真田幸隆登場!信州最大の謀略戦への誘いに、虎千代は…?
「真田幸隆…だって…?」
まさかこの目の前にいるこの人が、あの真田家開祖、幸隆だって?
「あの…真紗殿。幸隆と言うのは私か…?」
当の本人は、何か言いたげにもじもじしている。不満があるらしいけど、躊躇している様子だ。何だろう、そんなに真紗さんが怖いんだろうか。
「あ、ごめん!幸隆はもっと出世してからの名乗りだよね。今は幸綱だっけ?でもまあ、あたしは幸隆でいいよね、幸隆さん」
「無礼な!仮にも武士の諱でござるぞっ、真紗殿!」
「どっちでもいいじゃん。どうせいつも偽名使ってるんだしさあ」
「だっ、だからっ!そおゆう問題でわっ!」
もはや日本史の展開も無視だ、真紗さん。真田幸隆(今は幸綱だけど)も諦めた表情で頷いている。あ、涙ぐんでる。かわいそうに。真紗さんに出会ってから、ああやって、いじられ続けてきたのだ。
「あああっ、もう、どっちでもよろしゅうござる。成瀬殿、方々もお好きなようにお見知りおきを」
真田…本当は今は幸綱さんは不貞腐れた様子で頭を下げた。もう半分やけくそだった。
ちなみに真紗さんはあの真田幸村のお祖父さんと、やたらざっくりとした雑な紹介をしたが、この幸隆こそ江戸期の信州松代藩に至るまでの真田家そのものを、創り上げた人間と言っていい。扱いはぞんざいだが、実は、大変な人なのだ。
ただここは、かわいそうだけど僕もここはお言葉に甘えて幸隆さんと呼ばせてもらおう。なんか、まどるっこしいからね。
「と、ともかく」
で、その真田幸隆は深々と頭を下げて言葉を継ぐ。
「方々のお話は、真紗殿から伺っておりまする。あの越後の虎、と若年にして隣国に聞こえの高い景虎殿に合力して頂けるならば、これに勝る喜びはありませぬ。私の名前などどれほどに些細なことでござりまするか。以後、よろしくお願いしまする。何しろ、かの村上家を討滅するのは、我が真田家の悲願でござりまするゆえっ」
その剣幕に僕は一歩気圧された。なるほど、自分の名前のことなどどうでもいいと言うほどにこの真田幸隆は、村上氏討滅に人生を賭けていたと言って過言ではない気迫の持ち主だと思った。
のちに上杉謙信と武田信玄、龍虎の決戦を展開する原因となった村上義清の村上氏は、もともと、幸隆さんの真田氏の宿敵だったのだ。
「そもそものこの砥石城いくさ、ことの起こりは、天文十一年の海野平合戦の宿業でござる」
もはや容易なことでは止まらない調子で幸隆がはじめたのは、まさに戦国大名真田家の後の命運を決めたとも言える決定的な負け戦だった。
このいくさで真田氏は、その大きな後ろ盾とも言える海野家の嫡流を滅亡させられてしまったのだ。破竹の勢いで信濃に領土を拡大する村上氏に七十年余りも持ちこたえたと言う真田氏は、本領を捨てて逃亡せざるを得なかった。上州箕輪の長野業正の元に居候した幸隆は、それから関東管領上杉氏に働きかけるなどして、本領回復の運動を続けてきたのだそうだ。まさに苦労人である。
「でもやっぱり、それも上手くいかなくて武田家に来たわけだ。で、武田信玄は早速諏訪をこの幸隆さんに預けたはいいけど、これがなっかなか村上義清に勝てなくてさ」
信濃国内において村上氏から見ると、幸隆は暗殺したい大名の筆頭である。最重要指名手配犯と言っていい。この砥石城いくさの最中も、刺客の暗殺・脅迫が絶えず、影武者を置いて一時逃亡してきたのだと言うのだ。
「いくさの最中に?」
「しょうがないでしょ?宿敵の村上氏には『自在』って言う凄腕の忍びがいてさ、幸隆さんもそいつの術には敵わない、って言うんだもん」
「面目ない」
真田幸隆は全部自分のせいのように項垂れたけど、狙われているのはこの人一人じゃないようだ。真紗さんも標的らしい。真紗さんは隠密として村上氏を倒すための諜報工作を幸隆さんとやっていたお蔭でばっちりマークされてしまったと言うわけだ。
