風と君を待つだけ
「見つけた、これで最後かな、っと…」
優斗が何冊か積みあがった本の上に、さらに一冊置く。
そばにいためるととニトロ、二人と顔を見合わせ頷き合うと、それぞれに集めた本を一冊ずつ手に取り、読み始めた。
洞井家でのお泊り会の翌日、三人はネットで図書館の演劇台本の蔵書検索をした。
やはり都会の図書館の方が興味を惹かれるタイトルが多くあったが、遠いと交通費が馬鹿にならない。
3人で話し合った結果、やはり無難に近場の図書館で探せるものの中から良いものを見つけよう、ということになった。
探す本のテーマは「弟を思う姉の話」だ。
主人公の姉も、なるべくめるとに似た感じがいい、優斗は真剣に本のページをめくっていった。
だが数分もしないうちに、隣からバン!と本を強く閉じる音が響いた。見なくてもわかる、ニトロだ。
「…漢字、多っ…!!!」
「…そりゃ、本だからな…」
「日本語、難しい…!!!」
「外人みたいなこと言うよな、さすが金髪」
「俺の国語の成績に期待するな…!!!」
「わかった騒ぐなよ、寝てていいぞ」
「暇っ…!!!」
「何のために来たんだよお前、しょうがねーな…」
駄々っ子五歳児みたいにキーキー言い出しそうな隣の金髪くんに、おとなしくさせるためのゲーム可スマホを優斗は貸し出した。
最近の若い親御さんたちが、子供にスマホで動画を見せておとなしくさせることが世間では物議をかもしたりもしていたが、優斗は今それをやりたくなる親の気持ちがわかる心境だった。
優斗の読みどおり、差し出されたゲーム可スマホを見たニトロは目をキラキラさせてそれをもぎ取った。
図書館に来た当初の目的を忘れ去った金髪は、慣れた手つきで優斗のスマホの中の「テトリフ」をタップする。
朝に暇つぶしに優斗がやってるのを見せたら、ニトロのゲーム魂にクリーンヒットしたらしい。
家のWi-Fiを貸すから自分のスマホにダウンロードすればいい、テトリフくらいならオフラインで遊べるぞ、と優斗はニトロに言ったのだが、ニトロは唸りながら首を横に振った。
経験上一線を超えると、次も次もと欲しくなるのは目に見えている。稼ぎがなければ自分のスマホはゲームはできない、それでいいんだ、とニトロは自身に言い聞かせるように言い切った。
それゆえ機会があるなら逃す気はないのだろう。椅子の背もたれを抱え込む行儀悪い形で座り直し、背もたれに肘をかけながらルンルン気分で逃避したニトロの耳には、もう優斗の声は届かない。
ため息をついて手元の本の読解に励もうとすると、くすくすと楽し気な笑い声が優斗の正面から聞こえてきた。
めるとは弟の自由気ままな姿を見てご満悦のようである。姉の愛の深さに優斗はまたため息をついた。
だがそのとき優斗は気づく。めるとが愛しているのは「弟」ではなく「ニトロ」だ。
でも他学年のニトロをクラスの劇に引っ張り込むことはできない。
もし劇でニトロ以外の弟が出てきたとしても、その「弟役」をこんな風に愛しい眼で見ることが、めるとにできるだろうか。
そこまで考えて優斗は思い出した。
読んでいた本を横に置き、積みあがっていた本の中からそれらしいタイトルを探す。
確かネットで見た本の紹介に書いてあったはずだ、一冊だけ「弟が最後まで一切出てこない姉弟の話」が----
「………あった、多分これだ…!」
優斗は呟くと手に取った本をぱらぱらとめくりだす。何事かとめるとが自分の本を読むのをやめて、優斗の本を覗き込んだ。
本には挿絵があり、女性が着ているドレスの特徴からすると中世ヨーロッパあたりの話のようだった。
フィクションかノンフィクションかはわからなかったが、最後までめくっていっても確かに弟の描写が一切ない。
優斗は本を最初からゆっくり読み返してみた。
姉一人、弟一人の子供がいる、ある貴族の話だった。
