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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.10 ~中二戦国覇王、五爪龍の女、新たな戦い
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祝(はふ)られるべき真の名!今解かれる絶家の呪い…

魂消るような狙撃音が一声、深山の気配を断ち切るかのように轟いた。

こっちはラウラと翠蓮だ。

虎千代が去って二人は、再び対峙を続けている。

頸に軽傷を負ったとは言え、翠蓮の間合いにラウラは迂闊には入れない。タングの間合いの広さと攻撃の多彩さに、最前、何より苦しめられたのが身体に刻み込まれているからだ。近接武器の代表である短剣を駆って、ラウラは善戦した方だ。何しろ相手は、大明国が誇る海賊殺しの長重武器なのだ。

「銃声、気になる?」

翠蓮はラウラの注意を促すように言うと、まだ出血の止まらない傷を手で抑えた。

「今の、青蛟の銃の音。誰か死んだ。お前の仲間」

「みたいね」

ラウラは視線を外さず、出来るだけ色のない声で応えた。今のは決めつけだ。別段、根拠があるものではない。無論相手の最大の目的は、いぜん自分の間合いにこちらを誘い出すことにあるくらいは心得ていた。

「ワタシ、死なない。このくらいの傷では。あの姫、お前を買いかぶり過ぎている。お前の武器には、ワタシ、絶対に負けない」

「そうかもね」

と、話を流すと、ラウラは再び半身に身体を開いた。そこから展開されるのは、近接用の刺突武器を操る独特の足運びである。

「無駄」

翠蓮は容赦なく間合いを潰すと、ラウラに片刃の欠けたタングを振り下ろした。

せわしなく体を前後に入れ替えながら、ラウラは翠蓮の攻撃をしのぐ。さっきからこの繰り返しだが、ラウラは一向に翠蓮の刃圏の中へ入らせてもらえない。

虎千代が月牙の一片を斬り折ったために間合いは取りやすくはなったがいぜん、ラウラは翠蓮の間合いに苦戦していた。タングの動きはただの単純な刺突武器とは違い、上下に変化して、身体中のあらゆる部分を捉えて機動力を封じようとしてくる。どの攻撃も、喰らえば戦闘不能になってしまうので、どうしても防御に細心の注意を払わなければならなくなる。

苦戦の秘密は、虎千代のそれと違うレイピア術の足運びにあった。変幻自在の刺突を可能にするラウラの短剣術だが、刺突攻撃を主眼に置く関係上、その動きはどうしても点から点の直線移動の足運びになる。

いわばラウラが駆っているのは、間合いの小さな槍なのだ。奇しくも同じ系統の間合いの取り方を行う長重武器を相手にすると、ただ一つの決定的な違いであるリーチの差が際立った弱点として、どうしても浮き彫りにされてしまう。

その点、無形の位に構え、足運びも猫足立ちと言われる琉球武術にも通じる軽い爪先立ちにして自在に間合いを詰めてくる虎千代とは、質が違うのだ。これは技量の差ではなく単純に、敵との武器の相性の問題と言えた。

前後にためを蓄え、刺突に転じるラウラの剣では、懐を深く取る相手を捉えるのは、至難の業だ。加えて翠蓮の長柄には、月牙がある。それがラウラに攻撃する間合いを取らせることを阻んでいるのだ。考えるほどに実にタングとは、船上での短剣術を封じるがために開発された武器と言える。

「なぜだ」

ぶん、と、翠蓮がラウラの顔を真横に斬り払う。ラウラはとっさに構えを崩してスウェーで避けたが、頬に紅い筋が走った。

「なぜあの姫は、ワタシを殺さなかった?」

ラウラは大ぶりの一撃に出来た間隙に仕掛けようとしたが、すでに自分の体が崩れている。続くためを活かした翠蓮の刺突の、誘いに乗るわけにはいかない。やむなく、バックステップして、追撃を(かわ)すしかなかった。

