TIME IS OVER
時間は人を待ってはくれない。
往々にして、時間が人を置いてどんどん先走ることがある。それに対して必死に追いつこうと食らいつく者もいれば、途中で頓挫する者もいる。しかし、『光陰矢のごとし』という諺があるように、時間というのはとてつもなく速いものである。置いていかれた人間がそう容易く追いつけるものではない。
必死に努力をしたはいいが、結果徒労に終わるというケースも少なからずある。こういった事態に陥ったしまった時の心的苦痛は想像を絶するものだ。結果だけが残って、それまで支払ってきた何もかもが水泡に帰すというのだから目も当てられない。
それを考えると、ある程度の所で見切りをつけるというのが肝要なのではないだろうか。つまりは追いつけそうにないと思ったら、いっその事追いかけるのを止めてしまうのだ。その場に立ち止まり、時が過ぎ去り見えなくなってしまうのを待つ。人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるものだ。いっそ満面の笑みなど浮かべつつ「じゃあな!」などと諸手を振って、走り去る時間と別れを告げれば清々しい気分になれるというものだ。
うん、つまりはそういうことだ。
そう考え、俺は手に持っていたシャーペンを机に置いた。
周囲からはカリカリカリカリと忙しなく文字を書き綴る音が聞こえてくる。このような執拗に焦燥感を煽る音に包まれていては、書ける物も書けない。
壁に掛けられた時計をちらりと見る。テスト終了の時間まで残り五分。時計から視線を落として、今度は自分の答案用紙を見る。驚きの白さだ。うん、無理。
今から五分、例え必死に解答に取り組んだとして、どれだけ点数が増えるというのだ。そんなもの、微々たるものに決まっている。そんな点数のために気力を擦り減らすように問題を解いたとして何になるというのだ。素直に白旗を上げた方が、精神衛生上好ましい。
所詮は大学の試験。別に単位がやばいわけでもないし、この講義を落としたって誰かに見咎められるわけではない。どうせすぐに終了時間が来る。そうなれば地獄のような時間は走り去り、この試験の惨憺たる結果などすぐに忘れてしまうのだ。
「ねえ、佐崎くん。試験どうだった?」
試験が終わり、答案用紙を提出し終わって学生が散り散りに退出している中、人を掻き分けて花嶋が話しかけてきた。彼女とは同じゼミに所属している。
「え……まあ、それなりに出来たよ」
勿論嘘だ。今にもメソメソ泣きだしたいくらいの出来だった。それでもこんなことを言ってしまうのは、生来の見栄っ張りな性分のせいだろう。
「え、ホント? 私は全然だったよぉ。涙が出そうなくらい」
奇遇だな、俺もだよ、なんてことは言えない。
「あ、そうだ。あのさ、今の試験の第三問目の答え、何て書いた? 私、あそこすっごく悩んだんだ」
……ごめん、第三問目ってどんな問題でしたっけ? 論述式の問題だったのはなんとなく覚えているんだけど、考える前に解くのを止めてしまったので、内容は覚えていなかった。
「花嶋はなんて答えた?」
「え? えーとね――」
彼女は自分が記述した答えをぽつぽつ思い出しながら説明する。
「あー、俺も大体そんな感じ。多分それで大丈夫だと思うよ」
「やった。ならいいんだ、ありがとぉ」
自分の解答に自信が持てたのか、花嶋は嬉しそうに笑った。
「ねぇ、ご飯食べに行こー!」
俺達から少し離れた所から、数人の女学生が花嶋を大声で呼び掛ける。「うん、今行くー!」と花嶋が返事をした。それから俺の肩にポンと手を置いて「それじゃ、またね」と言い残し、女学生たちのグループと合流した。
俺は花嶋が触れた肩にそっと触れ、彼女が人の波に飲まれ、教室の外に消えていくのをその場で見送った。
*
時間というのはすべての人間に等しく流れている。いや、正確にいえば時間も絶対的というわけではない。詳しいことは知らないが、相対性理論がそれを証明していたはず。とはいえ、ジャンボジェットに数時間乗って、地上の人間と1秒ずれる程度の差でしかない。そんなもの、人生という悠久の時間の中ではミジンコみたいなものだ。無視しても大丈夫だ、問題ない。
だが、このほぼ等しく流れる時間をどのように感じるかについては、人によって千差万別であることは言うまでも無い。子供の頃には長く感じた一年も、年嵩が増すにつれて次第に短く感じるものだ。また、ストーブに上に手を置く一分と好きな女の子と話す一時間は等しく感じる、と言ったのはアインシュタインだったろうか。苦しい時には時間が長く思えるのに対して、楽しい時には時間などあっという間に過ぎてしまう。