弟が15の誕生日を迎えた頃、戦争が激化。弟は召集され屋敷には老いた父母と姉だけになる。
姉は学もあり優秀で、嫡男を取られ意気消沈する父に代わり、家のことを取り仕切ろうと奮闘する。
だが女性が活躍することがまだ珍しい時代のせいもあり、姉の試みは皆空振りに終わる。
使用人たちにも冷たくあしらわれ、何度も挫けそうになりながらも、弟の帰ってくる場所を守るために立ち上がる姉の姿がとても健気だった。
だが、物語は悲劇で終わる。
領民に対する不正な金品の巻き上げを行っていた家来を突き止めた姉だったが、策略に嵌められ逆にその罪を被せられてしまう。
どうあってもそれを覆せないとわかったとき、彼女の中の若い正義感は家来の悪行を止めるため、背負った罪と共に彼を亡き者にすることを選んでしまった。
結果、姉は殺人罪で斬首刑に処される。
斜め読みをしていた優斗の目が、ある一文で止まる。印象的な台詞だった。
「あなたに会えないまま私は逝くけど、あなたの帰る家は守ることができた。
本当の悪は倒せた。あとはあなたさえ帰ってくれば、私の汚名が消えるくらいに一族を盛り立てることができる。私は信じている。
だから、どうか守れたと…それだけは、それだけは誇りにさせて…」
そう呟き、何とか持ち出せた弟からの手紙を牢獄で抱きしめる姉のシーンは、優斗の心にも迫るものがあった。
ふと隣を見ると、優斗の顔のすぐ横にめるとの顔があり、涙ぐみながら本を覗き込んでいた。
視線に気づき、涙を拭きながらめるとが優斗と目を合わせる。二人は同時に頷き合った。
いまだゲームに夢中のニトロの首根っこをひっつかんで、三人で本のタイトルを確認する。
『マルグリットの手紙』
悲劇的な境遇の中、弟だけを道しるべに生き抜く女性の話。これ以上めるとに似合う役柄もないだろう。
満場一致でこの本に決まるかと思いきや、斬首刑に納得のいかないニトロがぺらぺらとページをめくり、指摘する。
「優斗こら、お前ここちゃんと読んだか?」
「ゲームしてたお前よりはちゃんと読ん…だ…?」
「この女、歌うシーンがあるぞ」
「えっ…?」
優斗は顔を本に近づけ、指さされたページをじっくり読んだ。
姉----マルグリットの父親の葬儀のシーンだ。
これから一族を背負っていくことになる重責に押しつぶされそうになりながら、葬儀を終えたその夜。
マルグリットが泣きながら月に向けて歌うシーンがあるのだ。
優斗は本から顔を上げ、めるとの方を見た。めるとは必死に首を横に振り続ける。
反応は予想の範囲内だった。優斗は顎に手を当て考え込む。
「…まあ歌わなくても、歌詞の朗読でもいいんじゃないかな?」
「そうかぁ?なーんか迫力っつか、説得力に欠けるっつーか」
「そこまで藍無さんに無理をさせる必要もないだろ。
よし、じゃあ台本はこれで決まりでいいかな?」
「…めるとの初主演が斬首刑かよ…」
「まあいいたいことはわかるけど、適任だと思うぞ?ね、藍無さん」
「…うん、私、このお話なら……が、がんばって…みたい……」
ぎこちないながらも、めるとは笑みを作って優斗たちに見せてくれた。
鼻水垂れ流して嫌がっていた最初に比べれば、十分にいい劇になる可能性は上がったはずだ。
優斗はブーたれるニトロの金髪をわしゃわしゃと撫でながら、まずは一歩目の手ごたえを喜んだ。
めるとの強い希望で、クラスでの台本の発表と読み合わせは三日後に決まった。
少し緊張した面持ちで本を両手で抱きしめていためるとを、優斗は思い返す。
大丈夫だろうか、舞台の成功よりも何よりもめるとの体調が心配だった。
これから三日間、きっと彼女は台本を熟読するだろう。その間舞台の主役という重圧が彼女にかかり続ける。
壊れてしまうようなら別の手を考えないと…。まずは養護施設の施設長だろうか、それともまた父に相談するか…。
