マイホームへようこそ
「おいっ!どういうことだよ?!これはどういうことなんだよっ!!!」
相手を脅す、というより焦りまくって冷静さを欠いたニトロが優斗に詰め寄ってくる。
「いや…俺に詰め寄られても…何が何だか正直…」
「正直間違いだよなぁ?!そんなのありえねぇだろ!?なんっなんだよもうっ!!!」
優斗の胸倉を掴んで問い詰めていたニトロが、空を仰いだかと思うと今度は膝から崩れ落ちる。
掴んでいた優斗のシャツも離し、小さく丸まって動かなくなってしまった。
優斗も大きくため息をついて、空を見上げた。本当にどうしたものか…。
優斗は事の発端を思い返した。
藍無姉弟が養護施設に入り、それなりに順風満帆に学生生活が送れるようになった頃、それは起きた。
他クラスの女子生徒からの呼び出しを受けたのである、めるとが。
女子生徒は美作 翠。一時期から男子人気がグンと上がった、活発系美人でポニーテールが良く似合う女の子だ。
その子に呼び出されためるとが教室に帰ってきたとき、得も言われぬ黒い闇が彼女の周りから発せられていたのに優斗は驚いた。
理由を聞こうと昼休みまで待ち、彼女を日当たりのいいベンチに連れ出した。
曰く、施設からの立ち退きを要求されたらしい。
美作は施設長、例の井戸端好きそうなおばちゃん全開の人の孫娘なのだそうだ。
その孫娘が、めるととニトロがこの年齢で施設に入ってきたのが実はかなり迷惑な話だ、甘えてないで働いて生きろ、と言ってきたらしい。
めるとが気になったのは、施設に迷惑が掛かっているという点だ。それは施設長に確かめるしかない。
すぐさまスマホを取り出した優斗を止め、めるとは自分で帰ってから聞いてみる、と言った。
そしてめるとはさらに意外なことを口にする。
「ただで私たちを追い払うのは確かにひどいと思うから勝負しようって…。
今度の文化祭で舞台劇をやって………わ、私が……主役に……!」
そこまで言うと、めるとは両手で顔を覆ってしまった。優斗が言葉を繋げる。
「…藍無さん主役で劇をやって…勝負ってことは、勝ったら施設に残っていいってこと?」
「…負けたら……出てけって…」
「ひどいな、横暴じゃないかそんな提案。こっちは正式に手続き踏んで施設に入ったのに」
「…だから、帰ったら…施設長さんに…ちゃんと聞いてみる…」
「一人で大丈夫?」
「うん…、ニトロもいるから…だから、あの…明日…話…」
「うん、聞かせて」
話を聞く約束をすると、やっとめるとはほっとできたのか、顔を上げてほんの少しだけ微笑んで見せてくれた。
本当は一緒について行って話が聞きたかった優斗だが、そこはめるととニトロを信じて待つことにした。
からの、次の日の朝早々にニトロに詰め寄られる展開である。
朝練の支度をして学校に行けば、またしても校門前で待ち構えているヤツの姿を見て優斗は悟った。めんどくさいことに巻き込まれると。
そして連れて行かれる剣道場と技術館の狭間。ニトロはほんとにここが好きだなと思いつつ話を聞けば、これまた理不尽極まりない展開になっていた。
施設長改め、ニトロ曰くクソババアさんは、カラカラ笑いながら孫娘の話を了承したことを話してきたそうだ。
私も孫には甘いのよ~とか抜かしながら猫撫でてたもんで、思わずニトロも手が出そうになったところをめるとが止めた。
