陰陽対道教、真人が看破する暗号、真の意図とは…
まるで人魂だ。
蒼く揺らぐ焔に包まれたまま、明星行はその姿を再び僕たちの前に現した。CGかホログラフにしか見えない。どこがどう言う仕掛けでなっているのか。何十年も放置されていた竹藪に浮かび上がったその姿は、いぜん、今創り上げられたかのように鮮やかで、現実感と言うものがなかった。ふとゲームをしているかのような、不思議な自失感に囚われるが、いや、それでも目の前のこれは現実だ。
「化け物め」
信長は躊躇なく銃口を向ける。子供が持つ銃とは言え、当たれば殺傷能力は十分だ。しかし明星行は一渡り僕たちを見てから、ふふ、と例の微笑を含んで口元で袖を隠した。
「何が可笑しいでや」
「いや、ただただ、貴殿らの身の哀れさよ」
陰陽師がすらり、と袖を払うと、身体の周りの蒼い炎が吹き飛んだ。
「ご苦労なことじゃ。若い身空でかような晩に、かような打ち棄てられた社で、貴殿らごときものたちが野鼠のごと働かされておるとはな。いかにも悲しきことよ」
「何が言いたきか」
虎千代が詰め寄ると、男は白狐のような顔をかすかに歪めた。
「言うは易い。されど、悟るは難し。だがこれ以上、邪魔をされるのも癪じゃ。故にはっきりと言おう。騙されておるのよ、汝らは、あの五爪龍の女どもに」
「黙りゃあっ!」
止める間もなかった。信長が一気に引き金を絞った。
周囲の竹の幹が震えるほどに、轟音が立った。幸か不幸か、今度は銃口はぶれなかった。弾丸は真っ直ぐに明星行に向かって飛び込み、その身体はボウリングのピンのようにばたりと仰向けに斃れた。
「殺ったでや」
「お、おい」
問答無用にもほどがある。今のは即死の倒れ方だった。まさか、殺しちゃったのか。あわてて駆け寄ろうとして僕は愕然とした。違う意味でだ。そこに、死体があったからじゃない。
明星行はそこにいなかったのだ。遺骸はおろか、血痕も、足跡すら残っていない。
僕たちが見たと思われる初めから明星行は、存在すらしていなかったかのようだ。だが、僕たちは確かに奴を前に、言葉を交わした。あれはなんだったんだ。
「なんだ…?」
薄い月明かりの中ではらりと一枚だけ、人型に切られた紙が一枚、真っ二つになっているのが僕の目に留まった。拾ってみると焦げ跡が破れ目に、しっかりとついていた。信じられないことだが、今の信長の弾丸はこの紙を撃ち抜いたのだった。
「…これは形代ですよ」
ぼそり、と黒姫が言った。
古来、陰陽師は式神を使役う、と言う。黒姫が言ったように、陰陽師たちは人型に切った形代と言う紙にも術を吹き込み、呪いを避けたり、自分の分身を作ったりして自在に操ったとされる。
「まさか、かようなものが化けるか」
虎千代ですら、見るのは初めてだったのだろう。思わず驚いた声を出していた。
「陰陽師が使う式神は、われら忍びのものが扱う幻戯の類ともまた、違うのですよ。しかし当今は、術も廃れ、陰陽道を生業うものですら、式神を自在に操ることなど、そうそうかなわぬはずなのですが」
「ご名答」
また、明星行の声が立った。どこからともなく、だがはっきりとそこにいると判る声音だ。ぞわっとした。確かにいるのだ。黒姫ですら実在を疑問視する、こんな非現実的な術を使いこなす、陰陽師が。
「ふふふふふ、有るや無きや。汝が無きと思うゆえに、我は有りや」
「懲りずに、言葉のまやかしか」
虎千代はすらりと、太刀を抜いた。
「形代とやらが、術の命であろう。それを断てば、お前は消える」
「消える?面妖な話だな。有りや無きやも、分からぬ癖にか」
「詭弁をっ」
どことも知れぬ方向に向かって、虎千代は怒鳴った。
するとだ。
「「「なれば断ってもらおうか。どこまでも、どこまでも、どこまでも」」」
確かに明星行の声だ。だがそれがいくつも重なった。はっきりと聞こえた言葉の輪郭がぼやけたのはそのせいだった。と、思う間に、ふわりと竹藪から青白い光が再び立ち昇ってきたのだ。
今度は一人、二人ではない。
青白い焔に包まれ漂う、無数の明星行だ。それが竹藪のそこかしこから、わらわらと、まるで雲霞のごとく湧き出て来たのだ。
さすがにこれには虎千代も、顔色を喪った。
「気の済むまで、斬るがいい。出来ねば、呪い殺してくれよう」
