魯家最大の怨霊に敗亡の危機!絶望の真人、突破口は…?
悪意、と少女は名乗った。
「何だって…?」
僕は今、果たして現実の世界にいるのだろうか。むしろ正気の方を疑うようなこの世界で、その更なる果てに飛ばされたような気分で僕は、その言葉の意図するところを把握しようとした。
「悪意…?」
「悪意です」
押し被せるように、少女は言った。それは今更なにを、と言わんばかりの口調だった。
「そやつは別段に、嘘は言うておらぬのよ」
少し掠れた声で、晴明が口を開いたのはそのときだ。
「確かにこやつを産んだのは玉晨であり、妹を桃娘として料った蛟竜であっただろう。しかし玉晨の肉が喪われ、こやつが神仙としてこの世に飛び出たとき、それは他のどのような存在でもなくなった。こやつはいわば魯家の宿業の抽出物よ」
「あの子は確かに、玉晨でも、蜃玉ですらもありません」
魏玲もかすかに頷き、晴明の言に和した。
「本質的にすでにそれとは別のものです」
少女は小さく、首を傾げた。その白皙の表には、驚くほどに感情の色の影も形も浮かんでいない。たった今色づいた花のように無垢だった。これが果たして、この少女が自ら謂うようにそのどす黒い悪意、と言う言葉そのものなのだろうか。
「お二人のおっしゃる通りです。わたしは、自分が生まれたときのことを憶えています。そして誰もがわたしを知っている。そのはずでした。しかし不思議なことに、わたしにはずっと本当の名前がありませんでした。わたしはいつも、あなたたちの傍にいたのに誰もが、わたしにそれにふさわしい名前を、与えてはくれなかった」
「玉晨」
「ほら」
見て下さい、と言うように、少女は自分の足先にすがりつこうとする蛟竜を見下した。
「この人にとっては、いつまで経ってもわたしは玉晨。そこはわたしが生まれた場所、ただそれだけのはずなのに」
「アナタは、玉晨なんかじゃない」
「そうですよ。わたしは皆さんの悪意ですから」
少女はむしろ澄み切った瞳のうちに当惑する魏玲を捉えて言った。
「この蛟竜と言う男は、あなたを心の底から憎んでいます」
と、少女は熱のない口調で断言した。
「自分の力だけでは、どうしてもあなたに勝てないからです。あなたのように自分が一族の期待を追っていても魯家の筆頭になれず、それが悔しくて言われるままに自らの妹を最終試験の料理のために殺して潰しました。わたしは玉晨の中から生まれ、その一部始終を知っていました。蛟竜は後悔をし続けて生きてきました。だって蛟竜はたった一人、玉晨と言う妹を愛していたから。それなのにあなたが羨ましくて、妬ましい限りに殺してしまったんです。それでもね、自分の中でどうしてもそれを認めたくなかったのです」
「玉晨…小晨…赦してくれ…赦してくれ」
少女の足にすがりついてさめざめと蛟竜が、嗚咽を漏らしながらかきくどいているのを魏玲は何とも言えない表情で眺めていた。その光景はただ、無惨なものでしかなかった。
「彼は苦しみました。苦しみ続けました。望み通りに魯家の筆頭になって、玉晨の料理で長老を脅迫し、魯家を牛耳っても。ちっとも心が晴れない。それどころかこんなに苦しいのは、どうしてだろう。そうだ。それはまだ、白魏玲、あの女がいるせいだ。地を這うような屈辱と、身が切れるような絶望を味わいつくした自分などものともせず、あの女はなんの苦労もなく、なんの呵責もなく、なんの犠牲もなく、ただ生まれながらに道を知ると言うだけで自分と同じ座にいる。あの魏玲がのうのうと生きているせいで自分の苦しみは癒えることがないのだと。だから自分はこんな、どす黒い闇の中であてもなくさ迷わなくちゃいけない。それはみんな白家の魏玲のせいなのだ」
少女の独白の声が降り積もる。と、泣き崩れんばかりに嗚咽していた蛟竜の動きが、ぴたりと停まった。少女はそれにさっき蛟竜自身を刺した血まみれのナイフを渡した。
「俺の望みは」
