塩苦いスープの朝
「カーン、カーン」
鐘の音が響いた瞬間、空気が一変した。誰もが反射的に跳ね起きる気配が伝わってくる。
どこかの扉が軋み、廊下に蝋燭の火が灯る。誰かが来る──それだけで、場の緊張はさらに硬直した。
正確な時刻はわからないが、まだ夜明け前だろう。冷たい石床が、足裏にじんと染みてくる。
ここでは夜と朝の区別すら、鐘の音でしか判断できない。俺はまだ、この冷たさにも、漂う焦りにも馴染めていなかった。
「……何だよ、もう少し寝かせろ」
「馬鹿、起きろって! お前のせいで飯が無くなるだろ!」
苛立った声が重なり、誰かが俺の体を小突いてくる。いや、一人じゃない。怒りというより、切迫した焦りだった。
「喧嘩を売ってるのか?」
眠気と不快感に眉をひそめ、立ち上がる。周囲を見回しても、誰も目を合わせようとしない。
軽く蹴ってきた中の一人の手首を掴むと、小さな体がびくりと震え、視線を落とした。俺より年下の子供だ。骨ばった細い手の感触が、妙に印象に残る。
「悪い、代わりに謝るよ。喧嘩をする気はないんだ」
そう言って割って入ったのは、理知的な雰囲気を纏った少年だった。まっすぐな目、落ち着いた声。だが、かすかに震えが混じっている。
「全員きちんと起きないと、全員が朝飯抜きになる。助けてくれないか? みんな腹をすかせてる。もちろん、俺もね」
「……ごめんなさい」
掴んでいた子は、涙をこらえるように震えていた。俺は手を離し、軽く頭を下げる。
「いや、こっちこそ悪かった」
「何だ、喧嘩か?」
看守が現れ、鉄格子越しに中を覗き込む。
「いえ、目に塵が入っただけです」
理知的な少年──カインが即座に答えた。嘘だと悟らせない、自然な口調だ。慣れているのだろう。
「ふん、そうか? 新入り、お前はどうなんだ?」
疑うような視線が、俺に向けられる。
「その通りです。でも、もう取れました。お騒がせしました」
「塵だぁ? お前らの掃除が足りねえんだな。罰として──」
「おい、早く飯を食わせて準備させろ。今日は練習を、偉い方がご覧になる日だ」
運よく、看守副長の声が割って入った。
点呼を取られ、俺たちは牢から出される。冷たい金属の格子が背中から離れると、わずかに息がしやすくなった気がした。
走ってはいけないらしいが、全員が競歩のような速さで歩いていく。目指すのは、地上にある食堂の外。
「ずいぶん急ぐんだな。それと、お前の名前は?」
「ああ、スープの具は最初の方なら少し入ってる。名前はカイン。よろしく」
「俺はトルサンだ」
食堂の外で、パン一つとスープが配られる。恐らく、女の奴隷たちが作ったのだろう。湯気が立つ、出来立てだ。
先に受け取った者の器には、豆や野菜の切れ端が沈んでいる。俺の器には、塩気の強い湯しか残っていなかった。それでも、誰も文句は言わない。
湯気に混じって、かすかに香草の香りがする。俺にとっては上等な食事だった。ドワーフの村では、カビ臭いパンと冷めたスープが当たり前だったからだ。
「ありがとう」
看守たちが目を光らせているが、騒ぐ者はいない。
俺とカインは闘技場の外壁に背を預け、並んで食った。石の壁は夜の冷たさを残し、背中にじわりと伝わってくる。
「まだパンが余ってるみたいだが、おかわりはできないのか?」
「あれは女たちの分だ」
「……じゃあ、仕方ないな」
俺たちは、まだ何もしていない。ただ“食わせてもらっているだけ”の存在だ。
「なあ、こんなに待遇が良くていいのか?」
カインは笑いながら言った。
「今日一日が終われば、わかるよ」
それ以上、彼は何も語らなかった。
スープを飲み干すと、舌にわずかに残る塩の苦味が、今日という日がただの一日ではないことを、静かに告げている気がした。
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