虎千代に向かってまるで誘蛾のように群がる、青白い人魂。虎千代の小さな身体はそれに、みるみるうちに飲み込まれていく。
「おのれっ」
虎千代の太刀は、一瞬で五人までの明星行を斬った。その度にはらりはらりと、形代の屑が散ったが、あふれ出る幽鬼の群れはその程度では留めることが出来なかった。蒼い群れはいずこからともなく、それこそ奔流のように虎千代の身体を飲み込もうと増え続け、いくら虎千代が剣を振るおうとお構いなしだった。
こうなると荒れ狂う濁流をたった一本の櫂で掻き分けようとするようなものだ。
「と、虎さまっ、おやめくださいっ」
虎千代が呪い殺される。顔色を変えた黒姫が煙幕を張った。目の見える幻覚を、強制的に遮断するにはこの方法しかない。
「真人さん早くッ、虎さまをッ!」
虎千代の位置を憶えていた僕はすぐに走り寄り、幽鬼に追いすがられたその小さな身体をしっかりと抱き止めた。
「逃げよう」
虎千代は否やも言わず、頷いた。僕はみた。あの虎千代が顔色が真っ青になって、びっしょりと額に脂汗を掻いていたのを。
「逃げるのかやあっ」
癇癪を爆発させる信長の声もする。なりふり構わず僕は、声のする方へ怒鳴った。
「いいから鳥居をくぐれっ!」
叫ぶと同時に、僕は走った。鳥居からこっちはすでに幽世、僕たちの手に負える世界ではなかった。こうなったら逃げるより他ない。認識が甘かった。僕たちはまだ、自覚していなかったのだ。
陰陽師と道士。
その変幻自在の化かし合いの中に、すでに巻き込まれていたのだと言うことを。
こうして、どうにか鳥居を抜けた僕たちだが、驚いたのはその後も災難が待っていたことだ。竹林の奥の道で待ち伏せに遭ったのだ。
闇の中に今、現れたかのように突然松明が閃き、矢竹の雨が降ってきた。来る時は、人の気配なんてなかったのに。一体どこから湧いて出たのか。待ち伏せていたのは、藁布を被った、武士とも思えぬ不気味な連中だった。
だが、今度は相手が人間だ。虎千代が剣を奮って、一気に血路を拓いた。
「のけいっ」
竹槍を持って立ち塞がる草賊たちを、虎千代は一太刀で斬り捨てて奔った。どの相手も追いすがる一瞬である。道々、無造作にただ一点、急所を断ち割られた遺体が散乱していたのはやはり、虎千代の腕の凄まじさを物語る。
「斬れば斃れる相手が、これほど愛おしいとはな」
虎千代には珍しく、軽口が出たほどだ。なにしろいつもの血なまぐさい実戦勘が、虎千代に現実感を取り戻させたのだ。苦笑のひとつもしたくもなるだろう。
虎千代に続いた僕たちだが、降り注ぐ矢竹の雨を潜り抜け、どうにか傷を負わずに済んだ。僕が無傷でいられたのは、すぐ傍にいたラウラのお蔭だ。ラウラにとっては飛んでくる無数の矢竹をレイピアで叩き落とすことなど造作もないのだ。こちらも何度見ても、神懸った絶技だ。
虎千代もラウラも、常人のいる立ち位置からは測り難い域にいる達人だ。そんな彼らですらあの鳥居の中では、たちまちに方途を喪った。無論、こちらも死力を尽くして戦えば、どうなるかは分からなかったにしても、だ。
「陰陽師が使う式神は、われら忍びのものが扱う幻戯の類ともまた、違うのですよ」
黒姫が心ならずも口にした危惧が、僕の頭に残っている。やはりだ。式神を使った明星行の真の陰陽術は忍者の黒姫たちの使う術ともまた、違う、得体の知れない術なのだ。この時代すでに、闇に住まう忍びたちからも、隔絶したまさに、幽世の幻術。明星行が使うのは、大陸の道教にも匹敵しうる、日本の上古にしてすでに滅んだはずの陰陽術の源流なのだ。
そんなもの存在しない、と頭から思い込んでいた。
しかしだ。
有り得ないなんてことは有り得ない。
勝手な予見は、真実を見誤る。
もう一度、肌で感じただけの勘を信じてみるのだ。
あの鳥居の先は、何か入ってはいけない場所なのだ。あれは、人の付け入る隙のない幽世。そこに入り込んでどこの余所者が、伝文など置くことが出来るだろう。
そもそも、魏玲は本当に僕たちに向けて伝文を残すつもりでいたのか。
「お前たちは騙されているのだ」
明星行は、はっきりと僕たちに言った。
もちろんあの男の言葉を、鵜呑みにするつもりはない。だが、魏玲が王蝉を通じて僕たちに今夜、助けを求めてきたと言うことを、果たして額面通りに受け取ってもいいのだろうか?
