ついに現れた黒幕!五爪龍の女が恐れる絶家とは…?
「魏玲ェイッ」
信長が金属質の声を張り上げる。
その大音声は信太の森に響き渡り、静寂を切り裂いた。
「逃すものかや」
と、なんの前置きもなく銃を向ける信長。こいつ、銃を向けないと人と話せないのか。
魏玲は、不審そうにこちらへ視線を巡らした。魏玲は本格的にこちらに気づき、銃を向けた怪しげな格好の少年(信長だ)を見、僕たちの顔ぶれを確かめたのだろうが、彼女にとってみれば僕たちは突然現れた不審な連中だ。なにしろあちらは、こっちの顔をまるで知らないのだ。
「魏玲殿、であるな?」
虎千代がそっと、口火を切った。魏玲は虎千代を見て小さく頷いた。
「身は、長尾虎千代と申す。今宵は王蝉、と言う女に、そちらへの奏者を務めてもらったと思うが」
「おう、せん…?」
魏玲は美しい眉をひそめると、首を傾げた。どういうことだ。魏玲は、王蝉のことを知らないのだろうか。すると、魏玲の背後で声が上がった。
「にぇっ、にぇっ、虎千代先生っ、にゃっ、にゃぜこんなところにいるのですにぇっ!?」
王蝉だ。魏玲を取り巻く群れの中に、やっぱりいた。突然現れた僕たちを見て彼女は、本当にびっくりしていた。
「なぜこんなところにいるのかじゃねえーですよッ!こおの裏切り者がッ!」
黒姫は王蝉を見つけた瞬間、問答無用で飛びかかって取り押さえた。難しい暗号を解読させられた上にばっちり騙された、個人的な恨みが今、爆発したのだ。
「やあってくれましたですねえ!五星屋の陰陽師から逃げるために、あろうことか、虎さまを囮にするとはッ!まずは五爪の女の前に、あんたを罰してやりますですよおっ」
「ひいっひいいいっ、なっ、なんでですにぇ!?ワタシ、何も悪いことしてませんですにぇえええっ!?」
例の毒ナイフを握り締めた黒姫の目は、血走っている。いつにもまして危険だ。虎千代が制しなければ、何をするか分からない。
「すっとぼけるんじゃねえですよッ!ネタは上がってるんですからねえ!明星行から逃げ出すために、わたくしたちに偽の伝文を渡しておいてさんざ罠にはめた挙句、自分たちは悠々と船でとんずらとはねっ!汚いやり口じゃあありませんかッ」
「なあっ!?なんのことですにぇ!?ワタシはそんなことっ…ぬっ、濡れ衣ですにぇ!ワタシたち、あんたたちをはめようなんて思ったことないですにぇ!」
「ほっほおっ!?初めてですよ、この黒姫をここまでコケにしてくれたお馬鹿さんは。こいつで今からお刺身にしてやりますですからねえ、覚悟するといいですよ。まずは指ですかねえ、それとも耳ですか!?どっちか切り取ってほしい方、択ぶといいですよっ」
「にぇっ、にぇええええええお助けえっ」
「待て黒姫」
するとじたばたする王蝉の様子を見ていた虎千代が言った。
「と、虎さまっ、この上は邪魔立て無用ですよっ!黒姫、要らん仕事させられて、いらいらしてるですよっ!ともかくこいつの目ぇでもえぐり出さないことには、気が済まないですよっ」
「分かった、分かったから落ち着け」
「血がッ、血が足りねえですよっ!」
虎千代が言うのでどうにか収まったが、黒姫の目が血走っていた。真夜中までぶっつづけで仕事をしていた上に、それが全部無駄だと知らされた黒姫のストレスは、計り知れない。それは徹夜仕事がパソコンがぶっ飛んで、全部パーになったときの遣り切れない怒りに匹敵する。
「王蝉よ、今一度確認するぞ」
仕方なく虎千代は、黒姫の膝で踏みつけにされた王蝉に向かって言った。
「お前、知らなかった、と申したな。お前は、この伝文をもらったまま、我らに渡した。そういうことで良いのだな?」
「はっ、はいっ!はいいっ!そうですにぇ!」
どう思う、と言う風に、虎千代は僕を見てきた。たぶん、黒姫を留めた虎千代が勘付いたままだ。僕は頷き返して見せた。
