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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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「可愛げがない」と婚約破棄されたので『業務マニュアル』通りに塩対応しました。今更泣きつかれても私の管轄外(アウト・オブ・スコープ)です。監査役の冷徹公爵様にヘッドハンティングされたので失礼します。

作者: 文月ナオ

 

「クレア、君との婚約は破棄させてもらう。君には、致命的に『可愛げ』というものが欠落しているんだ」


 王都のメインストリートに面した、洒落たカフェテラス。


 秋の柔らかな日差しが降り注ぐ中、私の目の前に座るロベルト・エル・フリッツ伯爵令息は、その美しい青い髪を風になびかせ、銀色の瞳で私を冷ややかに見下ろしていた。


 その瞬間――私の頭の中に、稲妻のような衝撃が走った。

 視界が明滅し、濁流のように流れ込んでくる記憶。前世の記憶。


(……あ、思い出した)


 ここは、前世で私が夢中になってプレイした乙女ゲーム『薔薇と剣と愛のロンド』の世界だ。

 そして私は、主人公の恋路を邪魔し、最後には嫉妬に狂って断罪される「悪役令嬢クレア・クローデル」だということを。


 ゲームのシナリオ通りなら、ここで私は感情を爆発させ、泣き叫び、手元の紅茶をぶちまけ、「どうして私を愛してくれないの! 私はこんなに尽くしてきたのに!」と縋り付くはずだ。


 そしてその醜態が衆目に晒され、王家の不興を買い、家は取り潰し、私は国外追放というバッドエンドへ一直線。


 周囲の客たちが、好奇と軽蔑の混じった視線を向けてくるのを感じる。彼らは期待しているのだ。私が無様に泣き崩れるショーの開演を。


(……冗談じゃないわ)


 背筋がスッと冷えるのを感じた。

 誰が好き好んで、こんな男のために破滅しなきゃいけないの?


 私は冷静に目の前の男を観察した。


 顔はいい。銀色の瞳も、整った鼻筋も、確かにゲームのスチル通りに美しい。


 でも、中身はどうだ?


 私の事務処理能力におんぶに抱っこのくせに、自分の無能さを棚に上げ、あろうことか「可愛げがない」などという感情論で契約を破棄しようとしている。ただの飾り物じゃないか。


 ここで感情的になったら負けだ。

「悪役令嬢」の役割なんて演じてやるものですか。


 私が生き残るための唯一の生存戦略(サバイバル・ルート)は――徹底的な「事務対応(塩対応)」による、円満かつ速やかな契約解除だ。


 私はスッと眼鏡の位置を人差し指で直し、いつもの革張りの手帳を取り出した。愛用の万年筆のキャップを音もなく外す。


 心拍数は平常。むしろ、憑き物が落ちたみたいに思考がクリアだ。


「……現在時刻、14時32分。ロベルト様より婚約破棄の申し出あり。理由は『可愛げの欠落』……ですね。承知いたしました」


 さらさらと手帳に記録する私を見て、ロベルトが目を丸くする。


「はあ!? お前、今まさに捨てられようとしてるんだぞ!? なんだその態度は! 泣くとか縋るとか、そういう人間らしい反応はないのか!」


 ロベルトがバンッ、とテーブルを叩く。

 衝撃でティーカップの中のダージリンが波打ち、ソーサーにこぼれた。


 私は眉一つ動かさず、懐からハンカチを取り出して汚れを拭き取った。


「感情的になっても、事態は解決しません。貴方が望んでいるのは『婚約の解消』という結果でしょう? 私が泣いて縋ったところで、手続きが遅れるだけです。それとも、私が泣けば婚約を継続してくださると?」


「そ、そうじゃない! 俺は本気だ!」


「でしたら、最短かつ最適なプロセスで処理を進めるのが、今の私にできる最大の誠意かと存じます」


「そういうところだよ! そういう屁理屈を言うところが可愛くないって言ってるんだ!」


 ロベルトが顔を真っ赤にして叫び、背後に控えていた女性の腰を引き寄せた。


 艶やかな紫色の髪に、切れ長で妖艶な瞳を持つ女性。


 男爵令嬢のヴァイオレット。ゲームのヒロインだ。

 彼女は最近、ロベルトの秘書として雇われたはずだが……なるほど、そういうことか。


「見てみろ、このヴァイオレットを。彼女は俺の言うことを全て肯定してくれる。『ロベルト様のお考えは素晴らしいですわ』と、いつも俺を立ててくれる。彼女こそが、俺に必要なパートナーだ!」