僕たちは竹林を抜け、一目散に明るい場所へ走った。しかし追跡の心配は無用のようだった。
草賊たちに足はないのか、あの竹林を抜けると松明の火はもう迫ってはこなかったのだ。
「全員逃げ切れたか」
虎千代が自分の馬に追いすがる人数を確認する。はぐれたり、取り残されたものはいないようだ。ラウラは僕の傍に馬を駆っており、黒姫がさらにそれに追いすがっている。そして一番撤退をぐずっていた信長は。気がつけば一番先頭を走っていた。
「どうする」
虎千代が問うた。恐らくこれから、あの場所に近づくことはかなわないだろう。と、なると、どうにか今夜中に魏玲に接触する次の手段を考えねばならない。虎千代はそれを思いあぐねているのだろう。だが、今は次を考えるどころではない。
「とにかく、状況を整理しようよ」
虎千代への答えに詰まっている黒姫に、僕は言った。
「さっきまでの状況で、色々と気になることがあるんだ」
月明かりの降りる広い畝に出ると僕たちは、一旦足を停めることにした。しかし何から何まで、薄気味の悪い竹藪だった。ふと顔を上げると、いつの間にか冷たい雲が晴れ、心なしか空が明るくなってきている。まるであの世から帰ってきた気分だ。
「まっ、真人さん、あっ、あまり悠長にはしていられないのですよ。分かってますですかっ?」
「分かってるって」
僕が悠長にしているように見えたのか、黒姫は地団太踏む勢いだ。黒姫のいらだちも理解できなくはないが、このまま闇雲に動いてたって、墓穴を掘るだけだ。
「考え直そうって言っただろ。まずはちょっとは落ち着こうよ」
「にしても、不甲斐なし」
虎千代の方は、もはや動転を脱したようだった。ゆっくりと馬を降りると、深い息をついた。それから畦の下を流れる小川の水をすくって、それで顔を念入りに洗った。虎千代も一度、冷静になりたかったのだ。
「またしても、あの陰陽使いに翻弄されるとはな」
手の甲で水滴をぬぐって虎千代は歯噛みした。その髪にまだ、形代がついている。僕はそれを指でつまむと、原型を留めないように念入りに引き裂いて捨てた。もうどう言う影響もないとは思われたが、やはり不気味と言う他なかった。
「しかしあれには参った」
虎千代は座り込むと、僕に向かって初めて苦笑した。さすがの虎千代でも、あれほど得体の知れないものと斬り合ったのは初めてだったのだろう。幽霊にも怯えない虎千代が、疲れた顔をしていた。
「いくさ場で陰陽を使う軍敗者から推して、知っているつもりではいたのだが」
さっき、僕たちが相対した陰陽術は、確かに想像以上の代物だった。いつか修験者が使う幻術めいた呪術も、苦も無く見破った虎千代が苦戦したのだ。
「黒姫、あれはお前たち忍びの術とは違うと言うたな。あれはやはりただの幻戯にあらずか?」
「え、ええ、どうやらそのようですよ」
と、虎千代の下問に、珍しく黒姫が言い淀む。
「確かに我ら忍びの間にも、旧い陰陽道の流れを汲む術はありますが、さすがにあれほどのものでは」
黒姫が言う忍者の陰陽術でもっとも有名なのは、遁甲の術と言われる。いわば察気術と言われるものだ。だが黒姫によると、これは超能力でもなんでもない。いわゆる偵察術や警戒術の類であり、陰陽道の方角法に基づいたものだ。
さらには忍者の幻術と言われるものも、仕掛けがある。黒姫がそうするように、薬物を駆使したり、催眠術によって、人の心を操るものなのだ。
もちろんこれらの技術の儀式的な側面は、たぶんに山岳信仰と結びつく前の上古の陰陽道の色を残してはいるが、
「実は上古の頃に流布した本来の陰陽術は、我らの元には、ほとんど伝わっていないのです」
考えてみれば戦国時代の人間からしても五百年以上前なのだ。
