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婚約者にべったりのピンク髪の特待生? ええ、どうぞご自由に

作者: 灯野ましろ
掲載日:2026/10/25

 伯爵令嬢クラリス・エルフォードは、婚約者レオナール・ヴァルシュタインが、ほかの女性にキスをするところを目撃した。


 初夏の昼休み、学院の回廊でのことだった。相手は、今年入学したばかりの平民特待生リネット。艶やかな桃色の髪をした少女は、初めての試験で学年上位十名に入っていた。ほかの九名は、いずれも高位貴族の子弟だった。


「素晴らしい成績だね、リネット。君は本当に賢い子だ」

「レオナール様が教えてくださったおかげです!」


 レオナールは微笑んでリネットの髪を撫で、頬にちゅっと口づけた。


 周囲が凍りついた。

 レオナールはヴァルシュタイン侯爵家の令息で、父である現侯爵から領地の運営を任されていた。気まぐれで娘を侍らせるような人物ではない。誰もが認める誠実な貴族だった。

 その人が、平民の娘にキスをした。


「……クラリス様がいらっしゃるのに」

「婚約はどうなるのかしら」


 囁き声を聞いたリネットが、そっとクラリスを見た。


 勝ち誇った笑みだった。


 ところがクラリスは、少しも顔色を変えなかった。


「リネットさん、試験で上位に入られたそうですね。おめでとうございます。努力が実りましたのね」

「……ありがとうございます」


 祝われた少女のほうが、拍子抜けしたように瞬きする。


「クラリス。今日は一緒に帰ろう。馬車を待たせてあるんだ」

「ええ、喜んで」


 レオナールは当然のようにクラリスへ手を差し出した。彼女はその手を取り、婚約者と並んで歩き始める。

 その背中を見送りながら、リネットは唇を噛んだ。


 きっと、あの令嬢は無理をして笑っているのだ。


 だって、愛する男がほかの女にキスをしたのに、平気でいられるはずがない。

 リネットはそう信じて疑わなかった。


* * *


 レオナールがリネットの学びを熱心に応援していることは、入学した頃から学院で知られていた。

 学院には成績優秀な生徒の学費を免除する特待生制度があり、リネットもその一人だった。資格は一年ごとの成績審査で更新される。入学当初の彼女はそれをよく理解し、夜遅くまで机に向かっていた。


「その本は難しいだろう。分からないところは僕に聞くといい」

「もう少し頑張ります!」

「偉いね。君がどこまで成長するか、楽しみだよ」


 高価な参考書を贈られた。冬には身体を冷やさないようにと厚手の外套も届けられた。試験でよい点を取れば頭を撫でられ、喜びのあまり抱きつけば、彼は笑って受け止めてくれる。


「大好きです、レオナール様!」

「僕も君が大好きだよ」


 そんな言葉だって、何度も交わした。


 ただ、一つだけ妙なことがあった。

 レオナールはクラリスとの婚約について、隠そうとも破棄しようともしないのだ。学院を訪れる日はクラリスを同伴することも多く、彼女の椅子を引き、歩幅を合わせ、さりげなく疲れを気遣う。

 リネットに笑いかけるときと、クラリスに微笑むときとでは、どこか雰囲気が違った。


 リネットには、それが腹立たしかった。

 自分にはあれほど愛情を注いでくれるのに、肝心の婚約だけが動かない。だからきっと、伯爵令嬢との婚約には家同士の事情があるのだろう。優しいレオナール様は、自分から冷酷なことを言えないのだ。