 ロベルトは勝ち誇ったように言うが、ヴァイオレットの目は笑っていない。

 彼女は私の視線に気づくと、口元だけで妖しく微笑み、ロベルトの胸板に指を這わせた。


「ふふ、ロベルト様ったら。クレア様の前ではしゃぎすぎですわ。……でも、クレア様には少し荷が重かったのかもしれませんね。殿下の『天才的な発想』を理解するのは」


 ……天才的、ですか。

 彼女の言う「天才的な発想(という名の無茶振り)」の尻拭いを、誰がこれまで徹夜でやってきたと思っているのだろう。


 まあ、いいでしょう。その「愛」とやらで、領地の借金が返せると本気で思っているのなら。


 私は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。

 ここで怒っちゃダメ。怒ったらシナリオの思う壺。


「では、本日付で『婚約者としての業務』を終了させていただきます。以降、私はクローデル家の令嬢として、また一人の事務官として、貴家との関係を清算させていただきます」


「ふん、強がりを。今更泣きついても遅いからな! ヴァイオレットがいれば、お前の代わりなどいくらでもなる! お前は、マニュアル対応でもしておけ! お似合いだ!」


「ご安心ください。二度手間(リワーク)は私の最も嫌うものです。……お二人の前途が、実り多きものになることをお祈り申し上げます」


 私は完璧なカーテシーを一礼し、二人に背を向けた。

 店を出て、秋風を全身に浴びる。

 私の赤い髪が、燃えるように風に舞った。


 悲しくなんてない。


 だってこれで、私は「破滅の運命」から解雇されたんだもの。

 今日から私は、ただの「仕事ができる女」として生きていく。


 私の人生は、私のものだ。



 ◇◆◇



 翌日から、私は徹底的な「マニュアル対応」を開始した。


 まず、フリッツ家の執務室に出向いて、山積みになっていた書類を容赦なく仕分けた。

 一つは、両家の共同事業である「運河建設」に関する書類。

 もう一つは、ロベルトが処理すべき領内の決裁書類。


 今までは「私がやらなきゃ、この人がダメになっちゃう」「私が支えなきゃ」なんて共依存じみた思考で全部肩代わりしていた。


 彼が夜会で着る服のコーディネート、知人への贈答品の手配、スピーチ原稿の作成、果ては彼の機嫌取りまで……これら全てを「サービス残業」として行っていたのだ。


 でも、契約は解除された。

 私は「共同事業」の書類だけを小脇に抱え、残りは彼のマホガニーのデスクの中央に積み上げた。山のように。


「おいクレア! なんだこの書類の山は! いつもみたいに整理されていないじゃないか!」


 数日後、執務室に怒鳴り込んできたロベルトに、私はデスクから顔も上げずに答えた。

 視線は手元の帳簿に固定したままだ。


「それは貴家の領内決裁書です。私の(アウト)(・オブ・)(スコープ)ですので」


「はあ!? 今までやってくれていただろ!」


「それは『婚約者』という特別契約に基づく無償サービス(ボランティア)でした。現在は契約解除済みですので、サービスの提供は終了しております」


 私は一枚の紙を彼に差し出した。


「こちらが、今後の私の業務範囲を記した仕様書です。共同事業である『運河建設』に関する財務チェックのみを行います。それ以外の、貴方のスケジュール管理、衣服の手配、個人的な交友関係のフォローは一切行いません」


「な、なんだよそれ……冷たいじゃないか!」


事務的(ビジネスライク)、と呼んでください」


「くそっ! ヴァイオレット! お前がやれ! 優秀な秘書なんだろ!?」


 ロベルトは後ろに控えていたヴァイオレットに書類を押し付けた。

 ヴァイオレットは、その書類の量を見て一瞬顔を引きつらせたが、すぐに計算高い瞳を細め、甘ったるい声を出した。


「あらロベルト様、私にはそのような単純作業よりも、もっと重要な『外交』の仕事がありますわ。夜会の手配や、有力者とのご挨拶回り……そちらの方が、ロベルト様のお顔を立てることになりますもの。このような地味な仕事は、地味な方にお任せすればよろしいのでは?」


