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強く儚い男たち




そして本番はこれからだ。



優斗(ゆうと)は自宅に入る前に、ばちんと両頬を両手で叩いて気合を入れた。

もう股の間の脳に茶化されていい場面じゃない。しっかり頭の中の脳で考え、行動し、話さなければ。


結局、藍無(あいな) めるとをなぜこんなにも助けたいのかの理由は、まだあいまいなままだった。

だけど放っておくつもりだけは決してない。だからこの直感を信じることにする。優斗は拳を強く握り、玄関の扉を開けた。

今日は部活をするより少し早く帰ってきたから、リビングからは母親と妹の声しか聞こえてこない。

父親が帰ってくるまでにはまだ時間がある。優斗は着替えを取ってくると、風呂場で禊のシャワーを浴び始めた。


めるとたちを助けたい。その気持ちはある。だが、実際に自分一人で助けられるかと問われると、おそらく無理だ。

優斗はめるとがおそらくできなかったこと、「大人を頼ること」を実践してみようと考えていた。

そしてまずは社会に詳しく自分に一番近い大人と言えるであろう、「父親」を頼ってみようと思った。

ここ何年もまともに会話していない人物だ。話しかけても無視されるかもしれない。内容を聞いて呆れられたり罵倒されたりするかもしれない。

今更優斗のことになんて、何の関心も持たないかもしれない。

思考が暗くなる。優斗自身、それを父親に確かめてしまうことが怖い。

できればこのまま、何となく一緒くらいが一番楽でいい。

…でも決めたんだ。優斗はシャワーを止め、風呂場から出る。

今はただ、自分の恐怖なんか消し飛んでしまうほど、藍無 めるとのことを心に思い描いている。

それをただ、信じる。

この気持ちの名前は、まだはっきり言い表すことはできないけど、それでもいい。

その思いは不思議なほど、自分を前に向かせてくれる。顔を上げさせてくれる。だから ----

着替えを終えた優斗は、洗面所の鏡に映る自分を見つめ、もう一度両頬を両手でばちんと叩いた。




脱衣所を出ると、出来立ての夕飯のいいにおいが漂ってきた。

…せっかくだ。これをまず予行練習にしてみよう。

優斗はリビングに足を向けた。


「…ただいま」

「わ!お兄ちゃんだ!!おかえり!!」

「優斗おかえり、この時間に珍しいね、お腹空いた?」

「…うん、空いた。…い、一緒に食べていいかな?」

「もちろんよぉ!食べましょう食べましょう!!

