別劣っていたとも断言しがたい。
信玄好きで自分も武田方で活動していて、と言うほどの真紗さんだ。その意見を公正なものとして、やっぱり素直には聴けない。やめようと思いつつ、ついつい要所で反論してしまったお蔭で、虎千代や真田幸隆を前に、色々と後代の話をしてしまった。虎千代も幸隆も慣れているのか、ほとんど聞かないふりをしてくれたが。ここがまた、歴史好き同士の厄介なところなのだ。
「しょうがないのよ。あたしの信玄好きは歴女の姉に仕込まれたものだから」
と言う真紗さんだが、その見識と戦略眼はただの武将好きの女の子のものとは、到底思えなかった。
「それにしても、只者じゃないと思ってたけど、君も話せるねえ真人くん」
なぜかにたりとする真紗さんを、僕は窘めた。
「…話しちゃいけないことは、無暗に話さない方がいいですよ」
「別にいいんじゃない?せっかく、歴史が好きな現代の人にこんなところで巡り会えたんだもん」
この真紗さん、油断ならないかと思えば、何か本当、とんでもないとこで無用心なのだ。
「野秋は、殺された?」
虎千代は無言で頷いた。ついさっき、出立前のことだ。僕と黒姫だけが呼ばれた席で、虎千代はふいに昨夜のことについて話をしてきた。思えば虎千代は、野秋の遺体が発見されたそのとき、何か念入りに遺体を調べていたのだ。
「毒を呷って覚悟の自死をしたにしては、遺骸に取り乱した様子が過ぎぬか?」
と、虎千代は意見を求めるように、僕たちを見渡す。
「そ、そう言われれば、そうとも思えますですけども」
黒姫はまだ少し、虎千代の疑念を呑み込めていない感じだ。
「真人、お前はどうだ?」
虎千代は僕にも水を向けた。
「えっと…確か、野秋は水を求めて死んでいたんだよね?」
咽喉には掻き毟った跡があり、かなりの苦悶死だった。そう言われれば覚悟をして死んだにしては、遺骸が見苦し過ぎる、と言われればそうとも思えるが。
「あの野秋は、見るところ、若党なれど常のものにあらず。鍛え上げられた忍びであろう?」
「…虎さまの謂うこと、正鵠ですよ。例えば若くして鍛え上げられた忍びである黒姫の目から見ても、覚悟の自決をするにあたっては、それほどの手練れ、水を求めて這い出すなど、無様な真似はしないですけどねえ」
黒姫のさり気ない自画自賛は別として、僕の目から見てもあの晩の野秋の死の表情は、混乱と困惑を伴っていた。そしてくしくも真紗さんが、野秋が名前だけを名乗った理由を推測していたように、あの若い忍びは、捕虜しての扱いを求めていたはずなのだ。
「真紗が言っていたことは、あまりあてにならぬが、それは間違いあるまい。あの男はまだ、我らの捕虜として生きようと考えていたはずなのだ。だから昨夜の遺体、わたしはあやつが自ら歯に仕込んだ毒を噛み破って死んだとは、どうしても思えぬ。だからあのとき、即座に遺骸を調べたのだ」
と、言うと虎千代はふいに自分の髪を、持ち上げてみせた。それから形のいい左耳の生え際を、虎千代はなぜか指で示した。僕は、はっとした。そこはそう言えば虎千代が昨夜、野秋の遺体をまさぐっていて何かを発見した場所なのだ。
「実は奴のここに、不審な針痕があった。一見、虫刺されくらいの痕にしか見えぬが、触ってみると意外に深く人の手で刺しこまれた針痕だと言うことが、すぐに分かった」
「ほっ、本当ですか?」
虎千代は頷いた。もう今、調べても無駄だろうと言うのだ。その虫刺されくらいの痕は、時間の経過とともにほとんど目立たないくらいになっていたらしい。
「考えるに毒を注入されたのは、遺骸が見つかるよりかなり前。恐らくは傷ついた野秋をあそこに運び込んだ直後くらいだろう」