確かに今、僕たちに追及されたときの王蝉の態度は、真に迫っていた。僕たちの突然の出没に、王蝉は愕き、素で黒姫に怯えている。
と、なるとだ。要はこの伝文を作った人間が、ことを画策したものだと、考えるほかないのだが。
「黒姫落ち着け、こやつは何も知らぬ。事情を知らぬは、ほとんど我らと同じなのだ」
「…うっ、ううっ、虎さまが言うなら仕方ないですよお。とりあえず、問答無用に切り刻むのは、よしてやりますですよ」
「とにかく、解放してやれ」
血に飢えた野獣と化した黒姫は、ようやく王蝉を解放した。それでも、毒ナイフを片手にまだ肩で息をしており、刺激は禁物だった。
虎千代はぜえぜえ言ってる王蝉から視線を外すと、すでにそこにいる魏玲に気を配っている。見たところ、怪しい動きはなかったが、何か不審なことをすればどのようなことでも、見逃さないつもりでいるに違いない。
その魏玲は揉み合う王蝉と黒姫を、色のない視線で眺めているばかりだ。さっき、僕たちを見つけたときの反応といい、彼女はどんな人間にもほとんど自分の顔色を読み取らせない、そんな油断ならない訓練と経験を身に着けているように思えた。
「魏玲殿、では今、少し我らの話を聞いてくれるか」
虎千代は穏やかだが、相手を刺すような声で言った。
「あなたは王蝉からどう聞いたかは分からぬが、我らは今宵、あなたを助けるつもりで来た。だがもちろん、それが差し出た真似だとは分かっているし、我らの目的があなたが望む、生きている女の首…贄姫と言う女の生き首だと、王蝉から当然聞いていようとは思う。その上で問う。あなたは」
どう言うつもりで、この伝文を寄越したのか。そしてそうまでして尚、贄姫の首を望もうとするのか。虎千代の直截な問いに、魏玲は答えにくそうに、唇を噛みしめていたが、やがて観念したように、
「虎千代先生、アナタの名前、この王蝉から聞いています。助けてくれる、でもあの首が欲しい、お言葉に甘えること出来ませんでした」
苦しげに眉をひそめて、魏玲はついに口を開いた。
「責はすべてワタシにあります。確かにこの伝文を書いて、王蝉に頼んだのはワタシ。ひどい目に遭う、知っていました。この街にいる、あの恐ろしい陰陽師に」
「恐ろしい陰陽師とは、ご挨拶よな」
明星行が独り言のように言った。その声で初めて気づいたのか魏玲は僕たちがその陰陽師を同行していることを知り、はっとしたように目を見張った。
「信太の森の夜歩きは、さぞや心細かったであろう」
陰陽師は唇に人差し指を当てると、身体を強張らせた魏玲の様子を愉しむように悪戯げに笑った。
「ふふ、安心しろ。乱妨を働く気ならこうして姿を現したりはせぬ」
「ではあれはこの陰陽師の術を恐れて、我らに仕向けたと言うことだな」
はい、と、魏玲は目を伏せて肯った。
「つまりはそうまでして、贄姫が首、我がものにしたかった、と言うわけか」
虎千代はそこでゆっくりと手をかけ、かすかに足を開いた。それだけで空気が変わったのが分かった。魏玲もそれを察しただろう。斬るとなれば虎千代の剣を、ここにいる誰もが止める術はないのだ。
「理由を話すべき、なのでしょう。でも、話せません。それほどまでして、アナタがワタシが贄姫様の首を欲する理由を知りたがったとしても」
「で、あろうな」
身も凍るような殺気を虎千代は、崩さなかった。
「なれば、ここでお前を斬ってわたしは贄姫を取り戻しても構わぬ、と言うわけだ」
虎千代は斬ると言ったら、本当に斬る。
その場は、駆け引きも打算も関係ない。
それほどまでの殺気を、虎千代は放っている。確かに虎千代に、ここで魏玲を斬り殺してにべもなく、贄姫の首を奪い返そうと言う気はないのだろう。だが、答えるつもりがなければそうすると言う、殺気と迫力は本物だった。
しかし魏玲は一歩も退くことはなかった。