お父さん今日も閑散期極まってるらしいから、早く帰ってくるの!家族みんなでご飯食べましょう~!」


優斗の心にぽっと明かりが灯った。「家族みんなで」、その範囲に自分も含んでくれた。

満面の笑みで迎えてくれた母親と、母親そっくりの笑顔で嬉しそうに自分を見る妹の姿に、心の中の重りが一気に軽くなるのを感じた。

今日の晩御飯はエビフライ。奇しくも優斗の好物だった。あたたかい気持ちでいただけそうだ、優斗の顔にほんの少し笑みが戻った。



しばらくして父親が帰ってきた。

優斗が食卓にいることに、家族の中で一番驚いた顔をしていたが、すぐに少し眉尻を下げた優しい笑顔を向けてくれた。

みんなで食べるエビフライは最高においしかった。優斗が白飯をガツガツとかきこむ姿を、母親は暖かい眼差しで見つめてくれていた。

「お兄ちゃん尻尾あげるから身ちょうだい!」とかいうふざけた妹に、少しだけ身の部分をわけてやったら、口に両手をあてて信じられないという顔で見つめられた。


---- 俺が今まで見ようとしなかったものたちは、今までこんなにも自分を見ようとしてくれていたのだろうか。


胸に熱いものがずっとこみ上げたままかきこむ白飯は、あたたかくてやわらかくて、とてもあまい味がした。

…このすべてが、藍無姉弟には…めるととニトロにはないのだ。

自分がいかに恵まれたものの中にいたのか思い知る。そしてさらにめるとたちを助けたいという気持ちが強くなった。


食事が終わり、みんなで食器を流しに下げていたとき、優斗は意を決した。


「………父さん」

「おっ?!………おう」

「……片づけ終わったら、話したいことがある。聞いてくれるか?」

「あっ?!………ああ」


片言の日本語しかしゃべれない外人みたいな反応を返した父親だったが、聞いてはもらえるようだった。

母親と妹は互いに顔を見合わせ、アイコンタクトを取り合うと、何も言わず二人で茶碗洗いを始めた。





改めてダイニングの椅子に座り直した優斗と父親、洞井 徹(うろい とおる)は、久々に互いの顔をじっくり見つめた。

そしてお互いに驚く。知らないうちに相手が年を取ったり成長したりしているのだ。触れ合わなかった年月を感じずにはいられなかった。

そしてじっくり息子の「成長」を感じ取っていた徹から口火を切った。


「…改めて話したいこと、ということは、真面目な話と思っていい…のか?」

「真面目…というか、困ってること、…手を貸してほしいこと、なんだけど…」

「…力になれるといいな。話してみなさい」

「うん…」


優斗はぽつり、ぽつりと同級生であるめるとのことを話し始めた。

彼女に変な妄想を抱いている話はもちろん全部省いたけど、最近関わるようになったこと、弟がいること、親がネグレクト気味なこと、そして万引きのこと。


「…できれば力になりたい。助けたいんだ…。

でも俺だけじゃできることが何もない。…父さんの知恵と力を借りたい…」


優斗はそう話を締めくくった。徹は腕を組み、考え込んだ。


「………助けたい、という気持ちは立派なものだ。大事にしてほしいことでもある。

…だが、人様の家庭に他人が踏み込むというのは、そうそう簡単なことではない…」


しばらくして口を開いた徹からの感想は、あまり芳しいものではなかった。


「あなた…!」


いつの間にか茶碗洗いを終えて、話をしっかり聞いていた母親、洞井 小実(うろい このみ)が声を上げる。

徹はそれを手で制すと、優斗に向き直り話を続けた。


「簡単なことではない、というのは、気持ちの問題の話じゃない。法的に手を回さなければならなくなる、という話だ。

そうなると正直、高校2年で未成年のお前にできることはほぼない。

大人が大人と関わって、決めていかなければならない話になる。

…だからそうなる前にまず確かめておきたい。

お前は本当に、本気で、その子たちを助けたいと思うんだな…?」


半端な気持ちでは動けない、という言外の気持ちが優斗に伝わってくる。

優斗は唇を引き結んで、こくり、と頷いた。


「…わかった。じゃあまず、今俺がわかる限りの展開を話そう。

まず「助ける」というのは、独りよがりなものではいけない。助けられる側が笑顔になれる、そういう解決策を探る必要がある。

一番に気になるのは、衣食住のこと。話を聞く限り住居はあるようだが、お金が足りず食うにも困っているようだ。

ここの解決のために親御さんと話す必要があると思う。親御さんの抱える「問題」にも踏み込まなきゃならない、ということだ。

話し合いで解決しなかったら、児童養護施設を検討するのがいいんじゃないかと思う。

もちろん施設にもいろいろある。二人に合うところを個人で探せるのかどうか、まずはそこから調べないとな。

そして施設に入るなら、それ相応の証拠を警察なり児童相談所なりに提示しなければならない。

ここでお前たち「子供」には、証拠集めをまずはしてみてほしいと思う。

母親の不在頻度、置いていくお金がどの程度なのか、それを使っての生活費の記録、何がどの程度足りないのか。

他にも殴られた時の診断書や写真などがあるといいかもしれない。虐待が疑われる証拠を集めておいてくれ。

