第6章 宰相の影と、王都に燃え広がる混乱
夜明け前の薄暗い倉庫で、俺たちはひそひそ声で作戦の打ち合わせを進める。
王立図書館を失い、やっと見つけた“第二の図書館”も整備にはまだ時間がかかる。そんな中で何とか情報戦を続けるにはどうするべきか――その答えを探しているのだ。
「セリナ王女は、やっぱりまだ王宮に閉じ込められたままか?」 ディランが低く言う。まるで時限爆弾を抱えているような雰囲気で、皆の表情は暗い。
「俺も何度か城の近くまで行ってみたけど、宰相バルドの監視が厳しくてね。まともに接触できそうになかった。衛兵仲間に尋ねても、“第三王女は内々の会議に拘束されてる”としか聞けない」 「つまり、王女自身も自由を奪われているわけね……」 レミィが悔しそうにつぶやきながら、埃のかぶった木箱に腰掛ける。
「王家の権威なんて有名無実になりかけてるのかもな。バルドは、セリナ王女を下手に動かすより、内側から封じておくほうが得策だと思ってるんだろう」 クラウスが渋い声で応じる。確かに、王女が街に出て民衆を鼓舞すれば、貴族連中もただでは済まない。だが、それを許せば宰相の地位が危うくなる。封じ込められて当然だ。
「セリナが動けないとなると、今のところ俺たちには“大きな後ろ盾”がない。せめて民衆の支持を得たいけど、どうやってこの状況で配布チラシを広める? 図書館のときみたいに堂々とやれないだろうし……」 俺が資料を抱えた麻袋を見ながら嘆くと、ディランが腕を組んで唸る。
「うーん、正面突破は厳しい。だけど実は最近、市街のあちこちで奇妙な“民衆デモ”が増えてきてるんだ。増税ラッシュや貴族の圧迫で生活が限界だって連中が、夜な夜な通りに集まってるらしい。そこに紛れ込んで、意見を示すのはどうだ?」 「デモ……そんなものが起きてるのか。危なくない? 宰相側が鎮圧に乗り出してくるんじゃないの?」 「実際、もう何度か小競り合いが起きてるみたい。だからこそ、放っておくと一気に“暴動”になりかねない。もし暴力一辺倒に発展したら、バルドに格好の弾圧の口実を与えてしまう」 「なるほど……だからこそ、俺たちが“正当な法令根拠”を示してやれば、デモが無駄な破壊活動に走らず、改革につながる可能性が出るってこと?」 「そうだな。命懸けにはなるが、混乱の中だからこそチラシを流せば一気に広まるかもしれない。情報が独り歩きしないよう、ある程度まとめた文書を用意して配るんだ」
彼の言うことも分かるが、危険度は高い。市内でデモが活発化すれば、宰相バルドは確実に武力での鎮圧を図ってくるはずだ。それでも、それを上回るスピードで民衆へ“正しい制度”の情報を伝えられれば、彼らは散漫な怒りを組織的な改革への意志へ変えられる――かもしれない。
「なるほど……賭けではあるけど、やらないよりはマシか。俺は今のまま何もせずに地下に隠れてるなんて耐えられないし」 「ふん。じゃあ私が負担する魔法が増えるわけね。チラシを大量に複製するとき、紙やインクもこっそり錬成する必要があるかも」 レミィが意欲を見せてくれるのは嬉しいが、同時に苦笑いが浮かんでしまう。いくら彼女が魔術師でも、材料を無から生み出すわけにはいかない。紙とインクはそれなりにコストがかかるし、杖を振るだけでチラシが完成するわけでもない。
「そりゃ申し訳ないけど、そっちの秘策があるなら助かる。俺も資金集めを頑張るよ。下級貴族や一部の商人と交渉して、最低限の費用を確保できるかもしれない」 「うむ。あまり表に出るなとは言えないが……捕まらぬよう、気をつけろよ」 クラウスの目は心配そうだ。
そんな話し合いを続けていると、外から物々しい声が聞こえてきた。バタバタと慌ただしく走り回る音に、俺たちは思わず息を詰める。 「なんだ……? まさかもう見つかったか?」 ディランが倉庫の隙間から外を覗く。そこには住民らしき数人が走り過ぎていく姿があり、どうやらこちらを気にしている様子はない。でも、その人たちの表情は血相を変えており、必死に「火事だ!」とか「兵が暴れ始めた!」とか叫んでいる声が聞こえる。
「兵が暴れ……? いや、何だそりゃ、内乱か?」 「王都のどこかで大規模なトラブルが発生したのかもしれない。どっちにしろ、やばい匂いがする」 レミィと同時に顔を見合わせ、すぐに行動を決める。どうせじっとしていられない性分だ。
「ディラン、表に衛兵の仲間がいないか確かめてくれ。詳細が分かれば対応できるはず」 「ああ、まかせろ。クラウスとレオンはどうする? 外に出て様子を見るか?」 「もちろん。レミィはどうする?」 「私も行くわ。何かあったときに魔法が使えるほうがいいでしょ」
自分たちが狙われている可能性は十分にあるが、今回ばかりは状況確認が先だ。倉庫を後にし、人気のない裏通りに出ると、焦げたようなにおいがふわりと漂ってきて思わず顔をしかめる。どこかで煙が上がっているのだろうか。