毒は遅効性で、効果を発揮するのには時間が掛かるものが使われたはずだ、と、虎千代は言う。当然のことながらそれは、身近な人間からの疑惑を避けるためである。
「まさか真紗さんか幸隆さんがそれをやったってこと?」
今度こそ僕は驚愕の声を上げた。だって、負傷した野秋が運び込まれてきたとき、その身体に触れたのはうちの黒姫を除けば、あの真紗さんと幸隆さんの二人だけなのだ。待てよ。そうなるとだ。真紗さんが僕たちに尋問の延期を主張したと言うのも、あのときの意味合いと意図が変わってくるじゃないか。
「あの女が尋問を伸ばしたのは、毒が効くのを待っていたためかも知れぬ」
虎千代は、その疑念をきっぱりと口にする。
「でも待ってよ。どうして真紗さんが、野秋の死を望むんだ?」
当然の反論を僕は虎千代に突き返す。
だってだ。
情報を得るために自らが捕えた敵の捕虜を、自分で暗殺するなんて。
そんな支離滅裂なことをあえてする理由はなんだ。
あまつさえ野秋はまだ何ひとつ、しゃべっていない。真紗さんが必要な『自在』についての情報を漏らしていないのだ。普通に考えてまだ、殺す理由など、何一つない。そんなはずなのに。
「あの手の女は背に目がついている」
ふと僕は、ミケルが口にした疑念の言葉の意味を改めて噛み締める。真紗さんは、僕たちの中に溶け込んだように見えても相変わらず、正体がない。ミケルが経験と五感で察知したように、彼女は芯から、そう言う人間なのだ。
本当に何者だったのだ?
ただの現代人にそんな真似は、もちろん出来ない。自らが分析した情報を語るとき、真紗さんの眼差しはいつもの無邪気さを喪い、何とも言えない独特の怜悧さを帯びるのだ。ある意味ではその非情さは、いざとなったらこの時代の人間をも凌ぐように僕には思えるほど。
「考えるほどにあやつの肚は、表向き話していることとは全く違っていよう」
今や確信として固まりつつある僕の疑念を、虎千代はこれ以上ないほど正確に、言葉にして言い表した。
「だが騒ぐな。我らも表向きはな。そして常に目を光らせよ。今の納得できぬことも、いずれ明らかになるやも知れん。まだ、あやつらがわたしたちを利用するのが有益と、そう考えているのなら、な」
この年齢で戦国随一の謀略を看破してきた虎千代の目には、一点の情の曇りもない。
その意味ではすでに『自在』とは別の謀略戦が、水面下で始まっていると言えた。
「さあ方々、お待ちかねの諏訪でござるぞ」
真田幸隆が、峠の先を臨んで声を上げたのはそのときだ。
僕たちの眼下いっぱいに、秋の陽を受けて白く発光する諏訪湖と、その門前町が姿を現した。
諏訪大社は、全国に二万五千あると言われる末社の総本山である。その起源は定かではないくらいに古いらしい。現在諏訪市内にあるのは上社だが、ここに建てられている四本の樅の木を祀る『御柱祭り』は日本でも最古の祭祀の一つであると言われる。
また、諏訪に祀られているのは八幡宮である。『梁塵秘抄』には上総の鹿島、香取神宮と並び称されるように諏訪の八幡宮は上古から武士、特に源氏の聖地であると言ってもいい。八幡太郎源義家の流れを汲む武田信玄としては、何をおいても手に入れておきたい場所だったに違いない。
「さすがに壮観だな」
手放しの歓声を上げるラウラの横で、さすがの虎千代も表情を明るくしていた。上古以来の山道を徒歩で旅するものにとってはこの、突然拓ける諏訪湖とその街の風景は救い神のように見えたに違いない。
「どう、すっごいでしょ?なんとこれ、全部幸隆さんが任されてるわけ」
この天文十七年には、真田幸隆は武田信玄に命じられ、この諏訪の治国を任されていたのだそうだ。かの海野平合戦によって信濃を追い出されてから、たったの六年である。幸隆自身にとっては感無量だったに違いない。