「幸隆さんの影武者はいっぱいいるんだけど、あたしの影武者って中々見つからないわけよ。それでここへ隠れている間に、影武者を探しに来たわけ」
「だから女郎屋にいたんですか?」
ため息をついて、真紗さんは頷いた。いや、別に尾張に来なくたって、真紗さんの身代わりになるような影武者のくのいちなんて、いっくらでも見つかりそうな気がするが。
「あたしの身代わりになるような美人が、巷にそうそういると思う?」
自信満々のその言葉に僕は、ずっこけかけた。また、こんな大変な時に、なんつう人なのだ。
「真紗殿は私が真田選りすぐりの美人くのいちを出しても、まるで承知してくれぬのです。そんな折、この尾張城下に『国一国に値する』と言う明人の美女が逗留している、と噂を聞きつけ申して」
あ、それ魏玲のことだ。ネットワークメディアの未発達なこの時代、情報が錯綜するのはしょうがないこととしても、情報戦略のプロの癖に二人とも胡散臭い噂に食いつき過ぎである。
「…その人なら、もう尾張にいませんよ。て言うか、遊女じゃないし、堺から明に帰っちゃいました」
「え、真人くんっ、その人知ってるの!?」
そこまで話しちゃったので、僕は魏玲のことを教えてあげた。真紗さんとは違うタイプなので比較の対象にはないが、と何度か慎重に断ってから話したのだが、魏玲なら確かに、国が傾くほどの美女だ。そして当然ながら明朝門外不出の風水道士なので、影武者なんか引き受ける身分の人じゃない。
「ほら言ったでござろう。無理でござるよ。美女は美女でも明皇朝に連なるお方では、身分も美貌も、真紗殿などは、とてもとても比べ物にならな…でべっ」
幸隆は僕が避けた地雷を、思いっきり踏んでいた。咽喉に水平チョップだ。僕なんかすぐに分かったのに、案外空気が読めない人だ。
「あたしはいいって最初から言ったのよ。影武者なんて。でも、幸隆さんがぜひに、って言うから、わざわざ女郎屋に潜入して確かめてあげたんでしょ?」
「いや、あれは真紗殿が勝手に…」
と言いかけて、幸隆は怖い目で睨みつけられていた。懲りない人だ。いや、あれは或いはわざとやっているのかも知れないとすら、思い始めてきた。
「まあ、その魏玲って言う人はもういないわけだし、これですっきりしたでしょ?あたしは『自在』なんかにびびってないで、武田の本陣がある砥石城に戻ろうってわけよ。あたしたち二人じゃ心もとないけど、真人くんたちが協力してくれれば、『自在』の手からも逃れられるかも知れないでしょ?その代り、幸隆さんとこの諏訪と砥石城の武田陣は、安全に素通りさせてあげるからさ」
悪くはない。
と、言うよりは現状はこれ以上、望むべくもない取引だ。真紗さんたちは少し癖があるにしろ、村上方に真田幸隆の命をも狙う凄腕の忍びがいるともなれば、それは僕たちの脅威にもなり得るはずなのだ。黒姫の帰参を待って、虎千代と話を進めて行こう。
僕たちは真紗さんたちと舟を降りた。向こうにもそれほど時間の余裕はないみたいなので、一昼夜のうちに返事をしてほしいと真紗さんには言われた。
「真人、何をにやついておるか。こんな怪しい連中とつるみおってからに」
と、今日のもう一つの収穫が、睨みつけてくる。こいつを探しに来たわけじゃないが、頼まれていたことだ。帰蝶にも凄絶な誤解をされているようだし、早めに引き渡しておいて悪いことはない。
「訊いておるのかっ!お前、こやつらは武田の草だでや!」
「そうだとしても、お前たちには関係ないだろ」
真紗さんたちの目的は、逃亡と潜伏だろう。このことは、とりあえず信用する傍証はないが、疑う理由もない。しかしこの二人の様子を見ていると、しょっちゅう塒を替えているようだし(今、僕たちと舟を降りたのも、どこか潜伏する場所へ移動する様子なのだった)何かに追われてことを急いている様子がないことからも、この二人はこの勝幡城下にあだなす破壊工作に奔走していると言うよりは、何かを待ち受けて時を稼いでいる、と見るのが正しいだろう。