僕は唇を噛んだまま、虎千代を見つめ返す魏玲の表情に思わず既視感を覚えた。
同じなのだ。
今の魏玲の表情は、王蝉のそれと。
虎千代は虎千代で、それを吐き出させようと、柄に手をかけている。
だが魏玲はそこに立ちはだかり、自分を確実に斬殺する理由も実力もある虎千代を無言で見返すだけだ。僕たちを罠にはめ、贄姫の首を詐取した自分は斬られても仕方ないと言う風に。
彼女だってここで死ぬのは、不本意なはずだ。それでもなおだ。
(虎千代が、ここまでしても話す気はないのか)
魏玲の強情さに僕は、ひそかに舌を巻いた。
「にぇっ、にぇっ、虎千代先生!おっ、お待ち下さいですにぇ!」
もはや一触即発と言っていい。その間に、王蝉が息を呑んで割って入ったのだ。
「ひっ、ひらにお許しをっ!魏玲様が、虎千代先生たちを騙していたこと、ワタシがこの身に代えて詫びますにぇ!虎千代先生、どうか魏玲様だけはお許しを!斬るならば、どうぞワタシをお斬り下さいですにぇ!」
「王蝉…」
うっ、こいつなんてことするのだ。魏玲に事情を知らされていない上に、裏切り者扱いされて、尚も彼女の身代わりになろうと言うのだ。
「どうしてそこまでするか」
思わず、虎千代も眉をひそめて聞いたほどだ。
「ぎっ…魏玲様は、ワタシの恩人ですにぇ!商売だけじゃないですにぇ、ワタシの命と運命の恩人なのですにぇ!だからこれくらいして当然なのですにぇ!」
そのときだ。裂帛の気合いを込めて虎千代が抜いた。小豆長光の刀身が、空気そのものを分断するような鋭い光を放ったのだ。しかし、剣を前にしても、王蝉は退かなかった。ひっ、と声を上げて身体がのけぞったが、それでも王蝉は魏玲を庇ってそこに踏ん張っていた。
「のかぬか。のかねば斬るぞ」
「どっ、どうぞ。…どうせ、魏玲様に拾ってもらわなければ、名前も与えられなかった身ですにぇ!これで魏玲様に恩を返せるならば、ワタシは満足ですにぇ!」
「虎千代、やめようよ」
僕は見かねて口を挟んだ。こうなってしまうと、さすがに虎千代も退くに退けなくなってしまう。
「真人…」
「最初っから、斬る気なんてなかったろ。そもそも僕たちは王蝉を信用して、今夜の話に乗ったんじゃないか」
そもそも贄姫の首を奪還することは、僕たちの目的ではあるが、王蝉が身体を張って訴えたことを僕たちはむげには出来なかった。そしてこうなった今、王蝉が裏切ったわけではないと言うことも、分かったのだ。
「王蝉は本当に、死ぬ気だ」
僕が割って入ると、虎千代もようやく剣を納めた。王蝉は、それを見届けると、本当に助かったと言うように、ほっと息をついた。
「見たろ」
僕はその背後で息を詰めている魏玲に視線を向けると、刻みつけるようにして言った。
「あなたのために、これほど本気になっている人間が二人もいる。一人は今、ここで死ぬ気だったんだ。魏玲さん、それでもなお、あなたは自分の事情について話が出来ないのか?…話せないと言うことはあなたにとってそれほど、深刻なことなのか?」
幸いにして僕の言葉は、魏玲の琴線のどこかに触れたのだろう。無表情を装っていた魏玲の顔に次の瞬間、ざわりと動揺の波が立った。ぐしゃりと苦痛に歪んだ表情は、さっきまで鉄面皮を装っていた魏玲が思いつめていた感情の決壊そのものだった。
「アナタ、一体…?」
僕は名前を名乗った。考えてみれば、その暇もなかったのだ。
「虎千代の話は、王蝉から聞いていると思う。僕たちは、贄姫の首をきちんと供養したい。でも、あなたたちが抱えている事情も訊かなくてはならないと思っている。あなたは、ただの物珍しさで、こんなものを欲する人間には見えない。ましてや海を渡って、権門勢家を滅ぼしてまでも」
不吉。
「なぜあなたは不吉を振りまくのか?」