めるとは冷静に、自分たちの存在が施設に迷惑になっているからなのか、と問うたがそれは即座に否定された。
だが真意らしきものはついに話してもらえず、ただにっこりと「青春してらっしゃい♪」と言われてしまったらしい。
訳が分からない。ニトロの混乱ぶりも無理もないものだ。
優斗の足元で丸まるニトロをどうしたものかと悩んでいると、あの荒ぶる金髪から発せられたとは思えないほど弱々しい声が漏れ聞こえてきた。
「どうすんだよぉ……、めるとが主役で劇…?無理に決まってんじゃんそんなの…。
わかってっからふっかけられたんだよなぁ…今回。じゃあ俺ら…また居場所なくなるのかよ…」
ニトロがここまで弱っていることに驚き、優斗はしゃがんでニトロの丸まった背中に手を当てた。小刻みに震えている。
力なく両手を伸ばしてきたニトロが優斗のシャツを掴み、胸元に頭を擦り付けながら懇願する。
「なあ…頼むよ何とかして…。
俺…今の生活、すごく気に入ってんだ…。飯うめぇし、チビたちもかわいくって…。
手放したくない…手放したくないよ……なあ……にぃ、ちゃん…」
優斗の背筋に電流が走った。あのニトロが、優斗を兄と呼んだのだ。
心の底から何かがぐんぐんと成長していく感覚、あ、これダメだ、何でもイエスで答えちゃうやつ来てる。
抗う隙もないまま優斗は成長したものに呑まれ、そして引き受けてしまうことになるのだ。
これまでの人生で最大の、面倒ごとを。
「………ニトロ、任せろ…おにいちゃんがついてる」
鼻の先を赤くし、目に涙を溜めたニトロが顔を上げて優斗を見たとき、あ、おちた、という感覚がしたのだとか何だとか。
だが例え弟萌えに目覚めようと、現実はそう甘くはない。
めると主演劇のプロデュースを心に決めた優斗は、試しにクラスメイトを集めてその話をしてみた。
皆一様に曇り顔。無理もない、何しろクラスで一番の地味子を文化祭の出し物の主役にしようというのだから。
だがそこで引くわけにはいかない。優斗は渋る皆を放課後に集めて、図書室で借りられる劇用台本を使い、読み合わせを試みた。
結果まさかの主役逃亡。いや、これはわかっていた展開だったかもしれない。
すぐに呼んでくるからと探し回るも、さすが気配消しのプロ、くのいちも真っ青なくらい存在がさっぱり掴めなかった。
そういうときは「めるとセンサー」搭載のわが社自慢の一品、金髪くんのご登場である。
ものの十分ほどで居場所を突き止め、首根っこを捕まえて引きずってきてくれた。優秀すぎる。
だが引きずられてきた姉の方は、もはや生気もなく顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、相当に主役が嫌なのだとはっきりわかる有様だった。
無駄だとは思いつつも、優斗はいまだしゃくりあげてるめるとと対話を試みる。
「……藍無さん…、その、聞くまでもなさそうだけど…やっぱり主役は…」
「や゛だ!!!でぎな゛い゛ぃぃぃぃぃぃぃ~~~!!!!!」
「………ですよね。……ニトロさん、どうぞ」
「……無理だな。こんな泣き方してるめると、久しぶりっつうか初めてかもしれねぇよ…」
「………ですよね。…とりあえず、待機の皆には解散伝えてくるよ…」
「嫌゛っ゛!!!目立つごどは嫌゛なのぉぉぉ~~!!!主役なんて絶対にでぎな゛い゛ぃぃぃぃぃぃ~~~!!!!