「ふんっ、真人、このくのいちに騙されて後でほえ面掻いても知らんでや。大体、魏玲の事件でのわしの慧眼、忘れたわけではあるまい!?わしがおらぬで、お前たちがこれからやっていけるか、心配でたまらぬでや!」
「あのなあ、そうやってすっごく僕らに関わってくるけど、お前にはお前のすることがあるんじゃないのか?それともさ」
何気なくだったが僕はそのとき、核心を衝いてしまったのだ。
「僕たちと来たいの?」
「ばっ!馬鹿っ!このうつけめ!いつそんなことを言うたか!?」
すると、信長の顔が、道端に咲いた曼珠沙華の花より真っ赤になった。
「とろくしゃあこと、いっ、いいい言うたらいかんでや!こっ、この織田三郎信長はいずれ天下に織田家の武を布く男になるでや!それがっ、あんな虎姫ごときの供の列になんじょう侍らねばならぬでや!お前たちといた方が楽しいとか…そんなこと、ありえにゃあだわ!見くびるでにゃあわ!」
まったく、何たる。
(呆れるほど分かりやすいやつ)
でも今のでやっと、信長の本音がばっちり分かった気がした。
こいつ、つまりはまだ、僕たちについていきたいのだ。ただただ、僕たちと旅を続けたかったのだ。覇王の癖に。どうしょもないなと思う反面、なぜか嬉しくもあった。織田信長、戦国の覇王と言うよりは、普通に少し年の離れた友達として、僕だって信長を見始めていたから。
だからその気持ちはすごく嬉しい。だがそれは僕と言う存在が、信長の人生を台無しにしてしまうかも知れない、決定的な分岐点とも言えた。
(もう話さなくちゃな)
僕はそれを密かに心に決めた。
「真人くんのところは、賑やかで羨ましいね」
ふいに真紗さんが言った。僕の一瞬の夢想を察してか、巧まずしてか、真紗さんは意味ありげな顔をして僕の顔から内面の反応を覗き見ようとするのだ。
「今日一緒に来てくれたのが、謙信の懐刀の鬼小島弥太郎さんでしょ、で、堺でついてきたのが、信長くんと。あと、この子はイスパニア人、宣教師さんなのかな?」
真紗さんはその途端、何か外国語でラウラに話しかけてきた。ラウラは、あっけにとられて目を丸くしていた。なんとそれは、流暢な話しぶりのイスパニア語とラテン語だったのだ。本当にこの人、ただの大学生なんかじゃない。今の身分のことは置いておいても、実際、何者なのだろうか。
「私もいるぞ」
また意味もないところで、晴明が出てきた。
「ああ、陰陽師さん。この人、安倍晴明さんなんだっけ?」
そして真紗さんも驚かない。普通、突然空中から人が現れたら、会話にすらならないほどびっくりするものだと思うのだが、真紗さんはこう言うものだと、さっさと割り切っているみたいで僕に事情を聞きもしない。
「この間の約束は、まだ果たされていないからな。なんだ、今日の料理は。鮎ばかりで、おから寿司はどうしたのだ。狐は、恩恵を受けていながら約束を果たさぬものは激しく祟るのだぞ」
「大丈夫よ。これから行くのは、山道だから。おから寿司なんて見るのも嫌になるほど食べさせてあげるって!」
真紗さんはけろっと晴明をいなすと、話題を戻した。
「じゃあ後は虎千代さんに会わなきゃだね。あの晩、一回あっただけだからあたしも、ちゃんと挨拶したいしね。結構かわいい女の子だったけど、腕は立つのかな?確か上杉謙信って剣の使い手だったよね?」
などと話していると、前方の人だかりで大きく声が上がった。
「あれっ、喧嘩かしら?」
途端に真紗さんの表情が、明るくなる。トラブルが好きって、なんて剣呑な人だ。
近づいてみて仰天した。大きく輪のように取り囲んだ群衆の中に、今ちょうど話をしていた虎千代本人がいたのだ。
(何やってんだよ!?)