うつろな声で、蛟竜が言ったのはそのときだった。蛟竜がナイフをとって立ち上がったのだ。腹を刺され、床に血を滴らせながら。自分を刺した凶器を握り締め、ふらりとこちらへ向き直った。
「それは魏玲、俺の人生をかけてお前を苦しませることだ。それ以外には何も要らない。魏玲、俺はただお前が憎いだけだ」
魏玲がはっ、と悲鳴をやっと腹に呑み込むのが分かった。憎悪が。その昏い熱を帯びた蒼い火が、どよどよとおぼめきながら、蛟竜の目には灯っている。
「…やめて蛟竜」
それは思わず、魏玲ですらも気圧されるほどの狂気だった。今にして僕は判った。魯蛟竜は狂っている。しかし狂っていたのは、魯家と白家、両家を虐げて牛耳るなどと言う野望のせいでは決してなかった。それは人智で解しうる。僕たちにも、なんとか理解できる。
しかしそれは皮相な見方でしかなかったのだ。
何より。この男を衝き動かしているのは、形振りも構わない魯家の宿業への甲斐のない憎悪への執念ばかりだ。もはやなりふりの構わない妄執と言ってもいい。蛟竜はそれを魏玲への嫉妬と恨みへ転嫁しているだけなのだった。
「殺してやる」
うつろな声で言うと、蛟竜はナイフをぶら下げたまま、彼女へ歩み寄った。恐ろしいほどの呪詛の念を受けて魏玲はただ、無惨な顔でそれを見守るしかなかった。
「わたしは」
どうすれば良かったの?彼女の顔は雄弁に、次に飲み込んだ言葉を語っていた。口にされなかったそれは、ただただ謂れなき他人の汚わいを被った魏玲の、戸惑いと恐怖を現したものだった。
「魏玲、あなたもわたしの力になってくれました。さっきわたしが蛟竜を刺したのは、あなたの悪意ですよ。あなたは思いました。白家の一族を人質にとられ、魯家の女たちに婢同然に虐げられ。自分だけがどうして、こんな思いをしなければならないのか。いっそ何もかもを棄ててただ、この蛟竜と言う男をいっそ殺してしまいたい、と」
「やめて!」
魏玲は美しい顔を歪めると、ついに悲鳴を上げた。
「思ってない…ワタシ、そんなこと…思ってないっ!」
「思ったはずです。だってわたしは皆さんの、悪意なのですから」
「猪アアアアアッ!」
蛟竜が野獣の咆哮を上げて魏玲に躍りかかったのは、そのときだ。もはやこの男は憎悪に酔い、他のほとんどの理性を喪っていた。その、そこばかり白く潤んでぎらついた瞳には目の前の魏玲しか映っておらず、そこには今、自分を刺したナイフを、魏玲の身体に突き立ててやりたいと言う、昏い欲望の火しか見えなかった。
僕は確かに見た。
刺したのはあの少女なのだ。
しかし蛟竜にとっては刺したのは、紛れもなく魏玲なのだった。
「俺を刺したな!魏玲ッ、お前俺を刺したなッ!バラバラに切り刻んでやるッ!」
捨て身の猛攻をいくら魏玲とは言え、容易にいなしきれるわけでもない。二人は揉み合ったまま、外へ転がり出た。御簾が倒れる。そこで押し倒された魏玲に向かって、蛟竜は渾身の力を籠めてナイフを突き立てた。刃は岩場を掻き、火花を散らした。金臭い焦げた臭いばかりが辺りに満ちた。
「見ましたか」
少女はくすくすと、笑っていた。それが山で小動物の狎れ合いを眺めるかのような、無邪気と言う他ない笑みなのだ。
ただ一点、それが異常なのは清かに濡れるはずの少女の瞳に、ぽつりと常軌を逸した炎熱が灯っていることだ。少女は蛟竜と同じ目をしていた。いや、蛟竜が少女と、同じ目になっていた、と言うのが正しいのか。
目の前のそれは、ただ姿かたちは少女だ、と言うだけで後はひたすらおぞましい存在だった。彼女は自分を悪意、と謂う。まさに比喩でも、なんでもない。確かに彼女はそれそのものなのだろう。
吐き気がする。
そこには魯家が産み出した、悪意の化身そのものが辺りにどす黒い呪詛と瘴気を撒き散らしながら、澄まして立っているからだ。
「何が…お前の目的だ」
大きな疲労と徒労を予感しつつも、僕はそれを口に出さずにはいられなかった。