そんなことを優斗がぐるぐる考えている間に、二日はあっという間に過ぎた。
約束の三日目、優斗は朝のホームルームの時間を借り、もう一度文化祭の劇の読み合わせを試してみたい旨を皆に告げた。
ざわつきが一気に収まる。続いて流れ始める不穏な空気。
無理もない、前回は主役が逃亡して終わっているのだ。期待値はゼロ以下だろう。
正直提案している優斗ですら不安なのだ。しかしここで揺らぐわけにはいかない、どんな結果になろうと今はめるとを信じて土台を作るしかない。
優斗は腹に力を入れ、声量を一段上げて話し始めた。
「みんな聞いてくれ、前回は無理を言って集まってもらったのに、散々な結果にしてしまって申し訳なかった。
だから根本から見直してきた。まずは主役を務めてもらう藍無さんが演じやすい役柄の台本を探してきたんだ。
彼女もこの本は熟読して、これならいけると了承してくれている。
だからもう一度、俺たちにチャンスをください、お願いします!」
教壇に立つ優斗はクラスメイトに向けて頭を下げた。皆がどよめき始める。
優斗が顔を上げてクラスを見回すと、強い意思のこもった視線を真っ直ぐ優斗に向けているめるとと目が合った。
こくり、と小さく頷くめるとを見たクラスメイトたちの空気が変わる。明るいざわめきが混じり始める。
「では、放課後に外せない用事などのない人は教室に残ってください。
『マルグリットの手紙』の読み合わせをします!」
優斗の宣言にちらほらと了承の返事が返る。
あとは教室に残ってくれたメンバーの前で、めるとがどこまでできるかで決まる。
彼女に気の利いた声かけがしたい。でも自分も緊張している優斗には何もすることができないまま、時間だけが過ぎた。
結局、あまりの緊張に昼飯すら残してしまった優斗だったが、めるとは普段と何も変わらず、ただ静かに過ごしていた。
そして迎える放課後。教室にはそれなりの人数が残ってくれた。おそらく冷やかしが大半だろう。
優斗はあらかじめ印刷しておいた台本のコピーをクラスメイト達に配っていく。
お試しの読み合わせなので枚数は多くない。ただめるとの台詞が非常に多い。実質今日はマルグリット役のめるとのお披露目会なのだ。
家来役や父親役にについては、仮の形でクラスメイトから優斗が選抜した。
みんな台本を読んだり、声を出してみたり、それぞれに調整を始めた。
優斗は教室を見回す。目的の人物は隅っこに存在感なく立っていた。台本に目を向けてもいない。
大丈夫だろうか…、優斗はめるとに近づいた。
だが優斗が声をかけようとすると、めるとに手で制された。
顔にも肩にも力の入っていない彼女に、一言告げられる。
「…大丈夫、私、お姉ちゃんだから」
それで何が大丈夫なのかちっともわからない言葉だったが、めるとがこう言うのならきっと本当に大丈夫なのだろう。
謎の自信が満ちた優斗は、台本を読んでいるクラスメイトたちに声をかけた。
「とりあえず今日はお試しだから、役の人たちはあまり気負わず気楽にやってほしい。
じゃあ渡したコピーの最初から…マルグリットの台詞から入るけど、藍無さんいける?」
めるとは小さくこくりと頷いた。
優斗もそれに頷き返すと、カチンコの代わりに手を構え、「3、2、1…」と唱えてから手を叩いた。
「愚かな家臣たちよ、一族のものも皆、聞くが良い!!」
誰もが耳を疑うほどの凛とした声が、クラス一の陰キャから発せられた。優斗を含む皆がめるとを驚きの表情で見つめる。
だがめるとはひるまず、一歩前に出て身振りを交えながら台詞を続けた。
「我が弟であり、いずれ家督を継ぐであろうエティエンヌが、国からの命により戦地に赴いた。
それ以来、お父様…父上は塞ぎこんでおられるが、我々がそんなことでどうする?!