「翠蓮、ワタシはアナタの妹、殺したりはしていない」

ラウラは乱れた呼気を、悟らせないように言った。翠蓮は、理解の浅い鶏がそうするようにぎこちなく血で濡れた首を傾けた。

「知ってる。撃ったのは、青蛟だ。でも、蛟華、追い詰めたのはお前。お前だけは死に値する」

翠蓮はラウラの間合いに入り込んだ。二撃、三撃、ラウラを追い詰めるが、フットワークと目の良さを最大限に生かし、ラウラは徹底して逃げに転ずる。

「虎千代サン、アナタを殺さなかったのは、考えてほしいから。復讐は何も産まない。それを、分かって欲しかったから」

「死ね」

翠蓮は鋭く叱咤すると、ラウラを切り伏せた。

「お前の魂胆分かる。虎姫が傷つけた傷、拡がる。ワタシ、血を喪って死ぬ。それを待ってる。信じるものか。お前の言っていることは、ただの言い逃れの時間稼ぎだ」

その時だ。ふっ、と、ラウラがその瞬間、身体から力を抜いたのだ。タングを振り下ろしかけた翠蓮は異質なものを察知し、バックステップで間合いを取った。ラウラが奇策に出たと、翠蓮は判断したのだろう。しかし、それは違った。ラウラはすでに構えを解いていた。相手に向けていた切っ先を下げ、真っ向から相対していた。

「よく、考えて翠蓮」

もう一度、ラウラは言った。

「虎千代サン、アナタを殺さなかったの、アナタが生きるため。今からでも遅くない。考え直して」

「偉そうに。蛟華、殺した癖に」

翠蓮は聞き分けないと言うように、かぶりを振った。ラウラはもはやその一足一刀の間合いにある。翠蓮の動きが一瞬、停まった。しかしラウラが与えたのは最後のチャンスだと言うことに、翠蓮は気づかなかった。

「お前を殺す。お前を赦すものか」

渾身の力を籠めて、タングを翠蓮は振り下ろした。この間合いでラウラの攻撃が届くはずは、絶対になかった。

ところがだ。

ラウラは身体を、月牙のない方向へ落とすと、右手にぶら下げたレイピアを手首のスナップを効かせて突き出すように。

投げたのだ。

サヴァンがもたらす超感覚を身につけたラウラの動体視力から繰り出される攻撃の精確性は、人智を超える。レイピアはその狙いあやまたず、はっと息を呑んだ翠蓮のその右眼の奥深く突き刺さって、頭蓋を突き抜けた。

かくん、と首をぶらした翠蓮は声もなく、斃れた。もはや誰かを想うことも、恨むことも出来ない。ラウラは頬の傷を抑えると、切なげに顔を歪めた。

「残念です」


喧しい金属音や人声は跡切れ、再び雨が降りしきる。

いつしか深山に、元のような森閑とした静寂が戻りつつあった。

「真人っ、まーだやっとりゃあすか!?」

甲高い声が空を裂く。服までびりびりのぼろぼろになった信長が、空になった銃を担いですたすた歩いてくるところだった。

「ふははははっ、青蛟は我がなーんの問題ものう仕留めたわ。おのれや虎姫にも見せてやりたかったものよ、我が駆け引きの絶妙な冴えを」

絶好調で自慢してくる信長だったが、魏玲を見て途端、腰砕けに勢いが停まった。無事だった信長を見た瞬間、抱きついてきたのだ。憧れの魏玲が大サービスで信長は一気に自分の自慢も忘れている。

「阿信、大丈夫だった?怪我、してないのね?」

「ぎっ、魏玲…ああっ、我は勝ったのだ。だから…いいからそっちを誉めぬかっ」

「本当に怪我してない?痛いところは?」

と身体中をまさぐって怪我を確かめようとする魏玲を、信長は苛立たしげに、振り払った。

「おのれっ、この期に及んで餓鬼扱いするかっ、真人、ぼうっと見てぬで、このうつけを止めぬかっ!」

「止めていいのかよ?」

と言い返すと、信長は見苦しいほど真っ赤になった。ふん、素直じゃない奴だ。

「とっ、ともかくだわ!もはや案ずることはにゃあわ、我らの勝ちだでや!」

ううん、と信長はわざとらしい咳払いをすると、魏玲に言った。

「どうやら蛟竜の手兵どもも、あらかた、あの倭寇と南蛮娘が平らげし様子だでや。真人、虎姫めは、ちゃんとやっておろうな!?」

信長がそう言った瞬間だ。

僕たちの頭上を越え、何かが物凄い勢いで飛んできたのは。

蛟竜だった。

虎千代の蹴りを中空で喰らい、その身体は大きく宙を舞うと、僕たちの近くに墜落した。こちらももはや、ほとんど勝負がついたも同然だ。こうなってしまうと、蛟竜は虎千代に毛ほどの傷も負わせられないのだ。