「何が目的か、と聞きましたか?」
少女は首を傾げると反問してきた。
「悪意に、目的などありますか?悪意は、ただそこにあることを望むだけです。人がそれを晴らそうと人を憎み続ける限り、わたしはそこにあって育つことが出来る。生き永らえることが出来る」
僕は愕然とした。目の前にいるこの少女は、果たして僕たちと同じ生きものであったのだろうか。なぜならこれほどのことをしておいて、この人の世の野望など、ちっぽけだとでも言うように悪意、と言う少女は平然と言うのだ。
「ふん、御大層なことを言う割には、蛆虫がごとき本性よの」
皮肉を刺した晴明を、少女は初めてそこにいることを知ったかのような目で捉えた。
「そのお前に、名を与えたのはこの私だ。形無き悪意にて人心の業を肥らせ、おのが糧となす、おのれのような存在が蔓延るを、黙って見過ごすわけにはいかぬな」
「わたしは消えませんよ?」
左手で印を切る晴明を前に、少女は意外そうな口調で言った。
「あなたこそ、今のわたしを見て無駄だ、と言うことが分かりませんか」
少女が言った瞬間だった。
その身体から円心状に、紫色の見るもおぞましい波動が拡がったのは。僕の身体は問答無用の力を受けて吹っ飛ばされた。なすすべもなかった。本来なら実体なき、ありうべからざるものの力を僕は見くびっていたのだ。
「うわっ」
まるで突然、絶叫マシンに乗せられたようなものだ。抗いがたい目の見えぬ力に圧され、僕の身体は窟の外へ一気に飛び出していった。
「ふふふ」
どうにか受身をとった僕の前に、少女はしずしずと歩み寄ってくる。
そのとき僕は見た。
小さな彼女の背後にまるで入道雲がそのまま降りて来たかのように、どす黒い途方もない何かがまとわりついているのを。
「不思議でしょう」
少女は薄く唇に笑みを湛えて言う。
「わたしは、あなたに憑いている、その方と同じです。でもこうしてあなたたちに障ることが出来る。なぜだか分かりますか?わたしは、皆さんだからですよ。当然」
あなたの中にもわたしはいます。
少女は僕を指さして、はっきりと断言する。
「なにを、言ってるんだ…?」
僕にはもう、分からない。
これが果たして現世の出来事なのか、誰かの悪夢の中で造られた、常軌を逸した世界の出来事なのか。
「お前は魯家の悪霊だろ?…僕の、中にいるわけないじゃないか」
「悪霊ではありません。悪意、なのです」
念を押すように少女は言うと、自分の胸の辺りに手を当てた。その瞬間だ。僕の鳩尾の辺りがずんと重たいもので突き上げられるようになり、思わず身体が跳ね上がったのは。
「わっ」
押し殺した悲鳴が漏れた。胸が、いや、心が苦しいのだ。息が詰まるような、毒性のえづきに侵されたように。
「ほら、いた。あなたの中にでも、どこにでも」
少女は満面の笑みで瞳を細めると、辺りを見回すような仕草をした。
ちょうど濃霧が晴れて、戦闘はすでに佳境だ。
入り乱れる人たちのそのただ中に、魏玲と正気を喪った蛟竜が激しく争っている。蛟竜の瞳はもはや、殺意の淀んだ色しか、映っていなかった。自分が殺そうとしている魏玲と言う人間が、自分にとってどんな人間だったか、それも分からないほどに、その相貌は狂い歪んでいた。
「塊塊塊ッ!」
息もつかせずなりふり構わない矢継ぎ早の攻撃は、魏玲とて中々反撃に転じられるものではない。魯蛟竜は狂っているのだ。魏玲の牽制の一打を受けても、ものともせずに突進してくる男の呼吸こそ、さすがに測り難かろう。
大ぶりの一撃をいなしたとき、魏玲の手のひらに一筋、血の線が走る。ついに蛟竜の狂気じみた連撃に、圧され始めたのだ。
「唖イイッ」
いきなり殴った。蛟竜の拳に型など何もない。ふいを打たれた魏玲は拳をまともに受けて、吹き飛んだ。その身体めがけて、蛟竜は渾身の力でナイフを突きこもうとする。
「魏玲ッ、うつけめっ何をしておるかッ」
