カビース戦前夜
俺たちは、監察官の部屋へ戻り、カビースとつるんでいた看守の名前をひとりずつ告げた。
「わかった。それでどうやって吐かせるつもりだ?」
シャーヒナの前で、ハディードが探るようにカインに尋ねた。
「はい。刑罰について説明を行います。最初に自白すれば軽罰に。ですが、他の者が先に自白すれば――極刑です、と」
「それだけか?」
「同時に取り調べます。全員が一番になろうとすれば、あとは我々の裁量で決められます」
ずいぶん姑息なやり口だと、俺は思った。
仲間を売るようなヤツが、そんなにいるもんか――。
だが同時に、胸の奥が冷えた。
ここは闘技場だ。生き残るためなら、誰だって牙を剥く。
「面白い」
シャーヒナは、ただ一言だけ言った。
結果は、すぐに出た。
俺が喉の渇きを紛らわそうと水を一杯飲み終える前に。
「ハディード、マーケットにいるアサーバ達を逃すなよ」
「お任せを。兵士をお借りします」
シャーヒナの片腕――冷静で無駄のない男は、迷いなく部屋を出ていった。
※
「さて、カイン。どう責任を取ってもらおうか。闘技場の信用は地に落ち、大損だよ」
「発言をお許し下さい」
カインは俺の方を見た。
顔色は青ざめ、言葉を探しているようだったが、それでも逃げなかった。
「トルサンとカビースの試合を組んではいかがでしょう。今回の因縁を利用し、噂を流して……宣伝に使います」
声が震えていた。
それでも、目は逸らさなかった。
「こいつは、勝てるんだろうな?」
老婆は鋭く問いかけた。
カインは、もう一度だけ俺の顔を見た。
その視線に、覚悟が滲んでいた。
俺は、何も言えなかった。
言えば、この選択を否定することになる気がしたからだ。
「もちろんです」
俺は言葉を飲み込んだ。
――俺を、あいつと闘わせろ。
その一言すら、喉の奥で砕けた。
「いいだろう。だが、負けることは許されん。勝てば恩赦を与えねばならぬ。それがどれほど私にとって不快か、わかるか?」
勝つ。
勝たなければならない。
生きるためじゃない。
カインが、それを察したのか、わずかに首を振った。
「はい。トルサンは勝ちます。闘技場を愚弄したカビースには、それにふさわしい屈辱を――必ず与えます」
「それは楽しみだ」
シャーヒナは、ゆっくりと椅子を立った。
「話は終わりだ。カイン、来い。今日からお前の家は、私の屋敷だ。あれは約束だったな。可愛がってやろう」
「……ありがとうございます、シャーヒナ」
カインは、心ここにあらずといった様子で立ち上がり、俺の肩に手を置いた。
その手は、かすかに震えていた。
そして、何も言わずに老婆のあとを追って部屋を出ていった。
その時、ようやく理解した。
俺は――友に助けられたのだ。
いや。
友が、自分の人生を売ってまで、俺を助けてくれたのだ。
俺は独房に戻されたが、運ばれてきた食事は明らかに異常だった。
パンが数個、大きなブロック肉の塊、フルーツ、ワイン。
まるで一人前の剣闘士の献立だ。
「……間違ってないか? 俺はノービスだぞ」
食事を運んできた女奴隷に声をかける。
彼女は一瞬だけ俺を見て、すぐに視線を落とした。
何か言いたげに唇を動かしかけ、結局、何も言わず立ち去った。
その背中が、なぜか胸に残った。
ここでは、言葉を持つこと自体が罪なのだと、思い知らされるようで。
「それで合ってるぞ!」
看守が顔を出した。
「なんでだ? 理由を教えてくれよ」
「知らん。上からの指示だ。ありがたく食え。お前、カビースと対戦するんだろ? もう闘技場中に広まってるぞ。これは剣闘士の食事だ。つまり……そういうことだ」
つまり、もう舞台は整っているということか。
俺の意思など関係なく。
次に運ばれてきたのは、高級なベッドだった。
独房は、一気に“居心地のいい牢獄”へと化けた。
さらに別の女奴隷が、大きなたらいにたっぷりの水とタオルを運んでくる。
年上の、色香のある女だった。
「お体をお拭きしましょうか? お脱ぎくださいな」
慣れた手つきで服に触れられ、思わず身を引いた。
甘い香りが鼻をくすぐる。
「……いや、自分でやる。置いといてくれ。ありがとう」
俺は顔を真っ赤にしながら、脱がされた服で体を隠し、壁際に避けた。
「ふふふ、可愛い子ね」
女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「勝ちなさい。ここでは、それしか生き残る道はないから」
それだけ言って、彼女は去っていった。
たったそれだけの言葉なのに、胸がざわついた。
生き残った先に、何があるのか。
彼女は、それを知っているような気がした。
ベッドの上しか居場所のない狭い独房に、ごろんと横になる。
贅沢すぎる食事。
柔らかすぎる寝床。
俺は、これを「幸運」だとは思えなかった。
まるで、処刑前の死刑囚に与えられる“最後のご褒美”だ。
本当は、考えなければならないことが山ほどある。
カビースのこと。
勝ち筋。
そして、カインの未来。
それなのに、頭は妙に静かだった。
満たされた腹と、張りつめた覚悟だけが残る。
――勝つ。
俺は、必ず勝つ。
気づけば、深い眠りに落ちていた。
朝の光が小さな窓から差し込む頃、独房の床に新たな朝食が置かれていた。
昨夜と同じほどに豪華な、祝宴のような朝食。
そのとき、看守がやってきて鉄格子を開けた。
「もうすぐ闘技場の委員が来る。大人しく待っていろ!」
俺は慌てて朝食を口に放り込んだ。
いつ、これが最後になるかわからない。
「慌てるな。誰も取らんよ」
静かな声。
振り返ると、年老いた温和そうな男が立っていた。
だが、その目は、俺を“剣”を見るように値踏みしていた。
「試合までの間は、お前の立場は守られている。壊れるまではな」
その言葉で、理解した。
この男もまた、闘技場の一部なのだと。
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