「ふん、うるさいのが戻ってきたな」

辺りの様子をうかがいながら、虎千代は悠々とこちらへ歩いてくる。

「どうだ、首尾ようやれたか」

半笑いする虎千代に、信長は顔を真っ赤にして反駁した。

「うっ、うるさいのはおのれだわっ!我はお前がおらぬでも、いつでも上手くやるのだわっ!それより虎姫、おのれこそなーにを手を抜いておるかっ!」

「虎千代、蛟竜は」

「ああ」

と、虎千代は墜落した蛟竜に目をやった。蛟竜はもう、武器をとって立てるような状態ではなかった。そもそも虎千代と蛟竜、いつかのあの船いくさの折にも一対一の正当な実力差が彼我のものであることは、歴然としている。

「まだ、これほどにやっても呪縛は断ち切れぬか」

晴明の問いに、虎千代は苦しげに眉根をひそめた。

「仕方があるまい。この呪い、大元である蛟竜の呪いを断ち切らねば、蜃玉と言う名の魯家の悪意の存在を断つことは出来ないのだ」

と晴明は謂う。恐らくここで虎千代が蛟竜を斬殺したところで蜃玉はまた別の出口を見つけて、そこから、さっきのようなどす黒い呪詛を撒き散らし続けるだろう、と言うのだ。

そうなったときはもはや、魯家の呪いである蜃玉を捉えることは至難の業になる。

「やはり今、こここそが、悪縁あまねく断つのが唯一の(しお)、と言うわけか」

晴明は頷いた。これを逃せば、ようやくそこに蜃玉として形を取った絶家の呪いを根絶する方法は喪われてしまうのだ。

「虎千代サン、ワタシ、何とかする」

決然とした表情で、魏玲が言ったがにべもなくそれを晴明が窘める。

「魏玲、お前に何とか出来るものではない。ここは、虎姫に任せておくのだ」

それでも、と何か言いよどむ魏玲に、虎千代はしっかりと頷いてみせた。

「案ずるな。おのれも絶家道士の呪縛の中であろう。晴明殿、あなたはそれでわたしに名を与えたのであろう?」

(しか)り、と言うように晴明はあごを引き、

「お前は私が与えた名を忘れてはいまいな?」

と再び呪をかけるように、虎千代に問い質す。

「断ち」

虎千代は腰の太刀に手をやると、間髪入れずに(いら)え返す。

「それこそが今、わたしと言う式に、与えられた名であろう?」

「然り」

粛とした虎千代のはっきりとした声音に満足したのか、晴明は晴れやかにその紅い唇を綻ばせた。

「そうだ、それでいい。忘れるな、それこそが、お前が魏玲に代わってなすべき使命よ」

「我は断ち、か」

虎千代はぽつりとつぶやくと、すでにその魂にまで馴染んだ愛刀の柄に手をやる。その小豆長光で、悪縁を根から断つ。そのためにはもはや、それ以外に手段はないのだ。虎千代は自ら、この太刀を取って何をすべきかを問いかけているように、僕には想えた。


「虎千代サン、大丈夫ですかっ!?」

信長に続き、ラウラと王蝉が遅れて、駈け込んで来た。

「虎千代先生、こっちは片付いたですにぇ」

蛟竜の手兵の大半は逃亡、もはや抵抗する力は皆無、と言う。

後顧の憂いはもう、ない。

後は、この魯家にかけられた恐ろしい呪いを断つまでだ。

「そうか、苦労をかけた」

虎千代は言うと、左手で鯉口を切りつつ、歩き出した。

向かうは蛟竜の元である。この男は、虎千代がこれほどに時を与えても、すでに立てなかった。

その身体はすでに戦闘に堪えうる限界を超えている。それは僕の目から見ても明らかだった。

それでも蛟竜は仰向けのまま、上体を持ち上げて立とうとしたが、足が言うことを利かない。赤黒く血で濡れた顔の、白目ばかりが潤んで、迫ってくる虎千代の姿を眺めていた。この男の精神は狂ったまま、肉体は崩壊しようとしているのだ。瞳をわずかに眇めた虎千代には無論、その姿は相対すべき敵とは、映ってはいなかった。

「蛟竜よ。これで、諦めぬか。おのれもここが鍔際ぞ」

虎千代は、厳かな声で呼びかけた。

「お前の憎しみは、あらゆるものを苦しめるだけに終始した。その業は、もはやお前すらにも救いを与えてはくれぬ。その動かぬ身体で、しかと噛みしめたであろう。おのれの憎しみで魏玲を苦しめ、罪なき人を虐げても、救われぬ苦しみを。その身に巣食う苦しみは誰から与えられたものでもない。ただ、おのれのものばかりなのだ」