「なんの。いや、真人殿はそう申されるが、これはあくまでこれからの働きのための宛行でござる」
と、幸隆は僕がそう話すと、真剣な表情で言い返した。
もちろん現実主義の信玄だ、破格の待遇に理由があることぐらいは僕にも理解できる。諏訪を併呑した信玄は、それ以降の政略に信濃に詳しい人間を戦略担当官にするのが一番いいと考えるようになったようだ。
ここまでの僕たちは信濃路を歩いて体感したが、この国は地続きの平地がない山国のため、小国分立の土壌が育ち、他国者の直接支配に関しては敏感だと信玄は考えたらしい。
もちろんこの小国分立に目をつけた信玄ならではの狙いもあってこそだ。信濃は統一政権がなく、小国が独立しており地理的に隔絶しているため、各個撃破が可能なことに信玄は目をつけた。実を言うと、信濃は甲斐のほぼ倍の大版図である。一気に呑み込むのは無理でも、方法によって少しずつなら何とかなると考えた信玄の戦略眼の鋭さには、驚嘆せざるを得ない。
「まあさらに真人くんの説明を補うと、だから諏訪を狙ったわけだよね」
真紗さんの言う通りだ。南半分を領するのには、支配力はなくとも最も古い権威を最初に併呑してしまうに限る。言うまでもなく諏訪大社は、南信濃きっての古社である。
これで多少の強引さを犠牲にしても、信玄が諏訪の制圧を急いだ背景がよく見えてくる。あらかじめ二手も三手も先を見据え、まるで棋譜戦のような信玄の侵略の緻密さには、つくづく頭が下がる。
「ふっ、ふーん。真人くんもようやく、武田信玄の凄さが分かってきたわけだねえ」
そう露骨に言われると鼻白まざるを得ないが、信玄の才能は上杉謙信にはないものだと言うことは僕にもよく分かっている。しかしこのときすでにその独自の境地を遺憾なく発揮していたことは、実際に現地に立ってみて肌で実感すると、驚きの一言しか出ないのだ。
「…武田大膳太夫か。確かに、敵に回したくない御仁らしい」
虎千代も諏訪の概観の見事さと信玄の戦略の妙にしきりにうなっていたが、この龍虎が相討つもっとも大きな要因になるのが今まさに、ここから北にある砥石城での攻防戦である。
「さあ、こんなとこで見ててもしょうがないわ。今日は、諏訪の真田邸に泊まるんだから。諏訪には美味しいもの沢山あるわよ!屋敷を上げてご馳走するから!旅の疲れなんか忘れて、ぱーっとやりましょう!」
真紗さんは相変わらず気前がいい。
「ごちになりますですよ!」「へへへっ、やあっといい思いが出来るってわけだ」
ご馳走と聞いて鬼小島と黒姫が真っ先に歓声を上げるのを、真田幸隆は心配そうに見守っている。
「まっ、真紗殿…あの、うちは普通の屋敷ゆえあまり騒がれると困りまするよう」
「まーたそう言うつまんないこと言って!どうしていつも幸隆さんて、ノリが悪いかなあ!」
「い、いやっ、方々は遠路はるばるのお越しゆえ歓迎いたしまするが…なにしろ、真紗殿は酒癖の方が…まあたひどいでござるから…でべっ」
また水平チョップを喰らっていた。
この人も、全く懲りない人だ。
「とにかく諏訪に着いたら、とりあえず二、三日は居てもらうことになるかも知れないから。ここらでゆっくり羽根を伸ばしててよ」
「砥石城の大膳太夫に御目通ししてくれる、と言うわけか」
まあね、と言うように真紗さんは曖昧な笑みを浮かべてかすかに頷いた。
「あ、そうでござる。目通りと言えばもう一人、ご紹介せねばなりませぬな」
出し抜けに真田幸隆が声を上げたのは、そのときだった。
「ここ諏訪でか」
然様、と幸隆は頷く。この諏訪で。誰だろう?僕たちが会わなければいけない人物が他にいるとは。
「誰ですか?」
「ああ、ただのつれ。あたしのだけど」
と、すばり聴くと真紗さんはなぜか途端にそっけない態度になった。
