死を超えたラウラの想い!黒い宣教師の怒り、最終決戦開帳…?
一瞬の逡巡の後に。
ラウラが口にした言葉の重さに、僕は改めて息を呑んだ。
「本当の決着をつける」
それは、紛れもなくラウラがミケルの命を奪うことを決意した、と言うことだ。
数奇な悪魔との偶然に出会いに惑わされ、その恐ろしい実験計画にまで加担してしまったミケルは、もはや人としても顧みることの出来ないほどに、理性を喪ってしまっている。ラウラはついにそこで、ミケルの命を止めることこそが最善の策と判断してしまったのだろうか。
誰が見ても勝負は最終局面に入っている。
ミケル・アリスタは、肩で息をしている。
別人のように屈まった背からは、あの華やかなエスパーダの剣士の面影は、見る影もなく消え失せていた。度重なる攻撃で割れ掛けたあごからは黒い血が滴り、内臓のダメージが響いてきたか、かすかに左足を引きずりだしている。
ラウラに負わされた打撲傷で腫れ上がった目蓋の中で薄く光る瞳に宿った執念深い殺意だけが、まだこの男を戦場に留まらせているに過ぎない。
そのミケルをさんざん打ちのめしたラウラにしても、それまでに負わされた切り傷からの出血がいぜんその命を脅かしていた。肩の刺し傷から流れた血が、肘から袖を真黒に濡れそぼらせ、足元には血の筋が垂れこぼれたままだ。まるで薄着で極寒の大地に立たされているかのように顔からは血の気が引いており、打撲傷で切られた唇は紫色に腫れ上がり、細かく震えを帯びてきている。
その瞳にまだ、戦う意志は宿っているが、多量の出血が断続的に彼女の意識を壟断してきているとみて間違いなかった。これは一刻も早く処置をしないと、取り返しのつかなくなるほどの重傷だ。
二人の兄妹。その壮絶な戦いの行方はすぐ近い無惨な結果を暗示する様相を、明らかにしだしていた。
お互い、辛うじておのが剣の型はとってはいるが、さっきのような目まぐるしい攻防はもう無理だ。
決めるとしたら、当然、お互いに一撃。
もはやそれだけの余力しか、二人には残されていなかった。
それでさえもどちらかが仕留めきればいいが、下手をすると相討ちと言う事態ですら十分にありえる。
「虎千代…」
僕は思わず、傍らの虎千代に自分が瞬間的に察した最悪の事態を吐露しそうになった。
このままやらせれば確かに勝負はつく。
どんな結果が、今のラウラを待ち受けているとしても。
この状態では、ただ、目も当てられない事態になるだけじゃないか。もともとラウラはミケルを救いたい、と言ったのだ。その二人が二人とも結果命を散らすだけなんて、悲惨すぎる。無意味だ。これこそただの、無駄死にじゃないか。目の前の光景はどう見たって、僕たちが望んだものからは、到底かけ離れた事態になりつつある。ラウラの気持ちがすでに退くに退けないところまで来てしまっているとしても、ここは無理やりにでも割って入るべきじゃないのか。
果たしてこのまま、決闘を続けさせて本当にいいのか。
「いや、違う真人」
口にせずとも意図を汲んだか、虎千代は僕を見て小さくかぶりを振った。
「ラウラは決着をつける、と言った。されば最後までそれを見守るのが務め。我らは、あやつの意志を汲むためにここまで来たのではないか」
そのときの虎千代の表情を見て、僕はひそかに息を呑んでいた。
そうだ。
これは、あのときと同じなのだ。
止められるわけがない。
煉介さんが、死に向かう決意をしたとき。虎千代は即座にその意志を汲むことを択んだのだ。
僕は今でも鮮明に思い出せる。
椿の花が清かに群れる、あの真冬の夜の森で。
「腹を切る」
そうまで決意した煉介さんのことを。