とにかく何から何まで、包み隠さないはっきりしたデータが法的にはものを言う。

他人を説得するとき、必要なのは証拠であって情ではない。

法治国家とはそういうふうに「使う」ものなんだ」


徹のあまりの饒舌さに、ぽかんと口を開けたままでいることしかできない小実を横目で見つつ、優斗は続ける。


「…万引きは?…最悪二人とも捕まってしまうことは…」

「…警察の取り決めがどうなっているかは、詳しくは俺にはわからない…。

ただ、警察組織というのも、嫌な言い方だが「法の味方」であって「人の味方」なわけじゃない。

おそらく何らかの証拠が残っていないと、法的に裁かれることは、まずないと思うんだが…」

「そっか…、わかった。ありがとう、父さん。

父さんの言ってくれた通り、まずは証拠集めから二人に聞いてみるよ」

「優斗…」

「なに?」

「…お前はまだ俺を、「お父さん」だと思ってくれていたんだな…」

「な、なんだよ、急に…当たり前だろ…」

「ずっと自信がなかったんだ…。お前の本当の母さんと別れてから、お前は格段に口数が減った。

何を考えているかわからなかったし、確かめるのも怖かったんだ…。すまなかった…」

「うん…」

「…ハハ、まあじゃあ、証拠集めをまずはがんばってみてくれ。

その間に俺は頼れそうな機関を当たってみよう。母さんならツテがあるんじゃないか?」


話を振られて、見守っていた小実がカラカラと笑いながら話し出す。


「やぁだお父さん、私がやってるのは保護猫ボランティアよ?

人を助ける機関の話なんて…なんかないか探ってみるわね!」

「おう、頼む」

「ボランティアやってる人って、意外といろんな援助機関のこと知ってたりするのよ。

そういう横繋がりがないかとか、今はネットもあるし、やれることはいっぱいありそうね!」

「私も!手伝う!!!」

愛名(まな)は私がそういうので忙しい時の家事手伝いとか…そうそう、保護猫のちょび(ぞう)のお世話を頼めたら助かるな~!」

「それっていつもやってるじゃん!!」

「そう!いつも通りでいてね!!」


頬を膨らませて不服そうな顔をする妹の愛名が、まだ何か小実に反論していたが、優斗は視線を徹に戻す。


「改めて、ありがとう、父さん。…頼らせてください」

「おう、がんばろうな」

「うん」

「…お前が弱い人に目を向ける子に育ってくれて、俺はうれしいよ」


その言葉を聞いたとき、優斗の善意の心に雷が落ちた。

冷や汗が顔からドッと吹き出る。父に合わせていた目線を少しずつあらぬ方へ逸らしていく。


「? どうした?」

「な、なんでもない、なんでもないんだ」


うまくごまかし切れていない返事をしながら、優斗は心の中で父親に両手を合わせて謝った。

すいません、俺の善意は報酬もらってます。

すいません、俺の報酬は彼女の胸です。

ほんとこんな息子ですいません。


謝るだけ謝ると、上機嫌で盛り上がる家族を残し、優斗はそそくさと自室へ引っ込んだ。

扉を閉め、床に背筋を伸ばして正座すると、綺麗な姿勢で額をこすりつけた土下座を披露する。

土下座をされた心の中のめるとは、赤くなった顔で胸を隠していた。














少しだけ、浮かれていた私がバカでした。

今日は朝からめるとに話しかける口実があるとか思っていた私がバカでした。

どうやって話を切り出そうかとか、いろいろ考えていた私がバカでした。


目の前、校門。朝イチ、金髪。


そうです、彼の存在を私はすっかり忘れていました。

彼は相当怒っているようです。憤怒の形相というものを私は初めて目にしました。

あれで睨まれると、人間って本当に動けなくなるものなんですね。

結局動けないままの私を彼は文字通り引きずっていき、今回は下手に逃げられないようになんでしょうけど、屋上に連れてこられました。

ピッキングって言うんですか?あの技術すごいですねぇ。屋上の扉の鍵、簡単に開けましたもん彼。

おかげで私は今、青い空の下どこにも逃げ場なく、蛇に睨まれている蛙ちゃんをやっております。

現場からは以上です。


「おい」

「…はい」

「わかってんだろーな?」

「…める…藍無さん、のことかな…?」

「………お前にゃ言いたいこと聞きたいことがまだあるが、とりあえずこれだけは言っておく。

…余計なことは何もするな。以上だ」

「…で、でも…!君たちを取り巻く環境をもっと良くする方法が、他にあるかもしれないんだ!

昨日俺、父さんと話していろいろ聞いてきた。君たちを助けるためにできることがあるっ…!?」


話の内容に集中しすぎて反応が遅れた。

優斗はニトロの拳に横っ面を殴り飛ばされてしまい、見事に吹っ飛んだ。

硬いコンクリ床に這いながら、優斗は殴られた左頬に手を当てる。血の味がする、口の中を切ったみたいだ。

とりあえず追撃は躱さなければと、体が自然に動いた。だが起き上がりかけて優斗は動きを止める。ニトロの様子がおかしい。

ニトロは優斗の方を向いていたが、優斗を見てはいない。感情を一切なくした瞳は見開かれて、彼のまわりだけ色彩もなくなったかのようだった。


「…信用なんか、すると思うか…?