叫び出しそうになるのを、真紗さんが制する。驚くことに白昼、抜き身を下げた、年頃十三、四の少年を虎千代は、庇っていたのだ。
相対するのは、刀と槍で武装した四、五人ほどの大人の武士たちだ。
「身の程を知らぬかっ!僭越なる若衆、おのれ何の因果あっての助太刀か」
と言うのは虎千代のことだろう。先頭に立った年かさの武士が、腰の大太刀の柄に手をかけて叱咤したのだが、この人の目から見て虎千代は後ろの少年とほとんど年の変わらない剣士に見えたのだろう。
「命惜しくば、退け。無粋な横槍をしおれば、後悔するぞ」
虎千代相手に啖呵を切る中年男は贅沢と言う風ではなかったが、大分派手な身なりをしている。袖なし羽織に鴉の毛を植え、大たぶさに結んだ髪の端を派手に散らしていた。米粉で顔に化粧も施しているのか、まるで江戸の歌舞伎役者だ。
「このお方を誰と心得る。かの鬼一法眼より鞍馬流を自得し、天元地元流を拓いた、天元鬼龍斎先生であらせられるのだぞ!」
ふうん、と言った感じである。だが、相手の素性についてはこれで解せた。戦国期流行りの売り出し中の旅武芸者なのだ。
古くは塚原卜伝、上泉伊勢守信綱が高名だが、名だたる大名衆や武芸の盛んな土地に居ついて、己の武術を伝えて生業とする、それが戦国の武芸者だったのである。この鬼龍斎と言う男も、その類いなのだろう。にしてもまた、はったりがちゃちだ。
山伏修験者をアレンジしたコスチュームに合わせて、鬼一法眼から鞍馬流を学んだことにしたのだろうが、法眼は源義経に武芸を教えた山伏だ。何百年前だよ、と言う話である。その時点で語るに落ちている、と言っていい。
「かの九郎判官(義経のこと)の御師から薫陶を受けた方なれば、さぞや道理の通じる武士であろうが、よもや仇討に助っ人を交える気ではあるまいな?」
虎千代などは、内心失笑を禁じ得ないと思う。武装した面々の前で、鬼龍斎をぴしゃりと面罵した。
「相手は若衆一人だ。聞けば駿河松下家の家人、親を斬られた敵討ちに、貴殿を追いかけて国越えに、ようやく足取りを捕まえたそうな。かほどの若衆の健気に、徒党を組んで迎え撃つとは、僭上の沙汰なるはいずれか知れようぞ!」
「うぬ…」
言戦の時点で、すでに圧倒している。まあこの年で練達のいくさ人である虎千代に勝てるはずがないのだが。堂々たる虎千代の口上に、野次馬たちからも賛同の声が上がる勢いだ。
「まだ前髪を落とさぬ若衆一人にそれほど、怖じたか。寄って集って刀槍連ねるなれば、不肖長尾虎千代、助太刀参らせようぞ」
「ほざけっ!似たような色子餓鬼が一人ッ、助太刀したところで何が変わるかッ!」
槍を持って飛び出した男の咽喉を、飛び上がって虎千代は蹴り潰した。その男の腰から、紅い目貫緒のついた木刀を奪ってからの虎千代は迅かった。群がり襲い来る一人の手首を砕き、長物を振りかざす男の腰骨を折り砕き。飛び違っては、向かってくる大男を物ともせず叩き伏せる。
見る間に相手は、鬼龍斎ばかりになった。
「同じ助太刀じゃ。こちらは一人、文句はあるまいな」
「うッ!くッ!」
虎千代に木刀を突きつけられた鬼柳斎は刀の柄に手をかける暇もなく、気の毒なほど狼狽していた。
「出番ね」
仲介に出ようと思ったのか、飛び出そうとした真紗さんは、なぜか真田幸隆に袖を引かれて止められていた。しょうがない人だな、と思ったが、そのときの幸隆の必死さこそ、僕にはなぜか印象に残った。