その死に至るまでの強烈過ぎる意志を認め、その無謀を誰より止めようとしていたのは、虎千代だったはずなのに。
今だから正直に認める。
僕はあのとき、彼女の気持ちの移り変わりと決断の早さに、すぐについていけなかった。あのときは納得はしたものの、これまで寸毫でも、あの虎千代の態度の急変に後悔や謂れのないわだかまりを持たなかったと言えば嘘になる。でも今なら、分かる。虎千代が即座にその決断に踏み切った理由が。
恐らくあのとき、虎千代は。
直感的に悟ったのだ。こここそ、命を賭けて自らの気持ちを伝えるその瀬戸際なのだ、と。煉介さんが自分の命の際まで立ち望んで僕たちに伝えたかったその気持ちに応えるためにこそ虎千代は、自分の命を賭けてまで真剣の立ち合いを行い、最期にはその介錯まで引き受けたのだ。命賭けの気持ちに応える。そのためには躊躇してはいけなかった。だから一瞬で、自らの生に踏ん切りをつけたのだ。
ミケルは今、ようやく命の瀬戸際にいる自分を自覚しつつある。ラウラが身体を張ってそこまで漕ぎつけたのだ。しかし二人とも退かないのは、それだけ強い意志があってこそのことなのだ。
今の二人は完全に、もはや一つしかない命と命を賭けて、あそこに立っている。
つまりはこれで二人はやっと、対等に気持ちをぶつけあえる位置にまで来たのだ。
そして僕たちの目の前に剣を携えて立っているラウラこそ、あのときの虎千代そのものなのだ。そのときの強い決意と意志を思えば、誰が今のラウラを止められようはずがあろうか。
「だが、気を抜くでないぞ」
無論、それでも虎千代は最悪の事態に備えようとはしている。
「いよいよ危ういとなれば、我ら割って入る。その覚悟はしておろうな」
僕は頷いた。どうなってもラウラは仲間だ。その命をあたら散らせるような事態を目の前に、手をこまねいている術はない。
「ええ、お嬢。いつでも命張れます。任せて下せえ」
いつの間にか、僕の横に鬼小島が踏み入っている。その鬼小島ですら、すでにイェスパとビダル、二人との戦闘に消耗し、傷だらけだが同じ思いなのだ。
「分かるよな。お前が贄姫に捕虜にされた時と同じだよ」
鬼小島は平然とうそぶくと、僕の肩を拳で小突いた。
「あの子だっておれらの戦友じゃねえか。心置きなくやらせてやりてえお嬢の気持ちは分かるぜ。だがよ、いざとなりゃ俺が楯になったって救ってやらねえでどうすんだよ」
鬼小島の視線はラウラとそのミケルが対峙するそこを越えて、ビダルの方へ、そしていずことも知れない狙撃手の方へ移っている。鬼小島が言うのは、虎千代がラウラを助けに割って入ったそのときだ。
「いいか。誰が撃たれるか分からねえ。長尾家の男なら、お嬢たちを守るためにてめえも覚悟を決めろよ」
僕は小さく頷いた。
この戦い、ラウラとミケルの一対一の消耗戦に見えるが、まさに一触即発だ。ラウラを救いに虎千代が動いたとき、ビダルはどんな行動に出るか。
そのビダルは岩に腰掛けたまま、平然と状況を見守っている。あごから血を滴らせてミケルが、死線を彷徨おうと、その心に一矢の乱れもない。
「ミケル」
不意に、ビダルが大きな声を上げた。その声は緊張を帯びたものではなかったが、僕たちが思わず身構えるタイミングだった。
「無理なら、下がれ。下らんプライドは捨てろ。そいつはもう死にかけだろ。後はイェスパが何とかする」
やはり狙撃手だ。ラウラが撃たれる。虎千代と鬼小島が覚悟を決めて色めき立った。
「ビダル師!」
ミケルが怒鳴った。叫び声に近い、それは哀願だった。
「余計な横槍はやめてくれ!おれは、まだやれる」
「今のお前に何が出来る?戦略的撤退については、既に何度も教えたはずだ。無駄に熱くならず、冷静になれ。私はいつも何と言う?よく思い出すんだ」