前線で戦う我らが未来の主に対して、恥ずかしいとは思わないのか!!」
手を振り払いながらクラスメイトたちに訴えかけるめるとは、もはや本の中のマルグリットそのものだった。
迫力のある声と演技に皆も圧され、嫌味を言うはずの家来役は台詞を言うのを忘れてぽかんとしている始末だ。
しばらく教室が静まり返る。マルグリット役がはがれ、めるとに戻った彼女は慌て、自分が台詞を間違ったかと台本を読み返しに隅っこへ行ってしまった。
また静まり返る教室。だが誰かがぱちぱちと小さな拍手を始めたことから、それは伝播し大きな拍手へと変わった。
訳が分からず挙動不審になるめるとに、優斗も拍手しながら伝える。
「みんな、認めてくれたみたいだよ。藍無さんが劇の主役だ…!」
うんうん、楽しみ、がんばろー、と、そこかしこから声が上がり始める。皆めるとに笑顔を向けていた。
一瞬呆然としたものの、徐々に心に染み込んでいったのか、めるとは顔を真っ赤にして目に涙を溜め、精一杯の感謝のお辞儀を皆に返した。
沸き上がるクラスをそのままに、優斗は笑顔のまま教室のドアに近づき、そっと外に出た。
案の定、そこには盗み見していたニトロが、顔をぐっちゃぐちゃにしながら涙を流して喜んでいた。
大事な大事な姉が世間に認められる瞬間、思っていたよりも胸に迫るものがあったのだろう。
しゃがみ込み、声を殺して泣くニトロの横に優斗も座り、泣き止むまで背中をぽんぽんと叩いてやった。
たった二つだけで完結しようとしていた命が、自分の意志でまた一歩、世界に向けて踏み出した瞬間だった。
主役の演技が悪くなかったおかげか、それからのスタッフ決めは優斗が思っていたよりスムーズだった。
役者を中心に大道具、小道具、衣装…学校の文化祭程度にしては珍しいメイク担当なんてものも決まった。
クラスで少々浮いているギャル集団、集団と言っても三人だが、彼女たちの日頃のメイクの腕を見込んで、優斗が頭を下げたのだ。
ギャルたちはとても驚いていたが、何やらヒソヒソニヤニヤと優斗とめるとを交互に見やり、嫌な笑顔でOKしてくれた。
試しに主役のめるとにメイクを施してもらったが、注文通り「儚げだけど凛とした女性」が仕上がり、クラスの皆が沸き立った。
その盛況さに一番驚いていたのはギャルたちだったが、どこかうれしそうに笑ってくれたのが優斗にとっては印象的だった。
そんな流れもあってか、優斗の役どころは自然と「プロデューサー」になっていた。毎日走り回り、指示を出し、頭を下げるのが仕事だ。
そして今日も舞台費用の交渉に教師陣のもとへ行っては頭を下げて、大道具に金が足りないとどやされては頭を下げる。
そんなこんなでクタクタになって日が暮れる毎日を送っていた優斗の目に、煌々と灯る教室の明かりが見えた。この時間に残っている人がいるとは思えない。
また消し忘れだ、きっと大道具の橋本だろう。何度言っても道具は出しっぱなし、電気は点けっぱなし、差し入れは食い散らかしっぱなし----
思春期の子供を持つお母さんのように小言を浮かべながら、優斗は校舎に入り階段を上って教室に近づいた。
………?
かすかな、高い音が聞こえる。掠れるような、途切れるような響き。
それは教室に近づくほど大きく、はっきり優斗の耳に聞こえるようになった。
歌だ。女性が歌っている。
儚げで、今にも消え入りそうな音量で、だけど歌詞はしっかり聞こえて、すぐにそれが何の歌か優斗にはわかった。
月に向けて手を差し出す。白く細い指が何かを求めるように。
今にも折れそうな心を必死に隠して、ただただ愛する弟の無事を願い、歌で自身を鼓舞しようとしている。
強く儚い令嬢、マルグリットを見事に表したあの歌詞は、優斗もしっかりと覚えていた。
だが曲がついて歌になっているものは初めて聞いた。
確かにあの演劇台本には楽譜が載っていた。譜面さえ読めれば、もしくは誰かにそれを音にしてもらって覚えれば、歌えないことはないだろう。
この劇に決めたときから、歌は切り捨てると決めていた。歌詞の朗読で充分だと。
だけど彼女も、日々練習を重ねてマルグリットに近づけば近づくほどに、口ずさんでみたくなったのかもしれない。
優斗は教室からはこちらが見えない位置で立ち止まると、壁にもたれて目を閉じた。視界を塞いで歌に集中する。
きれいな声だった。優しくてあたたかみがあって、寝ている子供を撫でるような響き…そう、子守唄のような。
もう少し聞いていたらまどろんでしまうかもしれない…心地よさに優斗が浸っていると、それほど長くもない歌はすぐに終わってしまう。
少々残念に思いながら優斗は体を起こし、教室のドアをそっと開けた。
そこには驚きの表情で固まり、手に持った縫いかけのドレスを床に落としそうになって、慌てて拾い上げるめるとの姿があった。
顔を上げためるとは驚きの表情のまま、何か言いたげに口をパクパクさせて、やがて顔だけでなく耳も首までも真っ赤にして項垂れた。