虎千代たちから見ても、平安全盛期の陰陽師たちの御業はあくまで伝説のレベルなのだ。確かに、例えばかの安倍晴明にしても、その伝説的な呪術を駆使した話は、『古今著聞集』や『今昔物語』など、お伽噺や怪談奇談の域を出ない。なにしろ、荒唐無稽に過ぎるのだ。
「だ・か・ら!かようなうさこい話ばかり言い立てて、なんの甲斐があるかや!?そもそも、あの呪い師が安倍晴明であるわけでもなし、その術さえ封じればただの人であろうがや」
ばしばしと膝を叩いて、話を無理くり収めようとする信長。たぶん、銃とかハイテクな話が好きだから、こう言うオカルト話は、生理的に苦手なのだ。
「とにかく、あやつをねじ伏せる方法無くば、五爪龍の女にはたどり着かんのだわ!この期に及んで、何を怖気づくでや!必ず何か仕掛けがあるに決まってるでや」
「そう、仕掛けがある。まずはその仕掛けのあらましを知らないと、話にもならない」
僕が話を向けると、むすくれた顔のまま信長はこっちを見た。
「明星行が駆使する術は、僕たちの世界とは違う理のものかも知れない。でも、それを見極める方法はある」
「分からずして、いかに見極めるかっ!?」
「僕たちと『違う』と認識するだけでも、判ることはあるさ」
そう、有り得ないことなど、この世界にはどこまでも有り得ないのだ。
「まず認識を変えなくてはいけないのは、黒姫の言う陰陽術が確かにある、と言うことだ。例えばあの鳥居をくぐった瞬間、何か感じるものがあったと思う。皆はどう思った?僕にはあったんだ。言葉に出来ない感覚だけど、どこか自分の一部が入ってはいけない場所に踏み込んでしまったかのような」
僕の言葉に、全員がはっとした。やはりだ。
「た、確かに違和感はあった。お前の言う通り、何やら、落ち着かぬ感じがずっと」
虎千代は怖気をふるうように、両腕で身体を覆った。
「思い出しました。ラウラの国ににも魔術師、います。ワタシ、一度だけ会ったことある。その人の家、誰も来ない森の中にある。やっぱりあんな感じ」
虎千代とラウラは殊更、感覚が鋭いようだ。二人とも、僕が言った感覚に気づくと、顔を強張らせて、目を泳がせた。
「たっ、確かに変な感じはしましたですよ。でも、だからどうだと言うのですか」
「わ、我はあにゃあな呪い師なぞ、怖くもなんともないでや!化け物などこの世におらぬでかんわ!」
この二人は強情だが、ちゃんと感じるものは感じていたらしい。つまり全員が、どこか危険な場所に侵入してしまった感覚を味わったわけだ。
「恐らくはあそこは、侵すべからざる場所だったんだ。明星行がすでにたぶん、長い間もうそう言う風にしてきた。陰陽師の使う術であると思うんだ。ある特定の場所を護る術が」
「つまりは、結界、と言うことでしょうか?」
僕は頷いた。こうなるとまるでゲームに出てくる陰陽師のようだが、結界、と言う概念そのものは有り得ないものではない。例えば古神道において、ご神体の大木に注連縄を張ったり、鳥居から先を神域として設定する概念はまさに、『結界』の考え方なのだ。
「あそこは、人の侵入を許さぬ場所だったんじゃないかな」
僕たちはいわばそこで、知らずに警報装置を作動させてしまったのだ。
「ではあの草賊どもは、あの社を護っているだけの連中だった、と」
「そう見るのが正しい。僕たちは、まさしく侵入者だった。しかし考えてほしいのは、ここだ。果たして僕たちが彼らの最初の客だったのかな?」
僕の指摘に黒姫は、はっと息を呑んだ。
「あそこに人が踏み入った形跡はなかった。つまりは、あれは今夜、初めて侵された場所だったんだ。つまりこの時点で、ここまでは結論づけてもいいはずだ。魏玲たちは葛城山にはやってこなかった」