「…決着をつけさせてくれ」
ビダルは鼻の頭に小さな皺を浮かべると、露骨なため息をついてみせた。
「死ぬ気か?まだやれるだと?馬鹿げている。いいか、私たちがするのは不毛な潰し合いじゃない。一方的に殺せない相手とはやるなと言っているだろう。私の言うことが訊けないのか?そもそも」
「やらせて下さい」
遮るようにミケルが、ビダルの言葉を断った。ビダルは薄い眉をぴくりと動かした。
「驚いたな。ミケル、君はここまで来て、私の判断に逆らう気か?」
「そんなことはありません」
とミケルは訴えるように言い募った。
「だが、俺はここで退くわけにはいかない。俺は、こんな奴に負けるはずがないんです。大丈夫です、ビダル師。俺は、こいつを殺せる」
と、ミケルは殺意をたぎらせて目の前のラウラを睨み返した。兄として、自らが護り慈しむ存在のはずなのに、その妹は自分がつけた刃物傷からの血で濡れそぼって虫の息だ。同じ妹を持つ兄として、僕にはミケルのことが到底理解できなかった。ことここに至って、まだそんな身勝手な憎悪をラウラにぶつけようと言うのか。
「ラウラ、お前には判るはずだ。いくらお前だって気づくだろ。俺たちは同じ親の血を分けた肉親だ。その俺たちが、殺し合っているこの世界が在る意味を」
よく視ろ、と叫ぶと、ミケルははだけかけたシャツの襟元を引き裂いた。よく海焼けした褐色の肌の奥で命そのものの危険を知らせて鼓動を打つのは、心臓だ。
「お前が望むものは、ここにあるんだ。お前は俺の胸にある心臓を掴み出して、そこに取り出して見せるまで戦うことをやめない。そのはずだ。よく判るさ、俺だって同じ気持ちだからな。いいか、俺たちは死ぬまで戦い合うのをとめることは出来ないんだ。なぜなら俺たちは、心の底から憎しみ合っているからだ」
「兄さん」
ラウラがミケルが憎悪をこめた言葉の終わりに、その言葉を放ったのはそのときだった。
「勘違い、しないで下さい。ワタシは、アナタと違う。アナタを殺すために、ワタシはここに立ってわけじゃない」
「ふざけるなっ」
ミケルはラウラの声を呑みこむように、言い被せた。
「偽善はもう沢山だ。結論は一緒なんだろ!お前はそれでも、俺を殺す気なんだろ?」
一つの躊躇もなかった。ラウラははっきりと頷いて見せた。
「アナタがそれを望むなら」
「だったら言えばいい。お前が好きな神の教えとやらに逆らった、俺が憎いから、殺したいと」
「違う。ワタシ、救うために戦う。ワタシの兄、ミケルの迷いを救うために」
ラウラのその一言一言が、ミケルに刻みつけられる。
「ワタシ知ってる。ミケル、本当はアナタも救われることを、求めている」
「黙れっ」
もはやなりふり構わず、ミケルは叫び返した。
「お前の嘘なんか信じない。お前は、俺をだまそうとしている」
その声音には、これまでの挑戦的な態度や、嬲るようなやり取りにはなかった、根底的な困惑の色が、はっきりと浮かんでいた。
今や、地に足を根付かせてそこに立っているのは、未熟だったはずのラウラになっていた。
「それなら、ワタシを試せばいい」
ラウラは言った。それは混乱しきったミケルのものと違い、静かでいて確固とした意志に裏打ちされた力に満ちていた。
ついに。
幾度となく剣を交えた兄妹の戦いが最終局面を迎える。ラウラはすでに構えている。だらりと下げた剣線をわずかに上に、しかし半身の姿勢はとらず真っ直ぐにミケルを捕捉するつもりだ。
その瞳は澄んで、もはや一切の迷いも気負いもない。
そのラウラが投げ与えたエスパーダを、ミケルが息を呑んで構える。全身の打撲傷に痛んだ身体だがやはり力を込めると、その立ち姿には不思議と、技量に裏打ちされた力強さが戻る。
