第二章:『喉斬り女は笑わない』
血の匂いがまだ残る診療室。
椅子を拭くこともなく、アーサーは静かに次の“患者”を迎えた。
アーサー「どうぞ、お入りください。イーニャさん」
扉を開けたのは、赤いフードを被った痩身の女性。
年齢は20代半ば、唇は紫がかっており、目は虚ろ。
手には癖のある銀のナイフ。
まるで装飾のように、喉元には黒いリボンを巻いている。
イーニャ「……ここで、わたしは裁かれるの?」
女の声は機械のようだった。冷たく、感情が欠けていた。
アーサー「裁きませんよ。私はただ、あなたが“なぜ斬るのか”を知りたいだけです」
アーサーはいつものように優しい口調で言いながら、デスク上の魂石に触れる。
イーニャの魂は、暗く、硬く、蠢いていた。
アーサー「十七人、でしたね。すべて喉を斬って殺している」
イーニャ「……はい。静かに死んでほしいから」
アーサー「それはあなたの願い? それとも彼らの?」
イーニャ「私の」
アーサー「理由は?」
彼女は少し黙ってから、淡々と語り始めた。
──かつてイーニャは、冒険者の宿舎で働く下女だった。
毎晩、冒険者たちが酔って彼女の部屋に入り、好き勝手に犯し、暴力を振るった。
誰も信じなかった。誰も助けなかった。
その夜。最初の殺人は、ただの自己防衛だった。
ナイフを突き立てた。喉を、深く、静かに。
その男は苦しまず、黙って死んだ。
イーニャ「――喉を斬るとね、人は叫べないまま死ぬのよ。私の苦しみを、誰にも言えずに、黙って死ぬ。ふふ……それって公平じゃない?」
彼女の口元に、ようやく微笑が浮かんだ。
その笑みは、底が抜けていた。
アーサーは頷きながら、万年筆で静かにメモを取る。
アーサー「なるほど。復讐。私刑。象徴殺人。……あなたは、自分の傷口を他人の喉元に再現している」
イーニャ「難しいこと言うのね」
アーサー「ええ。でもあなたは知っているでしょう。これは“快楽”だと」
イーニャの目が一瞬だけ揺れた。
イーニャ「……違う。私はただ、静かになってほしかっただけ」
アーサー「でも君は斬り続けた。そして、“静かに死ぬ顔”を見るたびに安らいだ」
イーニャ「……っ」
その瞬間、イーニャはナイフを振り上げた。
だがアーサーは微動だにせず、むしろ目を細めて言う。
アーサー「さあ、続きを見せてください。あなたの“美学”の完成を」
イーニャの刃は空を切った。
次の瞬間、彼女の足がもつれ、床に崩れ落ちる。
イーニャ「……毒……? いつ……」
アーサー「魂石式の心理麻酔。あなたの呼吸と記憶を読み取って、逆流させた。さすがに正面から殺されるのは不本意なので」
彼は立ち上がり、彼女の前にしゃがんだ。
目線を合わせる。優しく、微笑を浮かべて。
アーサー「イーニャさん。あなたは美しかった。だが、方法が間違っていた」
イーニャ「私の、殺しは……」
アーサー「あなたのためのものだった。世界のためじゃない。
――それが“歪んだ正義”であると、今日ここで証明された」
静かに、銀の注射器が彼女の首筋に刺さる。
イーニャ「……いいの。私も、静かになりたかったのかもしれない」
記録ノートには、また一行の文字が刻まれる。
【第149件:連続喉切り殺人。心因:抑圧性自己転写。診断完了。処断実行済】
アーサー「静かに、とは……難しい願いですね」
アーサーは彼女の瞳を閉じ、そっと立ち上がった。
部屋には再び静寂が訪れる。
けれど――その沈黙すらも、彼にとっては“罪の証拠”に過ぎなかった。