「つ、つまりはわたくしたちは、択ぶ場所を間違えた、と言うことでしょうか!?」
黒姫は頭を掻くと、がさがさと用意の地図を拡げた。
「やはり本命は生駒山だったのですねえ!」
「いや、それは違う」
突っ走ろうとする黒姫を、僕は留めた。
「信長、君が言ってたこともある意味では正しいはずだ。魏玲は、丑寅の方角を忌避している。ゆえに最初の地点に堺から見て丑寅の方角の生駒山を択ぶことは有り得ない」
用意した地図を見せてほしい、と、僕は黒姫に言った。
「黒姫は僕たちに言った二地点を最終的に候補として絞る前に、色んな場所を検討したと思う。それらについて、必要なものは軒猿衆が調べたはずだ。ここに書き込んである情報がそうだよね?」
僕は、堺付近の全図に書き込まれた赤丸を指し示しつつ尋ねた。
「黒姫、他の場所も廃神社だったんじゃないか?」
「はっ、はい。調べたら、そうだったですよ!」
「だったらおかしな話じゃないか?僕たちはもう一つの前提を忘れている。魏玲は道家の士だ。そして逃げる相手は陰陽師だ。だったらどうして陰陽師が、根拠としそうな廃神社を、待ち合わせ場所に選ぶんだ?」
「まっ、まさか…?」
みなまで言う前にそのことを察した虎千代は、絶句した。だが、僕はあえて言った。
「この伝文を解読して得られる地点はすべて、明星行の縄張りだ」
お前たちはあの女に、騙されている。
明星行は僕たちに言った。恐らくはその発言は、そこに繋がっている。
「僕たちは魏玲が伝えてきたことを、額面通りに受け取ってはいけなかったんだ。彼女は僕たちに会おうとして、今夜の段取りを取ったんじゃない。なぜなら、ここにあるどれもが、道士の魏玲にとっては侵すべからざる場所だからだ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って下さいですよ!つまりは、魏玲たちは、虎さまを裏切り、利用したってことじゃねえですかあッ!」
「落ち着け黒姫。わたしはそもそも、助けにはなると言ったが、どうするかは向こうの勝手なのだ。体よく使われようと、文句の尻は持ち込めぬ」
「いっ、いやそれでも許せねえですよ!あの倭寇の女ッ、あいつは元々信用ならないと思ってたですよ!あいつがそそのかしたに決まってるですよ!」
その結論を出すのは時期尚早だ。だが、黒姫が言うように、魏玲が虎千代を自分が逃げるためのだしに使おうとしたと言うのは、僕にとっては赦すべからざることだった。
「真人、ならばそもそもあいつらはどこへ行ったでや!」
「地図を見てほしい」
確実な答えはないが、ヒントはある。僕は地図上の赤丸を指し示すと、信長に言った。
「魏玲たちが僕たちを導こうとしたのは、みんな山側なんだ」
「では海か!?」
僕は頷いた。そもそも倭寇の魏玲たちにとって、それがもっとも安全な逃走路のはずなのだ。
「つまりは陽動だな。明星行の目を、山側を侵した我らに惹きつけておき、自らはその背側にある海路から脱出しようと」
くしくも、遁甲の術である。僕たちを囮の陽忍となし、自らは陰忍に徹して、活路を得ようと言うのだ。
「そうと決まれば、時間との勝負だな。黒姫、今から急ぎ堺へ戻る」
「お任せ下さいですよ!夜明けまでに、かなっらず連中の船を見つけてみせますですよ!」
虎千代も黒姫も復活だ。こうなったら、とことん海路をあたって魏玲たちを探すしかないのだ。
「ワタシもレディムプティオのメンバーと連絡をとってみます。倭寇の船、見つけるの、出来ると思います」
「ありがとう。虎千代の力になってくれて」
倭寇とつながりを持つ宣教師たちの力があれば、魏玲たちが渡りをつけた船を発見するのもそうは難しくはないはずだ。
