「チェスしか能がない地味な令嬢」と婚約破棄された私ですが、実は大陸最強の『白銀の棋士』でした。今更「戻ってきてくれ」と言われましても——チェックメイト、貴方の負けです、殿下
「婚約を破棄する」
銀細工のチェス盤が、耳障りな音を立てて私の足元に転がった。
駒が散らばる。白のクイーンが、私の爪先で虚しく回転して止まる。
アルベルト殿下の金髪が、夜会の燭台に照らされて眩しい。その美しい顔に浮かぶのは、勝ち誇った残酷な笑み。
「君のような退屈な女とは終わりだ、リディア」
広間がざわめく。今宵は王宮の夜会。数百の貴族たちが、この断罪劇場の観客となっていた。
(あー、やっぱりこうなったか)
私、リディア・クレセントは内心で溜息をついた。表情は微塵も動かさない。三年間、この瞬間のために心を殺す訓練をしてきたようなものだ。
「チェスしか能がない地味な令嬢など、王太子妃に相応しくない」
殿下の隣で、蜂蜜色の髪の美女がしなを作る。セレナ・ヴィヴィアーノ。社交界の華と称えられる、まばゆいばかりの美貌。
「あら、リディア様。お可哀想に」
紅い唇が、同情を装って毒を吐く。
「私、か弱い女ですもの。殿下のお心が私に向いてしまったこと、どうかお許しくださいませ」
(白々しい。全部あなたが仕組んだくせに)
知っている。セレナが殿下に何を吹き込んだか。私の正体を——いや、私の『名声』を奪おうとしていることを。
でも、いいのだ。
むしろ、ようやく。
「殿下」
私は静かに口を開いた。散らばったチェスの駒には目もくれず、真っ直ぐに王太子を見据える。
「……なんだ。泣いて縋るか? 見苦しいぞ」
「いいえ」
三年間押し殺してきた微笑みが、自然と浮かんだ。
「お望み通りに」
たったそれだけ。
深く優雅に一礼して、私は踵を返した。
「待て、リディア! 何故謝らない! 何故許しを乞わない!」
背後で殿下の怒声が響く。彼は私が泣き崩れ、縋りつく姿を見たかったのだろう。そうすることで、自分の決定の正しさを確認したかった。
(残念でした、殿下)
私は振り返らない。
(あなたのチェスがいつまでも上達しなかった理由、わかります? 先を読む力がないんですよ。三手先すら)
夜会の扉が閉まる音が、終局の合図のように響いた。
◇ ◇ ◇
控えの間で待っていたマーサが、私の姿を見て目を見開いた。
「お嬢様……!」
「大丈夫よ、マーサ」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みだった。
「——やっと、自由になれた」
マーサの皺だらけの目から、涙がこぼれ落ちる。
「お嬢様の価値がわからぬ方など、こちらから願い下げでございます」
「ふふ、そうね」
窓の外、月明かりが銀色に輝いている。
『白銀の棋士』。
大陸中の王侯貴族が対局を熱望し、その指導を最高の栄誉とする伝説の棋士。
それが私の、もうひとつの名前。
アルベルト殿下は知らない。自分が「退屈」と「地味」で切り捨てた女が、どれほどの駒を動かせるのかを。
(さて、殿下)
私は散らばった駒を思い浮かべる。白のクイーンが、静かに立ち上がる幻視。
(本当のゲームは、これからです)
◇ ◇ ◇
婚約破棄から三日後。
私は自室で、一通の手紙を広げていた。
『次の対局を心待ちにしています。貴方の指し手は、いつも私に新しい地平を見せてくれる——エドワード・V』
隣国ヴァルトシュタイン王国の国王陛下。私が『白銀の棋士』として三年間文通を続けている、顔も知らぬ対局相手。
彼の文面は、いつも私の心を温かくさせた。私のチェスを、私の思考を、誰よりも理解してくれる人。
『貴方のクイーンの動きには哲学がある。勝利への最短距離ではなく、美しさを追求している』
そう書いてくれた人。
「お嬢様、お兄様がいらっしゃいました」