この男にもまだ、それほどの体力が残っていたのか。
二人があいまみえる最後の距離はもう八メートルほどだ。
一足一刀の間合いには少し遠く感じるが、もともと片手剣の短剣は全身を柔軟に使うために、間合いも攻撃範囲も意外に広い。いつもであればミケルはこの距離ならば、容赦なくラウラの刃圏を脅かしただろう。
しかしミケルは、奇跡のサヴァンの感覚に目覚めたラウラの絶技の恐ろしさをすでに嫌と言うほど味合わされている。
目をつぶっていても相手を捕捉するラウラの感覚は、まるで精巧な超音波レーダーだ。うかつにその半径を侵したのなら、次の瞬間、急所を刺し貫かれて果てるのは、自らに他ならない。
右手のひらを上に、鎌首をもたげるように切っ先を揺らしながら、ミケルは小さく息をついた。そのリズムがいつしか小刻みに変わり、まるでチューニングを合わせるように変調していく。かつての手合わせでラウラはミケルに拍子を盗まれている。そのとき身体に刻んだ攻撃のタイミングを、ミケルは自分の身体に呼び戻そうとしているのだ。
ミケルは再び、勝機を自分に取り戻そうとすべく、全力を一撃に集中させようとしている。ラウラもまた同様のはずだったが、その瞳の色には何物も浮かんでいない。
やがてミケルがラウラの間合いを侵した。一直線、咽喉を突き貫く絶好のタイミングの刺突だ。これ以上ない勝利のタイミングを、ミケルはこの期に及んで掴んだに違いない。
だが結果は。
すでに人智を超えて推移していた。
けたたましい断末魔に似た金属音が、夕暮れの浜辺に響き渡ったその刹那。
僕たちは思わず息を呑んだ。
「…こんなことが…」
つぶやいたのは、なんと虎千代だ。
あの虎千代ですらも、それは信じられない光景だったのだろう。
ラウラの咽喉を狙ったミケルのエスパーダ。
その細い切っ先、ただの一点。ラウラはレイピアのそれを合わせて、ミケルの攻撃を止めているのだ。
毛筋一本、針の穴の一点だ。
もし飛んでくる切っ先が見えたとして、その運動を止めるための万分の一とも言えるバランスを持った力学的一点とタイミングを択び。ラウラはなんの練習もなく、一発で合わせたのだ。
ミケルが剣を動かすまで。
僕には全くラウラが動かなかったように見えた。と言うことはミケルの攻撃の軌道を完全に見極めてから、ラウラは全く同じコースを反応してみせたことになる。飛んでくるミサイルを迎撃するために膨大な計算を一瞬でやってのけるスーパーコンピュータですら、いまだにそんなことは出来ない。これこそまさに、人の手がやってのけた奇蹟だった。命の際で、ラウラはそれを成しえたのだ。
一拍遅れて、僕たちはあのけたたましい金属音の正体を知ることになる。レイピアが貫いた、エスパーダの一点。それはミケルが携えた剣の命の中核そのものだったのだ。
エスパーダが、切っ先から砕けた。
欠けたのではない。まるでもろいガラス製の器か、陶器のように崩壊したのだ。
後にはラウラのレイピアが、傷一つない玲瓏な銀色の肌に夕暮れの陽を映して、ぎらぎらと光線を放っているばかりだ。
剣とともにまるで命を断たれたかのように、その瞬間ミケルが倒れた。
いや、確かに死んだのだ。ミケルはすでに自力では動かし難い邪悪な意志をまとった暴力を、ラウラに砕かれて、死んだ。
棒倒しに倒れたミケルの身体はもはや、ぴくりとも動かない。
そのミケルを見下ろして、ラウラはそっと自分の剣を下ろした。
「アナタを救う」
その言葉は、すでに誰にも侵し難い意志をまとっていたのだ。
勝負が終わったのを見届けると、僕と虎千代はあわててラウラに駆け寄った。