「いいんです。虎千代サンだけじゃない、真人サンのためですから。ワタシ、真人さんのお愛妾さんなのでしょう?」
えっ、今なんっつった?恐ろしい食い違いの予感に、僕は眉をひそめた。対してにっこりと邪気のなさすぎる笑みで顔をほころばせるラウラ。
「宗易サンに聞きました。お愛妾、とっても大切な女の人のことでしょう?」
宗易さん、間違った日本語教えてる!?いや、正確には間違ってはいないんだけども。
「ラウラあのさ、お、お愛妾さんって言うのはさ…」
「大事な人ではないのですか?」
二番目にね。とは言えなかった。一夫多妻制だった当時の日本はともかく、キリスト教社会では、重婚罪と言う罪にすらあたる。それにしても、信長に物扱いされて、ぷりぷり怒ってたラウラがすぐ機嫌を直した理由が、これだったとは。宗易サン、とんだ綱渡り外交である。
「なんだ、何を二人して話しているのだ?」
もっと危険な奴が、勘づいてやってきた。僕にとって、ラウラを愛人になんかしたら、重婚罪程度の罪では済まない。市中引き回しの上、打ち首獄門である。
「な、なんでもない。それより、ラウラたちも協力してくれるって」
「おお、そこまで肩入れしてもらえるとは、助かる。すまぬな。…ところで真人、どうして目を逸らすのだ?」
冗談じゃない。この歳で、彼女と愛人の板挟みなんて恐ろしい目に遭うなんて、絶対にごめんだ。後で宗易さんに厳重抗議しよう。
かくして夜が明けないうちに、堺へ逆戻りだ。当時の船舶の常識として、明かりのない海へ漕ぎ出すのは危険なのでまだ市街に隠れているか、それとも小舟で沿岸を移動して隠れる、と言う手筈も考えられる。いずれにしてもこの闇が明けないうちは、相手もおいそれと遠くへは行けないのだ。追跡のチャンスはまだ十分にある。
「ふん、我を謀るとは。味な真似をするでや、魏玲め」
夜通し馬を駆る信長はなぜか、嬉しそうだった。
「機嫌がいいね」
正直呆れた。騙されたのは虎千代だけじゃなく、自分も同じはずなのに。プライドの高い信長なら怒るかと思った。
「なにしろ値国一国の女だでや、これほどの歯ごたえなくてはどうするか」
と、信長は、好敵手に出会ったかのようににんまりするのだ。うう、理解できない。
「魏玲めが、我をきりきり舞いさすほどに悪謀上手の女とは、ますます惚れたわ。ふふふ、お父も悪党だが、我には愛すべき悪党どもが多うてな。京にも聞こえよう、美濃の斎藤山城、駿河の今川治部大輔…こやつらは我が惚れた大悪党だで」
隣国の超大国の主の名前を羅列すると信長は、照れ臭そうに微笑んだ。
「だが女子の悪党に惚れるは、これが初めてよ」
「そ、そう」
ど、どんな恋愛観してるんだ。つまりこいつ、敵味方男女区別なく悪いやつが好きなのだ。しっかし、斎藤道三も今川義元も、信長にこう思われていたとは、夢にも思わないだろう。
「にしても面白きは彼奴めの奸謀を暴いた、おのれの眼が確かさよ。真人、それほどに眼が利くからには、悪謀の方も相当やるのであろう。その年でさぞや、悪漢働きをしてきおったと見える。つくづく心憎い奴だでや」
ま、また誤解されてる。僕はどっから突っ込んだらいいんだ。
「のう、織田家に来る気はなきか。お父には、我が禄を掛け合う。いずれは我が与力になればよい。悪い話ではなかろうがや?」
またヘッドハンティングだ。こいつ、本当に懲りないな。
「せっかくだけど、それはいいってば」
「そう強がるな。あげなきっつい女子にぺこぺこせねばならぬ長尾家よりよっぽど気が楽だでや。銭もはずむでや!」
「だからそういう問題じゃないんだって」
「それにな、訊け、ここだけの話だでや」
「…なんだよ」