「いいんじゃない、それはさ。機会があったら、追々でさ」
何だか面倒くさそうだ。僕たちに会わせたくないのだろうか。それに反して真田幸隆の方は、いかにも僕たちに紹介したがっている様子だけどなあ。
「実を申せば真紗殿と、その方は拙者の御家再興の恩人でござって。かく申すこの真田幸隆、その方のご紹介なくば、武田家への仕官も、此度のお取り上げもなかったのでござるよ」
真田幸隆はちょっと興奮気味だ。真紗さんは浮かない顔だと言うのに、今いちこの二人、テンションが合わないなあ。
それにしてもだ。
「その人、幸隆さんを、武田晴信に紹介した人なんですよね?」
「いかにも。しかしその方がまた、見目佳き武人でござってなあ」
幸隆はどこかうっとりした口調で言う。ちょっと気持ち悪い。
だがいや待てよ。
真田幸隆を信玄に推挙、そして信濃侵攻政策の急先鋒。と言えば…
「まさか山本かんっ…」
と、僕が言いかけた時だ。
「ほらあっ、さっさと街へ降りちゃお。そんなこと、今話したって仕方ないんだしさ」
真紗さんが、うるさそうに手を叩いて皆を促す。僕を遮ってまで、何か強引だ。
「どうしたんですかいきなり、真紗さん…」
さっきまで武田信玄と甲斐信濃の自慢をしていた人間とは思えない口ぶりだ。
「べ、別に。こんなとこで油売ってるより、街に着いた方が絶対楽しいと思って」
怪しい。て言うか初めて見たぞ、こんな露骨に話変える人。
「その人を僕たちに紹介するのに、何か不都合でもあるんですか…?」
「ないないないっ!全然。ただ、ちょっとめんどいからさ…」
諏訪の街の口へ、真紗さんが歩き出そうと峠を降りたときだ。途端に真紗さんが小さく、げっ、と言った。
「今、げっ、とか言いましたよね!?」
「言ってない!げっ、なんて言ったことない」
嘘つけ。見るとそこから、鉄砲を持った細長い影が上がってくるのが見える。
「あの御仁か」
幸隆は嬉しそうに頷いた。どうやら、諏訪口まで来た時点で迎えに来ると言う連絡が、幸隆の方へ来ていたらしい。
「はっ、早く言ってよ!?そう言うことは。あいつ、あれだけ言ったのに、あたしに連絡しないんだから」
真紗さんが文句を言うその人は、やけにすらりとした体格をしていた。日本人とは思えないくらい足が長くて、真紗さんのような八頭身だ。身体の丸みから女性であることは人目で分かったが銃身の長い火縄を背中に挿して音もなく歩く姿はただものではない。締まり切った足が黒い脚絆からのぞいている。ぎょっとしたのは顔一面、紫色の袱紗で包んでいることだ。そこからやけに醒めた瞳ばかりが、こちらをうかがうように見ている。同じ色の忍び装束といい、恐らくはこの人も真紗さんと同じ、武田方の忍びだろうか。
「勘助殿!」
幸隆がその姿を見てなぜか、感極まったような声を上げる。
「なっ、何言ってんのいきなり!」
その口を真紗さんはあわてて塞ごうとする。
「何をするか真紗殿!」
悪いけど、今、僕は聞き逃さなかった。
真田幸隆が、『勘助殿』と言ったのを。
「もしかしてこのお方が、真田殿が言う恩人か?」
ええっ、と真田幸隆は力いっぱい頷く。次に紹介してくれた名こそ驚いた。
「この方が我が真田家の恩人、山本勘助晴幸殿にござりまする」
この人が、山本勘助晴幸。
嘘だ。だって全然普通に女の人じゃないか。
「も、文句あるの!?そっちだって、上杉謙信が女の子じゃない!」
そりゃそうだ。そうやって開き直られたら、僕も突っ込みようがない。
「で、でもさ」
「勘助殿か、よろしく」
虎千代たちは違和感を持つはずはないので普通にスルーしているが、僕は納得できるはずがない。
「鉄砲を使われるのか」
「ああ、鴨を。お客人、歓迎する」