僕が発した彼女自身の言葉に、魏玲が愕然とした表情を見せたのはそのときだ。女は眉をひそめ、わななく唇を噛みしめると、思わずその手を自分の頸に触れた。柔らかくしなやかそうな指が、絡みつくように撫でたのは、そこにある五爪の龍の刺青だ。女はそこで初めて、救いを求めるような表情を見せたのだ。
「ワタシ、追われています。逃げられません」
女は、自らの絶望をついに口にした。
「これは、まずいな」
ふいに、明星行がつぶやいた。ちょうどそれは空が明るくなり始めた頃だ。
「結界が破られる」
「どう言うこと?」
「見つかると言うことよ。この女めが、引き寄せた不吉にな」
人差し指を唇にそっと当てると、陰陽師は空に向かって何かを問いかけた。
「近いな。なんにせよ差し当たり、急ぎこの森を出ねばなるまい」
「何がやってくるのだ?」
虎千代が眉をひそめるのに、さあ、と言うように、陰陽師は首を傾げた。
「私にも分からぬ。だが、よからぬものであることは確かだ」
来るのは二十人、と陰陽師は人数まできっぱりと、言い当てて見せた。これも黒姫が言う、忍術における察気術の源流を汲む高度な術なのだろう。
「魏玲様、ともかくここは、虎千代先生に従うといいですにぇ」
この期に及んでも魏玲は、頑なに首を振った。
「お逃げなさい。ここは、ワタシ一人で十分です」
「そうは思えないな。それに、そうはいかない。そもそも僕たちは、贄姫の首を持っていかれると困るんだ」
僕がきっぱりと遮ると、魏玲は切なげに瞳を歪めた。
「贄姫の首を欲するは、お前でなくその連中なのであろう?」
虎千代が鋭く言いさす。魏玲は小さく頷いた。
「ならばそやつらは、状況次第では我らの敵だ」
と、虎千代は暴走寸前の黒姫を見た。過重労働の黒姫は、すでに臨界点を超えている。身体に仕込んだ武器弾薬を見せびらかして、すでに殺意にみなぎっていた。
「血ですかッ!黒姫に血を見せたいのは、そいつらですかあッ!」
黒姫には、仕事のことはしばらく忘れて帰って眠ることを勧めたい。
「魏玲を連れて逃げるぞ。殿はわたしと黒姫で引き受ける。王蝉、魏玲を連れてともに逃げて来られるな?」
「はっ、はいですにぇ!」
「されば、残りの連中も一緒に頼む」
と、虎千代は僕とラウラを見た。王蝉はともかく、まだ魏玲は信用しきれない。こちらも警戒しておく必要があるだろう。
「逃げるならば、あちらが良かろう」
陰陽師は何の躊躇もなく、逃げる方向を指し示した。
「魔は、それとは逆の方向からやってくる」
「ほら」
僕たちは問答無用で魏玲を促した。やっと覚悟が決まったのか、魏玲は仕方なく、と言う感じではあったが、僕たちの行く方へ随った。
その直後だ。
ついに林の蔭で、はたはたと、銃火の音が立った。
「気が早いな」
虎千代は苦笑した。どんな連中かは知らないが、問答無用で撃ってくるとは、本当に物騒な奴らだ。
「少しからかってやったゆえな。さしずめ見たのであろう。林の中で、妖しい化け狐でも」
すでに挑発をしたのか。明星行は、悪戯っぽい笑みを浮かべて言い添えた。
「逃げるならばあちらから、と言っただろう。今のうちに逃げるのだ」
こうして、僕たちは気配を殺して走り出した。
明星行が言うように、敵は近くにいても、中々接近してこない。さっきのように発砲音は聞こえるが、銃火はかすかに林の奥でおぼめくだけだ。
「…本当に魏玲たちを守っていたんだな」
僕が意外そうにぼやくと、陰陽師はかすかに苦笑を含んだ。
「誰も呪い殺すとは、言ってはおらぬ」
つくづく不思議な奴だ。今といい、こいつ、果たして敵なのか味方なのか。黙って逃げるのに協力してくれたところを見ると、害意はなさそうに見えるが。
明星行の遁甲術のお蔭か、全く敵に遭遇しないのだが、林のそちこちで騒音が立ったところを見ると相手は確かに、かなりの人数がいるようだ。