「ふっ、ふざけおって!おっ、覚えておれい!」
足元から拾った槍を投げつけ、鬼龍斎は逃走した。仕留められただろうが、虎千代もそれを敢えては追わない。
「てっめえコラ、誰に手ェ出したか分かってんのかっ!」
「やめよ弥太」
叩き落とした槍を拾って、鬼龍斎の背にフルスウィングで投げつけようとする鬼小島を虎千代は制した。
「虎千代!何してるんだよ、こんなところで」
「真人、おのれこそ、わたしにこそこそと隠れて動き回るな。黒姫が来るまで、、じっとしておらぬから、わたしが出ねばならなくなるのだろう」
虎千代は切り紙の形代を取り出して、僕の方へ寄越した。晴明の式神のようだ。どうやらこれが、虎千代に僕たちの居場所を知らせていたらしい。
「ふうん、並みの腕じゃないわね。やっぱ上杉謙信ってすごいんだ」
虎千代は、剣腕を品定めする真紗さんを見た。真紗さんが上杉謙信、の名を口にしたのを、虎千代はもちろん聞き逃さなかっただろう。感情の色を消した目線だった。
「虎千代、話そうと思ってたんだよ。真紗さんが、信濃を案内してくれるって」
僕は真紗さんのところへ話に行った経緯を、なるべく簡潔に話した。立ち話で済むような話ではないが、まずは思ったよりも信濃の情勢が厳しいのだと言うことも含め、虎千代の警戒心を解いて話を進めなくては仕方がない。
「で、弥太たちを連れて小僧も見つけて来たわけか」
と、虎千代は逃げないように腰縄をつけられたままの、信長を見た。
「あんまり大きな声じゃ言えないけど、真紗さんは武田方なんだ」
虎千代の前で武田の名前を口にする時は、さすがにどきりとした。無論、今は武田信玄は虎千代の敵ではないが心情的に、憚られる。
「紹介するわ。こっちはあたしの連れ。ちょっと理由があって隠れてたんだけど、本名は真田幸隆、武田方諏訪の城主よ」
「ま、真紗殿!こっ、ここッ!往来でござるよう…」
また色々ばらされて真田幸隆は泣きそうな顔になった。が、これほどあっけらかんと紹介されると逆に警戒心も失せる。
「あたしたちに着いて来れば、少なくとも、諏訪までの道のりと砥石城周辺の通行の安全は保障するわよ?」
「見返りは?」
虎千代は刺すように尋ねた。
「見ての通り、あたしたちは二人なんだ。だから道中、危険があったら守ってくれたらそれでいいんだけど」
虎千代は視線を下げて、少し考えた。
「別に、悪い話じゃないと思うんだ。黒姫が戻ったらでいいから、皆で話してみないか」
「確かに悪くない話だ。だが、一つ聞きたい。貴殿らはすでに狙われているのだろう?なぜまだそうして勝幡にいるのか?」
質問の真意が、僕にも図りかねた。しかし虎千代は依然として油断なく瞳を巡らせて、真紗さんの反応をうかがおうとするのだ。
「まだ、話していないことがあろう」
と、虎千代は自分のポニーテールの髪の中をまさぐると、何かを取り出してみせた。僕は思わず目を見張った。どうみても宝飾品に見えないそれは、長さ五寸(約十五センチ)ほどの錆び止めを塗った黒い針なのだった。
「あの鬼龍斎に剣を向けた途端、背後からこれが飛んできた。最後の対手に夢中になる隙を見澄ましたものだろう。幸い、鬼龍斎めが腕が立たぬゆえ気が回ったが、そこそこの者が相手では判らなかったであろう」
「暗殺?」