信長があわてて追いすがろうとするが、こっちも青蛟と交戦中だ。不覚にも背を向けようとした信長に、青蛟は全体重を預けた渾身の一撃を叩き込む。
火の粉を吹いて刀身が撓み、受け止め損ねた信長の額に血が滴る。
「こんなときに、よそ見か」
青蛟は、鉄鎚でも叩き込むように山刀を撃ちこんでくる。微妙な刃こぼれや刀身の曲りに気を遣わなくては使い物にならなくなってしまう日本刀に対して、全くの遠慮なしだ。
しかも青蛟の間合いも攻撃のタイミングも、信長が避けようとするほどに予想を超えて伸びてくる。青蛟の長身は痩せているが、蛇のようにしなやかに伸びる筋肉によろわれているようだ。そのために日本刀では考えられない角度の斬撃でも、十二分に威力を発揮してくる。
「くっ」
その刃圏から、信長は彼方に吹き飛ばされた。その刃圏の中に踏み込む術は今の信長にはない。
「青蛟、その子は殺せそうですか?」
「蜃玉様、ご心配なく。これ以上、あなたの元には誰一人近づけさせません」
なにげなさそうに話しかけた少女に、青蛟はかしづくような声音で応じる。
「あの子が憎いのですね?」
少女が尋ねると、青蛟は間髪入れずに頷いた。
「ええ、あの小僧は、おれの妹を撃ちました。おれを殺すために人質にしておびき出そうとしたんです」
青蛟が憎悪を吐き出すと、少女は華が咲いたように笑った。
「そうですか。では気の済むまでやりなさい」
「あいつを、殺してやります」
少女の声に、大きく首を縦に振った青蛟の目の色が変わったのが、僕にも見て取れた。そのとき分かった。この少女が自分を悪意だと言った理由が。
彼女は呼び覚ますのだ。人の中から、最も醜くどす黒い感情を。魯蛟竜をそうして狂わせたように。
「殺アアアアアッ!」
青蛟は人間とは思えぬようなうなりを上げるとまだ立ち上がりきれていない信長に、殺到する。それを思わず助けに入ろうとしたのはラウラだったが、彼女とて、自分よりはるかに間合いの広いタングを携えた翠蓮を前に、苦戦の真っ最中だ。
「蛟華、殺したのお前だろ」
ぼそりとつぶやく翠蓮の目にも、青蛟と同じ狂気じみた殺意が灯っていた。その瞳にはもはや、ラウラしか見えていなかった。
「蛟華、撃ったのワタシじゃない」
「いや、お前でいい。お前に決定、まずはお前からバラす」
翠蓮は信長に駈け出そうとするラウラの線上に割り込んで、容赦なく牽制する。
タングの基本攻撃法はごくシンプルだ。長柄を大きく撓らせ、翠蓮はラウラに叩きつけるように攻撃する。真ん中に穂が突いているので槍のように突く動作が決定打だが、その目的は両端の月牙を使って、ラウラ自身の身体を捉え、振り回すことにある。
その型は日本の十字槍とも似るが、それともまた少し違う。
このタング、対倭寇無敵を誇ったと言うが、その海戦での強さの秘密はそこにあるのだろう。
以前詳述したが海上の勝負では、バランスの悪さが一番の命取りになる。どれほどの武術巧者であろうとも、甲板で足を滑らせたり、または海中に突き落とされたりすれば、それだけで命取りともなり兼ねないのだ。いわばバランスの崩し合いが、海戦の攻防では肝になると言っても過言ではない。
そのため、ラウラのレイピアのように、まめぐるしく動きつつ、相手を翻弄するのも一つの手だが、タングのような長柄を使い、自分は重心を保ちつつ相手を操る技も、十分に有効性を発揮しうる。
どころか、軽装武器を駆って相手の船に乗り込んでくる倭寇たちにはこの戦術が、最高の対応策になったのだ。重心を保ちつつ、相手の間合いに入らず、飛び込んでくる相手を牽制できる。まさに海賊殺しの武器なのである。
この間合いでは日本刀ですら、相手に刃を届かせるのには、相当の奇策を使わざるを得ない。
それでも虎千代なら、古流剣術各流派にも伝わる槍外しの秘伝を心得ていたかも知れないが、日本刀より薄く、さらには寸の短いラウラのレイピアでは間合いも足りない。後手後手に回るのは目に見えていたことだ。正攻法では、太刀打ちできない。圧倒的に手が合わないのだ。