当の魏玲は黙って従ってはいるものの、その正体については未だに口を閉ざしたままだ。
「はっ、早く歩くでやっ!」
信長は銃を惹きつけて、そんな魏玲を誘導している。こいつ、さっきからだんまりだったから、何をしているのかと思ったが、せっかく会った五爪龍の魏玲と、思うように会話が出来ないらしい。
「ぎ…魏玲っ、お前、我を知っておるな、我は津島でその…(ごにょごにょ)」
たぶんいざ会ったら、なんて話しかけていいのか分からないことに、初めて気づいたらしい。何しろ、ただ一度だけ、津島港で会っただけの関係なのだ。さすがに信長でも、こうなるのも、正直無理もない。
「なんーだ、まるで手ごたえないじゃねえですか!こっちは、とっととぶっ飛ばしたくてうずうずしてるってえのに!」
全身にさんざん仕込んだ爆弾を両手に殺気だった黒姫に近づく人間がいるとしたら、そいつは正気とは思えない。虎千代も心なしか、なるべく近づかないようにしている。
「どこから落ちるのだ?」
「あそこだ。森を出ればもはや案ずることはない」
明星行が指し示す方向に、この暗い森の出口が見えてきた。ちょうど朝日が昇ってきたところで、暁の木漏れ日がまばゆい。僕たちの足も自然と速まった。
「出たら、この森を封じるぞ」
いつの間にか陰陽師の手には、護符が握られている。しかし便利な術だ。森を出るまでにこれだけの人数に囲まれて、一度も出くわさなかった。
「確かに便利ではあるが、こうなると逆に、拍子抜けするな」
虎千代が苦笑しつつ、刀を腰に納めかけたときだ。
森の出口の陽だまりの中に、ぽつんと細長い影が立っている。
「待て」
虎千代が先に行く僕たちを制した。
信じられようはずがない。あの陰陽師の術を潜り抜け、ここまでたどり着いてきた人間がいると言うのか。僕も目を疑ったが、そこに確かにいる。
黒装束を着た背の高い男だ。それが一人、両腕を組んで立ちはだかっている。
「敵だな」
剣呑な空気を察するまでもなく、魏玲が頷く。
つまりはあれが、魏玲をどこまでも追いかけてくる敵なのだ。
男は、光沢の感じられない漆黒の蓬髪を紐で後ろに結わえていた。年齢は魏玲よりもかなり年上だ。歪んだ線のない面長の顔に、しっかりと通った鼻筋、そして霧の彼方をうかがうような、どこかくすんだ色の目を持っていた。
異様なのはその服装だ。袖のゆったりとした服は、映画などに出てくる中国の道士の服にも思えたが、それが男の髪と同じ漆黒に染め上げられている。そこを紅い糸の刺繍が毒々しく巡っていた。まるで護符に描く呪文のような文様が、織り込まれているのだ。
男はたった一人で、僕たちを待ち受けていた。
虎千代たちは色めき立ったが、その男は武器を取りもしない。腕を組んだまま、唇を綻ばせて、いかにも柔らかく微笑んで見せた。
「何者ですかあっ!?」
黒姫の殺気立った声にも、男はあくまで穏やかに応じる。
「この魏玲の身内です。今夜ここを発つつもりが、どうしたわけかこの森で迷ってしまい、苦労致しました。小魏、この方たちは何者なんだ?」
恐らくは、大陸の人間なのだろう。話したのは、イントネーションの綺麗な日本語だ。だが魏玲に呼びかけるときだけやはり、母国語の発音をしてみせた。
意思疎通は完璧だが、どこか取り繕ったものを感じさせる話し方をする男だ。
「何が小魏、何が身内」
魏玲は吐き捨てるように返した。この瞬間が初めて僕たちが、魏玲の生の感情を目撃した一瞬だったに違いない。ちなみに中国語では小魏、と言う言い方は、ごく親しい人に対する愛称のはずだ。僕たちで言う「ちゃんづけ」に近いのだが、魏玲のその目はやはり、親しい間柄の人間に向けるそれではなかった。
「さっきから何を怒っているんだ?日本の妙な道士に追われて困っている、だから助けてほしいと言ったのは君じゃないか?」
「違う」
魏玲は、押し潰されたような表情をして言い返した。
