Hello,World.
「いってきまーーーす」
優斗が靴を履き終え玄関のドアを開けようとしたとき、リビングからドタバタと音が聞こえてきた。
「おにいちゃん!いってきますじゃないよお弁当!!!」
「あ、忘れてた」
「優斗!昨日洗って干しといたジャージも忘れてる!!!」
「あ、ごめん」
妹と母親がそれぞれに学生生活必需品を持ってきてくれた。優斗は礼を言ってそれを受け取り鞄にしまう。
「んじゃ、今度こそいってきます」
「忘れ物ないね?!」
「歯磨いたね?!」
「寝不足じゃないね?!」
「お手洗い行ったね?!」
「待って待って子供じゃないんだからその辺で勘弁して…」
「何言ってんの?!子供より手のかかるおにいちゃんだよ!!」
「夕食も一緒に食べるようになって、やっと私を母親として認めてくれたんだもの!!今は押し時なのよ!!!」
「ええ~~~………」
二人の剣幕から逃れるように、優斗はそっとドアノブに手をかけた。
「…じゃあ、遅れるから…いってきます…」
『いってらっしゃい~~~~~!!!!!!』
盛大に見送られ、優斗はようやく家を後にした。ちなみに父親はこの事態をリビングの方からニコニコ見守っていた。
朝の風と太陽の光が気持ちいい。自転車で学校に向かいながら優斗は思い返していた。
あれからほどなくして藍無姉弟の家には調査が入り、優斗の父親に言われてかき集めた証拠が功を奏し、見事施設入所の認定が下りた。
父母の同意については優斗の父親が取った委任状が有効と判断され、さして問題もなく決まったらしい。
そして入ることになった施設は、なんと見学に行って好感触だった例の施設だった。
あの日応対してくれたおばちゃんは実は施設長だったらしく、曰くちょっぴり裏から手を回しちゃった、のだそうだ。
よほど藍無姉弟を気に入ったのだろう。今じゃほぼ職員かというくらい雑用を押し付けられて、姉弟は楽しい悲鳴を上げているらしい。
それでも毎日の食事の心配をしないで済むし、水道代を気にしないで洗濯もできる。あったかいお風呂にも入れる。
そしてこれは一応秘密らしいが、お手伝いの分少しだけ給料のような小遣いのようなものがもらえるのだそうだ。
姉弟はそれはそれはうれしそうに、自分が自由にできるお金をもらえるようになったことを喜んでいた。
ニトロはそのお金で今も髪を染め続けているらしい。
本当は施設に入ったら丸刈りにする予定だっただけに、そんな少しの自由が許されることがとても感慨深いようだった。
そのニトロだが、実は優斗が所属する合気道部に入部したのだ。
施設での生活が安定した頃突然やってきて、この幽霊部員だらけの部活で強くなりたいと千兵衛師匠に訴えたのだそうだ。
実はそのときにも髪の問題が発生し、せめて染め直さないか、とニトロは言われたらしい。
でもそれを「これが俺だから」で押し切ったというのだから豪胆なやつだ。
そこをせんべえも気に入ったのだろう、大笑いしながらニトロの入部を許したそうだ。
そしてニトロは早く技をマスターするために、優斗を巻き込んで朝練をし始めてしまったのだ。
おかげさまで朝はゆっくりできる生活だった優斗も、今や立派な部活中心人間になり果ててしまった。
ちなみにせんべえは朝は苦手なので、ニトロの相手役はどうしても優斗以外にいないのだ。というか優斗じゃないとニトロは怒る。
すっかりなつかれてしまった優斗は、うんざり五分誇らしい五分の気持ちでニトロと接していた。
みんながそんな悪くない日常が送れるようになったことをうれしく思いながら、優斗は自転車で坂道を駆け下りて行った。
部活が終わり教室へ向かう途中で、黒く長い髪の後ろ姿が優斗の目に飛び込む。優斗は駆け寄って声をかけた。
「おはよう」
「…洞井くん、おはよー」
黒縁の伊達眼鏡をかけためるとが、優斗の姿を確認してにっこり微笑む。
前に挨拶と共に肩を叩いたら、短い悲鳴を上げて飛びのかれたことを優斗は思い出した。
どうもニトロ以外の誰かに体を触られるのは苦手らしい。施設でもそれで少し苦労していると話してくれたことがある。
でもめるとは施設に入ってから格段に笑顔が増えた。
その笑顔に引き寄せられ、クラスメイトを中心にいろいろな人が彼女に好意を持つようになった。
故のこの伊達眼鏡である。
彼女曰く、好意を持たれるのはうれしいが、度の過ぎる好意は気後れしてしまうのだそうだ。
だからあまり関心を持たれないように、地味に拍車をかけたいと黒縁をかけるようになった。
優斗的にはご褒美である。
その事実は胸にしまっておいたが、おかげでめると人気はじわじわと広がるに留まり、優斗もめるともそれに安堵していた。
「…洞井くん」
「うん、なに?」
「…眼鏡っ子が……好き?」
「えっ?!」
胸にしまっておいたことを言い当てられたことより、めるとの口から「好き」という言葉を聞いた衝撃の方が強く、優斗はめちゃくちゃうろたえた。
妙なジェスチャーをしながらしどろもどろになる優斗を見て、くすりとめるとは微笑んだ。
「………かけてよかった…」
「えっ?!な、なんて…?」
「なんでもなーい…」
めるとは楽しそうにくすくす笑っていた。その顔を見るだけで、優斗は胸がいっぱいになる思いがした。
これから、ラブコメになっていったりするのかな…?
少し前までそんなものはありはしないと暗く考えていたはずの自分の心境の変化に、優斗は戸惑いつつも頬が緩む。
これが…人生に訪れる春、というものだろうか…?!
思わずスキップしたくなる気持ちを抑えながら、めるとを促し教室へ入ろうとした、まさにそのとき。
「おい」
後ろからとてつもなく不機嫌な声がした。
心臓が跳ねたことを必死に隠しながら、普段通りの顔のつもりでニトロに振り向く。
「おうニトロ、一年の教室は下…」
「俺の「めるとセンサー」のこと、お前忘れてねぇよな…」
「…お前、自分でそれ言っちゃう?」
「名称なんざ何でもいい、忘れてねぇよな?めるとに下心抱く変態ヤローは俺にはお見通しだってこと…」
優斗は真顔になった。ニトロも真顔である。めるとだけが疑問符を浮かべていた。
「……容赦しねぇからな、洞井 優斗…!」
「………よろしくお願いします!!!」
すごまれているのに、なぜか敬語でニトロにお辞儀をしてしまった優斗のあだ名は、この日から「したっぱくん」になった。