施設長には私が話すがら゛ぁぁぁ~~!!!許゛じでぇぇぇぇ~~~!!!!!」
泣きじゃくるめるとをニトロに任せて、優斗はクラスに戻ったが、そこは当然のようにもぬけの殻だった。
誰も期待していないのだ。そこには優斗自身さえも含まれている。大きなため息が漏れた。
こうして地味子をプロデュース初日は、成果マイナスで終わったのだった。
このまま帰ってもすっきりしない、そう考えた優斗は藍無姉弟を帰すと、一人技術館の隅っこに来ていた。
無駄なことを考えないで済むよう、体を動かそうと思ったのだ。一人黙々と合気道の型稽古に入る。
しばらく一人で精神統一の時間に勤しんでいると、帰ったはずのニトロが現れた。
考えたことは優斗と同じだったようで、めるとを送ったあと戻ってきたようだった。
二人は言葉少なに黙々と稽古に励んだ。
だがやはり心情は表に出るもの、遅れてやってきた顧問の千兵衛に集中力のなさを指摘されてしまった。
「どうした二人とも~、手先指先まで力が入っとらんぞ?なあなあに稽古をするな~!」
「…うっせぇなジジイ…、それどころじゃねぇんだよ…」
「聞こえとるぞニトロ、今からでもボウズになるか?」
「すみません先生…、今ちょっと非常に大きな悩み事を抱えておりまして…」
「悩みか?それはいかんな、怪我をされても困る。抱え込まずに話してみなさい」
せんべえ先生が来た時より優しい声音でそう言ってくれたのが良かったのか、ニトロのとげとげしさがスッと消えた。
優斗とニトロは二人で顔を見合わせ頷き合うと、ダメで元々でせんべえに話を聞いてもらうことにした。
「クラスで一番おとなしい娘に劇の主役のぉ…」
「なんとかその気にさせるようないい方法ねぇかな…センセー」
「いや、その前に彼女にそんなことをさせていいのかどうか、まずはそこから問題でして…」
「しかしそれを成功させねば悲しい未来が待ち受けているのだろう?ならばやらねばなるまいて。
そう、つまり二人は動かぬものを動かさねばならぬのだな。
それにはまず相手を知らなければならん。
相手が大岩なら、突けば崩れるその弱点を。
相手が人なら、突けば和らぐその信頼を見つけていかんとな。
つまりは対話、じっくり言葉を交わし合い、理解する努力が足りんのだ」
せんべえの言葉を聞いて、優斗とニトロは目が覚めたような顔つきになった。
役をやらせることにばかり注目して、めるとの心を置き去りにしていた。
めるとの安心、それが確保できれば次の展開が望めるのかもしれない。
やる気を引き出す前の土台作り。問題点が今はどこにあるのかはっきりしてきた。
優斗とニトロはせんべえに礼を言うと、部活を早々に切り上げ、作戦会議をしながら帰路に就いた。
そして優斗とニトロは協議の結果、洞井家にて週末のお泊り会を決行することになった。
当初は男二人でみっちり策を練ろうという話だったが、ニトロがお泊りとなれば黙っていられないのがお姉さまらしく。
策の肝であるめるとも一緒に来ることになってしまった。
二人は初めて訪れる一般中流家庭の一戸建てに非常にドギマギし、玄関でそっと脱いだ靴をそろえておとなしく優斗の部屋に入った。
そしてその設備に目を輝かせる。設備と言っても、ベッドがあってデスクがあってモニターがあってゲームがあって…とにかく一般の普通の部屋だ。
でもそれも、二人にとっては豪邸のようなイメージなのだろう。少し申し訳なさが湧いて優斗は頬をかいた。
優斗は部屋の中へ二人を入れ、クッションをクローゼットから取り出し渡すと、二人に座るよう促した。
おっかなびっくり座る二人を前に、早速本題を切り出そうとすると、ドアをノックする音が響く。
入ってきたのは妹の愛名だった。おぼんにジュースとお菓子を乗せて持ってきてくれた。
それを見た瞬間、二人のテンションが弾けた。
「これが世にいう、お友達の家でのおもてなしってやつかぁぁぁ~~~!!!!」
「すごいね…!お菓子とジュース…もらっていいの?すごいね…!!」
二人に大いに喜ばれ、愛名も初めはびっくりして固まっていたが、二人の純粋な歓喜に自然と笑顔になった。
「そっか~、おにいちゃんおねえちゃんたち、こういうの初めてなんだね!
