檻の支配者
ノービス戦は、毎日行われる。
大闘技場のコロッセル以外にも、小さな闘技場がいくつもあり、そこでも興行が行われ、賭けの対象にもなっている。
成績が悪ければ、クラスを落とされるし、良ければ昇級となる。奴隷はみな必死だ。
賭けの対象でもあるから、手を抜いたり、不審な動きをすれば、厳しい尋問と罰が待っている。
刃を潰しているとはいえ、適当にやれば怪我をする。危険なことに変わりはない。
不正防止のため、同室での対戦は行われない。
毎日の興行だが、出場者も多い。俺たちに出番が回るのは、週に一度くらいだ。
残念ながら、昇級したばかりの俺の試合は、来週以降になるらしい。
「早く闘いたいな」とは思っていたが、こればかりは待つしかない。
数日後、対戦から戻った子分の一人が、負けたらしく帰ってきた。
「負けました。へっへっへ」
頭には包帯、手には青い痣。それなのに、返事が明るすぎて、逆にわざとらしく感じるほどだった。
悔しさが見えない。俺は知らんふりをしながらも、耳を澄ませて会話を聞いた。
「そうか、残念だったな」カビースは、薄く笑っている。
「審判はどうだった?」
「あの方でしたので問題ありませんでした。すぐ止めてくれました。でも、観客からは野次が……」
「そうだろうな。だが心配するな。次は気兼ねなく勝てばいい。今日の負けで、相手は油断するだろう」
「そうですね。ところで、約束ですが……」
「もちろんだ。負けたんだ、これくらいしてやらんとな」
カビースは鍵付きの棚から、血印のついた証文を一つ取り出し、それに火をつけた。
赤く燃え上がるそれを見て、俺は思わず声を上げてしまった。
「えっ?」
カビースたちに気づかれてしまったが――
「ははは、トルサン。お前、魔術も知らんのか? 勉強しろよ」勘違いしたらしい。
カビースの指には、火魔術が仕込まれた指輪がはめられていた。魔道具というやつだな。
なるほど、これが人族の魔術か。
俺は、魔術が使えない。だからこそ、魔道具を扱えるカビースの危険度を、さらに引き上げて評価した。
――はたして、カビースの実力とは、どれほどのものなのか?
その日の夕方、何人かの看守が部屋にやってきて、カビースと小声で話をしていた。
どの看守も、どこか上機嫌だった。
「じゃあ、明後日な。明日は俺の試合があるからな」
「負けるのか!」
看守が期待するように尋ねると、カビースの返事は違った。
「悪いが、明日は勝つ。これ以上は負けられんからな。それに審判が……」
「そうだな」
看守は、仕方ないというように相槌を打つ。
「ああ、俺は剣闘士だからな。評判を落としすぎてる。ここで頑張らんと」
「おっ、そうだな。期待してるぞ」
看守たちは、いい情報を仕入れたという顔で引き上げていった。
明日から二日の週末は、大闘技場コロッセルでの興行日だ。剣闘士が出場する。
「おい! 静かにしろ、寝るぞ!」
普段なら遅くまで起きているカビースが、その日は魔石灯もつけずに、大いびきをかいて眠り始めた。
「いい気なもんだな」
俺ではない誰かの声が、暗がりから聞こえた。
そして、試合当日。昼に部屋へ戻ると、カビースは珍しくもう姿を消していた。
「カビースさんは?」
「飯を食いに行ったよ」
さすがに試合当日は、奴でも訓練するらしい。
※
俺は河原へ行き、またカインを探した。
「カビースについて、教えてくれないか?」
「そう言うと思って、ちょっと調べておいたよ」
カビースは、下級の剣闘士らしい。
あの巨体で一太刀でも入れば、相手は大怪我だという。
「剣闘士になれば、防具もそれなりに揃えるけど、下級のうちは、そこまで金のない奴もいて……」
「ってことは、まともな防具も無いのか?」
「いや、最低限のは支給されるし、借金で買うこともできる。金のかかる試合だからね。闘技場も、ちゃんと“闘いの形”は作るんだよ」
カビースは、実力としては中級並らしいが、下級の成績の良くない剣闘士にすら負けてしまうらしく、昇級できないのだという。
