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海の最後の歌:マリーナの再生

海の表面の下――

太陽の光が無限の青い霞に溶けてゆくその深みには、古く栄えた王国があった。

その名はタラシア――海の王国。


その城壁は生きた珊瑚礁、

塔は潮の満ち引きと共に歌う巨大な貝殻。

中央の宮殿は金の深淵に築かれ、

無数の真珠に照らされてきらめいていた。

そして、その輝く貝の玉座には――

海の王・ネレウスが君臨していた。


彼のまわりには、六人の娘たちが泳いでいた。

その髪は光を帯び、

その歌声は嵐さえも鎮めるほど美しかった。


だが、末娘――マリーナは、誰とも違っていた。


姉たちがイルカと戯れたり、海藻の冠を編んだりして遊ぶ間、

マリーナはひとり、海の上を見つめていた。

――まだ見たことのない“世界”を、

心の奥で、強く夢見ていた。


船が水平線を横切るたび、

彼女の心臓は抑えきれない好奇心で高鳴った。


「人間たちは大地を歩き、

楽器で歌を奏でて、

海にはないものを創り出すんだって……

――海の音が聞こえなくても、生きていけるのかな。」


それを耳にした父は、深く眉をひそめた。


「そんなことを言うな。

人間は海の殺戮者だ。

この海を汚し、珊瑚を壊し、

そして……お前の母を殺した。」


姉たちは沈黙した。

マリーナは視線を落としたが、

心の奥に燃える好奇心は、なおいっそう強くなった。


――「そんなに酷いのなら……私は“なぜ”を見てみたい。」


***


ある夜、海が唸りを上げた。

雲が空を覆い、雷が槍のように突き刺さり、

波は山のごとく立ち上がった。


マリーナは直感に突き動かされ、水面へと泳いだ。


嵐のなか――

砕かれた人間の船。

叫び、砕けた板、

そしてその中で――ひとりの若者が海へ落ちていく。


マリーナは躊躇なく彼の元へ泳ぎ、

氷のように冷たい海流の中、

その体を抱きしめて、歌った。


それは“禁じられた歌”。

王妃だけが知る、命を呼び戻す旋律――「息吹の歌」。


やがて海は静まり、夜が明ける頃、

マリーナは彼を砂浜にそっと寝かせた。


彼はわずかに目を開けた。


「……君は……天使……?」


言葉の意味は分からなかったが、

その眼差しは理解できた。


時が止まったような、ひととき。


やがて、人間の足音が聞こえた。

マリーナは後ずさり、水へと姿を消した。


けれど、あの瞳の記憶は、決して離れなかった。


***


時が過ぎても、マリーナはもう歌わず、踊らず。

ただ、海の上を見つめていた。


それを見た父は、悲しげに問う。

「……まだ人間のことを考えているのか。」


「……止められないの、父上。

彼の目は……今まで誰にも見せたことのない私を、映していた。」


「その目は、お前を破滅に導く。」

ネレウスは言った。

「人の愛など、泡のようなものだ。」


その夜――

マリーナは、誰にも知られず白い珊瑚の庭園へと泳ぎ、

そこで出会ったのは、海の闇から現れた異形の存在。


「愛を求めているのかい、小さな人魚よ……?」


闇の奥から現れたのは、《深淵の魔女》。

半ば女、半ば影。

その髪は死んだ海藻のように漂い、

瞳は漆黒の宝石のように光っていた。


「望みを叶えてあげるわ。

人間の足、地上の鼓動――

けれど、“代償”が必要よ。」


「……何を望むの?」


「あなたの声。

この海で最も純粋な歌を。

癒しも、破壊もできる、あの声を。」


マリーナは迷った。

その歌は、母と繋がる唯一の絆だった。


けれど、思い浮かべたのは――

あの笑顔。あの目。


「……いいわ。」


魔女が手を伸ばすと、黒い霧がマリーナを包んだ。

苦痛が全身を貫いた。


尾は裂け、鱗は剥がれ、

そしてその叫びは、声なき叫びとなって消えた。


目覚めると、太陽の光が肌を照らしていた。


彼女は、脚を得ていた。

そして、海は――彼女にもう、何も語りかけなかった。