いっぱい食べてね!まだあるから!!お母さんも喜んでるし、大丈夫だから!!」
「えっ?優斗たちのお母さん、喜んでるのか?なんでだ?」
「そりゃお兄ちゃんがお友達連れてきたからだよ~~!!!多分初めてだよ!」
「愛名、余計なこと言うな」
「初めてじゃん!!」
「初めてなのか!!」
「初めてなんだ!!」
「…悪かったな、多分初めてだよ」
『わあぁぁ~~!!!』
なぜか3人が歓喜してハイタッチが始まった。愛名は優斗より二人と打ち解けるのが速いかもしれない。
その証拠に、愛名は早速ニトロと部屋にあるゲームの話をしている。
そんな暇ないんだけどな…と優斗が思った時、ふとせんべえ先生の言葉が蘇る。
信頼を、何よりそれが一番大事なのだ。
優斗は思い直すと、盛り上がる愛名とニトロに「すももてつ」をお勧めした。
同じくらいの熱量でゲームに飛びつく二人を、めるとが愛おしそうに微笑んで見ていた。
「藍無さんもゲームやる?」
「ううん、私は見てるだけで充分。ありがとう、洞井くん」
「いえいえ。でも今時ゲームくらいでこんなに喜ぶかな?スマホでもできる世の中だし…」
「…私たちの持ってるスマホって、最低限の機能しか使えない古いものなの。安く融通してもらったものだから。
ホントはスマホの契約自体すごく大変だったんだけど、ないととても困るものだったし…。
一番安いプランでWi-Fiもないから、ラインとか天気予報とかくらいにしか使えないの。ゲームまではちょっと…」
「…そっか。ごめんね、無神経なこと言った。
じゃあニトロには今日は思いきり遊んでってもらうか」
「…いいの?今日は、その…私のこと、話し合うために…」
「いいんだ、まずはゆっくりしよう。アルファード食べない?俺の好きなお菓子」
「……い、いただきます…」
めるとはそっとお菓子の包みを開け、チョコレートのお菓子…と呟きながら一口ずつ味わって食べていた。
優斗はぐるりと自分の部屋を見回すと、めるとの興味を引きそうなものを探した。
そこで気づく。めるとの好きなものを何も知らない、何を好むのか全くわからなかった。
「藍無さんて何が好き?」
「…え、えっと………家事?」
「それは…今はやらなくていいことかな…。そうじゃなくて、趣味の話?」
「………家事??」
「…うん、わかった。とりあえず漫画とか音楽とかどうかな?
俺のスマホ貸すから、好きなの読んだり聞いたりしていいよ」
優斗はスマホで読めるデジタルコミックと、音楽プレーヤーの使い方、動画の視聴の仕方をめるとに教えた。
よく汚れを拭いてからワイヤレスイヤホンも貸してあげると、申し訳なさそうにめるとは笑ってから受け取った。
しばらくめるとの好きにさせようと、優斗自身は「すももてつ」プレイの観戦に回る。
二人のプレイにヤジを入れながらちらりとめるとの様子を伺うと、イヤホンをして目を閉じて微笑んでいる。
おそらく好きな音楽が見つかったのだろう。楽しんでくれているようでよかった。
自分の部屋での友達との楽しいひと時。確かに初めての経験だ、と優斗は思った。
悪くないな、こういうのも。自然に笑みのこぼれる穏やかな時を、優斗も楽しんで過ごした。
みんなーー!!晩御飯よ~~!!!と、元気な声を響かせる優斗の母が作ってくれた今夜のメニューはハンバーグだった。
鉄板オブ鉄板、10代の少年少女ならまず間違いなく誰もが喜ぶメニューを用意してくれた母に、優斗は心から感謝した。
つんつん、と優斗の服が引っ張られる。愛名だった。きしし、と笑いながらもう一方の手が指さす先には、宝物を前に放心する海賊の下っ端みたいな顔の二人。
肉だ…肉の塊だ…とか呆けたように小さく呟いていた二人の肩を、優斗は軽く叩いて目を覚まさせ席に座らせた。
ダイニングには四人分の食事が並べられている。子供たちだけ先に食べさせてしまおう、という作戦らしい。
意図を理解し、先陣を切って「いただきます」を唱え、飯にかぶりつく優斗、それに倣う愛名、オロオロする二人。
お金は…お皿洗いを…とか小さく呟きつつもハンバーグから目が離せないでいる二人に、優斗は箸でちょいちょいと自分のハンバーグをつついて見せた。
