酔わない男
グラディアトルとはいえ、競技場の外へ出ることは許されていない。剣闘士は召使を持つことができ、その者が代わりに買い出しをするのが通例らしい。
「まあ、俺くらいのもんじゃ、召使を飼うほどの実力はまだまだってことよ。金の無駄遣いはできん。お前たちに奢るほうが、俺には合ってる」
カビースは殊勝な態度を装っていたが、うわべだけなのは明らかだった。
「またまた、ご謙虚なことで。下級の剣闘士が一人部屋で女召使をはべらせてるって噂ですぜ」
一の子分と俺が心の中で呼んでいる男が、羨望と嫉妬の眼差しで言う。
「看守を引き連れて外出したって話も聞いてます。さすがカビース様!」
「いや、あいつらも薄給だからな。最近はマーケットも物騒だし、守ってやらにゃな」
本当にそうだろうか? 看守が薄給なのは確かだが、競技場の隣にあるマーケットが危険とは考えにくい。それに看守たちは元剣闘士──ここで奴隷として鍛えられた連中だ。たとえ年をとって衰えていても、油断ならない。俺は、微かな違和感を覚えた。
「さあさあ、飲もう飲もう」
カビースが袋から酒と干し肉を取り出す。
「私たちも頂いてよろしいのでしょうか?」
一の子分がグラスを持ってくる。
「いつものことだ。気にすんな、どんどん飲め」
出された酒は、味も不味く香りも酷かった。俺は水代わりに酒を飲む村で育ったから、酒にはうるさい。
「お前、いけるな! どんどん飲め!」
「……なんだか酔い方がおかしいな」
俺は酒を飲むのをやめ、様子をうかがった。子分たちは何度も酒をお代わりしている。
「だらしない奴ですな」
俺を見下ろす子分どもに対し、俺は酔ったふりを続けた。酔ったふりは、俺にとって簡単だった。酔って潰れていく男たちを、俺は何度も見てきた。
「まあまあ、放っとけって!」
「じゃあ、そろそろカードでもやりましょう!」
一の子分がカードを取り出す。他の子分たちも乗ってきた。
「しゃあねえな。少しだけ付き合ってやるよ」
やがて始まったのは、カード賭博。俺は眠ったふりをしながら、じっと様子をうかがっていた。彼らが興じていたのは、おそらく夜明けまで。結果はカビースの大勝、子分たちは全員負けていた。
「勝負は時の運ってやつさ」
そう言いながら、カビースは血印を押させた自家製の証文を一枚ずつ手にしていく。だが、負けた者たちに焦りはなかった。どころか、どこか恍惚とした様子さえあった。
俺がうつらうつらしていると、扉が開く。朝になったのだ。眠気と疲労の中、俺は牢を出た。
子分たちは全員、ひどく疲れた顔をしていた。
「カビースさんは?」
「寝てるよ。起こすな。剣闘士はスケジュールが決まってるわけじゃない。食事も自由だ。夜に試合があるから、起きるのは昼過ぎだろ」
他の牢の連中と一緒に朝食を取り、練習へ。流れは以前の大部屋と変わらない。ただ、少しだけ遅い時間から始まっているようだった。
夜通しの騒ぎで文句を言ってくるかと思ったが、誰も話しかけてこない。むしろ、避けられているような空気さえある。
「お前も大変だな」
そう声をかけようとした男がいたが、「おい、やめとけ。巻き込まれるぞ」と仲間に止められていた。
練習時間、とくに剣の訓練時間が、前よりずっと長くなっていた。──つまり、体ができるまでは無理をさせない。だが、一度「できた」と判断されたら、徹底的に鍛える。それが、この施設の方針なのだ。
カインが前にそう言っていた。
俺の部屋の連中は、酒がまだ抜けていないのか、ふらふらしながら剣を振っていた。そういえば、今朝のランニングでも見かけなかった。どこかでサボっていたのだろう。
スケジュールがずれているせいで、かつて新人見習いに与えられていた昼寝の時間がない。
眠い──だが、俺は意識を奮い立たせ、ひたすら集中した。まあ、一日くらいはなんとかなる。
牢で昼食を済ませ、授業に向かう。他の連中はベッドに潜り込んでいる。
「授業には行かないのか?」
俺が聞くと、
「静かにしろ。俺たちは剣で飯を食うんだ」
「……悪かったな」
呆れたが、深入りしないことにした。
夕方、河原の訓練場へ行く。ここには、新人見習い、新人、剣闘士見習いが揃っていた。
人の群れの中に、俺はカインを見つけた。やっと話せる。うれしかった。だからこそ、肝心なことをうまく切り出せなかった。
「どうだい、ノービスクラスは?」
カインが声をかけてくる。
「スープのほかに、肉が一切れついたよ。でも……聞きたいことがあるんだ」
俺は、昨夜の牢での出来事をすべて話した。
「なるほどね」
カインは少し黙り込み、やがて言った。
「これは、あくまで私の知ってる範囲だけどね──朝まで起きていようが、酒を飲もうが、賭け事をしようが、規則違反ではないよ」
「そうなのか?」
「ああ。一人前の剣闘士は自己責任だ。でも、未熟な者が真似をしないよう、部屋は階級別に分けてあるんだ。──でもさ、その酒……違和感はなかったかい? この辺のワインは、美味しいことで有名なんだけどね」
「あ──!」
その瞬間、俺は悟った。いや、俺だから気づけなかったのだ。
「あの酒には、毒……いや、麻薬が入ってる……」
俺の体は、毒をすべて消してしまう。巨人族とドラゴンの血のせいで。
「トルサン、そのことは──言ってはだめだ」
カインが俺の口を押さえながら、真剣な表情でささやく。
「……わかってる」
俺は頷いた。
やっぱりだ。やっぱり俺には、カインが必要だ。この場所で生き残るためにも、あの野望を実現するためにも──。
『仲間を増やせ。一人では勝てない』
師──ファルバリオン、ドラゴンの言葉が、胸の奥で燃えるように響いていた。
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