 私の方をチラリと見て、嘲笑う。


 はいはい、地味で結構。


「お、おう! そうだな! ヴァイオレットの言う通りだ! ミスコンテストの審査員とか、そういう華やかな仕事こそ俺に相応しい! 書類仕事なんて、あとで適当にサインすればいいんだ!」


 ……呆れた。


 地味な実務を放り出して、二人で派手な社交に逃げるつもりね。


 どうぞご自由に。

 そのツケが回ってくるのは、私じゃなくて貴方たちなんだから。


 二人が去った後、私は一人残された執務室で、淡々と自分の仕事をこなした。


 静かだ。


 ペンの走る音だけが響く。


 誰にも邪魔されずに仕事に没頭できるこの時間が、今は何より心地よかった。


 寂しくなんてない。これこそが、私が求めていた「平穏」なのだから。



 ◇◆◇



 そんな「塩対応」を続けて一週間が経った頃。

 私は、運河建設の視察現場へ向かうため、王宮の資料室で過去の水利図を調べていた。


 高い棚にある古い図面を取ろうとして、背伸びをしたその時だ。

 背後からスッと伸びた長い腕が、私の目当ての図面を軽々と取ってくれた。


「……これでしょうか?」


 耳元で響く、低く、甘く、そして包み込むような丁寧な声。

 心臓がドクンと跳ねた。

 振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。


 艶のある黒髪を少し長めに流し、知的な銀縁の眼鏡をかけた男性。


 仕立ての良いダークネイビーのスーツを完璧に着こなし、その佇まいからは隠しきれない気品と知性が滲み出ている。


 この国の宰相補佐官であり、若き天才と名高いレイナード・グランツ公爵。


 ゲームでは高難易度攻略対象の「隠しキャラ」。

 主人公にも悪役令嬢にもなびかない、クールでミステリアスな高嶺の花だ。


「あ……ありがとうございます、レイナード閣下」


 私は慌てて図面を受け取り、礼をした。

 彼とは何度か夜会ですれ違ったことはあるが、言葉を交わすのは初めてだ。


 眼鏡の奥の瞳は切れ長で、どこか冷ややかさを感じさせるのに、私を見る眼差しは不思議と柔らかい。


「お初にお目にかかります、クローデル家のクレア嬢。……いつも熱心ですね」


「え……?」


「先日も、遅くまで執務室の明かりがついていました。貴女が作成された運河建設の予算案、拝見しましたよ。非常に論理的で、美しい構成でした」


 彼が微笑むと、冷徹な仮面が剥がれ落ち、大人の男性の色気が溢れ出す。


 美しい? 予算案が?


 そんなことを言われたのは初めてだ。ロベルトには「数字ばかりで頭が痛くなる」と投げ捨てられたのに。


「き、恐縮です……」


「実は、これから私も視察に向かうところなのです。もしよろしければ、私の馬車でご一緒しませんか? 道中、色々とご相談がありまして」


 断る理由はない。

 私は緊張しながら、彼のエスコートを受けた。

 彼の手は大きくて温かく、手袋越しでもその体温が伝わってくるようで、私の胸はずっと早鐘を打っていた。



 ◇◆◇



 現場に到着すると、私はすぐに現場監督と図面を確認し始めた。

 レイナード様は、少し離れたところから静かにその様子を見守っていた。


「……素晴らしい。無駄がない上に、現場への配慮が行き届いている」


 一通りの指示を終えた私に、彼が歩み寄ってくる。


「特にこの資材搬入のルート変更案、工期を三日短縮できる根拠は?」


「はい。季節風の影響と地盤の固さを再計算し、大型馬車の通行可能時間を算出しました。また、休憩所を分散させることで作業員の移動ロスを減らしております」


「なるほど。論理的でありながら、人の心も理解している」


 レイナード様の口元が、柔らかく綻んだ。

 彼は私を真っ直ぐに見つめてくる。そこには、女性を一人のプロフェッショナルとして尊重する、温かな敬意があった。


「単刀直入に申し上げましょう。……私のところへ、いらっしゃいませんか?」


「……え?」


「貴女のような優秀な方が、あのような沈みゆく船に乗っているのは、国の損失です。私は、感情論で動く人間が苦手でしてね。貴女のように、理路整然と、かつ情熱を持って仕事をこなすパートナーを探していたのです」


 それって、ヘッドハンティング……?