対面する形で座っている二人に見えるように、真ん中から熱々のハンバーグを割っていく。
二人が覗き込む中、ハンバーグが二つに割れ、割れ目からほとばしる肉汁と食欲をそそる芳香が溢れた。
観念した二人はおとなしく箸を持ち、一心に祈りながら「いただきます」を唱える。
おそるおそる口に運んだ一口目以降は、とろけたような顔つきで二人とも無心にご飯を味わい始め、優斗の母もホッと息をついた。
隣に座る愛名が親指を立ててグッドサインを作り、優斗に示して見せた。穏やかな夕食時の風景である。
それなのに。
ちゃぽーーーーーーーん……………
それなのにだよ。
「……っはぁ~~~~~……いい湯だ…」
なんでだよ。
「…オイコラ優斗、早く体洗え。
こんな熱い湯にずっと入ってたら、俺がのぼせちまうじゃねぇか」
男二人で風呂って、何の罰ゲームだよ。
そりゃ女性と入りたいとは言わないけど、何でニトロとセットなんだよ…。
「何ごちゃごちゃ考えてる顔してんだよウゼーな…。
仕方ねーだろ、一人ずつ入ったら湯が冷めるわもったいねーわ時間だけかかるわ…、非効率じゃねぇか。
風呂なんてなるべく一緒に入って洗うのが一番いいんだよ…あ~~、でも、湯舟ってキモチィな…」
「なんだよ、湯舟入るの初めてかよ、今までどうしてたんだ?」
「溜め湯?てか、水だな。気温が20度を超えたら水で洗ってた。二人でゴシゴシと。
まぁ風呂なんて「修行」みたいなもんだな~と思ってたんだけど…なんか…全然ちげぇんだな…」
「…その話もすさまじいんだけど、今どうしても聞き捨てならないワードがスラッと…」
「…『めるとと』二人でゴシゴシと、か?」
「…ここだけの話、お前、大丈夫だったのかそれ…?」
「あのなぁ…俺たちゃ姉弟だぞ?そんなもんアウトに決まってるだろーよ」
「デスヨネ…」
「姉弟だろーと何だろーと、あのデカさにはそそり立つわ…」
「デスヨネ……………で、どーしてたんですかそれ…?」
「ん?あとでトイレで…」
「いや、それを見たお姉さまの反応というかなんというか…」
「ああ、堂々とたててりゃ、めるとはあんまり気にしなかったかな、そういうもんだと思ってるみたいで」
「…大変デシタネ…」
「まぁな…」
「………その余裕がなんか悔しい」
「はっはっは、大人の階段は俺が先かー?」
「うっせ!!!沈めニトロォ!!!」
「バーカバーカ誰が沈むかぁ!!くらえ足元ボディーソープ攻撃!!!」
「あっ!バカやめっ、やべっ、ほんとスベる!!あぶねっ、あぶねぇって!!!」
ちゃぽーーーーーーーーん…………
「………風呂で…暴れるもんじゃ…ねぇな…」
「………だな…暑すぎる……」
「…ったく、お前のせいでホンット贅沢な一日だぜ…」
「そりゃどーも、たっぷり味わえこの野郎…」
どちらからともなくフッと息を吐き、続く笑い声は風呂にこだまする。
そしてまたどちらからともなく、今日集まった目的について話し始めた。
「…こっからが本題だニトロ…、さてどーするか…」
「まずはめるとの信頼を、かぁ…。話が足りねぇって言ってたよな、センセーは」
「ああ、特に俺は藍無さんのことはほとんど何も知らない。
今日だって初めて音楽が好きらしいってことを知ったくらいで…」
「そうだな、めるとはよく俺に子守唄を歌ってくれてたから、歌は好きだと思うな。
あと物語も好きだと思うぞ。俺たち夏場は空調のためによく図書館に行ってたんだよ、ちっさい頃。
俺はすぐ飽きちゃって、めるとの読み聞かせでもあんまり興味持てなかった方だけど、めるとはよく読んでたからなぁ…」
「物語…、読解力か…。
…そういえば藍無さん、藍無さんのお母さんに対しても、何も語らない相手の心情を手に取るかのように話して…。
誰かの感情を読み取る力は人一倍なのかも。だからあまり人に近づこうとしない、とか…?」
「…あるかもしんねぇな…。
相手に気付く力があるから、相手を欺いたり、隠れたりもできんのかも…」
「…この線で話進めてみるか……あと、いい加減涼みたい。もう出よう…」
「賛成…、頭の中までふやけそうだ…」
「お前…軽くでいいから洗えよ?」
「…もう水で洗う…」
「すんごいんだよ~~!!!めるとおねーちゃんのおっぱい!!!