そんなことしたおかげで、俺はどれだけ汚い奴らに殴られてきたかわかるか…?

それでもな…俺には、めるとがいればそれでいいんだ。めるとさえ守れれば、俺なんかどうなってもいいんだ。

あいつを守るには、他人なんか信用しちゃいけねぇんだよ…。もちろん、お前も信じねぇ。

…いいか、お前、余計なことはするな。何かしたら…俺はお前を、どんな手を使っても必ず殺す」


必ず殺す、その言葉のときだけニトロの瞳に感情が戻った。赤い、赤黒い、煮えたぎるマグマのような怒りの感情。

きっとこれが殺気なんだ。優斗は心の底から震えあがった。

体の震えも隠せていなかっただろう。それを見たニトロはまた感情のない瞳に戻り、ゆっくり踵を返すと屋上から去っていった。



優斗は床から起き上がりかけていた体をまた床に戻した。というより、力が抜けて腰が立たなくなっていた。

本物の殺気を浴びたのは初めての経験だ。口の中の血の味も、その恐怖と相まって非日常感がひどかった。

戦場に立つ兵士の気分とはこういうものなのだろうか。そしてニトロは今まで、こんな暴力の世界を垣間見たりしてきたのだろうか。

ぶるり、と体が大きく震えた。怖い、とにかく怖い。

自分に本当に、彼を助けることなどできるのだろうか…優斗の中の自信がどんどん小さくなっていくのを感じる。


「いた!屋上!!」


その時、聞き覚えのない男子生徒の声が一際大きく聞こえた。

何だろう、屋上には自分とさっきまではニトロが…そこまで考えて優斗の血の気が引いた。

屋上の鍵は開いている。自分には殴られた跡がある。

ニトロはもういないが、朝に校門から優斗が引きずられていく姿を見た生徒が何人もいるだろう。

だから先程の声の主に探されていて、今発見された…と。


まずい。

優斗は立ち上がると、殴られた勢いで吹っ飛んでいた荷物を回収し、脱兎のごとく屋上から逃げ出した。

あの声の主はきっと教師を連れてくる。見つかったらこの頬の跡のことは隠し通せない。

そこから芋づる式にめるとやニトロのことが悪い方向にバレてしまうかもしれない。

だから今捕まるわけにはいかない。保健室もダメだ…というか、もう学校にいること自体がまずい。

優斗は必死に左頬を隠しながら、驚いた様子の生徒たちの間を駆け抜け、昇降口から飛び出した。


洞井 優斗(うろい ゆうと)、人生初の学校サボり確定の日。

実は追手から逃げるとき、土足で校内を走り回っていたことに気付いたのはもっと後の話。












青い空と水の流れは人の心を癒す。今の優斗には心地よい休息の場所となった。


「…まあ長居してたら補導されちゃうんだろうけど…」


ぽそりと呟きつつ、河川敷の草が刈りこまれた場所で仰向けに寝転がってみる。

青い空が頭の中を空っぽにしてくれる。太陽はだいぶ暑くて眩しかった。腕で顔辺りの日よけを作る。

左頬はまだじくじくと痛んだ。あの殺気も、色のなくなったニトロも、すべて嘘じゃないことがこの痛みでわかる。

…助けられるだろうか。

家族の温かさに押され、一歩を踏み出した優斗だったが、対峙しているものの底知れなさに怖気づく気持ちが産まれてきてしまった。

今背を向けたとしても、めるととニトロはきっと優斗を責めない。また一つ諦めが増えるだけなんだろう。

それでいいのか、そんな思いをさせるために自分は彼らに近づいたのだろうか。いや、距離を詰めてきたのはあっちだった気もするけど…。

想いは堂々巡りを始める。優斗は両手で顔を覆った。


「なーんだぁお前、泣いてんのぉ~?」


聞き覚えのない男の声が頭上からした。驚いて顔から手を退かし、視界を取り戻す。

にやにやと笑みを浮かべる鼻ピアス唇ピアス野郎が優斗の顔を覗き込んでいた。

跳ね起きるように身を起こし、男となるべく距離をとる。その場には優斗と男の他に2人のピアスヤンキーがいた。

漫画で見るような取り囲まれ方だ。何も話さず逃げ出したかったが、優斗の背には川の流れがあった。荷物も相手側にある。

どうしたものかと考えていると、ヤンキーたちがこちらをバカにしたようなジェスチャーをしながらアイコンタクトを取っている。最初の男が語り掛けてきた。


「お前さぁ、そのほっぺた殴られたの~?