しかし、時間というものが最も速く駆け抜けるのは楽しい時ではない。それは怠惰に過ごしている時だ。
怠惰に過ごすということは、つまり時間のほとんどを無意識で過ごすことだ。無意識といっても、何も考えてない訳じゃない。一応何かは考えている。ただ、それがこの上なくどうでもいいことだ、というだけである。エロい妄想なんかがその最もたるものだ。
しかし、考えていると言っても頭は全く使っていない。そりゃそうだ、だって真剣に考えている訳ではないのだから。〆切があるわけでもないし、先に繋がるような実のある思考でもない。思いついたことをなんとなーくぐるぐる頭の中で回しているだけ。だから、状態としては無意識に等しい。
このような状態なら時間を早く感じるのは当然だろう。なにせ時間感覚を一切機能させることなく時を過ごすのだから。究極的にはニートがその典型だろう。ついこの間が一日だったかと思えば、今日はもう十五日じゃないか、なんてこともざらにあると聞く。これはつまり一日から十五日までの二週間をまともに認識していないことに他ならない。時が速く流れるどころではない。これは意識的には時を跳躍しているのと同じ感覚だ。なにせこの無為に過ごした時間を、ろくに覚えていないこともしばしばあったりするのだから。そんな空虚な時間など存在しなかったに等しい。
……いけない、ついつい饒舌になってしまった。興奮するとこれだからいけない。
こんなに長々と語って、一体何が言いたいかと言うと。
――気が付いたら、レポートの期日が明日に迫っていたのだ。
〆切までまだ余裕がある、なんて余裕をかまして遊んでばかりいたら、本当に時を飛び越えていたのだ。いや、マジで。ついこの前提示されたかと思えば、もう〆切って、何の冗談だと思った。
俺はこの期間中、何をしていたかと思い返せば、特にこれと言って何もしていなかったように思える。実に密度の低い時間を送ってきたようだ。軽く鬱になりそうだ。
しかし今は落ち込んでいる場合ではない。こうしてグダグダ過ごす一分一秒が惜しいのだ。早々にレポート作成に取りかからねば。
今からやって間に合うかと言えば、正直な話微妙な所だ。クオリティを度外視すれば間に合うかもしれない。いや、間に合わせなければならない。今回のレポートは必修講義のものだから、出さないという訳にはいかないのだ。栄養ドリンクでも珈琲でも何でも飲んで、集中して一晩頑張らなければならない。
……どれだけの時間が経過しただろうか。ふと外を見れば夜はすっかり明けて、東雲の空が煌々と紅に光り輝いていた。徹夜明けの目には少し痛い。
レポートは決死の努力により、どうにか終了の目処が立った。人間、追い込まれれば思わぬポテンシャルを発揮するものだ。自分もまだまだ捨てたものではないな、と自分を褒めてみる。
とはいえ、相当に過酷な労働であった。作成の途中、何度挫けそうになったか分からない。なぜ今まで少しずつでも進めてこなかったのか、もし時間を遡れるなら一週間前からコツコツやるのに、などと今となってはどうしようもない後悔ばかりが溢れ出てきた。
こんなのは二度と御免だ、来期はちゃんと計画的にやろう。そう強く心に決めた。と言っても、来期にはまた同じ轍を踏みそうだから怖い。なにせ自分という人間は、どうしようもないほどの馬鹿なのだ。頭の良し悪しではなく生き方が馬鹿。損だと分かっていて、そちらを選ぶから世話が無い。それを頭が弱いと言うのだ、と言われてしまえば返す言葉が無いが。
まあ、それはどうでもいい。とにかく今はレポートを仕上げることが最優先事項だ。とっとと書き上げて一息つくことにしよう。教科書片手に再びパソコンと睨めっこを始める。
「――あ、佐崎くん!」
ぼんやりとした頭を右に左にふらつかせながら教室に入ってきた俺は、花嶋の明るい声に「んあ?」とだるそうな声で返した。
「あれ? もしかして寝不足?」
花嶋はキョトンとした表情で訊いてきた。俺は花嶋の後ろの席にドスンと座る。隣に座る勇気のない俺は意気地なし。
「んー、ちょっとね。徹夜で友達と飲んでた」
全く働かない頭でも、当たり前のように嘘をつける自分に少し自己嫌悪する。そもそも俺には徹夜で飲み明かすような気心の知れた友人はいない。サークルもして無けりゃ、バイトもしていない自分にいつそんなものを作れというのだ。それでも友達いっぱいいますよアピールだけはしたい自分はやっぱり見栄っ張り。