も~~ぼいんぼいん!!!お母さんのとも全然違うの!!すっごい!!!」
風呂から出てきた優斗を赤面させ、ちっとも涼ませてくれなかったのは、男子二人風呂の流れでなぜか女子も二人風呂になり、出てきたばかりの愛名だった。
興奮しながらおっぱい!!おっぱい!!を連呼している。確かに風呂上がりで薄物一枚羽織っただけになっためるとは、とても魅惑的な姿ではある。
だが当の本人は可哀そうなくらい真っ赤になって縮こまっていた。
何かムカつくのはニトロだ。涼しい顔で成り行きを見守っている。もはやめるとのソレがすごいことなど気にも留めていない。
当然愛名を止めるそぶりもなく扇風機の前を陣取っているので、こいつに現状をどうにかする期待はできそうにない。
優斗は母親の方を見た。なんと自分の胸を触りながら俯いている。こいつ、この年でショックがどうとか言い出すつもりなのかっ…!
父はまだ帰宅していない。つまり愛名をなだめ、めるとを安心させる役ができるのは優斗しかいない。
意を決してすべるギャグを口にしようと、優斗が息を吸ったとき、めるとが蚊の鳴くような声で語り始めた。
「私…少し食べられるようになると…すぐ胸とかお尻まわりに肉がつくの…。
気を付けてるつもりなんだけど、太りやすくって…」
違う。それは太りやすいんじゃない、魅力的なだけだ。心の中だけで優斗は付け足した。
だがその付け足しが男性側の勝手な欲望目線の話だったとこの後猛省することになる。
「……おかあさん似なんだ……。男好きのする体系、なんだって……」
少し暗い顔をしてめるとは俯いた。
彼女はこれまでどんなに、自分の体のことで下世話な男たちに舐めるような視線を送られ続けてきたのだろう。
そしてその男たちの中には優斗もいる。反省した、心から、だから。
ここは必殺技に頼る。
「はいっ!暗い顔してる人にはアイスはあげませんよ~~!!
おいしいアイス、みんなで楽しく食べましょうね~~!!!」
「はーーいっ!あたしチョコミントよりもストロベリーフレーバーよりもクッキーアンドクリームよりもあ・ず・き~!!!」
「どこの動画だよ、ってかあずきないよ」
「言いたかっただけだからソーダでいいよ」
愛名が真っ先に飛びついて変なネタで空気を一変させてくれた。皆わいわいと、母までもがアイスに群がる。
しあわせの味はめるとの暗い過去を吹き飛ばし、しあわせの笑顔をもたらしてくれる。
「ねえ、おっぱいがデカいのってそんなにいけないことなの?」
なのに空気の読めない妹がまた話を蒸し返す。皆アイスを食べるのはやめないまま、気まずさにあらぬ方を向く。
「ねえ、なんでそんなにいけないことみたいな感じにするの?
だってそれは魅力じゃない?いいことだよ!
猫だって自分の魅力で人間をことごとく下僕にしちゃうんだからさ!
おねえちゃんは堂々と、おねえちゃんの魅力に寄ってくる人間を下僕にしちゃえばいいんだよ!!