「ちっ、霧が晴れてきやがったですにぇ!」
蛟竜が連れて来た大人数を相手に蝸竜舌を駆る王蝉も、ラウラを援けに出る余裕がない。
なんと言うことだ。
(これはまずい)
不覚にも僕はそこで、初めて気づいた。
戦線は、これだけ逼迫していたのだ。
僕が蜃玉を見つけるのに夢中になっている間に。
このまま全員が限界まで戦ってしまったら、多勢に無勢の物量に押し潰されてしまうだろう。
虎千代ならここで、自ら剣を駆って斬りこんで戦局を打開出来たはずのに。いや、あいつならそれ以前に、物量で迫る蛟竜たちの利を封じ込めて、圧倒する策を用意していただろう。僕ではやはり、駄目なのだ。いつもあいつの傍で薫陶を受けていながら、虎千代とは違う、戦国時代に流れてきたばかりの、ただの高校生の僕では。
「馬鹿者」
最悪の事態への恐怖に、へたりこみそうになった瞬間だった。
いつになく厳しい晴明の叱咤が、僕の耳朶を強く打った。
「つまらぬ敗亡の予感に、浸っている場合か。お前のいくさは終わっていまい。虎姫も、魏玲もお前を信じただけ損か?あれだけ皆を焚きつけておいて、お前は、土壇場で自分の無力さを嘆くだけの男なのか?」
前を見ろ、と晴明は謂う。
「お前の相手は誰だ?まず、お前が何とかすべきは何者なのだ?」
前を見ろ、と言うように、晴明の指が僕の見るべき方向を指し示す。
「何とかする、そう言いましたか?わたしを、何とか、すると。それは、おかしな話ですねえ」
くすくすと、少女は笑うと、僕に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。
「言ったはずですよ。わたしは魯家の怨霊でも何でもありません。ただの、どこにでもある人の悪意だと。つまり、わたしはあなたでもあるんです。あなたも人間です。これまで生きていて、誰かを憎んだことが一度でもないと言い切れますか?」
答えられなかった。ただ、かぶりを振るしかなかった。僕は、人をこれまでただの一度も憎まなかったなどと言うことは決して言えない。誰でもそうだ。でも蛟竜のように人を憎んで呪って、自分の痛みだけをぶつけて、ただそれだけで僕たちは生きてはいない。誰もが人と、憎しみ一色だけでつながってはいない。そのはずじゃないか。
「強情な方ですね。いいと思いますよ。無理しないで、もっと自分に正直になったって。見て下さい、皆そうしてるじゃないですか?」
無邪気に辺りを見回す少女に、また一歩、気圧された気すらした。僕は本能的に悟った。さっき見た時より、大きくなっているのだ。目の前の少女が現実に及ぼす影響力が。蛟竜を刺し、僕と晴明を吹っ飛ばしてみせたときから、際限なく巨大に。
それは本来、この小さな少女の姿じゃないのだ。もっとこの空間一杯に蔓延するような途方もなく巨大で、おぞましい存在なのだ。
今や悪寒は限りなく、熱病に近いものになった。南陽に焙られて甘く爛れた果実の腐敗臭を嗅ぎながら僕は、自分の身体を支える感覚を見失って震えていた。
「あなたは蛟竜を憎んでいたはずではないですか?忘れてしまいましたか?」
おかしいですね、と言うように小首を傾げると少女は視線を外した。
僕の視線も、なぜかそちらへ移る。
そこでは狂気に満ちた蛟竜が、得体の知れない咆哮を上げながら魏玲の首を絞め上げようとしていた。理性を喪った蛟竜の指が白い頸に喰いこみ、魏玲は激しく咳き込んでいる。彼女が美しい顔を無残に歪めるたび、五爪の龍の刺青が苦しげに撓んだ。
「蛟竜に生きながら苦しめられている魏玲に、同情したのでしょう?蛟竜を殺しに、あなたはここに来た?そうだったのではないですか?」
「違うさ」
僕は突き返すように言った。
「答えるな」
なぜか晴明が刺すように、諌止したのも訊かずに。