全精神力と体力を使い果たしたラウラの身体は、僕たちが助け起こすのも待たず、すでに崩れ折れかけていたからだ。
「すぐに血留めを」
虎千代は有無を言わさずラウラの身体を抱き寄せると、手早くラウラの傷を処置した。
「虎千代サン…ワタシ、伝えられた。虎千代サンのおかげ…本当にありがとう」
ラウラはかすかにおとがいを上げると、出血の処置をする虎千代に何度も訴えかけた。
「ああ。想像以上のものを見せてもらった。眼福よ。感謝するのはわたしの方だ。それより今は、もうしゃべるな」
その身体からはすでにかなり体温が喪われている。危険な状態だ。意識はあるが、紫色に浮腫んだ唇からこぼれ出した言葉は、聞き取れないほどに掠れ震えている。虎千代の横で僕も必死にラウラに呼びかける。
「真人サン…ミケル、どうなった?」
「大丈夫さ。今、虎千代が処置してる。心配しなくていいよ」
僕はラウラに呼びかけながら、砂ぼこりに塗れて、うつ伏せに倒れているミケルを見た。そのむき出しの胸がかすかに上下している。大丈夫だ。ラウラを僕に預けて虎千代がこちらも処置したが、どうにか命を失うことだけは免れそうだった。
「良かった」
それを聞いたラウラは薄く目を閉じた。そのあわいからまばゆい光を帯びて涙の筋が流れを作った。そのラウラの力が、僕の腕の中ですっと抜けた。ラウラの身体の力が抜けたので僕はさすがに肝を潰した。
「ラウラッ、目を閉じちゃ駄目だ。…みんなで、真菜瀬さんのところへ帰るんだろ!意識をしっかり保たなきゃだめじゃないか」
僕は必死になってラウラの身体を揺すぶった。すると、
「…ハイ」
一拍遅れて、ラウラの返事がした。よ、良かった。どうやら、戦闘の緊張が抜けて疲労感から身体の力が抜けきってしまったらしい。
「びっ、びっくりさせるなよ。死んだかと思ったじゃないか!」
「ごめんなさい。大好きな真人サンの腕の中、ラウラ幸せ。つい気持よくて眠くなってしまいました」
虎千代が睨んでいる。ラウラもラウラだ。こんな緊急事態になぜ、誤解を生むような発言を重ねるのか。
「ほっ、本当はまだ余裕あるじゃないか」
「かも、知れないです。でも離れたら嫌です。寂しい」
「だから、それやめろって!」
くくっ、と咽喉を鳴らしてラウラは屈託のない笑みを浮かべた。
「…真人サン、ありがとう。真人サン、信じてくれたからワタシここまで来れた。生きて帰らなきゃ、ですよね。ワタシ、生きて帰ります。ミケル、もう死にました」
僕はミケルの方を見た。ミケルは虎千代の腕の中でどうにか、息を吹き返したところだ。
「ああ、ミケルは死んだ。悪鬼に惑わされた鬼畜はな」
と、虎千代は、腫れ上がったミケルの顔の血を拭いながら言った。
「ラウラ、お前は兄のミケルと帰るのだ」
ラウラにもう、吐き出すべき想いはなかった。ただ泣きながら、虎千代に頷いた。
そのときのラウラの笑顔を、僕は生涯忘れることはないだろう。
これで地上の敵はビダルだけになった。
「馬鹿め。なぜ、私の命令に従わなかった」
恐らく初めて僕たちは、悪魔を追い詰めたのだ。その表情からはさっきまでの気だるいばかりの余裕が失われ、暗い怒りに満ちていた。
「さて、次は我らの番だな」
と言うと、虎千代は剣を携え、ビダルの真っ向正面に対峙した。だがビダルはミケルへの罵りの言葉を飲み込んだまま、虎千代と戦う姿勢を取らない。
「どうした、心細いか?」
挑発するように言うと虎千代は、ビダルの顔を覗き込むようにした。
「安心しろ、数に恃むことはせぬ。ビダル、お前を斬るのは、ここにただ一人、我よ。こうなっては潔く覚悟を決めるのだな」
「調子に乗るな。こんなことで私を、屈服したつもりか?」