…ほら、ここにちょうど良さそうなのいるし」
全く空気を読まない妹がなかなかいいことを言ったかと思ったら、今度は優斗の腕をぐいと引っ張る。
失礼な、誰がちょうど良さそうな下僕候補だ。俺はすでに心の中ではめるとの靴の裏まで舐めている。
そんな心の内はさておき、この空気には乗っかった方がめるとも心が軽くなるのではないだろうか、優斗はわざとデレッとした顔を作ってみた。
「はぁい、ゴキブリ下僕候補その1でぇす…いってぇぇぇ!!!!」
調子に乗った優斗はニトロに思いっきり泣きどころを蹴られた。野郎アイスを食べる口は一切止めないまま蹴ってきやがった。
「…めるとに下僕なんかいらねぇ、ゴキブリなんぞもってのほかだ」
「そうだね、お兄ちゃんセンス悪い」
二人ともアイスを食べる口はそのままに、言いたい放題優斗を罵倒した。
優斗がしょんぼりしながらアイスの続きを舐め始めると、めるとがぷっと吹き出す。
くすくす笑いながらアイスを舐める彼女を見て、優斗は役に立った自己犠牲を称賛した。
一波乱は寝るときにすら起こった。
優斗の部屋に布団を一つ敷くと、当然のようにそれにめるととニトロが二人で一緒に寝ようとし始めたのだ。
さすがに、さすがに姉弟だろうと、己の部屋で好きな子と他の男が一緒に寝るのを許せるほど優斗は耄碌していない。
「…ニトロくん、君はこっち」
「ざけんなバーカ、誰がヤローとそんな狭いベッドで一緒に寝んだよ、俺はめるとと寝る」
「…ニトロくん、すももてつ負けてたでしょ?
あれの勝者特権、確か「愛名の言うことなーんでも一つ聞いて!」だったよね?」
「…?ああ、そういやあいつに何にも頼まれなかったな?忘れてんのかな」
「その特権、お兄ちゃんが今ここで行使します。
ニトロくん、君こっち」
「はぁーーーーーー?!お兄ちゃんとか関係ねーだろ何勝手なこと言ってんだ!?」
「関係あるね!!だってお兄ちゃんだから!!!」
「ふざけんな、そんなんぜってー愛名が許さねーから愛名起こして聞いてくるわ!!」
「やめろってお前、あんな電池切れたみたいな寝落ちの仕方した子を起こすな!
今日ははしゃぎすぎて疲れたんだよ、おとなしく寝かせてやってくれって」
「…ニトロ、私からもお願い、愛名ちゃんを休ませてあげて…。
あと、ここは洞井くんのお家だから、洞井くんの指示に従います。ニトロは洞井くんと一緒に寝て」
「ええええーーーー!!??なんっだよそれもぉ………。
………せっかく最高の一日だったのに、最後の最後だけ最悪…」
「お前、俺だって最悪だってこと忘れんなよ」
「バーカバーカ、忘れたっつうか覚えねーよ、勝手に最悪に浸ってろ」
「…二人とも仲いいね」
『どこが?!?!』
結局いつものように優斗とニトロが軽口を叩き合って、めるとがくすくすと笑う構図になっていた。
流れは悪くない、優斗はこの好機を逃がすまいと、枕を武器にして修学旅行の夜モードになりかけたニトロを片手で制した。
「ごめん、流れ切って悪いけど、ちょっと藍無さんのこと話したい」
「…私の?」
「うん、ニトロと風呂入ってた時に軽く話したんだけど、藍無さんって本読むのは好きなんだって?」
「…あ、う、うん…、物語を…読むのは好き…」
「そっか、じゃあ…劇の話なんだけど、藍無さんが感情移入できる話だったら…どうかな?…できそう?」
「………そ、それは…ちょっと……」
「…なぁめると、その話がさ、「弟を思う姉の話」だったらどうだろ?