「確かに蛟竜は許せない。でも、僕は蛟竜を殺してやろうと思って、ここへ来たんじゃない。お前を探しに来たんだ」
「わたしを探すのは、魏玲を救うために、蛟竜を倒すためではなかったのですか」
少女は無垢な口調で言うと、僕に向かって何かを差し出してきた。僕はぎょっとした。いつの間に拾ってきたのか、それは禍々しい光を放つ刃物だったのだ。龍魚が持っていた、魚の背びれを模したナイフ。
「このままだと、魏玲は蛟竜に絞め殺されてしまいますよ。それを、あなたは黙ってみているのですか?」
少女の誘いは看過できない切迫感を増していた。だってだ。蛟竜に圧し掛かられ、苦しげに呻く魏玲はもはや顔色が変わりかけていたのだ。蛟竜は持てる力の限りに、両手で魏玲の頸を握りつぶそうとしていた。
「さあ」
少女はナイフを勧めてきた。もはや一刻の猶予もないと言うように。
「何を躊躇しているのですか?」
魏玲が死にますよ。
少女はこともない声で、僕に言うのだ。
これで、二人の間に割って入れと言うのか。僕が、蛟竜を刺す。それしかないのか。魏玲は蛟竜の下で身を揉んでいるが、もはやその抵抗も風前の灯火だ。信長も、ラウラも、王蝉も、あそこに助けに入れる余裕はない。
「ああ、あなたは魏玲の命が大切ではないのですね。そうですよね、じゃあ、いいことを教えてあげましょうか。魏玲が死ぬとどうなるか」
刃物を勧める少女は瞳に邪悪な色を灯して、僕を見上げた。
「魏玲が死ねば、当然、同じ呪いを受けている人間も死にます。虎千代さん、でしたっけ。あなたの大切な人ですよ。あなたは本当はその人を助けに、ここへ来たのでしょう。いいんですか?その人が、永久に喪われても。あなたが蛟竜を殺せなかったせいで、ただそのせいで、彼女が喪われても」
「虎千代」
そんなの駄目だ。
僕はナイフの柄に向かって、手を伸ばした。
その一瞬だ。
誰かの声がした気がして、はたと我に返った。
今のは、誰だったのか。分からない。だがひどく、懐かしい声だった。その声の面影が、窒息しそうにまで張りつめた、僕の緊張をぷつり、と断ったのだ。
僕は命を救われたような気分になって辺りを見回した。
「こっちを見なさい」
ナイフを持った少女が強く舌打ちして、少し焦れたのが分かった。
「よそ見をしている暇があるんですか?何をしているのです。今、窒息死する魏玲を助けられる人間はいないんですよ。馬鹿なことは考えないで、今、この場を見ないと後悔しますよ」
すると決行を促すように、少女の声が耳朶を打つ。
必死の魏玲と揉み合う蛟竜はまるでこっちを見ていない。背中ががら空きだった。
「今です。さあ、これで刺してください」
僕は言われるまま、龍魚が研ぎ澄ましたそのナイフに再び手を伸ばそうとした。
そのときだ。
「真人」
彼方から響いてくる晴明の声に、僕は息を呑んでその手を止めた。急に視野が、ぐんと立ち戻って広くなったように思えた。それは僕がその刃の柄に触れるすんでのことだ。
「馬鹿め、答えるなと言っただろう」
叱咤する晴明に、僕はおずおずと頷いた。
そうだ。今、僕は晴明に、諱を呼ばれたのだ。瞬間、ぶるっと、僕の身体の中核が強烈な波を打って震えた気がした。助かった。僕もすでに呪の中に取り込まれていたのだ。この目の前の少女の姿をした魔物に。
「もう駄目かと思ったぞ。あやつの言霊にあてられて、すっかり虜にされおって。私がお前の諱を使って呼び戻すのも、聴こえてはいなかっただろう」
本当に危険だったのか、晴明は大きくため息をついた。
「一体どうやって戻ってきたんだ?」
僕は首を傾げた。本当に不思議だった。あそこまで呪に囚われていて、どうして再び晴明が呼ぶ声を聴くことが出来たのだろう。まあこの大陰陽師に分からないことが、僕に分かるはずがないが。
いや。
「声…」
そうか。僕は、何もないはずの宙を見渡した。聞こえたのだ。僕の迷いを断ち切った、その声を、はっきりと。まさか、そんなはずはないのに。
