「嫌なことなんて忘れてしまったら良いじゃん」
「嫌なことなんて忘れてしまったら良いじゃん」
小学校五年生の時に近所に引っ越してきたアリ君は、
何か嫌なことがあると、そう言ってヘラヘラ笑っていた。
アリ君は、近所の上田さんという老夫婦のところに、母親と二人で引っ越してきた。
どうやら、上田さんの孫になるようで、アリ君は「有田」という苗字からきたあだ名。
アリ君は都会から引っ越してきていて、標準語みたいな喋り方をして、
サッカーが得意で、勉強もまぁまぁできて、そして明るかった。
アリ君が転校してきたことで、クラスは十四人から十五人になった。
田舎の小学校に、アリ君は簡単に馴染んだ。
クラスのリーダー格といった感じになるのも早かった。
だけど、アリ君がいないところで、時どき、
「アリ君ちって、リコンしたんだって」
という話題が出た。
二十五年前の小学校五年生にとって、リコンという言葉には、
怖さと、不気味さと、切なさと、それから貧しさというイメージがあった。
自分の親がリコンになったらどうしよう。
そう考えると、僕は不安でたまらなかった。
だから、アリ君がいつも明るいことが不思議だった。
ある日の朝。
教室でアリ君が、いつものようにヘラヘラしながら、
「今日から、俺、上田になるけ」
ちょっと違和感のある方言でそう言った。
事情は分からないけれど、リコンが関係しているのだと、
誰も口には出さなかったけれど、皆、そう思ったはずだ。
アリ君は、苗字は上田になったけれど、あだ名はアリ君のままだった。
きっと、あだ名を変えることに皆、抵抗があったのだと思う。
上田君とか下の名前でカズキ君とかに呼び方を変えるのは、
親がリコンしたという現実を、アリ君に突き付けるような、そんな感じがした。
クラスの誰も知らない、誰にも話したことのない出来事がある。
アリ君の家に、回覧板だったか何だったか、用事を頼まれて行ったことがある。
僕が玄関の呼び鈴を押そうとすると、中からアリ君の声が聞こえてきた。
学校では聞いたこともないような、アリ君の怒ったような、いや、
泣いているような、震えて、甲高い声。
「強くないって」
アリ君はそう言って、その後は明らかに泣き出した。
おじいさんが、アリ君をなぐさめていた。
「お母さんは、お前は強いけ大丈夫って、そう思っとるんよ」
「強くないって」
アリ君は、同じ言葉を何回も繰り返して泣いていた。
「ちょっとの間さ。お母さん、また絶対に帰ってくるけ」
立ち聞きは良くないと思ったが、僕は動くのが怖くて黙って立っていた。
「お母さんも、どうせ捨てるんやろ」
アリ君のその言葉に、リコンという文字が重なった。
「俺、強いわけじゃないもん。泣いたら、お母さん困るし、お母さんも泣くもん」
家の中から、大人の男の人が鼻をすするような音が聞こえた。
きっと、上田さんも泣いているのだ。
そのことに気づいて、ようやく体が動いた。
僕は、黙って家に帰った。
翌日、何ごともなかったかのように、アリ君はヘラヘラ笑っていた。
授業参観の時も、運動会の時も、何も感じないかのようにヘラヘラと。
アリ君は、本当は物凄く寂しくて辛かったと思う。
泣いたらお母さんが困るから、という理由で笑うアリ君は、
僕から見たら、やっぱり強くて、不思議な存在だった。
あれから二十四年。
三十五歳の僕たちは同窓会を開いた。
十人しか集まらなかった。
アリ君はいなかった。
ただ、噂では、あまり広くない借家に奥さんと子ども三人と、
それからお母さんの六人暮らしで、いろいろと苦労してるらしい。
皆は口々に、
「嫁姑の板挟みって大変だよね」
と気の毒そうに話していた。
しかし、あの日、彼の泣き声を聞いてしまった僕は、
きっとアリ君は今すごく幸せなはずだと、そう確信している。