と、撃ったばかりの青首を虎千代に見せる。ワイルドすぎる勘助だ。鉄砲を使うところを見ても、怪し過ぎると言わざるを得ない。
「本当に山本勘助!?」
「そうよ!何か文句ある!?」
ついに言い切ったな。
だったら言わせてもらうが、この人が山本勘助なわけがない。
戦国に名だたる軍師は数あれど。
その知名度と他を圧する能力の多彩さで武田信玄の懐刀に成り上がった山本勘助こそは、同時に武田信玄の屋台骨を支えた片腕と言っても過言ではない。さっき幸隆自身が言ったように、信濃の攻略を裏で支えたばかりか、武田の名だたる名城の建築を数々残すほどの土木技術の持ち主。
実在を疑われるが、三河牛窪の出身者で諸国を遍歴したのちに信玄に召し抱えられたと言う事実は、すでに発見された文献によって確認されている。正直、この時期には中年だ。若い頃のいくさ傷で足を引きずっていたとも言うし、身体にも無数の傷があったとされている。
然るに、この自称山本勘助さんは、どう見ても真紗さんと同い年くらいの女の人である。もちろん足は怪我してないし、鍛え上げられた身体は敏捷そのものだ。しかも、あれっ…
「なんか目が青くない!?」
あわてて真紗さんは、僕から彼女の目を逸らさせた。
「日本の人じゃないだろ!?日本人じゃないよ!?」
「へっ、変な言いがかりはやめてくれる!?目なんか青くないし、勘助なんだから日本人に、決まってるでしょ?」
「真紗、この子、もしかして…」
ごにょごにょ、と山本勘助は、真紗さんに何やら耳打ちする。や、だめまずいよ…とか真紗さんは相変わらずひた隠しにする姿勢だが、真紗さんが止めるのも聞かずその人は、ふわりと顔を隠す頭巾を無邪気にとってしまったのだ。
そこから零れ落ちたのは、輝くばかりのコーン・ブロンドだ。思いっきり白人の女性である。これが絶対、山本勘助のはずがなかった。
この戦国時代に突然、金髪美女だ。驚きあきれる前に、腰が抜けそうになった僕を、虎千代があわてて受け止めた。
「彼女はあたしと同じ、現代人よ」
ああもう言っちゃおう。ついに真紗さんは決心したらしく、不貞腐れたように白状してきた。
立ち話も何なので、諏訪の真田屋敷へ移動した。目の前に広がる紅葉と諏訪湖がとても綺麗だった。もうどうでもいいと言いたかったが、突っ込んだ手前最後まで聞くしなかった。
「ベルタ・クヌッセンです。ワタシ、小学五年まで日本いたヨ。日本大好き。日本語OK大丈夫、よろしく」
やけに体温の高いベルタさんの手を握られつつ僕は、自分の名前とタイムスリップしてきた事情を話した。山本勘助かと思ったら、日本文化大好きの外国人だった。ベルタさんは、忍者と温泉に興味があって、真紗さんと旅行に来た日本でタイムスリップしたらしい。本人は災難だと思っていないのがまた、イタかった。そもそもどこの国の人なんだ。
「デンマークです」
「デンマーク人かよ!?」
「デンマーク人よ!」
決して悪くはないのだが、そんなに堂々と言い切られると。うーん。ちなみにデンマークは北欧、ヴァイキングの国の一つらしい。首都はコペンハーゲン、くらいしか知識はないが、なんで山本勘助のふりをしてるんだ。
「ワタシ、ずっと日本来て忍者する夢デシタ。女忍者、くのいち、言いますデショ?ワタシ、コミックスだけじゃない、忍者服部半蔵、知ってます。山本勘助、服部半蔵と同じ忍者のボスでショ!?」
「山本勘助は忍者じゃないですよ…?」
僕が恐る恐る言うと、ベルタさんは青い瞳をまん丸くしていた。
「うそ!真紗言ってたヨ!?」
騙されてる。かわいそうに。日本文化に興味があって来日している外国の人を騙すなんて、どう言う神経をしてるんだ。
「真紗さん…正直、見損ないましたよ」
僕が睨みつけてやると、真紗さんはあわてて目を逸らした。