扉をノックする音と共に、マーサの声。
「通して」
入ってきたのは銀灰色の髪の青年。兄、レオナルド・クレセント。騎士団副団長を務める有能な人物で、私の数少ない理解者だ。
「リディア。元気そうだな」
「お兄様こそ。心配して駆けつけてくださったの?」
「心配?」
兄は鼻で笑った。
「むしろ好都合だと思っているが」
(やっぱり、この兄にして私あり)
「お兄様、噂は聞いた?」
「セレナ・ヴィヴィアーノが自分を『白銀の棋士』だと匂わせているという話か? 聞いたとも。で、どうする」
私は手紙を兄に見せた。
「来月、隣国との和平交渉があるわ。両国の威信をかけたチェス対決も予定されている」
「知っている。俺の士官学校時代の友人が——」
兄が言葉を切った。意味ありげな笑みが浮かぶ。
「なるほど。やっと会う気になったか」
「……お兄様」
「エドワードは誠実な男だ。三年間、顔も知らぬ相手への想いを募らせる変わり者だがな」
私は頬が熱くなるのを感じた。文通相手が国王だと知った時の驚きは忘れられない。だが、それ以上に——彼の言葉は、いつも私の心を揺さぶった。
「隣国代表として、チェス対決に出場するわ」
「おいおい、我が国の代表を打ち負かす気か」
「我が国の代表は誰?」
「宮廷棋士のブルーノ卿だ。まあ、お前の敵ではないな」
私は頷いた。
「『白銀の棋士』として、よ。仮面をつけて」
三年間隠してきた正体。それを明かす舞台としては、これ以上ない。
「セレナは自分が『白銀の棋士』だと信じ込ませている。アルベルト殿下もそう信じている」
「そして和平の場で、本物が現れる——か」
兄が目を細めた。
「お前を泣かせた報い、存分に受けてもらおうじゃないか」
私は窓辺に立った。
月明かりの下、銀色の仮面を取り出す。かつて何度もこの仮面で対局場に立った。王族も、大貴族も、私の指し手に息を呑んだ。
『白銀の棋士』リディア・クレセント。
「お望み通り、自由になったわ」
仮面を顔に当てる。
「——さあ、本当の私を見せてあげる」
◇ ◇ ◇
和平交渉の日。
王宮の大広間は、両国の貴族で埋め尽くされていた。中央には巨大なチェス盤。象牙と黒檀で作られた駒が、重厚な輝きを放っている。
「隣国代表、入場!」
声と共に扉が開いた。
私は銀色の仮面を被り、白いドレスを纏って歩み出る。髪も白銀に染め、普段の地味な姿とは別人のように仕立てた。
ざわめきが広がる。
「あれが『白銀の棋士』……!」
「まさか、本物が……!」
「一度でいいから対局を見たかった……」
視線が突き刺さる。だが、私はただ一点を見つめていた。
玉座に座る、漆黒の髪と深い碧眼の青年。
エドワード・ヴァルトシュタイン国王。
目が合った瞬間、彼の唇が微かに動いた。
『ようやく会えた』
心臓が跳ねる。三年間、文字だけで繋がっていた人。私の思考を、私の美学を、誰よりも理解してくれた人。
「静粛に!」
声を上げたのは、ローゼンクランツ王国のアルベルト王太子だった。その隣には、蜂蜜色の髪を誇らしげに揺らすセレナが控えている。
「我が国の代表、ブルーノ卿と、隣国代表『白銀の棋士』殿の対局を始める!」
(殿下は気づいていないわね)
当然だ。私は「地味で退屈な女」。華やかな仮面姿の棋士と結びつくはずもない。
「『白銀の棋士』殿」
ブルーノ卿が盤を挟んで座った。初老の紳士、宮廷棋士として名高い人物。
「お手柔らかに」
「こちらこそ」
私は静かに白の駒——ポーンを動かした。
対局が始まる。
十手目。ブルーノ卿の額に汗が滲み始めた。
私の駒は、一見散漫に動いているように見えるだろう。だが、すべてが繋がっている。蜘蛛の巣のように、獲物を追い詰める布石。
二十手目。広間がざわめく。誰の目にも、私の優勢は明らかだった。
「なんという……」