瀕死と言っていい蛟竜の答えは、すでにない。しかしその目はまだ、魏玲を捉えて離さない。

「魏玲、殺す」

その声は震えを帯び、とっくに力を喪っていた。代わりに甲高い呪詛の声を上げるのは、今や蜃玉ばかりになってしまった。

「そうだよ、殺すんだ。おい白魏玲、お前、憎くないのか。この男はお前を殺してやると言ってるんだぞ!?」

聞くな、と言う風に、虎千代は何か言い返しかけた魏玲を手で制する。その魏玲にももちろん、分かっていた。ここにいる誰もがもはや、心から分かっていただろう。

蜃玉と言う呪いの、紛うことなき正体を。

憎しみ、恨み、嫉み、怒り。それこそがただ、この蜃玉を産み出した呪いの本体なのだったのだ。

「そうだよ…殺すんだ…それがお前だ、さっさと立てよッ立てッ!ほらッ」

蜃玉が、蛟竜に虚しく呪詛を注ぎ続ける。蛟竜の瞳はそのたびに反応するのだが、もはやその身体は指一本動かすことすら苦痛と言う感覚を越えて、すでに自律性を欠いていた。

「立てって!早く立てよッ!お前のせいだッ!お前のせいでわたしはここにいるんだッ!だから早く立てッ!立って殺せ!立てってばッ!」

だが蛟竜は立てない。それは誰が見ても、判るはずだ。蜃玉にだって、理解できないはずはない。しかしだ。そうせざるを得ないのだ。それがこの、蜃玉と言う存在の意義そのものなのだから。

もう、口に出すのもうんざりするくらいだが。

その光景が僕の目にはすでに、敵ながら痛々しいものになりつつあった。

「蜃玉よ、諦めるがいい。その男を休ませ、お前も消えるのだ。それが、今の苦しみから逃れる唯一の方法ぞ」

「ふざけたこと言うなあッ!苦しみから逃れるだって?調子よく言いくるめようとしてんじゃねえよ!要はわたしに死ねッて言うんだろッ、ぶってんじゃねえぞッ!?わたしはな、こいつだけじゃないお前らの中にもちゃあんといたんだッ!今さらかっこつけんなッ!」

僕たちはすでにこの蜃玉に与えうる言葉もない。

「魏玲!それに真人ってガキも、わたしに呪われたお姫様も、そして他のお前らっ!お前ら全員、人を憎んだことがねえッてのか?お前たち、今まで一度も誰かを敵だと思ったことないってのかッ!ふざけんなッ!って思ったこと一度もないってのかッ!?」

「あるさ、人は皆、怒りと憎しみの種を抱えて生きている」

虎千代は蜃玉の言葉が終わるのを待って静かに、諭した。

「逃れえぬ運命に陥り、自らが抱えきれない苦痛にも、堪えがたい怒りにも、人は飲み込まれるものよ。誰もがそれを拭い去れるとは言えぬ。されどだ。わたしはどうあろうと、信じることにしている。まずおのれを信じれば、わたしたちは我に返ることが出来る、と。どこかで立ち止まって今一度、おのれを再び信じる勇気さえ持てば、人に自分の苦しみをぶつけずとも前を見て進める。それがわたしがこの人間(じんかん)戦場を往来する中で得た、一つの光明だ」

「っっるせえよ!?吹いてんじゃねえよ!?」

「綺麗ごとと思うか。されば、括目してよく見るがいい。今、ここにいるか?お前に受けた仕打ちを心から恨んで、お前を滅してやろうと考えているものが?」

はっ、と目を見開いた蜃玉は息を呑んで、僕たちを見渡した。虎千代の言う通りだ。そこには、蜃玉を悪逆と目して、それを滅ぼしてやろう、などと考えている人間はいないはずなのだ。

「お前ら…わたしが憎くないのかっ!?どうしてだッ、わたしはお前たちを憎んでいるんだッ!魏玲、お前は憎いだろ!わたしがお前の人生丸ごと滅茶苦茶にしたんだからなっ!?」

