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海の最後の歌:マリーナの再生

掲載日:2025/10/19

海の表面の下――

太陽の光が無限の青い霞に溶けてゆくその深みには、古く栄えた王国があった。

その名はタラシア――海の王国。


その城壁は生きた珊瑚礁、

塔は潮の満ち引きと共に歌う巨大な貝殻。

中央の宮殿は金の深淵に築かれ、

無数の真珠に照らされてきらめいていた。

そして、その輝く貝の玉座には――

海の王・ネレウスが君臨していた。


彼のまわりには、六人の娘たちが泳いでいた。

その髪は光を帯び、

その歌声は嵐さえも鎮めるほど美しかった。


だが、末娘――マリーナは、誰とも違っていた。


姉たちがイルカと戯れたり、海藻の冠を編んだりして遊ぶ間、

マリーナはひとり、海の上を見つめていた。

――まだ見たことのない“世界”を、

心の奥で、強く夢見ていた。


船が水平線を横切るたび、

彼女の心臓は抑えきれない好奇心で高鳴った。


「人間たちは大地を歩き、

楽器で歌を奏でて、

海にはないものを創り出すんだって……

――海の音が聞こえなくても、生きていけるのかな。」


それを耳にした父は、深く眉をひそめた。


「そんなことを言うな。

人間は海の殺戮者だ。

この海を汚し、珊瑚を壊し、

そして……お前の母を殺した。」


姉たちは沈黙した。

マリーナは視線を落としたが、

心の奥に燃える好奇心は、なおいっそう強くなった。


――「そんなに酷いのなら……私は“なぜ”を見てみたい。」


***


ある夜、海が唸りを上げた。

雲が空を覆い、雷が槍のように突き刺さり、

波は山のごとく立ち上がった。


マリーナは直感に突き動かされ、水面へと泳いだ。


嵐のなか――

砕かれた人間の船。

叫び、砕けた板、

そしてその中で――ひとりの若者が海へ落ちていく。


マリーナは躊躇なく彼の元へ泳ぎ、

氷のように冷たい海流の中、

その体を抱きしめて、歌った。


それは“禁じられた歌”。

王妃だけが知る、命を呼び戻す旋律――「息吹の歌」。


やがて海は静まり、夜が明ける頃、

マリーナは彼を砂浜にそっと寝かせた。


彼はわずかに目を開けた。


「……君は……天使……?」


言葉の意味は分からなかったが、

その眼差しは理解できた。


時が止まったような、ひととき。


やがて、人間の足音が聞こえた。

マリーナは後ずさり、水へと姿を消した。


けれど、あの瞳の記憶は、決して離れなかった。


***


時が過ぎても、マリーナはもう歌わず、踊らず。

ただ、海の上を見つめていた。


それを見た父は、悲しげに問う。

「……まだ人間のことを考えているのか。」


「……止められないの、父上。

彼の目は……今まで誰にも見せたことのない私を、映していた。」


「その目は、お前を破滅に導く。」

ネレウスは言った。

「人の愛など、泡のようなものだ。」


その夜――

マリーナは、誰にも知られず白い珊瑚の庭園へと泳ぎ、

そこで出会ったのは、海の闇から現れた異形の存在。


「愛を求めているのかい、小さな人魚よ……?」


闇の奥から現れたのは、《深淵の魔女》。

半ば女、半ば影。

その髪は死んだ海藻のように漂い、

瞳は漆黒の宝石のように光っていた。


「望みを叶えてあげるわ。

人間の足、地上の鼓動――

けれど、“代償”が必要よ。」


「……何を望むの?」


「あなたの声。

この海で最も純粋な歌を。

癒しも、破壊もできる、あの声を。」


マリーナは迷った。

その歌は、母と繋がる唯一の絆だった。


けれど、思い浮かべたのは――

あの笑顔。あの目。


「……いいわ。」


魔女が手を伸ばすと、黒い霧がマリーナを包んだ。

苦痛が全身を貫いた。


尾は裂け、鱗は剥がれ、

そしてその叫びは、声なき叫びとなって消えた。


目覚めると、太陽の光が肌を照らしていた。


彼女は、脚を得ていた。