「ふん、つくづく下衆な呪よ。お前を名付けた身ながら、反吐が出るわ」
どうにか僕を呼び戻した晴明は、僕と少女の間に割って入る。
「私がいる限りは、真人にお前の呪はもはや通用せぬぞ」
すると、少女の表情が停まった。その憎悪に満ちた目が、僕を守った晴明を真っ直ぐに見たのだ。
「はっ!はははははあっ!だから、どうしたと言うんですかっ!?なアにをッ!偉そうにッ!」
晴明の挑発に、少女は初めて感情を炸裂させて表情を歪めた。それは花木も一瞬で腐り落ちるような、この世のどのような人間にも浮かべることの出来ない、どす黒い憎悪を満面に湛えた表情だった。
「そおーんなちっぽけな小僧一人、わたしの手から護れたからと言ってねえ、威張らないでくれますかあ?いいかい、よく聞けよッ!?ほうっておいたってねえ、あんたらさあ、とっくに詰んでるわけ!?あんたさあ、どうにか出来るの!?この状況、全部!全部!」
きゃはははははっ、少女は毒々しい笑い声を上げながら、袖をくるくる翻して辺りを逍遥した。
確かに状況は一向に打開していない。
魏玲は蛟竜に、絞殺されようとしている。信長もラウラも王蝉も、いまだに交戦中だ。僕がこの少女に操られなかったとは言え、僕がはかばかしい手を打てなかったせいで、現実的に戦況の悪化は拭いがたいところまで進んできているのだ。
「だから血迷うな、と言うているだろうが」
と、晴明が僕の危惧を壟断するように言った。
「お前は武器をとって戦えるのか?お前の役目は、それではあるまい。自分で言ったではないか。あの虎姫を、助けられるのはお前だけしかいないのだ」
晴明は水干の袖を翻すと、少女の前に立ちはだかった。
「お前さえいれば、私の術は効く。こやつとて例外ではないのだ」
「術が効く?わたしに、ですか?あんたの術が、なんだってッ!?」
少女は大声で喚くと、漲る力を解放した。放射状に広がったその力は、爆風のように、すべてを吹き飛ばした。蛟竜と魏玲も揉み合ったまま飛んでいた。群がっていた人の波が弾けて、そこだけぽっかりと穴が開いたように見えた。
僕は。
晴明とともに留まっている。晴明があの瞬間、結界を張ったのでどうにか、踏ん張れたのだ。
しかしだ。
あの悪意と言う名の存在は、晴明とは違う。この力は、完全に現実世界に干渉している。そこに在る。しかし、少女としての名はなく、そこにはいないのだ。彼女はかつての魯玉晨ではなく、少女ですらない。晴明が悪意と名をつけたからこそ、辛うじて出現した存在なのだと言う。頭がおかしくなりそうだった。
「わたしは悪意だと言いましたよねえ。悪意なんですよ。だから、あんたら自身でもあるわけですよ。そのわたしに術をかけるのは不可能です。分かってます?不可能なんですよ。悪意を持たない人間がいますか?少しでも魔が差したことのない、そんな人間が存在しますかあ?」
この問いかけ。これこそが、人の悪意を呼び覚まし、自分に縛り付ける呪文なのだ。
晴明はそれに応えなかった。
ただ、黙って肩をすくめた。この陰陽師には、少女の術は通じないかも知れない。しかしだ。それは彼がすでに世に実体のない神仙と言う概念であるからして、こちらからこの世界に干渉する手段を限っているからだ。いない、と言えば、晴明の方がより、この世にはいない存在なのである。
「蜃玉」
唐突、紅い、唇が開いた。こぼれ出たのは、僕たちが追っていたはずの術士の名前である。
「お前は悪意でもなんでもないさ。ただの蜃玉、と言う神仙だ」
「きゃははっ!この期に及んでなーに下らないことを言ってるんですか?だから言ってるでしょう?蜃玉など、初めから存在しなかったのですよ!」
「ああ、存在しなかったな。だがその名を創ったのは誰だ?その言葉を創ったのは。蛟竜ではないな。あやつはお前を玉晨だと思っている。龍魚と蛟華、この二人に自分は蜃玉だ、と名乗ったのは誰かな?」