「蜃玉、ワタシもアナタのこと、憎んだりしない」

きっぱりと、魏玲は言った。その言葉に嘘はなかった。

蛟竜に運命を翻弄された彼女ですらが、蜃玉を恨むことをせずにそこにいる。魏玲はむしろ憐れんでいたのだ。誰よりも深く、そして強く。それは前に進む自分に希望を持っているからに他ならない。そして敢え無くも衰亡の危機に至った絶家道家二家を、自らが再び導く覚悟を決めたからに違いない。

その巨大な感性は、あの信長の身に秘めた怒りですら、大らかに包んでいる。魏玲が取り戻した誇りと、意志の力に護られて僕たちはここまで到れたのだ。虎千代を、取り戻すことが出来たのだ。確信を持って今なら言える。

「嘘だ…」

蜃玉は(おこり)を患ったように、声音を震わせた。

「嘘だッ!嘘だ嘘だ嘘だッ!お前たち、ふざけるなッ!そんなはずはない…そんなはずはないッ!わたしが憎いから、わたしを殺すために、お前らはそう言うことを言ってるんだ!絶対そうだ、そうに決まってるんだ!」

「玉晨」

恐怖に目を剥く蜃玉を前に、魏玲はその名を、ついに口にした。

「あなたは玉晨でしょう。白家の人間として、ワタシにもアナタを犠牲にしてしまったと言う責任がありました。アナタの命に、ワタシ、謝ります。だからもう赦して、玉晨。ワタシを赦せなくても、せめてアナタの兄、蛟竜のことを」

その瞬間だ、蜃玉の口から魂切る絶叫がほとばしったのは。

「うわあああああああああああああああああああっ!うわあああああああああっ!うわあああああああああっ!」

それは悲鳴ですらなかった。獣の咆哮、などと言うのすら生温い。そしてそれは確かに、人の声だったのだ。しかしながら人が声を出すときは当然含まれる、ある種の性別性、抑制力、それらを働かせる理性と言うものをすべて()しさって出た、ただの一色が蜃玉の口から、ほとばしりでたものの正体だった。

声を絞り出すと蜃玉は頭を抱えて、うずくまった。身を(よじ)って崩れた。まるでチューブを絞り切った、絵の具のように。

「もうやめましょう、玉晨」

魏玲は痛々しく表情を歪めると、倒れ込んだ蜃玉を慈しむように手を差し伸べた。

「アナタも十分に苦しんだ。でも、手遅れじゃない。アナタを苦しめた絶家の悪縁から、今、解き放ってあげる」

「寄るなよ」

冷たい声だった。魏玲もさすがにぴたりと動きを停めた。

「誰が玉晨だ…玉晨って言うな…殺すぞ」

ナイフの刃が魏玲の前に、差し出された。

「もういい。誰もやらないなら。わたしがお前を殺してやるよ」

蜃玉の声は、深山の洞窟よりもなお濃い漆黒の酷寒に冷えていた。

この期に及んでなおだ。蜃玉の眼差しは、深い奈落の底へ突き抜けたかのような狂気が棲んでいたのだ。

「死ねえええっ魏玲」

腰だめに突進してくる蜃玉に、無防備だった魏玲は何の防御反応も取れなかった。魏玲が刺される。僕は、息を呑むばかりだった。

しかし虎千代が、その殺気を読んでいなかったはずはなかった。

横合いから鞘を振り上げ、突進する蜃玉の身体ごと一閃、吹っ飛ばしたのだ。鞘とは言え、虎千代の斬り上げの威力は、その体格からは想像も出来ないほどに強烈な斬撃だ。バランスを崩した蜃玉の身体は仰向けに倒れ込んだ。それでもはや、十分だった。

僕たちは憎しみそのもので出来た彼女を、同じ憎しみで塗り潰して、破滅に追い込む気など一片もなかったのだ。しかし魏玲が殺されそうになったことで、過敏に反応したもう一人がすでに行動していたのだ。それはもちろん、魏玲を救おうとした、信長だった。

「何するのっ、信長サンッ!」

僕の背後にいたので、気づくべくもない。絹を裂くようなラウラの甲高い悲鳴が、辛うじて僕に事態を告げただけだ。

そのときには信長の銃は装填を完了して、容赦なく引き金を絞っていたのだ。

気づけば破壊的な炸裂音が、すでに惨事を引き起こしていた。

弾丸が顔のすぐ近くを掠める不穏な風切り音と、重量を持った肉体が爆ぜる鈍い音を、僕ははっきりと訊いた。

蜃玉じゃない。

弾丸を受けたのは、魯蛟竜だったのだ。


聞き間違いではなかった。

撃たれたのは確かに、正真正銘の肉を備えた人間の肉体だった。今の一瞬、魯蛟竜が死力を奮って立ち上がると、なりふり構わずに虎千代と、蜃玉の間に割って入ったのだ。蛟竜にしてみれば、虎千代から蜃玉を守るためだったに違いない。皮肉にも、信長が撃った銃弾は、その蛟竜の肉体に致命傷として叩き込まれたのだった。