虎千代は無言で頷いた。なんと今の一瞬、何者かが戦っている虎千代に向かって針を射た、と言うのだ。虎千代の命を狙うなんて、いつの間に。僕は息が停まりそうになった。
黒く塗ることで目立つことを避けたその凶器は、明らかに忍び道具だった。
「見よ。付子(トリカブトの毒)が塗ってある念の入れようだ」
先端を舐めた虎千代は、べっ、と毒液を吐き出して見せた。
「撃ったのは恐らく、わたしが助けたあの若党であろう。(と、虎千代が言った時にはそう言えば、あの敵討ちの少年は影も形もなかった)わたしと真人が、真紗殿に与している人間と見て、これを放ってきたのだ。だが一足早く、わたしが着いていなければ、狙われたは貴殿であろうな?」
それを聞いて、僕は、はっとして思い当った。さっき、真紗さんが騒ぎに介入しようとして、真田幸隆に止められていたのを。
「長尾殿の申される通り、あれは忍びが、往来や雑踏で相手を仕留めるときによく使う手管でござる」
針は吹き矢だ。筆入れに模した小さな竹筒を使うらしい。それならばどんな雑踏でも隙を見て殺したい相手を狙うことが可能だ。
「『自在』は、信濃を脱け出した我らの面相風体をすでに掴んでござる。実を申せばこうなった上は、一刻も早く諏訪に戻るのが得策なのでござる」
「お二人は村上方の忍びに命を狙われている。で、勝幡へ逃げたは、真紗殿の案か。で、たった二人でまた発つのも真紗殿の考えか?」
幸隆は頷いた。この期に及んで、誤魔化す必要もないと思ったのだろう。
「つまり我らにその『自在』を斬れ、と言うのが本当の条件なのであろう?」
「まさか」
押し被せるように、真紗さんは言った。だが次の言葉はなかった。
どこか挑むような表情の彼女を、虎千代はしばらく訝しげに見上げていた。
「あの女は信におけぬな」
別れた後、虎千代は即座に僕へ言った。
「話が、ではない。あれは同じ未来から来たと言っても、お前とは少し違う。もう一枚、二枚、巧妙に肚を隠す術を知っていような」
どきりとした。ちょうど同じ印象を、僕も真紗さんに抱いたからだ。僕もこの時代に来て、色々な人間に出逢った。その経験則では、親近感のある現代人のはずの真紗さんよりも、むしろ真田幸隆の方が正直に話をしてるように思う。
「だが、それも手かも知れぬ。あの信濃武士と役割をはっきりさせ、注意を逸らしているとも考えられる。まあ、疑い出したらきりがないのだが、ことほど忍びと付き合うことの、気疲れすることよ」
虎千代はうんざりしたように言う。忍者と言う人種には多かれ少なかれ、そうした性質があるらしい。
とは言え、虎千代は真紗さんの話には、乗る方針でいるみたいだった。それは黒姫に会う前から、そのように考えていたようだ。
「わたくしの立場からすれば、表立って賛同は出来ませんが、やむを得ないかも知れませんですよ」
黒姫は夜半、根城に戻ってきた。厳戒態勢極まる信濃路に、黒姫は軒猿衆を放ち、突破口を探ったのだが、情勢は厳しくなるばかりだと言う。
「気になるのは、特に村上方の取り締まりが苛烈なことですよ」
これまで砥石城陥落を目指し、武田方は信濃豪族の調略に派手に動いていた。村上方の清野と言う武将が早くも投降したのは、城攻め開始の矢入れがあって僅か三日のうちであったと言う。それからも続々、得意の調略で信玄は村上方の勢力を侵していったのだが、十月も迫る頃、にわかに村上方の情報統制が厳しくなった。