 条件は破格。公爵家の財務全権の委任、および、彼自身の補佐。


「ですが、私は『可愛げがない』と婚約破棄された身です。悪役令嬢のように冷徹で、貴方を論理で追い詰めてしまうかもしれませんよ?」


 私が自虐的に言うと、レイナード様はふっと笑い、一歩私に近づいた。


 ふわりと、彼から上品なムスクの香りが漂う。

 距離が近い。息がかかるほどに。


「可愛げ? 仕事において、媚びへつらう愛嬌など不要です。私が必要としているのは『正確さ』と『誠実さ』、そして私と対等に議論ができる『知性』です」


 彼は長い指先を伸ばし、風に乱れた私の赤い髪をそっと耳に掛けた。

 指先が頬に触れる。

 予想外の行動に、心臓が大きく跳ねる。

 ゲームでは誰にも触れさせなかった彼が、どうして。


「それに……この燃えるような赤い髪。仕事に真摯に向き合う貴女の情熱を表しているようで、私はとても美しいと思いますよ」


 ……あ。

 思考回路が一瞬停止した。


 ロベルトには「悪役顔だ」「派手すぎて気が強そうだ」と疎まれたこの髪を、美しいと?


 眼鏡の奥の黒い瞳が、優しく、そしてどこか熱っぽく私を射抜いている。

 その熱量に、私の頬が勝手に熱くなっていくのがわかった。


「け、検討させていただきます……!」


「ええ。良いお返事をお待ちしております。クレア」


 最後に名前を呼ばれた。

 それだけで、腰が抜けそうになる。


 レイナード様は優雅に一礼し、去っていった。

 私は熱くなった頬を冷ますため、両手で顔を覆った。


 論理的であることが評価されるだけでなく、その在り方そのものを肯定された。

 それだけのことが、こんなにも胸を締め付けるほど嬉しいなんて。



 破滅フラグ回避どころか、とんでもないフラグが立ってしまった気がする。



 ◇◆◇



 一方、フリッツ家は急速に崩壊へ向かっていた。


 ロベルトが処理した(つもりの)書類はミスだらけで、取引先からのクレームが殺到。


 領地の有力者への挨拶回りも、ヴァイオレットが「田舎臭い」「話が長い」と失礼な態度を取ったため、総スカンを食らっていた。


 ヴァイオレットが開いた夜会では、予算を湯水のように使い込み、派手な演出ばかりにこだわった結果、肝心の料理やお酒の質が下がり、高位貴族たちの不評を買った。


 さらに、彼女は自分のドレスや宝石を経費で落としていたようで、資金繰りがショート寸前になっていたのだ。


 ある雨の日。

 私が王城の回廊を歩いていると、ずぶ濡れのロベルトが立っていた。

 かつての輝きはなく、目の下には濃い隈ができている。


「ク、クレア……!」


 私を見つけたロベルトが、縋り付くように駆け寄ってきた。


「頼む! 戻ってきてくれ! 俺が悪かった! やっぱりお前じゃないとダメなんだ!」


「……何を今更?」


 私は冷たく言い放ち、歩みを止めなかった。


「ヴァイオレットは何もできないんだ! 金を使うことしか考えてない! お前なら……お前なら、何とかしてくれるだろ!? 昔みたいに!」


「ロベルト様。貴方は私を『可愛げがない』と捨てました。その事実は変わりません。今の私は、ただのクローデル家の令嬢です。貴方の尻拭いをする義理はありません」


「そ、そんな……! 愛していたんじゃないのか!?」


「愛? ……そうですね。かつては情もありました。ですが、それは貴方が『次期当主として努力する』と信じていたからです。貴方がその努力を放棄し、私を蔑ろにした時点で、契約は終了しました」