***


人間の城の者たちは、彼女を助け、

青い瞳の輝きから「マリーナ」と名付けた。


王子が彼女を見たとき、時が止まった。


「……この瞳……あのとき、確かに見た……」


マリーナはただ微笑んだ。

「あなたを助けたのは私」――そう伝えたかった。

だが、言葉はもう発せられなかった。


日々が過ぎる中、王子は彼女の優しさに、しぐさに、心を奪われていった。


けれど――その幸福は長くは続かなかった。


王子には、隣国との政略結婚が決まっていた。


婚礼の鐘が鳴る日、

マリーナの心は砕けた。


その夜――雨の中、魔女が現れた。


「……苦しいかい? 解放してあげよう。」


マリーナは目で問う。


「この短剣を取りなさい。

夜明け前に王子の心臓を貫けば、

その魂はあなたのものとなり、海へ戻れる。」


短剣を受け取り、マリーナは静かに城へ向かった。

王子は妻を腕に抱き、安らかに眠っていた。


刃を掲げる。

けれど――手が、震えた。


一粒の涙が王子の胸に落ちた。


「……できない……」


彼女は短剣を落とし、海へ向かって走った。


崖の上で、姉たちが叫ぶ。

「戻ってきて! 間に合う!」


マリーナは涙を浮かべながら、ほほえんだ。

「……愛してくれて、ありがとう。」


そして飛び込んだ。


その体は泡となり、空へと昇っていった。


***


だが、彼女の魂は消えなかった。


暖かな光が彼女を包み――

聞こえた声は、懐かしいものだった。


「……娘よ。

真の愛は死なない。

形を変えて、生き続ける。

その犠牲は、海を癒した。

今こそ立ちなさい――海の戦士ウォリアーとして。」


泡から生まれた新たな体。

炎のように揺れる髪、銀色の鱗をまとう肌。

手には、真珠と水晶でできた槍。


マリーナは、甦った。


その頃――

深淵の魔女は海の玉座を奪い、

王ネレウスは珊瑚の柱へと封じられていた。


海は燃え、人々は恐れた。


そのとき――

海が裂けた。


波の中から、ひとつの光が現れた。


「魔女よ!」

マリーナの声が轟く。

「お前の嘘は、ここまでだ!」


海は震え、

雷が水と炎の稲妻を放ち、

魔女の三叉槍と、マリーナの槍が激突した。


七つの海が震え、風が咆哮し、

人間たちは、岸からその光景を見守った。


そして――


「――大切な人のために。

失ったすべてのために。

この命を、海に捧げる!」


「目覚めよ、海の光――《エターナル・タイド》!!」


光の奔流が魔女を貫き、

その影は渦となって消えていった。


玉座は空になり、

海は静かに息を吹き返した。


王と王妃は目覚め、

姉たちは自由になり、

王子は、浜辺にひざまずきながら、波の中の彼女を見つけた。


「……最初から、君だったんだね。」


マリーナは微笑んだ。


「私はもう、ただの人魚じゃない。

海と陸を結ぶ者よ。」


人間と海の民は、ついに和解し、

恐れなき時代が始まった。


それから何年も後――

漁師たちは語る。


海が青く光るとき、

それはマリーナの微笑みが、

世界を見守っている証なのだと。


終わり。

誰も知らない――

彼女が再び歌ったのかどうかは。


けれど、風が波を越えて吹き抜けるとき、

ある者は言う。

遠くから、甘く、力強い声がささやくのを聞いたと。


「――涙さえも、命を育むの。」


こうして語り継がれるようになった。

**『海の最後の歌』**の伝説。


愛のために声を捧げ、

慈しみのために命を捨て、

そして――

海の永遠の守護者として、再び生まれた人魚の物語。






この物語を読んでいただきありがとうございます。ご意見やご提案は大歓迎です。著者プロフィールに他の物語も掲載していますので、ぜひお読みいただければ幸いです。ご支援、誠にありがとうございます。メキシコよりご挨拶申し上げます。




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