「我はな、誰にも負けぬ悪党になるでや。美濃駿河を平らげ、いずれは都に旗を立て、天下に号令する。よいか(なぜかそこで信長は声をひそめた)…我はな、天下を取る男になるのだわ」
「う、うん」
そうですよね、と普通に頷きそうになった。
「おっ、驚かぬなっ!?」
「えええっ!?あっ、あーあー、ソウナンダービックリしたースゴイナー」
自分でもびっくりするほど白々しい声が出た。
「これはお父には無論、傳役の平手にも話しておらぬことだぞ。お前だけに話したのだでや。ゆくゆく我は天下人ぞ、さすればお前の望むままにしてやるで。なーあ、考えておけて、悪いようにはせぬて」
これ実は本物の天下人からの勧誘。本人は大言壮語の範疇だけど、今にそれを実現のレベルまで持ってきてしまうから恐ろしい。
しかし信長は信長で、ラウラはラウラで、僕のことを誤解している。もしかしたら、僕の身の上の方が魏玲なんかよりよっぽど危険なんじゃないかと思う。
ただ、その魏玲のことだ。
彼女が僕たちを自分が逃亡するために利用した、と言うことで、黒姫は敵愾心に燃え、信長は何だかよく分からない恋心を爆発させているが。
僕にとっては、彼女の実態はまだ掴めた、と言うわけではない。
なにしろ僕が、直接会って話したのは、魏玲本人じゃない。王蝉なのだ。僕が相手を信用できるかについて、判断する基準は王蝉の態度からしかない。その判断でいくと、彼女は、策略をもって僕たちをはめようとしている素振りは見えなかった。
五爪龍の女、魏玲がそれを指示したとするなら、彼女は確かに信長が言う「食えない」女なのだろう。不吉な道教を用いて、まるで子供が積み木崩しをするかのように、富家を滅ぼし戯れる、厄災そのものとも言える悪女。果たしてそれが、本当に彼女の実態なのだろうか。
五星屋の設けた見世物小屋で、二胡を奏じている魏玲を見たのが、僕がこの女性を目の当たりにした唯一の印象だ。もちろんその本質を、一度見かけただけの印象で決めつけることは出来ない。だが僕は、あの強い意志を持った目のことを、思い出していた。そう言えば彼女もまたどこか、思いつめた顔をしていた。人の運命を弄んで喜ぶ人間の顔には見えなかった。
僕は彼女の言葉を、自分の口の中で反芻してみた。
「不吉か」
堺の町木戸に、僕たちの馬が到ろうとしたときだ。
「停まれっ」
先頭の虎千代が手綱を引き上げた。棹立ちする馬をいなし、右手で腰の太刀を抜いた。虎千代が突然、抜刀したのには理由がある。
驚くべきことに、白い水干の男が道の中に立っていたからだ。
りん、と右手に掲げた手鈴が鳴った。
間違いない。明星行だった。あの廃社から、僕たちを先回り出来たはずがない。だがこの陰陽師は空でも飛んでやって来たかのように、いきなり堺に現れたのだ。
「でっ、出ましたですねっ!陰陽師っ!今度こそ、ばらっばらにしてやりますですよ!」
広いところだから、黒姫もやりたい放題だ。今度は手投げ爆弾を持ち出してきた。
「待って」
僕は殺気だった全員を制した。
「ちょっと落ち着こうって言ったろ」
「まっ、真人さんっ、敵を前に何を言うですかっ」
そもそも、このことに気づいたのは、この男の示唆があってのことだ。
「どうした。やっと悟ったかな」
「ああ、あんたの言う通りだった。僕たちはあんたたちに踊らされているに過ぎなかった」
「そうか」
僕は馬を降りた。さっきの蒼い人魂をまとった雰囲気とは違う。確かに、実体として存在する明星行がそこにいた。僕は意を決して話した。
「海路、魏玲たちは首を持ち出して逃げる気だ。僕たちを囮にして、あんたの五星屋からね」
「ほほう」
明星行は口元に下弦の月のような笑みを貼りつかせて、わざとらしい相槌を打った。
「で、私に協力してほしいのか?」
