脱出
シューヒナが目を覚ましたのは、その日の夜遅くだった。
「シャーヒナ様は、一命を取り止めたが重体だと情報は流してある。戦力の情報は、まとめて後で報告する。問題は、シャーヒナ様が逃げてくれるかどうかだ」
カインは途端に暗い顔になった。
その表情を見た瞬間、俺は嫌な予感しかしなかった。
「じゃあ、俺達で説得しよう。駄目なら、無理矢理にでも連れて行く」
彼女の部屋の扉を叩く。
「あら、トルサン。お前がわしを助けてくれるとはね。変なものを口にしたらしいな」
「ご無事で良かったです。あなたには死に場所がありますので」
言ってから、少しだけ胸の奥がざらついた。
だが、取り消す気はなかった。
「おい! トルサン、失礼だぞ」
カインは俺を嗜めた。
「シャーヒナ様もわかっているはずです。このまま、貴女が死ねば、闘技場の多くの奴隷がどのような目に遭うか」
シャーヒナは、俺の言葉を聞かないふりをしていた。
聞こえていないのではない。聞かないと決めている顔だった。
ベッドから起き上がると、ゆっくりとコップの水を口に運ぶ。
喉を潤し、しばらく間を置いてから、静かに言った。
「知ったこっちゃ無いね。それよりも、戦争をすれば多くの人が死ぬ」
その声は冷たい。
だが、どこか空洞を叩いたような響きがあった。
「シャーヒナ様、闘技場は長老様から貴女に譲られたものだと聞きました。それをむざむざ奪われてもいいのですか?」
彼女の手が、一瞬止まった。
ほんの一瞬だが、確かに止まった。
わずかに伏せられていた瞳が、ゆっくりと俺を見据える。
その中に宿る光が、確かに揺らいだのを俺は見た。
「……勝てるのかい?」
低く、静かな問い。
俺は即答できなかった。
勝算など、頭の中にはなかった。
それでも、この人がここで終わるのだけは、どうしても違うと思った。
「どうでしょう。貴女が闘技場に行ってもらわないと始まりません」
シャーヒナはしばらく俺を睨んでいた。
試すようでもあり、見定めるようでもあった。
やがて、小さく息をついた。
「……まあいいだろう。お前の口車に乗ってやろう」
ふっと笑みを浮かべ、肩をすくめる。
その顔には、先ほどまでの諦めにも似た影はなかった。
「カイン、どうするんだい?」
※
シャーヒナが逃亡することを恐れて、街の門では徹底的に監視と検査をしているらしい。
「だが、別に法律を犯してないんだろう? 自由にどこにでも行けるんじゃないのか?」
「いや、街から出ようとしたら、その場で逮捕するつもりらしい。罪は捏造されるよ」
「じゃあ、強行突破するか?」
俺が言うと、カインは呆れた顔でため息をついた。
「お前はいつもそういうことを軽々しく言う……」
それでこそ、いつものカインだ。
俺は妙に安心しながら、一言言った。
「俺は芝居はできない。だから作戦は教えるな! 黙ってカインの指示に従うよ。拙い時は、顔で知らせろ!」
「わかったよ」
鉱都から闘技場に帰るため、門へ向かう。
深夜、門は閉ざされている。
橋を降ろしてもらわなければならない。
カインが砂漠トカゲの御者をし、俺は後ろの荷台に一人で寝転がっていた。
静かすぎて、かえって落ち着かなかった。
街の中では、車輪をつけた台車で進むことになる。
競技場の連中へのお土産が山と積まれていた。
俺は、初めての街でどんなものが喜ばれるかわからず、買い物は苦手なのでカインに任せたのだ。
実は、シャーヒナの奢りだった。
診療報酬で無償だそうだ。
貧乏な俺にとっては有難い話だった。
「悪いが決まりなんで、荷物を改めさせてもらう!」
門番が近づいてくる。
「なんだ、俺の荷物を調べて、賄賂でもせしめようとするのか?」
俺は苛立った顔をした。
半分は演技で、半分は本気だった。
「そういうつもりはない。だが決まりだ。従ってくれ」
数人の門番が武器を手に、俺を遠巻きに囲む。
俺はわずかに息を詰めた。
正直に言えば、足の裏が熱くなる感覚があった。
こいつら、本気でやる気か?
「なんだ、やろうっていうのか?」
立ち上がり、荷物の前に仁王立ちになる。
逃げ道を数えながら、体は一歩も引かなかった。
門番たちが、ぞろぞろと詰所から出てきた。
十人以上——いや、もっと増えそうだ。
門の番人は、闘技場出身の奴隷、各家の下位使用人達で構成されている。
「相手は、トルサン一人だ。痛い目にあわせてやるかぁ」
「ここで一太刀入れれば、有名人になれるぞ! 相手は素手みたいだし」
そう言いながら、最後列に下がっていくのは、闘技場出身の奴隷二人だ。
彼らは闘う気は全く無く、冗談で煽っているだけだった。
「お前達、馬鹿なこと言ってるんじゃない」
静かな声が響いた。
門番たちがざわめき、道を開ける。
現れたのは、俺と対決したことのある男——
元上級剣闘士、ハリスだった。
門番の偉い役職、門番長で街の守備長をしているのだと、カインが教えてくれた。
……嫌な汗が背中を伝う。
こいつが敵に回ると厄介だ。
「久しぶりだな、トルサン。何の帰りだ?」
俺達は握手を交わす。
力は込めてこない。だが、視線は鋭かった。
「観光した帰りだ。大切なお土産を持って帰るんだ!」
「大切な? そうか、だが一応荷物を改めないといけない。見てもいいか?」
カインが、構わないと合図してくる。
「ああ、構わん」
門番たちが慎重に荷物を調べ始める。
俺は、門番長ハリスと話をしようと、車輪入れに腰掛けようとした——
が、カインが即座に睨みつけてきた。
「立ってろ」
「おお、そうなのか。それは大変失礼した」
俺は慌てて立ち直る。
「ところで、カイン、良かったな、トルサンに守ってもらえて」
ハリスが揶揄う。
「いや、守ってもらってるのはいつも俺だぞ! 感謝してる」
俺は真剣に返した。
冗談にする気分ではなかった。
ハリスは、大笑いをする。
「おい、もう荷物検査は良いだろう。早く橋を降ろせ。トルサン、次に戻って来る時はいつでも俺が橋を降ろしてやる。闘技場に、栄光を!」
橋が下される。
カインが巧みに暗闇の中を進み、荷台の車輪やわそりにつけかえる。
何か視線を感じた。
俺は門を見上げる。
そこには、ハリスが立っていた。
他の警備員を下がらせ、一人で警備についている。
静かに、俺の方を見つめていた。
——いや、違う。
俺の目は見える。
あれは、敬意だ。
戦った相手として。
同じ場所から這い上がった者としての。
その事実が、なぜか胸に重くのしかかった。
俺は思わず声を上げた。
「おい、カイン、ハリスが俺に頭を下げてるぞ!」
「馬鹿なのか、お前は!」
カインが呆れたように言い放つ。
……と、その時だった。
車輪入れの中から、ゆっくりと人影が立ち上がる。
布がわずかに擦れ、荷が軋む。
俺は一瞬、息を呑んだ。
淡い月明かりの下、白い衣をまとった貴婦人シャーヒナがそこに立っていた。
「……行きましょう」
俺たちを見つめるその瞳には、迷いがなかった。
覚悟だけが、静かに澄んでいた。
静かに、俺たちは鉱都を後にした。
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