 私は彼の手を振り払った。

 その時、低く、冷静な落ち着く声が聞こえた。


「……何か問題でも?」


 レイナード様だ。

 いつの間にか私の背後に立ち、冷徹な視線でロベルトを射抜いていた。

 その圧力に、ロベルトがひぃっと悲鳴を上げて後ずさる。


「レ、レイナード公爵……!」


「私の大事な交渉相手に、構わないでいただきたい……行こう、クレア」


 レイナード様は私の腰に手を添え、優しくエスコートしてくれた。


 ロベルトが呆然と立ち尽くす姿を見ても、もう何も感じなかった。

 あるのは、「ああ、本当に終わったんだな」という静かな納得だけ。



 ◇◆◇



 そして、運命の「監査の日」がやってきた。

 これが、ゲームでいうところの「断罪イベント」になるのかもしれない。

 ただし、断罪されるのは私じゃない。


 王城の会議室。

 重苦しい空気の中、出席者は私、ロベルト、ヴァイオレット、そして王家代表のレイナード様。


「……ロベルト殿。この収支報告書は、一体どういうことですか?」


 レイナード様の静かだが、氷のように冷たい声が響いた。

 彼が指差したのは、真っ赤な数字が並ぶ決算書。


「え、あ、それは……その、必要経費でして……」


「交際費が前年比300%? しかも、使途不明金が多すぎる。これは横領とみなされても仕方のない数字ですよ」


 レイナード様は眼鏡の位置を直しながら、まるでゴミを見るような目でロベルトを見下ろし、冷ややかに告げた。


「ク、クレア! 何とか言ってくれ! お前が管理していたんだろう!?」


 責任転嫁。

 予想通りの行動パターンだ。

 私は手元のファイルを静かに開いた。


「訂正いたします。私が管理していたのは『先月まで』です。こちらに、業務移管の完了報告書と、ロベルト様ご本人の署名入りの受領書がございます」


 私は証拠書類を提示した。

 そこには、『以降の財務管理は当主ロベルトが行う』と、彼自身の乱暴な字で書かれている。


「なっ……!?」


「さらに、こちらが私が退任する直前の収支データです。この時点では黒字でした。赤字に転落したのは、ここ数週間の『不明瞭な支出』が原因です。具体的には、某男爵令嬢への贈答品リストおよび、彼女の個人的な衣装代と一致します」


 私が別紙を提示すると、ヴァイオレットが顔色を変えた。

 彼女は、すがるようにロベルトの腕にしがみつく。


「ひどいですわロベルト様! 私への愛の証だと言ってプレゼントしてくださったのに、経費だったのですか!? 私を騙したのですね!?」


「えっ、い、いや、ヴァイオレット、お前が欲しいと……」


「私は知りません! ロベルト様が勝手になさったことです!」


 見事な切り捨てぶり。

 さすがは悪女、沈む船からは一番に逃げ出すつもりね。

 でも、レイナード様は見逃さなかった。


「……見苦しいですね」


 彼の一言で、場の空気が凍りついた。


「ヴァイオレット嬢。貴女が業者にキックバックを要求していた証拠も、既に押さえてありますよ。私を甘く見ないでいただきたい」


 彼が指を鳴らすと、衛兵が入ってきた。


「ロベルト殿、貴方は監督責任を問われるだけでなく、公金横領の共犯としての処罰も免れません」


「ち、違う! 俺は知らなかったんだ! クレアが教えてくれなかったから!」


「報告義務は契約に含まれておりません」


 私はきっぱりと言い放った。

 ロベルトの目を見据える。


「貴方は私に言いましたね。『可愛げがない』『マニュアル対応でいい』と。だから私は忠実に『聞かれたこと以外は答えない』というマニュアル対応を徹底いたしました。貴方は一度も、私に財政状況を尋ねませんでしたね?」


「うぐっ……!」


「私が以前のように、先回りして貴方のミスをカバーし、小言を言いながらも尻拭いをする……それが『当たり前』だと思っていたのですか? それは愛と献身に基づく特別オプションです。貴方がそれを捨てたのです」