「邪魔だと言ったのはアナタ。邪魔者は、全て消せと命じたのは、みなアナタ!」
「興奮するな、他の皆様方の前だぞ」
年下の恋人のはしたなさを持て余しているとでも言うように、男はこちらに困った笑みを浮かべた。
「お見苦しいところをお見せしました。魏玲たちは、こちらで預かります。どうぞあとはご心配なく」
「卒爾ながら、まだ名乗りをうかがっておらぬ」
ぴたり、と、男の表情が停まった。
「わたしは長尾虎千代と言う。その魏玲殿が持っていかれた生ける姫の首は、わたしが一度、菩提を弔ったものだ。魏玲を連れて行くからには、当然その首は置いていこうな?」
「私は魯、名は蛟竜と申します。魏玲の夫です。恥知らずながら不勉強にして、この国のことや日本の方は一人も存じ上げないもので」
虎千代との間合いを測るように、魯蛟竜はちらりと視線を落とすと、再び魏玲に向かって言った。
「小魏、まだ話をつけていなかったのか?分かっているよな。あれを持ってこなければ、お前の一族がどうなるか?」
その言葉は、蛟竜を噛み殺しそうな剣幕の魏玲を凍りつかせた。
「よく考えろ」
一族。まるで抵抗を諦めた獣のように、その一言が顔色を猛る魏玲を、硬直させた。何か取り返しのつかないことをしでかしてしまった、とでも言うような表情に押し戻したのだ。
「蛟竜」
魏玲は慌てて、何かを言い繕おうとした。しかしそれも、すでに無駄なものだと感じたのか、息を呑んだだけで彼女は、再び口を噤んでしまった。魏玲の表情はすでに蒼白になっていた。
「詫びは後で聞く。不安な気持ちも分かる。だが何度も言っているだろう。俺に任せていれば、万事、何もかも大丈夫さ。心配することなどこれっぽっちもないんだ」
と、蛟竜は何事もなかったかのように、魏玲の肩を引き寄せようとした。
「待ちやあっ!」
やっぱり、我慢がならなくなったのは信長だ。まあ穏やかじゃないと思う。憧れの魏玲に折角会えたのに、ろくに話せないと思ったら、あろうことか現れたのは夫だと言う男だ。もちろん問答無用で、いきなり銃口だった。
「その女も首も、我らのもんだでや!おみゃあには指一本触れさせにゃあわ!」
露骨なため息をつくと、正気かと言うように蛟竜は信長を見返した。それからゆっくりと、虎千代の方に首を巡らし、
「虎千代先生、私たちも取引は心得ています。あなたが満足いく条件なら後で、いくらでも応じる」
「応じられるとは思えんな。我らの目的は、今そやつが言ったすべてゆえな」
虎千代の言葉が、これ以上ない宣戦布告だった。
魏玲を抱き寄せかけた蛟竜の袖が音もなく閃き、そこから鋭い光がほとばしった。
コーン、と冴えきった重たい音がしたのは、次の瞬間だ。ついで、銃の暴発音。
そこで僕は信じられないものを見た。
信長の銃が、先から真っ二つになったのだ。
蛟竜の袖に隠していた何かがなんと、鉄砲の銃身を向けられたまま、斬った。どんな切れ味と重さを持った武器なら、片手で硬い木と鉄で出来ている銃身を両断できると言うのか。しかし、事実だ。僕の目の前で、歯輪式小銃の銃身は千歳飴みたいにぶった切られて、回転しながら吹っ飛んでいったのだ。
しかも攻撃はそれだけでは終わらない。
「塊ッ!」
黒い袖口を翻して、蛟竜はさらに、虎千代の頭上を襲った。
「伏せろ」
明星行が僕を押しのけて、持っていた護符を放ったのがほとんど同時だ。
ただの紙の護符が滑空する燕のように、風を切って飛んだ。
飛び道具と化した護符は虎千代を襲うべく、跳ね上がった蛟竜の胸にぴたりと貼りついた。緑色のまばゆい光が、蛟竜の身体を包んだかと思った瞬間だ。
まるでそれが爆発物であるかのように、蛟竜の身体は得体の知れない爆発力を受けて、僕たちが来た道の方へ、物凄い勢いで吹き飛ばされていったのだ。
(何が起きた?)