「今日も諏訪湖が綺麗ねえ。そろそろ、虎千代さんたちとお酒飲もっか?」
ごまかされてたまるか。
「本物の山本勘助は、どうしたんです?」
「そんなの居なかったわよ」
だからしょうがないじゃない、と言うように真紗さんは言うのだ。
「真人くんだって体験してると思うけど、あたしたちが文献で知っている日本史と、この世界は少しずつ違うのよ。この甲斐に山本勘助がいないって言うなら、あたしたちが山本勘助になって、武田家に入り込んだって悪くないでしょ?」
「そ、それは」
悪いとは、きっぱり言えなかった。だって真紗さんはこのベルタさんと二人で、独力で生きなければならなかったのだから。
「ベルも白人だけど、自分で身は守れるからそれは助かったわ」
真紗さんは押し殺した声で言う。確かに妙齢の女性二人、しかも片方はヨーロッパの人だ。戦国時代の甲斐に放り出されて生きていくのは、かなりの苦労だったに違いない。さらにはベルタさんは真紗さんと、『自在』に命を狙われているのだ。
「真人サン、でも現代の人、会えて良かったよ。真人サンは侍、してるデショ?」
「ええ、まあ」
僕は不承不承頷いたが、ベルタさんはやたら明るい。真紗さんが真田幸隆と潜伏するのに目立ちすぎるのでベルタさんは諏訪に滞在していたのだろうが、無事で良かったと言う他ない。
「さあ、皆でお酒しまショ!?」
こうして何事もなく酒宴になった。
いや、いいんだけどなんか釈然としないなあ。
「あの勘助殿も、ラウラと同じ南蛮人か」
虎千代はことの顛末を聞いても、それほどに驚かなかった。ラウラがヨーロッパの地理関係と人種について、話しておいてくれたことも良かったのだろう。しかも現代人だ。
「まあ、ビダルのような男もいたわけだしな」
確かにそう言われれば、違和感はないが。虎千代の方が、頭が柔軟なんだろうか。
僕にとっては、謎の真紗さん像にさらなるカオスが加わった形だ。つくづく、あの人のことが分からない。二人とも普通の女子大生だと言う風にはまず見えないからだ。
あのベルタさんも、射撃の達人だと言う。
北欧諸国では女性も幼い頃からライフルを持たせて、その扱い方を教える国が多いらしい。旧式の火縄銃でも、森の獣を仕留めるなどは容易いらしい。
「狩猟がポピュラーですからね」
ベルタさんが言うにはデンマークをはじめドイツやスウェーデンと言ったヨーロッパの森林国では、猟兵と言う兵種があるらしい。軽装歩兵の一種である彼らは猟師をはじめとした森林労働者からえり抜かれ、山岳戦と狙撃のエリート集団なのだそうだ。
「まさかベルタさん、軍人?」
ずばり訊くと、ベルタさんは肩をすくめて苦笑いした。
「射撃は趣味よ」
真紗さんといい、どうもきな臭い感じがする。
酒宴はまだ続いている。
すっかり辺りが暗くなって、手探りであてがわれた自分の寝室に戻ると、がらんとした畳の上に何かが放置されていた。
それは千代紙で折られた山百合のようだった。
(なんだ?)
月明かりを頼りに取り上げてみて、思わず驚いた。それに何か、冷たくねっとりした黒いものが付着している。匂いでぴんと来てしまった。
これは血だ。
「動くな」
背後で男の声が立った。底錆びた、中年男の声だった。僕は思わず、背筋を硬直させた。
(いつの間に)
何者かが、確実にすぐ近くにいる。
開け放した廊下の向こうでは、まだ皆が騒いでいると言うのに。声は出せなかった。声は上げられなかったのだ。背中にぴったりと貼りついた殺気が、それをすれば誰に気づかれる前に息の根を止めると、無言の警告を放っていたからだ。
「世話になったな」
男は自分が皮肉を言ったと言うように、ほくそ笑んだ。
「野秋を始末してくれた」