砥石城攻めに手こずる晴信(信玄)に背後から、村上義清が出馬し、痛打を与える可能性が高くなってきたのだそうだ。城攻めの一番の危険は、何と言っても後詰(救援の敵兵)に背後を衝かれることである。本陣を衝かれて浮足立った寄せ手は、城門を開いて打って出る城方と挟み撃ちにされてしまう危険性が高いのだ。
さすがに信玄も、それを警戒しているはずである。だが義清出馬の確報を得なければ、動きの取りようもない。村上方は極端な情報統制を行い、信玄をかく乱しようと画策しているのである。
「村上方に、話は通じぬか」
黒姫は無言で頷いた。信濃の狭隘な山地を知り尽くしたかの地の忍びたちはそこかしこに監視の目を光らせているために、彼らの目に触れずにそこを通り抜けることはどの道不可能なようだ。真紗さんの言う通り、武田方か村上方、そのいずれかに通じていなければ、信濃越えは不可能なのだ。
「黒姫、お前は村上方に『自在』と言う、忍びがいるのを訊いたか?」
「『自在』ですか?…さあ」
黒姫はしばらく考えたが、やはり首を傾げていた。それを見届けると、虎千代は苦笑して僕に言った。
「これで真紗殿の言うこと、信に置けぬと言うわけでもあるまい。実際、我らは狙われている。あの晩の出来事で、我らは真紗殿の味方、と認識されているようでもあるしな」
その虎千代の言葉で、僕はあの時真紗さんが何かを仄めかすような表情をしたのを思い出した。あれは、このことを見越していたのだ。真紗さんに着いていくとも、行かずとも。『自在』の方ではすでにそう思っていない。
(もう遅い。すでに巻き込まれている)
真紗さんはそのことを、虎千代と僕に暗示していたのだ。
「しかし曲者はあの真紗殿だけでは、なさそうだ。二人で共通の敵の存在を仄めかし、上手く我らを巻き込んだ」
(そうか)
僕は密かに舌を巻いた。
考えてみれば真田幸隆も、僕たちを自分たちの都合へ引き込むべく動いていたのだ。幸隆は真紗さんに騒ぎに介入するのをやめさせ、虎千代にわざわざ自分たちが『自在』をおびき出すために二人で発つのだと言うことを明かした。疑惑の目を真紗さんに引き寄せつつ、それとなく僕たちも二人に同道せざるを得ない方向に誘導していたのだ。
「気づいたか」
虎千代は僕を意味ありげな横目でみると、うそぶくように言った。
「あの真田と言う武士も、信には置けぬな」
こうしてまた、尾張の夜が更けた。
別れ際、真紗さんはその気になったら信龍楼に連絡場所に使ってほしい、とだけ言っていた。身の危険を感じていることは、確かだろう。だが、自在の追跡に逃げきれなくなり、あわてて諏訪へ帰るのか?
そうではない、と僕は思う。だったら最初から守兵が守る砥石城の武田陣か、諏訪の城にでも籠っていればいいのだ。真紗さんが『自在』の鼻先をぶらつくような危険な真似をしてみせるのは目的は、ただ一つだ。
(誘っているのだ)
知らない城下で暗殺される危険を冒しても尚、あの二人はそれをしようと思っている。自分の影武者を尾張で探している、と言うのは無論方便だ。背水の陣と言っていい。無謀すぎる話だが、真紗さんならやりかねない。しかし問題はどうしてそんなに危険な賭けに、真田幸隆も乗っているのだ、と言うことだが。
(実際あの人は、何者なんだろう?)