「美しい……これがチェスか……」
「圧倒的だ……!」
アルベルト殿下の顔が強張っているのが見える。セレナは扇で顔を隠しているが、その目は落ち着きなく動いていた。
三十手目。私はビショップを動かした。一見無意味な位置。だが——
「……まさか」
ブルーノ卿の顔が蒼白になる。
「五手先の詰みが、見えている……?」
私は答えない。仮面の下で、静かに微笑んだだけだ。
(見ていて、殿下)
隣国の玉座で、エドワード陛下が身を乗り出していた。その碧眼が、私の一手一手を食い入るように追っている。
『興味深い一手だ』
彼の口癖が、脳裏に響いた。そう、あなたなら分かるでしょう。この手の意味が。
三十五手目。
ブルーノ卿のキングは、もう逃げ場がない。
「——チェックメイト」
私の宣告に、広間が静まり返った。
ブルーノ卿が崩れ落ちるように椅子に沈む。完敗だった。一度も優勢を取れないまま、詰まされた。
「すごい……」
「これが『白銀の棋士』……!」
「大陸最強は伊達じゃない……!」
称賛と驚嘆の声が渦巻く中、私は立ち上がった。
「お見事です、『白銀の棋士』殿」
エドワード陛下が玉座から降りてきた。長身の体躯が、私の前に立つ。彫刻のように整った顔立ち。だが、その目には温かな光が宿っている。
「貴方の噂は、かねがね聞いておりました」
碧眼が、仮面の奥を覗き込むように細められた。
「——いえ。噂だけでは、ありませんね」
心臓が、大きく脈打った。
(気づいている)
この人は、仮面の下にいるのが誰か、もう分かっている。
三年間の文通で、私の思考の癖を知り尽くしている。この指し回しが誰のものか、彼には一目で分かったのだろう。
「陛下」
私は静かに答えた。
「和平の証として、もうひとつお見せしたいものがございます」
「ほう。それは?」
私は振り返った。アルベルト殿下と、その隣で得意げに微笑むセレナを見据える。
「——真実を」
仮面に手をかけた。
さあ、最後の一手だ。
◇ ◇ ◇
仮面が外れた。
銀灰色の髪が、燭台の光に照らされて揺れる。薄紫の瞳が、静かに広間を見渡した。
沈黙。
そして——
「リ、リディア……!?」
アルベルト殿下の顔から、血の気が引いていく。
「そんな馬鹿な……あの女が……」
私は微笑んだ。三年間、王太子妃候補として押し殺してきた本当の笑み。
「お久しぶりですね、殿下」
「嘘だ! お前は——お前は地味で、退屈で、チェスしか能がない——」
「ええ、チェスしか能がありません」
私は一歩、前に出た。
「大陸随一の『チェスしか能がない女』ですの、私」
広間がどよめく。
「『白銀の棋士』が、元王太子妃候補……!」
「あの地味な令嬢が……!?」
「三年間、正体を隠していたのか……!」
セレナの顔が、見る見るうちに蒼白になっていった。
「う、嘘よ……! 私が『白銀の棋士』なのよ! この女は偽物——」
「では」
エドワード陛下が、穏やかに口を開いた。
「セレナ嬢。簡単な問題をお出ししましょう」
彼はチェス盤を指さした。
「この局面から、三手で詰ませる手順を示してください。『白銀の棋士』であれば、一目で分かる基本問題です」
セレナの唇が震える。盤面を見つめるが、その目は何も捉えていない。
「そ、そんな……急に言われても……」
「私が答えましょうか」
私は盤を一瞥した。
「ナイトをe7に。相手がキングを動かせばビショップでチェック。逃げ場所はf8のみ。そこでクイーンをg8——チェックメイト」
エドワード陛下が頷いた。
「正解です。流石ですね、『私の』対局相手」
広間がざわめく。「私の」という言葉の意味を、敏い者たちは察したようだった。
「待って!」
セレナが叫んだ。もう取り繕う余裕もない。美しい顔が、醜く歪んでいる。
「リディア! あなたが『白銀の棋士』だって知ってたわ! だから——だから殿下に——」