優斗はその様子をなるべく笑わないように、必死に口元を引き締めて教室に入った。できる限り優しくめるとに声をかける。
「………ドレス、自分で縫ってたの?衣装係に任せていいのに」
「………あっ、ド、ドレス、ドレスね…うん…ドレス、自分で縫いたくてその…」
「頑張りすぎだよ、施設の手伝いで先に帰ったニトロも他のみんなも心配するよ、こんな時間じゃ」
「………あっ、う、うん、うん…、しっ、心配、するよね…うん…、でも、レースここだけ、最後まで…」
「…歌、上手だね…?」
「はぁっ、う………、~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっ!!!」
「…ごめん、触れるつもりなかったんだけど、藍無さん見てたら、どうしても言いたくなって…」
「…あっ…あっ…、あ、う、ううううう洞井くんの、いじわるぅ…ぅぅぅ………」
めるとは針を針刺しに刺すと、縫いかけのドレスを抱えて上半身を丸めてしまった。
やりすぎたとは思いつつも、どうしても突っついてみたくなってしまった優斗は、顔を上げないめるとの前にかがみこむ。
「…自分でドレスが縫えるなんて、藍無さんは器用だね」
「……………………」
「俺、家庭科でエプロン作ったけど、縫わなくていいとこにミシン線入ってたよ」
「……………………」
「歌も苦手だなぁ。聞くのは好きだけど、歌うとすぐ音程がずれて…」
「……………………」
「躍起になって一人カラオケでがむしゃらに歌ったことあるんだ。でも一回きりだったな、一緒に行く友達もいなかったし」
「…………ラオケ…」
「ん?」
「………カ、ラオケ、行ったこと…ない………」
「…歌はどこで練習してたの?」
「………ニトロ……夜、眠れなくて……ぐずるから…子守唄………」
「うん、確かにまどろむ響きだった」
「………歌う、のは…お金…かからない…から、………河川敷…とか、たまに……」
「ニトロと?」
「…うん……、叫びたくて…どうしようもないとき……、叫ぶ……かわりに…歌った………」
「…そっか…」
「…歌うと、泣かないで済むの…。泣きたい気持ちは…歌が持って行ってくれる…。
だから…マルグリットの歌は…、歌う気持ちは…すごくよくわかる…」
「…でも、人前で歌うのは…怖い?」
「うん…」
「…わかった、じゃあここだけ、二人だけの秘密にしよう」
「…うん」
「…ドレスのレース、もう少し?」
「…うん、……胸元隠すための大事なとこ、もう少しだけ、いい…ですか?プロデューサー…」
「ははは、面と向かってそう言われるのは恥ずかしすぎるな」
「………私の方が、ずーーーーーーっと恥ずかしい…」
「…縫い終わるまで、俺がここにいていいなら、許します」
「………二人だけ?」
「…うん、ふたりだけ」
めるとはようやく顔を上げた。顔はまだ赤く、涙ぐんではいたがドレスは縫うつもりのようだ。
針刺しから針を取る。ちくちく…とゆっくり静かに、めるとはレースの仕上げにかかった。
優斗は近くの椅子を引き寄せ、めるとの傍に座り見守った。
二人だけの静かな時間が流れる。
その静寂を破ったのは、意外にもめるとだった。小さな声で、ぽつりぽつりと優斗に語り掛ける。
「………もともと、自分のこと、恥ずかしい…消えたい、って思う方だったから…。
人前で歌を歌えっていうのは…、ビルの屋上から飛び降りるのと同じ…かもしれない…」
「…うん、そこまでの無理をさせるつもりはないよ。プロデューサーとしてね」
「………気に入ってる?役職…」
「さっき藍無さんに言われて気に入った」
「……ふふ、そっか…。
…あのね、ニトロと歌っても平気なのは、…あの子は、私にとって特別だから…。
唯一の存在で、家族で、姉弟で…、私にとって、この世界でたった一人、なの…。うまく言えないけど…」
「ううん、わかるよ。
ニトロは藍無さんにとってとても特別で、特殊で、支えで、生きるのに必要な人なんだね」
「………うん…」
「…あいつのためにも、演劇、成功させなくちゃね」
「………うん。
…成功、その思いを込めて、縫ってる…」
「………あ、見回りの先生の足音するな…、ごめん、ちょっと行って話してくる」
「洞井くん…!」
椅子から立ち上がりかけた優斗を、めるとが声を上げて止めた。
何事かと優斗がめるとの顔を見ると、縋るような真摯な眼差しで見つめられていた。
「…ど、どうしたの…?」
「…洞井くん……、今、言っていいことか、わかんないけど…。
でも今…、どうしても言いたくなったの…」
「…う、うん…何?」
「…あの、あ…」
ガラリと教室のドアが開く。見回りの教師が険しい顔で居残りの二人を見ていた。
優斗は慌てて教師に駆け寄り、言い訳と反省の頭下げを披露し、難を逃れにかかった。
教師と優斗の言い合う姿を見ながら、めるとはもう一度声に出さずに口だけ動かした。
「ありがとう」と。