ちったぁ何とかなりそうじゃねぇか?」
「……う、うん、まぁ…他の話よりは……何とかなりそうだけど…ちょっと……」
動かぬものを動かすというのは本当に難しい。めるとの心を揺さぶれてはいるものの、決定打には全く足りない。
だが今の優斗とニトロでは、出せそうな手札はこの程度しかなかった。めるとが申し訳なさそうに俯いてしまう。
めるとは人前で何かパフォーマンスをするということに非常に不向きな性格なのだ、無理もない。
ただ、決断力と行動力は人並みに持ち合わせている、優斗はそう思っていた。
そうでなければ万引きの実行犯などできない。優斗を呼び出して脅そうなんてこともできるはずがない。
自分を襲おうとしている男を一人で撒いて、平気な顔をしているなんてできないはずである。
めるとは顔は地味目だが笑うととてもかわいい。人の目を惹きつけるだけのものは持ち合わせている。
普段目立たないように気を付けているということは、何をすれば目立つかはわかっているということでもある。
舞台の主役をやれるだけの素養はある。
あとは一押し、彼女の中のスイッチを押せる何かがあれば…、優斗は考える。
そして一つの危うい賭けに出た。
「…藍無さん、…ニトロは今の生活がすごく気に入ってるらしいんだ。俺に話してくれたよ」
「は?お前、何言ってんの今そういう流れ?」
「…………うん。…ニトロ、施設に入ってからとても…生き生きしてるもの…」
めるとは顔を俯けてつらそうな声を滲ませた。ニトロが不安げに顔を曇らせる。
「…おい、優斗てめぇ、めるとに責任押し付けてんじゃ…」
「その話をしてくれた時は驚いたよ」
「聞けよ!!人の話!!」
「ニトロは俺を頼ってくれたんだ」
めるとが俯けていた顔を上げる。信じられないものを見るような目つきで優斗を見つめていた。
食いついた、これは絶対にいける。優斗はめるとの目をじっと見つめながら、優越感に浸ったような嫌な微笑みを浮かべた。
「言ってくれたんだよ…「頼むよ、にいちゃん…!!」って…!」
めるとが真っ白になった。叩いたらサラサラ崩れていくんじゃないかというくらい見事な石像だ。
「…っあんっっっっがあぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~!!!!!ゆ゛う゛と゛ぉぉぉ~~!!!!」
こちらは触ったら消し炭になるんじゃないかというくらい真っ赤に燃えている。ニトロは怒りのままに優斗の首を掴んできた。
そのままがくがく揺さぶられ、息は詰まるわ星は見えるわ、三途の川を渡りかけた優斗の耳に、その声は確かに届いた。
「…やるわ」
あれだけ騒いでいた優斗とニトロが一瞬で鎮まるような、凛とした力強い声だった。
一瞬それがめるとから発せられたものだと、二人は認識できなかった。それくらい、聞いたことのない声音だった。
優斗とニトロは石化したはずのめるとの方を見る。そこには静かな、だけど確実に熱く燃える炎を背負った、弟溺愛の姉の姿があった。
普段の困り眉の眉尻をこれでもかと釣り上げて、ぎっと音がしそうな勢いでめるとは優斗を睨んだ。
「………弟を思う姉の役でなら、主役、演じてみせるわ…。
誰がニトロの本当のお姉ちゃんか、わからせてあげる…!!」
賭けには勝った。だが恋の相手としては遠ざかった、確実に。
優斗は勝ったような負けたような複雑な気分で、怒り顔が実は美しいめるとを呆然と眺めていた。
めるとは立ち上がると、いまだ優斗の首を絞めていたニトロの腕を掴み、めると側に引き寄せた。
そのままぎゅっとニトロを抱きしめると、優斗を一度ギロリと睨んでから、めるとはニトロと一緒に布団に転がった。
優斗がそれについて何か言う前に、刺々しい声で一言、終わりを告げる。
「おやすみ」
その声に優斗は逆らう術もなく、心の中でしくしくと涙を流しながら部屋の電気を消した。
一人で眠るシングルベッドの広さが虚しいと感じながら、賭けに勝ったはずの敗北者は眠れぬ夜を過ごすのだった。