 そう思い込むうちに、リネットの生活も変わっていった。


「最近、勉強してないみたいだけど、次の試験は大丈夫?」


 机に向かう同級生に尋ねられて、リネットは笑った。


「そんなに必死になる必要、あるかしら。わたしには、もっと大切な将来があるもの」


 初めは、毎晩の復習を翌日に回すことが増えた。やがて試験が近づいても机に向かわなくなり、レオナールが学院を訪れる日には、講義を休んで彼に会いに行くようになった。

 成績は少しずつ落ちていった。それでも、リネットは焦らなかった。

 いずれ侯爵夫人になるのだから、優秀な特待生という肩書など、もう必要ない。


 最終学年を迎える前、学院から届いた通知には、特待生資格の更新を認めないと書かれていた。成績が基準に達しなかったのだ。

 続いて届いたのは、最終学年の学費を全額納めるよう求める請求書。貴族の子弟が通う学院の学費は、平民のリネットには途方もない額だった。

 学院はしばらく納付を猶予してくれたが、その期限を過ぎても払わず、今では督促状が重なっている。リネットはその内容も知っていた。


 それでも、机の引き出しに押し込んだままだ。


 ――もうすぐ侯爵家に嫁ぐのだから、こんなものは夫のお金で片づく。


 リネットは特待生の資格を失ったことも、学費を督促されていることも、レオナールには話していなかった。

 将来の侯爵夫人になる自分が、学費の相談などするのは格好がつかないと思っていたからである。


 自分があの人を自由にしてあげれば、すべてうまくいく。

 リネットは、ますますそう信じるようになった。


* * *


「クラリス様、少しよろしいですか?」


 学院の庭で声をかけられたクラリスは、読んでいた手紙を閉じた。


「ええ、どうぞ」

「わたし、レオナール様とは特別な関係なんです」

「存じておりますわ」


 その返事に、リネットは目を丸くする。


「……ご存じなら、どうしてお二人は婚約したままなんですか?」

「婚約を解消する理由がございませんもの。何も心配しておりませんわ」

「わたし、あの方にキスまでしていただいたんですよ?」

「ええ。あの日も拝見いたしました」


 クラリスは穏やかに頷いた。

 いくらなんでも、余裕ぶりすぎではないか。

 リネットの胸に、怒りが湧いた。


「そんなに家柄が大切なんですか。愛情のない結婚なんて、誰も幸せになりません」

「レオナール様のお気持ちを、わたくしが代わりに語ることはできませんわ」

「では、身を引いてくださるんですか?」

「いいえ。わたくしとあの方の婚約は、今も続いておりますもの」


 リネットは苛立たしげに眉を寄せた。


「あの方に愛されているのは、わたしなんですよ!」

「でしたら、そのお気持ちはご本人にお伝えになるのがよろしいと思いますわ」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「わたくしから申し上げることは、それだけです」