未だに一見では呑み込めない。ただの護符一枚で人間を吹き飛ばすなんて、どれだけ凄まじい術なんだ。しかし、驚くのは、まだこれだけではなかった。
「倭奴っ」
蛟竜は吹っ飛ばされたが、武器で攻撃されたわけじゃない。ダメージはないのだ。
怒りに任せて、すぐに立ち上がった。彼は即座に反撃に奔った。
「唖唖唖唖ッ!」
殺意を露わにした蛟竜が猛スピードで迫る。が、悪鬼の突進は思わぬ障害に阻まれた。なんとその蛟竜の前に、さっきと同じ色の発光する壁が立ちはだかったのだ。それが立ち向かってくる蛟竜を、まるで実体の壁が押し返したかのように無理やり森の中へ戻した。
「こっ、これが結界なるものかっ」
さすがの虎千代も、それ以上の言葉を喪っていた。
これは認めざるを得ないぞ。
まるでRPGに出てくる魔法か、SFに出てくるバリアである。
人智を超えた陰陽師の伝説の御業は、確かにこの世界に実在したのだ。
「行くぞ」
後は任せた、と言うように、陰陽師は魏玲を虎千代たちに引き渡している。
「魏玲」
結界の中で蛟竜が佇んでいた。やはりだ。その狂気と殺気を帯びて潤んだ目こそが、この取り繕った男の本当の眼差しなのだ。男は絶対に諦めないぞ、と言う風に、じっとり暗い目で魏玲を睨みつけていたのだ。
「再見(またな)」
蛟竜は片頬を憎々しげに歪めると、手のひらで自分の頸筋を叩いて見せた。
一体、何を示唆したのか。
その位置はちょうど、魏玲の頸に彫られた五爪の龍の刺青がある場所だったのだ。
こうして魏玲との邂逅と贄姫の首を回収すると言う、二つの戦果をものにした僕たちは、堺へ戻って息を潜めることになった。
とりあえずは大山崎から引き返してくるはずの宗易さんからの連絡を待って、差し当たってはラウラの手配する南蛮寺に身を潜めた。ラウラが所属するレディムプティオが待機するこの場所なら、大坂湾で暗躍する倭寇たちもうかつに手は出せないはずだ。
「そう言えば、あの陰陽師はいかにしたのだ?」
虎千代がそのことを口にする前に、明星行は姿を消した。
「借りを、忘るな」
僕にただ、念を押すように一言だけ残していっただけだ。
あの男は本当に、何が目的だったのだろうか。いくら考えても、分からなかった。
そしてもっと不可解なのは、蛟竜に出会ったときから得体のしれない恐怖に慄いていた魏玲だった。彼女は唇に手を当て、ずっと目が泳いでいた。さすがに見かねたのか、虎千代はここへ来た時に黒姫が用意した気つけの薬草入り焼酎を勧めたのだが、
「酒は、道士、口できません」
魏玲は固辞して、ただ落ち着かなげにするばかりだった。それでも、日が昇りきるうちには何とか震えは収まったようだ。そこでラウラが淹れてくれたとっておきの雲南茶を僕が持っていこうと思ったら、
「よっ、寄越さぬか」
と、信長が強引に奪っていった。あいつもさっきまずったから、精一杯アプローチしようと、がんばっているのだった。青春小僧め。
「飲め」
喫茶店のバイトだったら即日クビになるほどの乱暴さで、信長はお茶を勧めていた。
「もう怖がることはにゃあでや。あの倭寇は追いかけてはこぬ。ここはなにしろ、我が友、真人の愛妾が用意せし南蛮人の隠れ家だで」
と、いきなり言われても、魏玲はほとんど何のことだか分からないと思う。さすがに虎千代の名前は憶えているだろうが、彼女は僕の名前だってさっき聞いたばかりなのだ。
「あ、後は、我に任せておくとええでや。真人は無二の友だで。悪いようにはさせんでかんわ」
それでも信長は、勇気を振り絞って話しかけていた。