はっと、少女が顔色を変えて息を呑んだのはそのときだ。そうだ。僕は気づいた。これは、僕たちにとっての諱なのだ。名前も実体もない、自らを悪意とうそぶく少女が、ただ一回、自らのことを口にしたその名が。皮肉にもその偽名が、本来は名前がないこの怪物を言い表す、諱と化してしまったのだ。
「蜃玉よ」
「ちっ、違う!」
「いいや、蜃玉さ」
苦しげに呻く相手に晴明は二指を突きつけて、断言した。
「お前は蜃玉だ!悪意でも何でもない、蛟竜が連れて来た呪い師に過ぎぬ!」
「だから…」
えづきそうになりながら、少女は、いや蜃玉は目を剥いた。
「だからどうしたって言うんだよォッ!このくそったれがあああッ!!」
僕は身構えた。あのとてつもない力が来る。足元から腹の底にかけて、激流のような波動が押し寄せてくる。晴明の結界は、もはや何の護りにもならなかった。僕の身体はさらに吹き飛ばされ、岸壁に激突したかと思うと、べしゃりと濡れた砂地へ墜ちた。身体がばらばらになるかと思うような衝撃に、思わず僕は吐き気を堪えた。
蜃玉と、晴明が名付け直したその存在は。
十メートルの彼方で、そこに浮かんでいた。両足が地から離れている。凄まじいまでの力が、そこから噴火でもしたかのようにもうもうとこぼれ出ている。
いつの間にか戦闘は中断されている。
誰もが自失として見ていた。惚けた顔すらしているものもいた。
そこにいるのはただただ、人智を超えた化け物なのだ。
誰だって、我を喪わずにはいられまい。
「きゃははははっ、もう一回聞きますよ?もう一回聞きますよ?わたしが蜃玉だとして、あんたらに何が出来るんですかあ?」
上擦った声を上げて蜃玉は、野猿のように歯を剥いた。再び吹く凄まじい突風に、僕たちはまた吹き飛ばされそうになった。
「いいから殺し合えよ!憎めよ!刺し殺せッて!お前らは敵同士なんだッ!みんな憎いんだろ?殺し合わなくてどうする?!こっち見てんじゃねえよッッ!」
「かかったな」
と、晴明が言ったのはそのときだった。
「あんだよ!?思わせぶりに吹きやがって、その手に乗ると思うかっ!?」
「馬鹿な奴だな。気がつかないのか」
晴明は唇に指を中てると、低い声で呪を唱え始める。
「るっっせえなっ!ぶっつくさ鬱陶しいんだよおッ!何ならてめえから八つ裂きにしてやろうかアッ」
醜く顔を歪めた蜃玉が、印を切る晴明に飛びかかろうとした瞬間だ。
きぃん、と言う耳を聾するほどの鋭い音が、辺りに轟き渡った。
その場にいる人間は誰しもが、鼓膜に強い痛みを覚えたに違いない。僕も、顔をしかめた。
「これは…」
明らかに、金属音だった。冷たく研ぎ澄まされた鉄の刃が、確かに空を斬る音だった。いや、常人の斬撃ではこんな極端な金属音はしない。普通の達人ではこんな斬撃は繰り出せないのだ。
こう言い換えた方が早いか。
こんな音がする斬撃を放てるのは、僕が知る限りただ、一人しかいない。
「なんだ…?」
蜃玉が思わず息を呑んで動きを停めていた。それもそのはずだ。目の前の何もないはずの空間に、亀裂が走っているのだ。それは雷鳴のように白く、鋭い刃物で切り裂いたように、切り立っていた。まるで太刀傷だ。
その亀裂が音を立てて拡がったとき、まばゆいばかりの閃光が走った。
すると空気がぴんと冷えて、澄んだ。この季節に、真冬の朝の凛冽な気配が漂ったのだ。
甘ったるいこの澱のような腐敗臭を駆逐する清浄な山清水の気配。
この場に立ち込めた蜃玉の瘴気を、清めるかのように。その厳しくも清らかな気配は、その亀裂から忍び出て、立ち込めた。
ぬっと、小さな影がその中から飛び出してきたのはそのときだ。
僕は、気が遠くなりかけた。まさか、信じられない。
なんとそこにいたのは。
小豆長光を携え、胴丸具足を身にまとった。
虎千代だった。確かに虎千代が還ってきたのだ。