「私を排除させた?」
私は静かに言った。
「知っていましたよ。あなたが殿下に近づいた本当の理由。私の名声を、自分のものにするため」
「それは——」
「セレナ嬢」
エドワード陛下の声が、冷たく響いた。穏やかな仮面が外れ、王者の威厳が姿を現す。
「チェスのルールすら知らない方が『白銀の棋士』を名乗る。それは我が国への侮辱でもある」
「ヴァルトシュタイン王国は三年間、『白銀の棋士』との対局を最高の外交儀礼として扱ってきた」
セレナの顔が、絶望に歪む。
「あ……ああ……」
「セレナ・ヴィヴィアーノ」
ローゼンクランツ国王——アルベルト殿下の父君が、玉座から立ち上がった。その顔には、怒りと屈辱が刻まれている。
「虚偽により王太子を欺き、両国の和平を危うくした罪、重い」
「お待ちください!」
アルベルト殿下が蒼白な顔で前に出た。
「父上、セレナは——」
「黙れ、アルベルト」
国王の一喝が、広間に響いた。
「お前は大陸随一の棋士を『退屈で地味な女』と断じ、詐欺師の甘言に乗せられた愚か者だ」
「そんな……」
「和平の功労者を手放し、敵国の宝となす。王太子として、恥を知れ」
アルベルト殿下が崩れ落ちた。膝をつき、茫然と私を見上げている。
「リディア……私は……」
「殿下」
私は彼を見下ろした。かつての婚約者を。
「今更、何を仰りたいのですか?」
「違うんだ、私は——セレナに騙されていたんだ! 君の価値が分からなかった私が愚かだった! だから——」
「だから?」
「戻ってきてくれ! 婚約を——」
「お断りいたしますわ」
冷たく、はっきりと。
「もう遅いのです、殿下。私はとっくに、あなたの盤上の駒ではなくなりました」
セレナが侍従たちに両腕を掴まれ、引き立てられていく。
「いやあああ! 放して! 私は——私は社交界の華なのよ!」
醜い叫び声が遠ざかっていく。
私は、それを見送りもしなかった。
◇ ◇ ◇
「リディア嬢」
振り返ると、エドワード陛下が微笑んでいた。彫刻のように整った顔立ちに、温かな光が宿っている。
「ようやく、お会いできましたね」
「……陛下」
「三年間、貴女の手紙を読むのが一日の楽しみでした」
彼が一歩、近づく。
「貴女の言葉は、いつも私に新しい世界を見せてくれた。顔も知らぬまま、私は——」
「陛下」
私は静かに遮った。
「ここでそれを仰るのは、少々ずるいのでは」
「おや」
彼の碧眼が、悪戯っぽく輝いた。
「では、改めて。正式な場で」
広間の全員が、息を呑んでいるのが分かる。
「リディア・クレセント嬢」
エドワード陛下が跪いた。王が、跪いている。
「貴女の隣で、永遠に詰みのない対局を続けたい」
——求婚だ。
「私と共に、ヴァルトシュタイン王国に来てはくださいませんか」
広間がどよめく。隣国の王が、婚約破棄されたばかりの令嬢に求婚している。外交的な意味も、政治的な意味も——全てを超えて。
私は、三年間文通を続けた人を見下ろした。
漆黒の髪。深い碧眼。私の思考を、私の美学を、誰よりも理解してくれた人。
「陛下」
私は微笑んだ。
「それは——『興味深いお手』ですわね」
彼の目が見開かれ、そして——笑った。
「私の口癖を使うとは。やはり貴女には敵わない」
「お受けいたします」
私は手を差し出した。
「永遠に詰みのない対局——楽しみにしておりますわ、陛下」
彼の大きな手が、私の手を取った。
温かい。
これが、私の選んだ未来。
振り返ることはしない。崩れ落ちたアルベルト殿下も、引き立てられていったセレナも、もう私の盤上にはいない。
駒ですらない。
「さあ、リディア」
エドワード陛下——いえ、エドワードが、私の手を引いて立ち上がった。
「新しい対局を始めましょう」
「ええ」
私は頷いた。