悪魔は、小さな舌打ちを漏らすと、彼方へ向かって叫んだ。
「イェスパ、なにをしている。戦闘の邪魔だ!さっさとそこに転がってるゴミどもを片付けろ!戦えない人間は戦場では死ぬんだ。そいつをお姫さまに分からせてやれ!あの兄妹を残らず撃ち殺すんだ!」
「待て」
それは、思いもよらない事態だった。ミケルもラウラも自分で自分の身を守れない。彼方から飛んでくる銃弾を、かわす余力はもう残されていない。それにしてもどこまで鬼畜なのだ、この男は。ミケルは自らに心酔してここまでついてきた部下の一人なのだ。それを、自分の命令に従わず戦えなくなったと言って、ゴミのように始末しようなんて、血の通った人間の考えることじゃない。
(どうする)
さすがに虎千代も対処に焦った。いかに虎千代の剣技が神がかったものであるにしても彼方から飛んでくる銃弾から他人の身を守るような術があるわけがない。
「おいっ!」
その瞬間だ。
鬼小島が、ビダルの語勢を圧倒するように最大音量の声で吼えた。
「撃つなら俺を撃ってみろ!今のてめえに出来るんならなっ!」
まるで硬い岩肌すらびりびり震えるような、鬼小島の咆哮だった。
言うまでもなく今のは、どこかにいるイェスパに向かって言ったのだ。もちろん、はったりなんかじゃなかった。鬼小島は吼えると同時に、その巨体を曝け出すようにミケルとラウラの前に立ちはだかったのだ。
「聞こえるか」
どこかに隠れているはずのイェスパの反応はない。
鬼小島のその声は、木魂になってぐるぐる廻った。
「撃ってみろ、って言ったんだよ!それがお前が正しい、そう思うことならなあッ」
銃声は、響かない。イェスパが姿を現す気配もない。
それでも鬼小島は吼えながら前に進んだ。
「どうしたよ。お前の主君の判断ってのは、いつも正しいんだろ。そうお前言ってたよな!だったら俺が全力で阻止してやろうじゃねえかッ!ラウラより俺は、もっとやべえことしてやるぜ!?俺を仕留めてみせろよ」
鬼小島は無防備だ。両手を拡げ、自分ほど狙いやすい大きな標的はないと言うように一歩、また一歩と歩いていく。
「やっ、弥太そこまででよいっ。もうやめぬかっ」
さすがの虎千代も見かねた。
だって、これは無謀すぎる。
イェスパは、揺れる船上の虎千代を難なく狙撃したビダルと同じか、またはそれ以上の凄腕の狙撃手なのだ。いくら鉄製の兜を被っていると言っても、顔の部分が露出している眉庇の下を射抜かれればひとたまりもない。にも関わらず鬼小島はそれを真っ向正面から、晒しているのだ。
撃たれれば、本当に死ぬのだ。むしろ一方的な虐殺だ。これじゃ漢気勝負にもなりはしない。
「撃たねえのかっ?ビダルの命令なんだろ!おいっ、だったらこのまま腹黒を返してもらおうじゃねえか」
そこに立ちはだかるビダルすら無視して、鬼小島が黒姫がまだ監禁されていると思われる小屋にまで近づいていく。さすがのビダルも色をなした。
「イェスパ!私の命令が聞こえないのか。小屋に近づく奴は、みんな撃ち殺すんだ!ミケルも、小娘もみんな殺せと言っただろう!お前まで私の命令に逆らう気か!?」
ビダルの怒号が、鬼小島のそれに代わって木魂する。身を震わすほどの怒りを帯びたビダルの声にも、イェスパからの反応は返ってこない。
「私が間違っていたことがあるか?イェスパ、よく考えてみろ。取り返しのつかないことになるぞ!早く私の言うとおり、こいつらを撃ち殺せ!いいかっ、今、すぐにだ!」
そうこうしているうちに、鬼小島は小屋の前まで行き着いた。
「へっ、奴は上官殿の命令は納得出来ませんってよ。黒姫は返してもらうぜ」
と、鬼小島が小屋のドアに手をかけたそのときだった。