そっかそっかぁ~~、ケンカ負けて泣いてたんだね~、お前、弱いんだね~~。

じゃぁさぁ…、俺たちがケンカの仕方、教えてやるよぉ。まー、お前は殴られるだけなんだけどよぉ!

あ、もちろん金も置いてけよなぁ?受講料な~~」


ギャハハ、と下品な笑い声が上がる。隙だらけなので逃げ出すことはできそうだが、荷物が気になった。

どうにかして回収できないかそちらに視線を送って、優斗は驚いて固まる。

見覚えのある金髪、整った顔立ち、ニトロだった。


「おうニトロ~~、お前も一緒に遊ぼうぜ、こいつとよぉ~~」

「………何回も言わせるな、俺はお前らの仲間になったつもりはねぇ…」


ピアスヤンキーに声をかけられて、心底嫌そうな顔をしたニトロと目が合う。

優斗に気付いたニトロは微かに目を見張り、驚いた顔をしていた。

だがすぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻ると、優斗の荷物を足で蹴って退かし、ずんずんと優斗に近づいてきた。

優斗を苛ついた顔つきで睨んだニトロは、舌打ちを一つすると唾棄するかのような口調で呟いた。


「…お前、なんで殴られたのにこんなとこいんだよ…」

「えっ…その……」

「…なんで怪我のこと、教師にチクらなかったんだよ……バカじゃねぇの」

「………………」


優斗は押し黙った。今のニトロの口ぶりに引っかかったからだ。

優斗が殴られたことを学校に報告すれば、殴った相手のことももちろん報告しなければならない。

そうなれば不利になるのはニトロだ。なのに彼から出た言葉は「バカじゃねぇの」。

………つまりこれは、遠回しに心配、してくれているともとれるのではないだろうか…?

だったら殴るなよ、と優斗は心の中でツッコんだが、ニトロという少年に対しての印象が、優斗の中で若干揺らいだ気がした。

その揺らぎを確かめるように、優斗は黙ったままニトロの目を覗き込む。

そんな優斗にニトロは少したじろいだ。視線をほんの少しさまよわせた後、完全に顔ごとそむけてしまった。

そのやり取りを疑問符を浮かべながら見ていたピアスヤンキーの一人が、空気も読まずにニトロの肩に手を置いた。

ニトロはすぐさまその手を振り払ったが、ピアスヤンキーはにやにや笑いを浮かべながら優斗を指さして言う。


「何ニトロ、こいつとなんかあったのかぁ?