 まるで相手にされていない。

 リネットは唇を噛んだ。


 翌日から学院には、新しい噂が広まった。

 ――レオナールはクラリスとの婚約を破棄すると決めたのに、伯爵令嬢が地位にしがみついているらしい。

 言い出したのはリネット自身だった。レオナールがそんな約束をしていないことは、誰より彼女が知っている。

 それでも、学院中が認めてしまえば、優しい彼は自分を選んでくれるはずだ。

 噂に乗ってクラリスを笑う生徒が現れても、リネットは訂正しなかった。


 やがてクラリスが噂を否定しても、リネットは鼻で笑った。

 ――捨てられる側が、今さら何を言っているのかしら。


 何も知らない令嬢に、今度こそ本当の愛を教えてあげよう。

 そう決めて、リネットは祝賀会の日を待った。


* * *


 最終学年の終わりが近づいた春、学院で祝賀会が開かれた。

 レオナールはクラリスを伴い、招待客として会場に来ていた。リネットもほかの学生と同じように出席している。

 入学した年には好成績をあれほど褒めてもらえたのに、今年は誰も成績を話題にしない。少しだけ不満だったが、すぐに忘れた。

 今夜を過ぎれば、もう特待生の資格も成績も関係なくなる。


「レオナール様。皆さんの前で、お願いがあるんです」

「何だい?」

「わたしとの関係を、きちんと認めてください!」


 会場がざわついた。


「わたしたちは愛し合っています。もう隠す必要なんてありません!」

「隠す?」


 レオナールは小首を傾げた。


「僕が君を大好きなことなら、最初からみんな知っていると思うけれど」


 リネットの胸が熱くなった。

 やっぱりそうだ。彼は認めてくれる。

 リネットはクラリスを振り返った。


「聞きましたよね、クラリス様。いつまで婚約者の椅子にしがみつくおつもりですか? もう愛されていないことくらい、認めたらどうです?」


 何人かの生徒が顔を見合わせた。彼らは、リネットから『婚約破棄は決まっている』と聞いていたのだ。

 クラリスは一歩も動かなかった。


 リネットはレオナールの腕に縋りついた。


「レオナール様! クラリス様との婚約を破棄してください。そして、わたしと結婚してください!」


 会場に、静寂が落ちた。

 レオナールは目を瞬かせた。


「……結婚? 僕と君が?」

「そうです!」


 リネットは満面の笑みで頷いた。

 次に返ってくるのは、きっと感動的な愛の誓いだ。


「一つ聞いてもいいかな。さっきこの会場で、僕がクラリスとの婚約を破棄すると言ったという噂を初めて聞いたんだ」

「そ、それは……」

「そんなことは一度も言っていないよ。クラリスは僕の婚約者だ」


 会場のあちこちで、どよめきが上がった。

 リネットから「婚約破棄は決まっている」と聞いてクラリスを笑っていた生徒たちが、気まずそうに目を伏せる。


「そ、そんなこと、今から決めればいいじゃありませんか!」


 リネットは声を張り上げた。


「わたしのことが好きなんでしょう!?」

「もちろんだよ。君は本当に賢くて、可愛い子だ」

「だったら、わたしを妻にしてよ! キスまでしてくれたじゃない!」

「うん。したね」


 レオナールはあっさり認めた。

 リネットは勝ったと思った。


「結婚して、夫婦として暮らすの! ただ可愛がるだけじゃなく、女として愛してほしいのよ!」


 レオナールはようやく何かに気づいたように、眉を寄せた。


「……君は、僕とそういう関係になりたかったのかい?」

「当たり前でしょう! 愛し合っているんですもの!」


 彼は申し訳なさそうに首を振った。


「それは困るよ。僕に獣姦の趣味はないよ」


 会場が凍りついた。

 誰かの落とした扇が、床に乾いた音を立てる。


「…………は?」


 リネットは笑顔のまま固まっていた。


「そんな……何を言ってるんですか。わたしは人間ですよ?」

「でも、君は平民だろう?」


 レオナールは心底、不思議そうだった。


「平民ですけど、人間です! 犬や猫じゃないんです!」

「もちろん、犬や猫とは違うよ。でも、可愛いから頭を撫でたり、抱きしめたり、キスをしたりするだろう? 君にも、そうしただけなんだ」


 リネットの喉が、ひゅっと鳴った。


「……じゃあ、今までの『大好き』も……?」

「本当だよ。君が立派に育つのを見るのは、僕にとって何より嬉しいことなんだから」


 彼の笑顔は、先ほどまでと少しも変わっていない。

 からかっているのではない。見下して笑っているのでもない。

 ただ、リネットを妻に迎えることなど、初めから考えたこともなかったのだ。


「平民だって、人間でしょう!?」

「そうなのかい?」


 レオナールは、初めて聞く話を真面目に考えるように瞬きした。

 次いで、穏やかに頷く。


「君は、そう思っているんだね」


 言い争う気配すらない。

 リネットはようやく理解した。彼の優しさは最初から本物だった。ただ、自分が受け取りたかったものとは、まるで違ったのだ。

 彼女はクラリスを振り返る。


「ですから、何も心配しておりませんと申し上げましたのに」


 クラリスは変わらず穏やかだった。


「リネット。僕の振る舞いが君を勘違いさせたのなら、ごめんね。これからは君が嫌がることはしないよ」


 レオナールは痛ましそうに眉を下げた。そこには嫌悪も嘲笑もなかった。


「君の学びを応援したい気持ちは変わらないよ。困ったことがあれば、いつでも頼っておくれ」

「……結構です!」


 リネットはレオナールの腕から手を離し、会場を駆け出した。

 誰も追いかけてこなかった。


 扉の向こうに出た途端、足が止まる。