「ああ」
慎重に言葉を選びつつ、僕は言った。
「魏玲は、あんたの仕掛けた結界を破って逃げようとしている。僕たちもあんたも、そんな魏玲を逃がすわけにはいかない。時間はお互いないはずだ。だったら利害は一緒じゃないか」
ぴくり、と、陰陽師は片眉を吊り上げた。
「ふふん、お前中々吹くではないか」
明星行は紫色に煙り始めた空の星に、視線を巡らした。
「お前の言葉つき、中々に心地よいな。その佳き呪に免じて、ここは乗ってやる。貸しでよいな」
僕は即座に頷いた。陰陽師に貸しを作ることがどんなことになるか怖かったが、ここは躊躇するわけには行かなかった。
「案ずるな。どの道、奴らは逃げられぬのだ。我が結界が破れぬ限りはな」
謎めいたことを言うと、陰陽師は微笑んだ。それから手鈴を持った細長い人差し指を、唇に押し当てると、
「奴らを封じよう。ついてこい。ゆこう。ゆこう」
そう言うことになった。
明星行によれば、なんと。
逃亡する魏玲たちを、呪によって堺の町に封じ込めたのだと言う。
明星行の陰陽術は全く底が知れない。
「真人、それは、ほっ、本当に信用していいのか?」
馬の背に、ふわりと乗った陰陽師を見て、虎千代は言った。さすがに顔が引き攣っている。
「ふふ、信じねば信じなくてもよい。有ると思えば無し、無しと言えば有る、それが陰陽術の本髄だからな」
と、陰陽師は、なぜか僕を見て白狐の化身のような瞳を細めた。
「ところでお前、真人、と言うのか?それは諱だな」
「えっ」
どきっとした。現代人は、別名は使わない。本名を陰陽師にダイレクトに知られてしまったのだ。
「ははは、悪用はせぬわ。いい名だ。近々厄介になるやも知れぬからな」
そう言えば僕は陰陽師に貸しを作ってしまったのだ。
明星行が提示した、そのとんでもない意図を、僕は後で思い知ることになる。
夜明け前に辿り着いたのは、また鬱蒼とした森である。
「ここは信太の森稲荷ですね」
黒姫が言った。現在の和泉区だ。
安倍晴明の母、葛ノ葉を祀った神社とされる。伝説によると葛ノ葉は、霊力をもった妖狐だったのだと言う。美女に化けた葛ノ葉は、この和泉篠田の里にほど近い安倍野に棲む郡司、安倍権太左衛門保名の元に嫁いだ。その子が、不世出の陰陽師、晴明なのだ。
晴明は幼い頃よりその霊力を発揮したと言うが、妖狐である葛ノ葉とは早くに離別する。人間に正体がばれてしまった葛ノ葉は、晴明と暮らせなくなってしまうのだ。葛ノ葉はこの信太の森で石と化し、別れ際に晴明に秘物を授ける。
それが人間世界の全知全能を得ることの出来る黄金の小箱と、動物の会話を聞き分けることの出来る、水晶玉だった。荒唐無稽な伝説だが、なんとちゃんと年月が特定されている。天徳四年(九六〇年)九月の出来事だったと言う。
「しかし荒れた場所よな」
辺りを見回した虎千代に、ちょこんと馬を降りた陰陽師は、詰まらなそうにうそぶく。
「どこも同じよ。この近くの安倍野社も今日び荒れ放題じゃ」
この戦国時代、よっぽど力のある寺社社領でも修復が追い付いていない。
この神社も、創建は和銅元年(七〇八年)だから奈良時代の建立だが、森の中はひと気と言うものがなく、ただただ湿って暗かった。
「見よ」
明星行は闇の中でもすいすいと歩いていく。幽霊のように漂う白い水干が、黒い森のはるか果てを指し示して、言ったのはそのときだ。
森の闇を溶かして、大きな炎の群れが立っている。
こんな寂れた社領に、不似合な色合いの装束の群れ。
あれは、倭寇たちだ。
「封じた」
にたり、と陰陽師は艶やかな色の唇を綻ばせる。僕は確かに見た。薄暗いほの明かりの中で、あの不幸を司る女が、はっと目を見開いてこちらを見ていたのを。