「……それ、矛盾してないか? 相性の問題か?」
俺も、俊敏な相手は苦手だ。
俺たちは、他の試合を観ることができない。もちろん、賭け率も知らされない。
「看守たちも怪しいんだが、八百長試合を──」
またしても、俺の口をカインがふさいだ。
「看守も、賭けも、試合を見ることもできない。……外部の人間も関わってるんだろうね。もちろん、審判も含めて。もし、八百長をしていたら、それは重罪。間違いなく死罪だよ。……トルサン、関わるなよ」
「……わかってる」
※
その夜、カビースは異様なほど上機嫌で帰ってきた。
目は血走り、肩で荒く息をしている。吐く息は、腐った果実のような、いや、それ以上に甘ったるく粘つく悪臭を放っていた。
ああ……これが、腐ったオークの匂いの正体か。薬のせいだろう。何種類も混ぜているのか、まとわりつくような甘さが鼻を刺す。
「おめでとうございます」
誰かが形式的に祝いの言葉をかけたが、誰ひとりとしてカビースの目をまっすぐに見ようとはしなかった。
みな、毛布をかぶって目を閉じている。関わらないように、何も聞かなかったことにするように。
——俺も、布団の中で息を殺した。
深夜。壁の向こうから、奇妙な音が聞こえてきた。
息を詰まらせるような、かすれた声。呻きとも、懇願ともつかない。
「カビース様、お許しを……次の試合で……」
「フン。精を溜めてたからな……弱いお前が負けても意味がない。諦めろ」
くぐもった笑い声が、壁の向こうに沈んでいく。ぞっとするような、濁った嗤い。
俺は、助けようかとも考えたが……自業自得だ。
カインにも『関わるなよ』と言われている。
逃げるように練習に行き、勉強をし、河原で時間を潰した。
部屋には朝に出たきりで、昼飯も食わなかった。
カインを見つけて、事情を話すと、彼は軽く眉をひそめてつぶやいた。
「……なるほど。だからあいつがここにいるのか。男娼はいても、陰間はこの町にはいないからな」
「そうなのか? 男娼はいるのか?」
カインは答えず、わずかに顔を曇らせた。
「……関わらずに逃げきれ。お前なら、すぐに階級が上がる」
その夜は、カビースの祝勝会だった。
「今日の酒は格別だぞ! 特別に仕入れたからな!」
あれほど嫌っていたはずなのに、皆が心から嬉しそうな顔をしている。
笑い、酌をし、麻薬入りの酒を飲んでいる。
……麻薬に侵されている、馬鹿どもが!
俺は寝たふりをしていたが、カビースが酒を持って近づいてくる。
他の連中が「飲め」とばかりに俺の口を開けさせようとする。
「今日はカードは、まあ、いいか。トルサンを俺のベッドに運べ!」
俺は、部屋の連中に運ばれて、トルサンのベッドに寝かされた。
口に布を詰められ、両手両足がきつく縛られていく。
寝返りを打ち、必死に抵抗するが、彼らは執拗に体を固定しようとする。
「残りの酒でも飲んでいろ!」連中は俺から離れ、再び酒盛りに向かった。
カビースの重い体が、俺に覆いかぶさる。逃げようとしても、普通の人間の力ではどうにもならない。
カビースの顔が、俺の顔にぐっと迫った。息が腐った果実のような臭気を帯び、鼻先に吹きかけられる。
「精を……分けてやろうか……んふふ……」
——どかぁん!!
体の奥から、何かが爆ぜた。縛られていた縄が千切れ、俺は全身を使ってカビースを蹴り飛ばした。その巨体は宙を舞い、天井に激突してから床にめり込むように落ちた。
地鳴りのような轟音が鳴り響く。まるで地震だ。
「な、何事だっ⁉︎」「誰かがやられたぞ!」
周囲の牢から、鉄格子を叩く音が次々と響く。それはまるで、警報のようだった。
大人数の看守たちが駆けつけてきて、俺と床に崩れたカビースを見て——
目を見開き、唖然とした顔で、ただ立ち尽くしていた。
カビースは、床に倒れ、気絶していた。
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