竜血の契約
「我が声の方へ来い!」
ドラゴンの低く響く声が、洞の奥から届く。
俺は砕けた骨が軋む音を聞きながら、唯一わずかに動く左手を突いて、地を這った。
吐き気をこらえ、潰れかけた肺から、細く擦れた息を吐く。視界は……片目だけが霞んで揺れていた。
「いや、我が動こう。さあ、その手を伸ばしてみろ」
声が近づく。空気が震える。
指先が、岩のように硬い何かに触れた。ごつごつとした感触……鱗だ。俺は、その鱗の上に手を置く。
「ふ……他者に触れられたのは、王妃以来か」
かすかに、何かが動いた。触れている首が、わずかに傾ぐ。
「もう一度、手を伸ばせ。そう、その鱗を剥がすんだ。――それだけは、剥がせる」
指を鱗のつなぎ目に引っかける。砕けた手が、鈍く叫ぶ。
「全ての力を込めて、剥がせ!」
命を削るように力を振り絞り、俺は拳を握る。
鱗が、音を立てて外れた。
「ヴォ……グッ、ガァアアアア!」
咆哮が洞窟を震わせる。
ドラゴンはのたうち回りながらも、俺に触れぬよう身をねじっていた。
断末魔のような雄叫びに、周囲の魔獣たちが怯え、混乱し、騒ぎ立てるのが聞こえる。
やがて、震えが止んだ。
「すまんな……思ったより痛かったわ。お前の手の近くに、尖った石がある。それを取れ」
俺は、砕けた指先で地を這う。冷たく尖った石が、指にかかった。
「そうじゃ。それを、今、剥がした場所に突き立てろ」
首が下ろされる。俺の手の届く範囲に、ドラゴンの生の地肌が晒されていた。
震える手で石を振り下ろす。だが、硬い。何度も、何度も叩く。
視界が揺れ、霞む中、赤が滲んだ。やがて、一滴の血が落ちる。
「それが、我が血。――飲め。たった一滴でいい」
唇を動かす力さえ残っていなかった。だが、口を開け、血を含む。
熱い。火が喉を焼き、胃を裂く。
「――ッ!」
その瞬間、意識が暗転した。
※
目が覚めた。そこは深い闇の中。
けれど、不思議と痛みがなかった。砕けていたはずの骨が、動く。
「起きたか」
低い声が、頭の内側に直接響く。
怖くはなかった。ただ、温かかった。
「……僕は、死んだのか?」
まるで母の胎に戻ったような静けさだった。
その時、かすかな光が差し込んできた。
両目で、はっきりと見えた。
――巨大な竜が翼をわずかに広げ、俺に外界を見せていた。
俺は、その羽の中にいた。まるで幼子を包むように。
この世界に恐れられる、優しき竜の背に立ち、ゆっくりと周囲を見回す。
一つの村ほどもある巨大な穴。空から光が差し込み、壁にはかすかに緑が残る。
遥か上空には、俺を喰らおうとした空の魔物が旋回していた。
途中は闇だが、地底には光苔が広がり、明るく、幻想的な光を放っている。そして、深い森があった。
俺は、復活を果たした。
そして、静かに――アル=ホワの地を眺めた。
※
「すいません、いや、ありがとうか……」
ドラゴンは俺を、滑り台のように、地上に降ろした。
「素直に感謝されたのは、久しぶりだな、腹が減っているだろう、食事を用意しよう」
「どうやってですか?」
「こうやってだ!」
ドラゴンは咆哮をあげた。それは、聞いたことのない恐ろしい叫びだった。トルサンは、かろうじて意識を必死に繋ぎ止めたが、全身に鳥肌が立っていた。
「ほぉ、さすが、巨人族だ。よく耐えた。それ、集めてこい。獲物が気を失ってるぞ、今のうちだ」
※
空を見上げた。巨大な魔物たちですら巣に逃げ込んだのか、ひとつとして飛ぶ姿は見えない。雲ひとつなく、空には翳りすらなかった――まるで、世界が息を潜めているようだ。
俺は怯えながら、森の中へ足を踏み入れる。ドラゴンの咆哮のせいか、森は静まり返っていた。生き物の気配は、きれいに消えている。
「ふう……」
小さく息を吐く。ドワーフの村にも、小さな森があった。岩場の上にある乾いた森だった。だが、ここはそれとは正反対だ――湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。
ふと足元を見ると、小動物が何匹か、気絶したように地面に転がっていた。俺は、食用に適している兎を選んで、数匹を捕らえる。
「……小川?」
かすかな水音に気づき、目を向けた。そこには、豊かに水を湛えた小川が流れていた。透明で、澄んでいる。ドワーフの村の井戸から汲む濁った水とはまるで違った。
「そういえば……喉が渇いていたな」
俺は水を飲まなくても、数日……いや、もっと耐えられる。どれほど汚い水でも体を壊すことはない。誰にも言っていないが、俺の身体は、そういうふうに作られている。
尖った石で兎の皮を剥ぎ、血抜きをして川で洗う。手が水に触れたとき、思わず息を呑んだ。冷たく、澄みきっていた。
俺は両手で水をすくい、口に含む。
「……うまい……っ」
その瞬間、頭の奥が痺れた。全身を巡る血の流れが、はっきりとわかる。喉を伝って落ちていく水の粒ひとつひとつが、命そのもののようだった。
――この世界に、こんな水があるなんて。
止まらなかった。ごくごくと、夢中になって飲み続ける。
「ふう……」
ようやく一息つき、川の水で顔を洗う。皮膚が冷たさで引き締まる。確かに“生きている”と、感じた。
耳を澄ますと、わずかに魔物たちの気配が戻りつつあるのがわかる。
――ドラゴンの元へ戻るか。
そう思ったが、それ以上に、川の奥地への好奇心が勝った。
「これなら、迷わないだろう」
俺は小川に沿って歩き出す。やがて、岩壁にたどり着いた。水は岩の割れ目から湧き出している。ここが、川の源流か。
……視線を感じる。背後から、何かが俺を見ている。
「拙いな。戻るか」
俺は川の中を駆け戻る。水面の下にも、何かがいる気配がしたが、それが何かまでは見えなかった。
「おお、遅かったな!」
ドラゴンは俺の姿を見つけると、安心したように声をかけてきた。
「兎か。まあ腰を落ち着けて食え!」
「ああ」
「ふむ……トルサン。お主、魔法が使えぬのか……なるほど。そういうことか……」
ドラゴンは何事かに納得したように頷く。
「そこの岩を焼いてやる。そこに載せれば、すぐに焼けようぞ」
息をするように、ほんの一瞬だけドラゴンが火を吹く。岩が赤々と焼けた。
その上に兎を置くと、すぐに焼き色が変わった。香ばしい匂いが漂ってくる。
俺はドラゴンを見る。
「ははは、俺はもう食事をとらん。大人になった竜には、必要のないものだ。遠慮せず食え」
俺はかぶりつき、手に持った数匹の兎を、あっという間に平らげた。
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