真紗さんの話や二人のやり取りを信用すれば、真田幸隆はあの人の上司、と言うわけでもなさそうだし。真紗さんの正体については、ますます得体が知れない。虎千代がまだ、彼女は秘密を持っているだろう、と言っていたのがよく分かる。あけっぴろげに見えて真紗さん自身は、僕たちに、ほとんど自らの素性を公開していないのだ。
「おい、あの武田の女忍者を捕えるでや!真人、合力せい」
まだいたのかよ。懲りない信長だ。
「なあお前もそろそろ、勝幡城へ帰れよ。これ以上、僕たちに着いてきたってしょうがないぞ?」
「ふん、この信長抜きでおのれらがどうにか出来ることか!あやつらはお前にも害を成すし、この勝幡城下を探りに来た敵なのだわ!ええから合力せい」
「いいから、よく聞けよ」
僕は決心して言うことにした。
「気持ちは分かるけど、お互いにやることがあるんだ。お前にはお前の夢があるんだろ?」
「なっ、真人…」
「僕は虎千代と、生きて行くって決めたんだ」
真っ向から見据えて、僕は、はっきりと言った。
「残念だけどここで、お別れなんだ」
「うつけがっ!」
その瞬間だ。僕は思いきり、胸を突き飛ばされた。息が詰まるかと思った。気づくと信長は、顔を真っ赤に紅潮させてこっちを睨んでいた。肩で息をしていた。あの鋭い瞳に、殺気と見まがうほどの凄まじい意志が宿っているのを僕は見た。
「許すものかや」
掠れた声でつぶやいた後、信長は叫んだ。
「真人っ、お前まで、わしを見捨つる気かっ!?」
信長は柄を握ると、それを差し出した。斬られると思ったし、それでもいい覚悟でこっちも退かなかった。すると信長は鞘を払い、抜き身の柄を、ぐるりとこちらへ向けて来たのだ。
「戦友だでや」
忘れたか。
と、その目が言っていた。忘れようもない。僕は虎千代を、信長は魏玲を救うために覚悟の約束をしたのだ。武士が決死の約束を果たすときにする、あの金打を。思わず胸の内が震えた。だって信長自身も僕のことを想っていてくれた、と言うことじゃないか。帰蝶が言っていた、いるはずのない対等の友達として。
「憶えてるよ」
僕は言った。信長は憤怒の表情のままだ。僕は僕の言葉をぶつけた。
「僕たちは戦友だ。だから、言うんだ。お前はお前の、他の誰にも追えない、お前にしか出来ない夢を追うんだ」
何か信長は叫び返そうとした。しかしその声は、僕には届かなかった。信長が何か言う前に、そこにラウラが飛び込んできて声を張り上げたからだ。
「真人サンッ、大変です」
「どうしたの?」
ラウラは乱れた息を呑んで頷いた。
「だから…大変なんです。表の目抜き通りに高札がっ」
それは目抜き通りの一番目立つ場所に、堂々と掲げられていた。それは、昼間虎千代に叩きのめされた天元鬼龍斎の一味の仕業のようだった。
告
長尾虎千代
貴家ノ子女一名、貰イ受ケタリ
命惜シクバ一人ニテ身代持参サレタシ
「武芸者から野盗に落ちたか」
宵の月影が射し始めた往来で、虎千代は憎々しげにその高札の前で、ため息をついていた。
「で、黒姫、攫われたのは誰だ?」
「ええっと、わたくしたちの中で乙女と言えば、虎さま、わたくし、ラウラさん、こんなところでしょうかねえ。あれっ?…全員いるですけど!?」
そりゃそうだ。ラウラが僕たちを呼びに来て行ったら、先に虎千代と黒姫が着いていたのだ。
「何かの勘違いでしょうか…?」
不審そうに僕たちが首を傾げた時だ。
「さっ、三郎さまっ、こっ、こんなところにっ!」
平手政秀が息せき切って駆けつけてきた。
「大変でござりまするぞっ!帰蝶殿が人さらいにっ!」
ええっ!?
「もしかして攫われたのって、帰蝶さんじゃないの!?」
「まさか…?」
僕たちは顔を見合わせたが、そう言えば帰蝶は単独で僕たちの屋敷に残ったりと、関係者と間違われるような行動を取っていたのだ。
「お屋敷に帰らぬので心配しておりましたら、先ほど城下から」
心配で着いていった帰蝶付きの侍女が、町中で帰蝶が攫われたことを告げたと言う。
「山伏の格好に化粧をした不気味な男でした」
間違いない。
帰蝶は、僕たちの事件に巻き込まれてしまっていたのだ。