暮れかけた秋の空に、一発の乾いた発砲音が響き渡った。
僕たちは唖然とし、身を伏せることすら忘れた。やはり、イェスパが引き金を絞ったのだ。僕は鬼小島が、その銃弾によって撃ち抜かれたと思った。
しかし、狙撃は鬼小島を斃したりはしなかった。弾丸は小屋の屋根に当たり、朽ちかけた板葺き屋根を揺るがしたに過ぎなかったのだ。続く第二弾で僕たちは、発砲がまったく見当違いの方向から撃たれてきているものだと言うことを知った。
銃を撃ったのは、海上からである。しかも撃ったのは、イェスパなどではなかった。
島の唯一の出入り口である入江の向こうで、小さなボートが数隻こちらへ向かおうとしている。撃ったのはその先頭で小銃を構える男たちのようだ。
舳先に、知っている顔が膝立ちになって銃を向けている。
王蝉だ。
綾御前の読み通り、この倭寇の女頭目は海上から応援を呼びに行っていたのだ。
「あいにぇ!外してしまったですにぇ!これも新商品だったのにぃ!銃って難しいですにぇ!」
「あっぶねえなあ!てめっ、空気読めよ!漢と漢の勝負の最中だろうが!お前の流れ弾が当たったらどうすんだ!?」
鬼小島が悲鳴のような声を上げる。いや、さっきまでの潔さはなんだったのだ。
「黙れですにぇ!アンタでかいから、的にはぴったりだと思って撃ったのに当たらねえですにぇ!いいからそこでじっと立ってるですにぇ!」
「じょっ、冗談じゃねえや!」
椀飯振舞と言うか、意外とぞんざいと言うか王蝉は一発撃った銃を投げ捨てると、装填を完了した銃を受け取り、矢継ぎ早に発砲を続けてくる。それがある意味、凄腕が撃つより危険だった。あらぬ方向へぶっ飛んだ弾丸は僕たちの足もとはおろか、味方のはずのビダルや倒れているミケルの鼻先を掠め、どっちの足を引っ張っているのか判らない感じになっていたのだ。
だがそれで、再び状況は動き出した。
「うっうー、まーた外したですにぇ!あーんなに的がでかいのに!なんで当たらねえですかにぇ!?」
王蝉は商品のはずの新型銃をばんばん使い捨てだ。しかしそれにしてもあんまりだ。僕はその様子を不満そうに見ていた綾御前の言葉こそ、耳を疑った。
「へったくそめ!危ないではないかっ!もっとしっかり弥太郎を狙って撃たんか!」
えっ、えええっーっ!?
「あっ、姉上…そう言う問題じゃない…と思われますが…」
虎千代の突っ込みも顔も、さすがに引き攣っている。
「なぜじゃ!弥太郎に当たらなんだら、綾に当たるであろう!?」
「そっ、それは…」
当たり前のように部下を囮にして銃撃から身を守ろうとする綾御前にも、思わずみんながドン引きだ。
その身勝手さは、もはや鉄板だ。誰も続く言葉がなかった。
「銃はいい!早く上陸しろ!小屋に居るゲゼルと、人質を運び出すんだ」
ビダルが叫んだ。
危険なのは海上からの狙撃ばかりではない。王蝉は小さな船団に武器を持った倭寇たちを多数乗船させていたのだ。
恐らく、王蝉を含めて二十人はいるだろう。人数の利が一瞬にして覆った。
王蝉たちの舟は見る間に、船着き場に着いた。武器を持った男たちがわらわら浜辺に上陸してくる。これでは一対一などと、呑気なことをやってる場合じゃない。
「さあ、名残惜しいがお楽しみはこれで終わりだ。仕事を片付けよう」
数の有利で自信を取り戻したビダルは、皮肉げな笑みを虎千代に投げかけた。結局、ビダルが策謀を労した時間稼ぎは功を奏したのだ。
「さあーて皆さん、久々のお仕事ですにぇ!いい感じのお仕事をした奴には、日雇いの日給五割増しですにぇ!さっさと畳んじまうですにぇ!」
王蝉の煽りに、男たちが色めき立つ。格好も武器も雑多な倭寇たちに今いち統一感がないなと思っていたら、まさかの日雇いだ。