 ロベルトは顔面蒼白で椅子から崩れ落ちた。

 ヴァイオレットも、衛兵に取り押さえられながら、最後まで「私は被害者よ!」と叫んでいた。


 これが、私の「ざまぁ」。

 魔法も剣も使わない、契約書と領収書による完全勝利。



 ◇◆◇



 監査の結果、ロベルトは当主の座を廃され、横領の罪で裁かれることになった。


 フリッツ家は取り潰しこそ免れたものの、莫大な賠償金を背負い、没落は免れない。

 ヴァイオレットも詐欺罪で捕まった。


 すべてが終わった夕暮れ時。

 私は王城のテラスで、赤く染まる空を見上げていた。

 肩の荷が下りて、体が軽い。


「……見事な手際でした」


 背後から、レイナード様が現れた。

 彼は私の隣に立ち、同じ夕焼けを見つめる。


「貴方が監査に来ると分かっていたので、証拠を揃えておいただけです」


「貴女のおかげで、腐った膿を出し切ることができました。感謝します」


 レイナード様は、ゆっくりと私の方を向いた。

 夕日に照らされたその表情は、会議室で見せた冷徹なものではなく、どこか柔らかく、甘いものだった。


「それで、私の提案への回答は?」


 公爵家へのヘッドハンティングの件。

 私は眼鏡を外し、小さく溜息をついた。


 私は、ヘッドハンティングされた時と同じセリフを吐く。彼を試すためではない。ただの、()()のため。



「……私のような、悪役令嬢のように冷徹で、可愛げのない女でよろしいのですか? 貴方を論理で追い詰めるかもしれませんよ?」


「フッ。どこかで聞いたセリフですね」


「一度、そのせいでしょうもない男に捨てられまして。大切なことですので、念の為」


「あなたのそういう用心深い所も、私は好きです。……望むところです。私の論理を崩せるなら崩してみてほしい。……それに」


 レイナード様は私の手を取り、跪いた。

 まるで、物語の王子様のように。

 彼の黒い瞳が、熱を帯びて私を見つめている。


「私は、貴女のその『強さ』に惹かれたのです。貴女の作る完璧な書類、無駄のない所作、そして誰よりも責任感の強いその美しい魂を……心から、愛おしく思っています」


 ドクン、と心臓が音を立てた。

 それは、仕事の評価ではない。

 紛れもない、一人の男性としての愛の告白だった。


「……レイナード様」


「公爵家の財務だけでなく……私の人生のパートナーとして、隣にいてくれませんか? ……貴女が好きです」


 ストレートな言葉。

 名前を呼ばれ、私の手甲に優しく口づけが落とされる。


 眼鏡を外した私の視界は少しぼやけていたけれど、彼が向けてくれる眼差しの温かさだけは、はっきりと分かった。


 破滅フラグは折った。


 そして今、目の前にあるのは、ゲームにはなかった「最高のハッピーエンド」への入り口。


 もう、強がる必要はないのかもしれない。

 この人の前なら、素直な自分になれる気がする。


「……条件があります」


「何でしょう? 何でも叶えましょう」


「残業代はいりません。その代わり……休日には一緒に、その、美味しい紅茶を飲む時間をください。それと……」


 私は顔を赤らめながら、小さな声で付け加えた。


「……たまには、名前で呼んでください」


 私が精一杯の勇気を出して伝えると、レイナード様は目を見開いて、それから堪えきれないように破顔した。

 その笑顔は、どんな宝石よりも眩しくて、少年のように愛らしかった。


「……ふっ、ははは! 承知しました。貴女との契約は、生涯にわたるものになりそうです」


 彼は立ち上がり、私を優しく抱き寄せた。

 逞しい腕の中に包まれる。

 ムスクの香りが鼻孔をくすぐる。


「愛しています、クレア」


 耳元で囁かれた甘い声に、私は溶けてしまいそうだった。



 ◇◆◇



 これは後日談。

 私はグランツ公爵家に嫁ぎ、レイナード様の補佐として働いている。


 職場環境は最高だ。

 感情論も、理不尽な要求もない。互いに尊敬し合い、効率的に仕事をこなす日々。


 ただ一つ、誤算だったことがあるとすれば。


「クレア、ここの数字が合いませんね」


 執務室で、彼が私の背後から覗き込んでくる。

 距離が近い。近すぎる。


「あ、はい。今確認します」


「……その前に」


 チュッ、と。

 不意打ちで、首筋にキスをされた。


「れ、レイナード様っ! 仕事中です!」


「休憩ですよ。……君が真剣な顔をしていると、どうしても邪魔をしたくなる」


 彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、悪戯っぽく笑う。

 かつての「氷の貴公子」はどこへやら。

 二人きりになると、彼は驚くほど甘えん坊で、独占欲が強いのだ。


「……君のその赤い髪も、知的な眼鏡姿も、全て私だけのものだ。他の男の前では、その眼鏡を外さないでほしい。可愛すぎて、私が嫉妬で狂いそうになるから」


 抱きしめられ、甘い言葉を囁かれるたびに、私の「鉄壁の事務対応」は崩れ去っていく。

 でも、それも悪くないかもしれない。


 こうして私は、新しい「職場」と「パートナー」を手に入れた。

 かつて悪役令嬢だった私は今、世界で一番幸せな公爵夫人として、忙しくも甘やかな日々を送っている。


 ――え? ロベルト?


 ああ……確か、鉱山で働いていると聞きましたが……詳しいことは存じ上げません。

 私の(アウト)(・オブ・)(スコープ)ですので。

 

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