 寮の机の引き出しには、何度も届いた督促状がある。最終学年の学費は、まだ一銭も納めていない。猶予された期限さえ、すでに過ぎていた。


 侯爵家に嫁ぐのだから、自分で払う必要などない。

 そう決めつけて、支払いも、勉強も、放り出してきた。


 今なら、レオナールに頼めば助けてくれるかもしれない。

 あの人はきっと、断らない。


 けれど、それは恋人を助けるためではない。

 可愛がっている生き物を見捨てないだけなのだ。


 リネットは扉に背を向けたまま、動けなかった。

 今さら、あの優しい声を頼ることもできなかった。


* * *


 数日後、クラリスはレオナールとともにヴァルシュタイン侯爵家の領地を訪れていた。

 あの日、リネットに問われた婚約を続ける理由。その答えは、ここにあった。

 丘を下った先には、小さな村がある。

 村の入口で馬車を降りると、一人の老人が深く頭を下げた。


「レオナール様。先日は医師を寄越してくださり、ありがとうございました。おかげで、うちの婆さんも歩けるようになりました」

「それはよかった。まだ無理はさせないでね」

「はい。診療代までご負担いただいて……。本当に何とお礼を言えば」

「病気になったからって、放っておけないだろう?」


 レオナールは老人の肩に優しく手を置いた。

 村へ進むと、広場では子どもたちが教材を抱えてはしゃいでいた。


「レオナール様! 今度の読み書きの試験、全部できたよ!」

「それはすごい。頑張ったんだね」


 彼はかがんで子どもと目線を合わせ、心から嬉しそうに笑った。

 少し進んだところで、村長が駆け寄ってくる。


「去年の凶作では、お蔵を開けてくださったうえに税まで減らしていただいて……。あのときレオナール様がいなければ、村の子どもが何人飢えたか分かりません」

「お礼なら、今年の畑が元気になってから聞かせておくれ。まだ蓄えはあるから、困ったら遠慮しないこと」

「はい! レオナール様ほどお優しいお方は、どこにもおりません!」


 何人もの村人が、口々に感謝を伝えてくる。

 彼らの服は繕われてはいても清潔で、子どもたちの頬には赤みがあった。暮らしは楽ではないが、病人も、働けなくなった老人も見捨てられない。


「長年働いてきた方々にも、安心して暮らしてほしいのですね」


 クラリスが尋ねると、レオナールは不思議そうに頷いた。


「もちろん。若い頃に元気だったからって、年を取って捨てていい理由にはならないよ。老犬だって、馬だって、最後まで大切にするだろう?」


 クラリスは、小さく息を吐いた。

 この人にとって、老いた馬と老いた領民を守る理由は、本当に同じなのだ。


* * *


 帰り際、村長が帽子を脱ぎ、両手で胸の前に握りしめた。


「レオナール様。我々のような者まで、これほど大切にしてくださるなんて……。皆、心から感謝しております」


 レオナールは困ったように笑う。


「そんな大げさなことじゃないよ」

「いいえ! 世の中には、我らを同じ人間と言いながら、病気になれば追い出し、腹が減れば怠け者と罵る領主もおります。それに比べてレオナール様は……!」


 村長の目には涙さえ浮かんでいた。

 レオナールは微笑み、当然のことのように言った。


「自分の飼っている生き物を幸せにできないなんて、飼い主失格だよ」


 村長は、一瞬きょとんとした。

 それから声を上げて笑う。


「ははは! またそのような冗談を! 照れ隠しがお上手なんですから!」

「冗談じゃないんだけどなあ」

「分かっておりますとも! レオナール様は本当にお優しい!」


 老人も、子どもたちも、笑っていた。


 クラリスは隣に立つ婚約者を見上げた。

 この人の考え方を、理解できるとは今でも思わない。

 けれど、彼が救ってきた人々の笑顔は、ここにある。


「クラリス。どうかした?」

「いいえ。今日も皆さんがお幸せそうで、嬉しくなりましたの」

「僕もだよ」


 レオナールは嬉しそうに頷き、それからクラリスの手を取った。


「君と、これからもずっと一緒にいたい。帰り道も、隣にいてくれるかな」

「ええ。もちろんですわ」


 その言葉が、先日、リネットへ向けた「大好き」とはまるで異なるものだと、クラリスは知っている。

 レオナールは彼女の手の甲に、そっと口づけた。

 村人たちから祝福の声が上がる。

 村人たちは、レオナールが心から自分たちを愛していると信じていた。


 それは、まったく正しい。

 ただ、レオナールが自分たちを何だと思っているのか、その言葉だけは誰も本気にしていなかった。


 嘘など、一つもついていないのに。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作とは独立した小説ですが、下記小説もご興味を持っていただけましたら、お読みいただけたら幸いです。


『おクスリ聖女様』

https://ncode.syosetu.com/n1196mx/

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― 新着の感想 ―
実際どうなんだろ ハウスメイドとか家具みたいにみてる資産家とか現代でもいそうだし、とりあえず平民の前で「え?君たち(平民たち)人間だと思ってるの?」みたいな事は言わないように婚約者さまが上手いこと教育…
まぁレオナールの考え方ある意味正しいっちゃ正しいんだよな…ちゃんと最後まで面倒見てるし。この社会まだ大衆がいないので、階層の移動がないんでしょうね。そういう社会で外憂がなければまぁそうなるよね…。領民…
レオナールがどこかで平民に刺されて死ぬか、没落して平民落ちするエンドが待っていますように!
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