「うわぁ、だったら講義受けるのきつそうだね」
「まあ、ね。でも、今日レポートの提出期限だから休めないし」
「そう言えばそうだった」
と花嶋はおどけるように言った。
「私、レポート作るの忘れてて、慌てて三日前から作り出したんだ。ホント、私考えなしだよね」
そうかそうか、3日か。俺は昨日と今日で作りましたぜ、へっへっへ。
「佐崎くんはどう? レポート、結構自信作?」
んー、自沈作かな。推敲もろくにやってない文章だ。誤字脱字もたくさんあるだろうし、なにより教科書の内容をひたすら抜き出したような文章で、全く自論を展開させていない。それでも不可だけは何とか免れそうな出来。たとえ不可だったとしても、泣いて土下座して、意地でも貰いますけどね。
「あれ、なにその不敵な笑みは? あー、やっぱり自信あるんだ。見せて見せて」
「やだ」
俺の返答は早かった。危険な流れを察知したので脊髄反射で返事をした。
こんなものを見せた日には、俺は彼女にとって嘲笑の対象になりかねない。断固として見せてはいけない。「えー、いいじゃんいいじゃん」
花嶋が突然俺の手の上に覆いかぶせるように自分の手の平を乗せてきた。俺は思わずぎょっと目を剥いた。何だこの手は、一体何の意図でこんな真似を。彼女の手はひんやりとしていてちょっと気持ち良かった。若干あざといなと心の中で思いながらも、別に見せてもいいんじゃないかという気持ちにさせられた。女はホント卑怯だ。
「――はい、それじゃあ講義を始めるぞ」
突然のしゃがれた声に俺の葛藤は中断させられた。教室の前方には、教卓に手をついて教室を見渡す教授の姿があった。いつの間にか来ていたようだ。
「ほらほら、教授も来たよ」
宥めるように俺はそう花嶋に言った。「残念」と漏らして花嶋は黒板の方に向き直った。
助かったと胸を撫で下ろす一方で、教授め空気読めよと憤る自分がいた。彼女と話した五分足らずの時間。長かったような一瞬だったような、曖昧な時間だった。
*
何事にもタイムリミットというものがある。
テスト然り、レポート然り。社会に出ればノルマとオプションで付いて回るし、娯楽にだって存在する。
永遠に続くことなどありはしない。何をするにしても終わりは訪れるし、そもそも終わりが来なけりゃ何をする気にもなれない。そんなことは言わなくても誰だって分かってる。
だけど、タイムリミットというのは常に明示されている物ではない。これこれはいついつまでにやっておきなさい、なんてことを常に誰かが親切に教えてくれるわけではない。だから何事にもこれが付いて回ることを忘れて、怠けてばかりいるとろくなことにならない。今の俺がいい例だ。
タイムリミットはペースメーカーだ。もしくはモチベーションだ。
終わりがあるから、人は何かを為そうとする。だけどやっぱりタイムリミットはいつだって目に見えるわけではない。気が付けばとっくに過ぎていることもあれば、まだまだ何十年も先ということさえあり得る。いつ終わるか分からない。だから常にこれを意識して動くことが必要。
今更になってこんなことを思う俺は、やっぱり馬鹿なんだろうな。
秋の寒空の下、俺はベンチに座って紙コップの珈琲を飲んでいた。視線の先には寄り添う二人。花嶋ともう一人、どっかの知らない男。最近になって頻繁に見るようになった風景だ。一つのマフラーを互いの首に巻きつけて、ひどく妬けます。
というか、ごめんなさい。花嶋さん、正直あなた、俺に惚れてると思ってました。だってあんな風に接しられたら勘違いするじゃん。自惚れてた自分がすごく恥ずかしい。
それでも、憎からずは思ってくれてたんだろうな。これも自惚れかもしれないけど。
こんなことになったのは、俺が怠惰だったからなんだろうね。このまま気が付けば恋人関係になれる、なんて漠然と思ってた。そんな訳ないって、考えれば分かるはずなのに。気が付けばタイムオーバーって笑えない。
まあ、人間喉元過ぎれば熱さを忘れるって言うから、過ぎ去る時間にバイバイしていればいずれ忘れるだろ。自嘲気味の苦笑を浮かべ、手に持つ紙コップを口元へ運んで、ゴクリと珈琲を口に飲み込んだ。
「……熱っ」
丁度1年くらい前に書いたものです。
PCいじっていたら偶然見つかったので、投稿しました。
こういうのも若さなんだと思います。