なんか因縁の相手ならさぁ、俺がこいつフルボッコにしてやるよぉ。

んで、お前もヘソ曲げてねぇで俺らの仲間になれって~~」


言いながら近づいてきたヤンキーは、優斗の胸倉を掴もうと手を伸ばしてきた。

反射的に技をかけようとした優斗の手が止まる。

間に入ったニトロがヤンキーの腕を掴み、もう片方の手でヤンキーを思いきり殴ったからだ。


「てめぇ!やんのかオラァ!!!」


仲間を傷つけられた他二人のヤンキーが、一斉にニトロを取り囲む。

殴られたピアスヤンキーも加わり、三人がかりでニトロを殴り始めた。完全な集団リンチだ。

ニトロももちろん殴り返したり蹴り返したりはしているが、優斗の目から見ても良い立ち回りができているとは言い難い。

あくまで喧嘩慣れした素人の動きで、相手の攻撃を躱す、相手の力を利用するといった動きはできていない。

結果一方的に殴られ始め、地面に倒れ斜面を転がり、平らな場所で蹴られ放題になってしまったが、それでもニトロは防御態勢を取らなかった。

あくまで反撃の姿勢を崩さず、蹴ってくる足にしがみついてでも相手にダメージを与えようとする。強い闘争心の持ち主だ。


そして事がそこまで及ぶまで優斗が何をしていたかというと、初めての暴力修羅場に縮み上がっていた。

頭では冷静に男たちとニトロの動きを分析できているのに、体は全く動かない。雰囲気に飲まれてしまったのだ。

ニトロを助けなければという気持ちはあるが、どうしても一歩踏み込めない。優斗はぎゅっと目を瞑り、頭の中に合気道師範の千兵衛(せんべえ)を思い浮かべた。


「合気道には試合や競技がない。強弱を競い合うことがこの武道の目的ではないからだ。

相手とお互いに切磋琢磨しあって心身の鍛練を…という御託は正直どうでもよいのじゃ。

優斗、もしお前が喧嘩に巻き込まれたら、まずは全力で逃げよ。

いたずらに武術で相手を制してはならん。制した時、己に驕りが産まれるからじゃ。

驕りは技を曇らせる。曇った技では相手に通じん。結果、技の失敗で自分が大怪我をする可能性がある。

もしどうしても技を人相手に使う時は、心に刻め。

心を揺らすな。あくまで無でいろ。何も思い描かず、何の感情も生まず。

そう、型の稽古のときを思い出すのじゃ ----」


心を、揺らすな。

ニトロを助けるとか、そういうことは考えるな。

あくまで型稽古。ヤンキーは切磋琢磨する相手。

俺がこれから始めるのは ---- 部活だ。



目を開けた優斗は素早く動き、ピアスヤンキーが倒れたニトロに向けて放った蹴りの足を捉え、その力を利用して上に跳ね上げる。

ピアスヤンキーは足を大きく振り上げた格好になり、そのまま半回転して背中から地面に落ちた。


「なんだてめぇ、やんのかオラァッ!!!」


仲間のヤンキーが背後から優斗に右ストレートを打ち込む。優斗は左足を軸に体を少し回転させ、最小限の動きで拳を躱した。

その躱した拳の力を利用し、相手を振り回すように自身の体をひねり、ヤンキーを放り投げる。

吹っ飛んだヤンキーは顔面から着地し、動かなくなった。残ったヤンキーの頭に血が上る。


「ざけんなクソがぁぁっっ!!!」


怒りにまみれた鉄拳を振りかざすヤンキーに対して、優斗はとても冷静だった。

打ち込まれた拳を受け流し、その力を反転させ、腕を軸に相手の体を大回転させる。

相手の力が強ければ強いほど回転が大きく素早くなるこの技は、優斗も本気で相手に仕掛けるのは初めてだった。

ヤンキーは見事宙を舞い、背中から地面に無様に叩きつけられた。

優斗の頭の中では、この技を初めて師匠にかけられ、畳に叩きつけられた時の自分の姿が浮かんでいた。

あの時の師匠のように上手くできた。心が緩みかける。


「うしろっ!!!」


ニトロの声で我に返り、咄嗟にその場を飛びのいた。最初に倒したピアスヤンキーが、優斗のいた場所でヤクザキックを全力空振りしていた。


「ちくしょぉ!変な技使いやがって!!おぼえてろっ!!!」


捨て台詞を吐いたヤンキーは、その蹴りを最後に攻撃を止め、倒れている他二人を素早く叩き起こして逃げの準備に入った。

優斗は深追いせず、ヤンキーたちが完全に河川敷から見えなくなるまで見送り、そして膝から崩れ落ちた。

今頃怖さが蘇る。拳も体も小刻みに震えていた。

震える体を叱咤し、ボロボロになりつつ半身を起こしてこちらを見ているニトロの方へ向かった。彼の命に別状がなさそうなことにまずは安堵した。


「………間に入るの、遅くなってごめん。ビビり散らかしてた…」

「………強いんだな、お前…」

「強いのは合気道だ。俺じゃないよ」

「…あいき、どう…」