「で、ど、どどどどうじゃっ?我の顔に、覚えはあるか。わっ、我はお前を追って津島から来たのだでや!」
魏玲は、信長をまじまじと見つめた。きょとんとしていた。あああなんか見てられない。
「わあっ、忘れておるならええわ!織田三郎信長じゃ、今度はよう憶えておくとええわ!」
しかしだ。
「鬼門から来た小弟」
今度は信長が目を丸くする番だった。
「また迷子?今度は一人で、帰れるの?」
魏玲はちゃんと、信長のことを憶えていたのだ。ぽかんとした信長の表情を真似るように、魏玲は目を丸く見開いてびっくりしたふりをする。
「ぎっ、ぎぎぎ魏玲っ、おのれっ我を嬲ったなあっ!?」
「弟々、かわいい。ワタシ、弟々好き。憶えてるよ」
魏玲は、くすくす笑いを堪えながら雲南茶を一口飲んだ。
「好喝、謝々(美味しい、ありがとう)阿信」
「信長だと言うておるでや!」
あ、やっぱり相手にされてない。そもそも魏玲は、僕より年上のお姉さんなのだ。もしかしたら旦那持ちなのだ。ちなみに今の阿信とは、信ちゃん、と言った程度のニュアンスらしいが、完全に坊や扱いだ。
「あっ、あの古蝮のごと汚き目の男、あれはあれでもお前の夫か。けしからん奴だでや」
信長をからかって魏玲は、まだけらけら笑っている。
「お前ほどの女が、あげなくそだわけに脅されて、困っておるのであろうがや。洗いざらい話すとええでや。きっと、我が助けてやるでや!」
信長的には必死なのだろう。でも、魏玲が本気にするはずがない。だって説得力ないもん。それでも、気持ちだけは、男として全力の信長に敢闘賞を贈ってやりたい。
「任せておけて。あげなけったくそ悪い男、今度は我が斬り伏せてくりょうわ」
「だめよ」
きっぱりと、魏玲は言った。
「阿信、あんな男に関わる、良くない。あいつは、不吉どころじゃない。あいつに関わると、阿信の家、絶えるよ」
「まっ、また埒もなきことを言うでにゃあわ!」
「絶家」
魏玲はそのことを口にしたくもないと言う口調で言った。
「あの男に関わる。その家、この世から消える。阿信だけじゃない、阿信の一族みな絶える」
魏玲の顔は、さっきのように笑っていなかった。
「お前の能力も似たようなものであろうがや。家を滅ぼすのが、お前の術であろう?」
確かにだ。僕たちが知っているだけで、魏玲は二軒の富家を思うがまま操り、滅亡の憂き目に遭わせている。
「そんな、生易しいもんじゃないよ」
魏玲は眉をひそめて、訴えかけるのだ。
「わたしの術、悪く使えば家は滅ぶ。でも、人はまた家を作れる。お金無くなっても家族生きてれば、また戻れる。でも蛟竜、根絶やしにする。二度と、栄えない。蛟竜の絶家はだめ、阿信の血族、一人も、いなくなるよ」
大密事を囁くように、魏玲は言った。
絶家。
この言葉を口にするときの魏玲は、不吉、と言うあの二文字を口にする時の、どこか澄みすぎた眼差しだった。
「魏玲さん」
常ならぬ言葉を聞いてしまった僕は思わず、二人の間に入って行った。
「あの男は一体、何者なんだ?そろそろ、僕たちにちゃんと話してくれるかな」
間髪入れず、魏玲は頷いた。それは決意した面持ちだった。彼女はすでに怯えた顔は見せなかった。
「皆サンを呼んで下さい」
僕は虎千代たちを呼ぶべく、足しげく廊下を出た。
(家が絶える、と書いて絶家か)
まさしく禁忌だ。
その言葉を胸に含むだけでわけもなく、全身がざわめいた。
魏玲が言う、絶家の。
僕たちはまだ魏玲の言う意味を知らない。
しかしそれは脈々と受け継がれた道教の思想の中で、間違いなく最悪と言うべき恐ろしい事態を表す言葉なのだった。