弾丸は心肺をわずかに逸れたが、鎖骨の下に飛び込んで肋骨をへし折っていた。

蛟竜(ジャオロン)!」

つんざくような悲鳴を上げたのは、魏玲だ。

「無事か、玉晨」

しかし濁った蛟竜の目には、魏玲は映っていなかった。首をひねって、蛟竜は自分が守った背後を案じたのだ。

「もう大丈夫だ」

この一瞬、蛟竜は確かに、こう蜃玉に呼びかけたのだと言う。

「長い間、独りにして本当に済まなかった。おれはずっと、お前を、守ってやりたかった」

小玉。

それから倒れた。そのときには、もはや意識はなかった。それでも手を尽くそうと、魏玲が、ラウラが駆け寄り、その身体を支える。

僕たちだけだ。虎千代と、晴明と。僕は蜃玉はナイフを取り落して、おろおろと首を振っている様を見届けていた。僕たちや魏玲が、言葉を尽くしても分からなかったものが、今ので分かったはずだ。どんな言葉を受けても響かなかった、彼女自身にも確かに、そう認識したはずだった。

もはや悪意でも、蜃玉でもない。

魯蛟竜はあの瞬間、身を挺して妹の玉晨を守ったのだ。

「なんでだよ…?」

彼女は思わず、当惑の言葉を口走った。

「…わたしは、もう玉晨でもない。蜃玉ですらない。ただの悪意だ…お前が産みだした悪意なんだ。それが、それがッ、どうして…蛟竜…」

蜃玉は目に涙を溜めて、何度もかぶりを振った。その邪悪な表情はなりを潜めていた。ただそこには、迷い子のように頑是ない少女が途方に暮れている姿があるばかりだった。

晴明は水干の裾を翻すと、その少女を導くように立った。

「もう、分かっているはずだ。お前と蛟竜が、憎しみの裏に隠して、希求してきたものが。それは誰からも奪って手に入れるものではない。お前と、蛟竜だけのものとして、もう、気がつきさえすれば、いつでもそこにあったものだ。その尊さを、よく噛みしめるがいい。お前の呪は、それでこそ解けるのだ」

「わたしは…わたしは…ッ!」

声を詰まらせて、ついに彼女は崩れ折れた。

そこにいたのは、やはり玉晨だったのだろう。彼女に出来ることはもはや、泣くことだけだった。物言わぬ蛟竜に自らの気持ちの丈を訴えようと、彼女は声を上げて泣いた。力の限り泣いた。それは、希ったものに心が満たされた人間の声だった。憎悪に名を借りた、恐怖と苦しみから解放され、救われえたものの安堵の声だった。

血と死の夢寐に、たゆたう蛟竜の耳にもそれは、確実に届いたはずだ。

「さあ、お前の宿世の縁を断ってやる。今度こそ、幸せにゆくがいい」

晴明は二指を立てると、呪を唱えた。

「お前に与えられた本来の名と、その名に与えられるべきだった、愛惜の情に包まれて逝け。真に慈しまれ、悼まれるべきもの、()は」


玉晨。


晴明のその言葉が、再び現世に意味ある形として結ばれた瞬間、少女の姿は光の衣をまとって消えて散っていった。彼女を包んだのは初夏の陽だまりのように麗らかな、まばゆいばかりの光の幕だった。

僕は見た。そこにいた、魯家の怨霊を装った玉晨の姿が、みるみるうちに稚い少女に立ち戻っていくのを。そのとき僕は思った。他の誰もがそうであるように、彼女も、生まれながらにして生きているそのこと自体を、もっと祝福されるべきだったのだ。

「来世こそ、良き縁に恵まれんことを」

そのとき、傍らでかすかな声で成仏の偈を捧げていた虎千代が、まるで僕の気持ちを代弁するかのように悼む言葉を捧げるのを訊いた。いや、それはもう僕だけの言葉じゃなかった。まさに僕たち全員が玉晨を悼む言葉だったのだ。


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