とりあえず立たせようと優斗がニトロに手を差し出したが、ニトロはちらりと見ただけで手を取らず、その場に寝転がった。

優斗は坂の上の方に転がっている自分の荷物を取りに行き、近くでニトロのものと思しき荷物も見つけたので回収して、ニトロのもとへ戻った。

ニトロの隣に彼の荷物を置き、その反対隣に優斗は腰を下ろし、荷も下ろした。



青い空と清い水の流れが穏やかだ。風に吹かれながら、優斗は心を落ち着けていった。


「………気持ちわりぃ…」

「え?大丈夫か…?」

「……気持ち悪いっていうより、気味が悪い、お前…。

…いいか、俺はお前に助けられた程度でお前を信じたりはしねぇからな…。

だから…、最初に言ったとおり、余計なことはするな。

お前みたいなのが…………俺らに、巻き込まれてやる必要なんかねぇんだよ…」


優斗はニトロの方を見た。ニトロの表情は片腕でかばうように覆われていて、見ることはできない。

でも優斗にも何となくわかった。

ニトロはきっと、悪いやつじゃない。

ただただ姉が好きで、姉と二人だけでいたくて、姉と二人だけで苦しみたいんだ。自分を囲む世界が、姉だけで満ちるように。

そしてきっと、姉も同じ考えなのだ。


もしも優斗がめるとを助けたいと望むなら、確実にこの弟も救わなければならない。

できるだろうか。

優斗の心に不安が忍び込む。それはふいに、優斗の産みの母親のことを思い出させた。

あの頃は確かに優斗にもあった、たった一人を求める気持ち。

毎日毎日母が戻ってくるのを願っていた。願いは叶わなかったから、優斗は他を求めざるを得なかった。

そういう点では、この二人は両想いなのだ。

互いが互いしかいらない世界…少しだけ、うらやましいとも思う。

こんなにボロボロでも、そこまで愛せる存在がこの世にいる。ある意味では、ニトロは幸福なのだ。めるともきっと。

ただ、生きるための世界が破綻してきたら話は別だ。このままでは確実に二人は二人だけの世界にはいられなくなる。

だから割って入る。…自分が?だから助ける、…なぜ?

優斗の心に疑問が産まれる。自分はなぜ、この二人にこうまでして関わろうとするのか。どんな見返りを望んでいるのか。

答えはわからなかった。でも放っておく、関わらないでおく選択肢だけは、今はもう持てそうになかった。


優斗は鞄を開けた。見事にへこんだスポーツドリンクのペットボトルが出てきた。

家でスポドリを作れる粉がきれていたのに気づいたのが朝だったので、近所で買って入れていたものだった。

それを隣で寝っ転がるニトロの胸の上に置く。ニトロは驚いて起き上がり、優斗を見た。


「封は切ってないよ。口付けてないから安心しろ」

「…バカヤロウ、女じゃねぇんだからんなこと気にするかよ」

「ま、飲め飲め。お前が蹴ったせいで傷ものだけどな」

「るせ…悪かったな」


そういうと、ニトロはペットボトルの蓋を開け、ぐいと一口飲んだ。

一つため息を吐いて一呼吸置くと、今度はぐいぐいと一気に飲み始めた。

よっぽど喉が渇いていたのだろう。一本を一息に飲んでしまった。

空のペットボトルを川に投げ捨てられるのは嫌だったので、優斗はニトロに手を差し出した。

ニトロはそれを拒むと、空のペットボトルを自分の鞄にしまった。優斗は少し驚いたあと微笑んだ。


「…何笑ってんだよ気色わりぃな」

「お前ケンカ弱いな」

「は?!ふざっけんな一対一じゃぜってーーー負けねぇし!!!」

「合気道やれよ、強くなれるぞ多分」

「やらねーよ!!俺は今でも十分つえぇんだ!!!

部活なんてママゴトに興味はねぇよ!!!」

「そうか、まぁ気長に待ってるよ」

「入んねぇっつってんだろぉが!!!」


今度は声に出して笑ってしまった。殴られるかなと思っていた優斗だったが、ニトロは声を荒げるだけで手を出しては来なかった。

ほんの少しだけ、めるとが愛するニトロのことをわかることができたような気がした優斗だった。




解散はどちらからともなく立ち上がり、互いの帰路に就く形となった。

大変だったのは、優斗が家に帰ってからだった。

優斗の左頬を見て妹は青くなって卒倒し、母親は警察に連絡しようと電話で117を押していた。

後に帰ってきた父親にも難しい顔をされたが、優斗はごく落ち着いた真面目な態度を貫いた。


「男には、これを「転んだ」で済ませなくちゃいけないときがあるんだ」


言い切った優斗に、家族一同は大きな大きなため息を吐くしかなかった。









挿絵(By みてみん)

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