そして、海は――彼女にもう、何も語りかけなかった。


***


人間の城の者たちは、彼女を助け、

青い瞳の輝きから「マリーナ」と名付けた。


王子が彼女を見たとき、時が止まった。


「……この瞳……あのとき、確かに見た……」


マリーナはただ微笑んだ。

「あなたを助けたのは私」――そう伝えたかった。

だが、言葉はもう発せられなかった。


日々が過ぎる中、王子は彼女の優しさに、しぐさに、心を奪われていった。


けれど――その幸福は長くは続かなかった。


王子には、隣国との政略結婚が決まっていた。


婚礼の鐘が鳴る日、

マリーナの心は砕けた。


その夜――雨の中、魔女が現れた。


「……苦しいかい? 解放してあげよう。」


マリーナは目で問う。


「この短剣を取りなさい。

夜明け前に王子の心臓を貫けば、

その魂はあなたのものとなり、海へ戻れる。」


短剣を受け取り、マリーナは静かに城へ向かった。

王子は妻を腕に抱き、安らかに眠っていた。


刃を掲げる。

けれど――手が、震えた。


一粒の涙が王子の胸に落ちた。


「……できない……」


彼女は短剣を落とし、海へ向かって走った。


崖の上で、姉たちが叫ぶ。

「戻ってきて! 間に合う!」


マリーナは涙を浮かべながら、ほほえんだ。

「……愛してくれて、ありがとう。」


そして飛び込んだ。


その体は泡となり、空へと昇っていった。


***


だが、彼女の魂は消えなかった。


暖かな光が彼女を包み――

聞こえた声は、懐かしいものだった。


「……娘よ。

真の愛は死なない。

形を変えて、生き続ける。

その犠牲は、海を癒した。

今こそ立ちなさい――海の戦士ウォリアーとして。」


泡から生まれた新たな体。

炎のように揺れる髪、銀色の鱗をまとう肌。

手には、真珠と水晶でできた槍。


マリーナは、甦った。


その頃――

深淵の魔女は海の玉座を奪い、

王ネレウスは珊瑚の柱へと封じられていた。


海は燃え、人々は恐れた。


そのとき――

海が裂けた。


波の中から、ひとつの光が現れた。


「魔女よ!」

マリーナの声が轟く。

「お前の嘘は、ここまでだ!」


海は震え、

雷が水と炎の稲妻を放ち、

魔女の三叉槍と、マリーナの槍が激突した。


七つの海が震え、風が咆哮し、

人間たちは、岸からその光景を見守った。


そして――


「――大切な人のために。

失ったすべてのために。

この命を、海に捧げる!」


「目覚めよ、海の光――《エターナル・タイド》!!」


光の奔流が魔女を貫き、

その影は渦となって消えていった。


玉座は空になり、

海は静かに息を吹き返した。


王と王妃は目覚め、

姉たちは自由になり、

王子は、浜辺にひざまずきながら、波の中の彼女を見つけた。


「……最初から、君だったんだね。」


マリーナは微笑んだ。


「私はもう、ただの人魚じゃない。

海と陸を結ぶ者よ。」


人間と海の民は、ついに和解し、

恐れなき時代が始まった。


それから何年も後――

漁師たちは語る。


海が青く光るとき、

それはマリーナの微笑みが、

世界を見守っている証なのだと。


終わり。

誰も知らない――

彼女が再び歌ったのかどうかは。


けれど、風が波を越えて吹き抜けるとき、

ある者は言う。

遠くから、甘く、力強い声がささやくのを聞いたと。


「――涙さえも、命を育むの。」


こうして語り継がれるようになった。

**『海の最後の歌』**の伝説。


愛のために声を捧げ、

慈しみのために命を捨て、

そして――

海の永遠の守護者として、再び生まれた人魚の物語。






この物語を読んでいただきありがとうございます。ご意見やご提案は大歓迎です。著者プロフィールに他の物語も掲載していますので、ぜひお読みいただければ幸いです。ご支援、誠にありがとうございます。メキシコよりご挨拶申し上げます。




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