「ふん、寄せ集めの有象無象どもが調子に乗りおって!お前らなど、綾と弥太郎がおれば十分よ」
銃撃がなくなって威勢を取り戻した綾御前と鬼小島は、たった二人で上陸する男たちを喰い止めようと言うようだ。さすがに、腕っ節は頼りになる。
「へへへっ、こいつはやっといくさ場らしくなってきやがったな!おおいっ、こっちだこっち!さっさとかかってきやがれッ!」
鬼小島などは、啖呵を切る前に飛び込んで手近な奴を殴りつけている。
こうなると、問答無用だ。狭い浜に男たちが入り乱れて争い、あちらこちら乱戦が始まった。
さっきの一対一の対決のときとは打って変わって、混乱の極だ。
「真人っ、ミケルとラウラを物陰に!」
虎千代の声が降ったときには、元の位置にあいつはいない。見る間に群がった三人の戦闘不能にして、男たちが入り乱れる修羅場に姿を消していた。
僕たちの背後に、抜け道の入口だった岩場がある。僕はそこにラウラとミケルを連れて行った。ここなら乱戦に巻き込まれることはないだろう。
「真人サン、ワタシとミケル大丈夫。いいから早く戻って」
ラウラの言葉に僕は、自分の焦りを見透かされた気がした。
ビダルはこうしている間にも、虎千代との戦闘なんかにこだわるはずもなく黒姫を収容してさっさとここから去る気なのだ。あれほどの数を相手に乱戦になって、みんながそれを喰い止めるのに精いっぱいだとしたら、後はその間隙を縫って僕が黒姫の救出に奔るしかない。
大丈夫だ。
僕は、自分の中の勇気を残らず奮い起こした。命を賭けた修羅場なら、もう何度か自分の力でくぐり抜けているはずじゃないか。
「武器、必要。これを」
と言うとラウラは腰についた真新しいナイフを、革のシースごと僕に投げ渡してくれた。
「ありがとう」
僕は大きく息を吸い込むと、戦場のただ中へとひた奔った。
断続的な銃声と、身が縮まるような怒号、悲鳴。そして突発的に起こる流血。
僕はこの戦場に慣れることは決してないだろう。いつ来ても、この途轍もない違和感に居ても立ってもいられなくなる感覚は、忘れられるはずもない。
それでも生きるためなら奔るしかない。僕はそれを、虎千代に、長尾家の人たちに戦場を通して教えてもらった。そこに生も死も意味はない。ただそれでも、強烈に生きようと、恐怖を顧みない行動を続けたものが、そこをくぐり抜ける生命力を得るのだ。
落日はすでに山蔭を黒く、焦げつかせている。視界が極端に悪い中、銃も効果を発揮しなくなっている。王蝉の手下の倭寇たちが、暮れゆく時間に合わせて準備してきたのだろう。そこここで松明が点り、そこに妖しく血なまぐさい戦場を照らし出している。
その中で、虎千代の姿はすぐに発見出来た。
虎千代は。
黒姫のいるあの小屋にすでに近づいている。足元に無数の落ちた松明が燃え広がり、小豆長光を携えるいくさ乙女の姿を、くっきりと照らし出していた。この闇に沈みかけの視界の中でも虎千代は無敵だ。四足を修めたその剣は、刃圏に入るものを容赦なく斬り裂いた。そのため虎千代の周りには、驚くほど敵がいない。
もちろん、倭寇が虎千代に近寄らない理由はもう一つある。彼女が対峙している悪魔の存在だ。
この支離滅裂の乱戦にもはや、人質の黒姫のいる小屋を守るのはビダルだけになっていたのだ。
長かった。ここでついに虎千代の望む状況が巡ってきたのだ。彼女はごくゆっくりとした動作で小豆長光をビダルの動きを制するように振り向けていた。そのビダルの手も腰のボウイナイフのシースに伸びている。
「ビダル」
この乱戦の雑音の中だ。そのさなかの僕の耳にも。
「決着をつけよう」
断言した虎千代の声が、はっきりと聞こえた。