「——チェックメイト。貴方の負けです、殿下」
最後に一度だけ、アルベルトを振り返って告げた。
三年間、言いたかった言葉。
彼の顔が絶望に歪むのを見届けて——私は、新しい未来へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
三ヶ月後。
ヴァルトシュタイン王国、王宮の私室。
「チェック」
「む……」
夜更け。蝋燭の灯りの下で、私とエドワードは向かい合っていた。間にあるのは、もちろんチェス盤。
「今夜も貴女の勝ちか」
「まだ決まっておりませんわ」
「いや、十二手後に詰む。読めている」
彼は苦笑して、白旗代わりにキングを倒した。
「だが不思議と悔しくない。貴女に負けるのは、心地よい」
「お上手ですこと」
「本心だ」
彼の手が伸びて、私の髪に触れた。銀灰色の、地味な髪。
「貴女のこの髪が好きだ。月光のようで」
「エドワード」
「なんだ」
「ローゼンクランツからの報せ、読みました?」
「ああ」
彼の目が、少しだけ冷たくなった。
「セレナ・ヴィヴィアーノ、社交界追放。実家も連座で爵位剥奪。詐欺と僭称の罪で、二度と表舞台には立てないそうだ」
「アルベルト殿下は?」
「王太子の地位は辛うじて保ったが、実権は剥奪。弟君が次期国王として教育を受け始めたと聞く」
私は駒を片付けながら、静かに息をついた。
「因果応報、ですわね」
「後悔しているか?」
「いいえ」
即答だった。
「私はただ、本来の自分を取り戻しただけですもの」
「そうだな」
エドワードが立ち上がり、窓辺に立った。月明かりが、彼の横顔を照らす。
「リディア」
「はい」
「来月の戴冠式——正式に、貴女を王妃として迎える」
「存じております」
「緊張は?」
私は彼の隣に立った。
「少しだけ」
「珍しい。『白銀の棋士』が緊張するとは」
「盤上の戦いと、人生は違いますもの」
彼が笑った。穏やかで、温かい笑み。
「だが貴女なら大丈夫だ。何せ——」
「何せ?」
「俺が隣にいる」
「……自信家」
「貴女を愛している。それだけは、絶対の自信がある」
不意打ちだった。
頬が熱くなる。三ヶ月経っても、彼の直球な言葉には慣れない。
「リディア様」
扉がノックされた。聞き慣れた声。
「マーサ」
入ってきたのは、ローゼンクランツから付いてきてくれた忠実な侍女頭。この三ヶ月で、すっかりヴァルトシュタインに馴染んでいた。
「レオナルド様から、お手紙が届いております」
「兄から?」
受け取った手紙を開く。
『妹へ。こちらは相変わらずだ。アルベルトは廃人のようになっているらしい。セレナの実家は夜逃げ同然で領地を去った。まあ、俺の知ったことではないが。それより——エドワード、妹を頼んだ。泣かせたら、今度は俺がお前を詰ませるからな。兄より』
思わず笑いが漏れた。
「お兄様らしい」
「レオナルドか。相変わらず過保護だな」
「あら、あなたを認めている証拠ですわ」
「光栄だ」
月が高く昇っている。銀色の光が、二人を包み込んでいた。
「エドワード」
「なんだ」
「もう一局、いかが?」
「今夜三度目だぞ」
「永遠に詰みのない対局を、と仰ったのはあなたですわ」
彼がくすりと笑った。
「確かに、そう言った」
チェス盤に、駒が並べ直される。
白と黒。向かい合う二人。
かつて私は『壁の花』と呼ばれていた。地味で、退屈で、華やかさのない令嬢。
でも今、隣には私を理解してくれる人がいる。
「さあ、始めましょう」
私が白のポーンを動かす。
「貴女の先手か。いつも通り、美しい一手を期待している」
「お望み通りに」
かつての口癖が、今は違う意味を持つ。
「——お望み通りに、永遠にお付き合いいたしますわ」
月明かりの下、二人のチェスは続く。
詰みのない、永遠の対局。
これが、私の選んだエンディング。