「まさか、本当に火事……?」 俺たちは警戒しつつメインストリートの方向へ進む。すると、薄い灰色の煙が空へ立ち上っているのが見える。民衆がぎゃあぎゃあと騒ぎ、荷物を抱えて右往左往している。その喧噪に紛れ込むように、甲冑がぶつかり合うような音が時折聞こえるのが不気味だ。
「これは……かなり大事になってる予感がする」 ディランが顔を強張らせる。俺たちは人波をかき分けながら先へと向かう。視界の先、広場に通じる通りの一角で何やら炎のようなものが揺らめいているのが見えた。燃えている――か? 近づくにつれ、焼け焦げた臭いが強くなる。
「あの建物、商店街の宿屋じゃないか……」 人混みを透かして見えるのは、半分崩れかけの宿屋。窓から火の手が上がり、屋根の一部が黒く焦げて煙を噴き上げている。周囲にいた住民たちが水を汲んできてバケツリレーで必死に消火を試みているが、勢いを抑えられずパニック状態に陥っている。
「ひどいな……誰か火事を起こしたのか、それとも戦闘でも起きたのか?」 「この感じ、何者かがわざと火をつけたか、魔法による攻撃か……」
レミィが唇を引き結びながら、周囲に視線を走らせる。魔法炎の痕跡があるかどうかを探っているのだろう。だが、そんな余裕もなく、一人の女性が悲鳴をあげながら倒れ込むのが見えた。ディランが即座に駆け寄って抱き止める。
「だ、大丈夫ですか! ケガは?」 「う、うう、兵士が……無理やり店を荒らして……火を放ったのよ! “おまえらがデモなんかするから悪いんだ”って……」
その女性の言葉に背筋が凍る。何だそれは――兵士が放火? 本当にそんなことがあるのか。 ディランも絶句している。仮に命令があったとしても、街の宿屋に火をつけるなんて正気の沙汰じゃない。
「ひどい……。まさかバルド宰相の指令で市民を脅そうとしてるわけ?」 レミィが焦燥感に震えた声を上げる。確かに、デモを力尽くで抑えるために兵士が暴力を振るう――それは十分考えられる。だが、まさか放火までやるとは想像を超える凶行だ。
俺たちが混乱の最中に立ち尽くしていると、別の方向から甲高い悲鳴が上がった。 「ぎゃああああ! やめろ、俺たちに恨みでもあるのか!?」 その声のほうへ目をやれば、そこには鎧を着込んだ集団が激しく鎖や棍棒を振り回し、店のガラスを割り、備品を蹴散らしている光景があった。正規の衛兵――というより、私設軍隊のような装いにも見える。
「ただの兵士じゃない。バルド宰相が雇った私兵か何かかも。まずい、あれは暴力団そのものだぞ……」 ディランが険しい表情で、咄嗟に腰の剣に手をかける。しかし、一人二人で止められる規模じゃない。向こうは十人以上、さらにこちらにも気づいたのか何人かがこっちを睨んでいる。
「離れろ、民衆! 余計な首を突っ込みたくないなら立ち去れ」 私兵の男が低い声で吠える。周囲の民はすでに恐慌状態で、殺気立った集団に逆らえず逃げ惑っている。そのうち数名が酒場に火をつけ始めるのが見えた。
――これは完全に恐怖政治による“制圧”だ。デモを未然に鎮圧するどころか、市街を炎に包んで力を誇示し、民衆を震え上がらせようとしている。バルド宰相の言う“秩序”はこういう形で保たれるのか……唾が逆流しそうになるほど胸がむかつく。
「くそ……こんなやり方、あんまりだろ!」 我慢できずに声を上げた瞬間、私兵らしき男が目を光らせる。 「ああ? おまえ、何か文句あるのか。こっちは宰相閣下の命令で“反乱分子”を処理してんだよ。邪魔するなら同罪だ」 「そっちこそ、市民を巻き込むなんて正気かよ! これじゃただの暴徒だ。宰相の命令だろうとやっていいことと悪いことがある!」 「やれやれ、バカが湧いてきた。……このバカどもも、きっちり始末しておけ」
私兵のリーダーらしき男が仲間に指示を出す。ここで下がれば、民衆が一方的に蹂躙されるのを見殺しにすることになる。しかし、こちらはたった四人だし、レミィの魔法やディランの剣術も、数十人を相手にするほど強力ではない。
「クラウス、どうする……!?」 俺が焦った声を出すと、老司書は拳を握りしめたまま苦々しい顔で首を振る。 「あの人数相手では正面から立ち向かっても勝ち目はない。だが、ここで逃げ回っていては……」
クラウスの声が終わるか終わらないうちに、私兵の一人が飛びかかってきた。ディランが反射的に剣を引き抜いて受け止める。火花が散るほどの衝撃に、ディランがわずかに後ずさる。
「くっ、けっこう腕が立つじゃないか……!」 「へっ、衛兵崩れがよく吠えるぜ」
その間にも、別の私兵がこっちを取り囲もうと動き出す。狭い路地が火炎に照らされ、赤い光が私兵の鋭い眼光を映し出す。逃げ場は横の細い通路くらいしかない。戦闘なんかしてる場合じゃないのに、どうしようもなく危険な匂いがする。
「レミィ、何か魔法で攪乱できるか?」 「やるしかないわね。……炎を消すより、連中の足止めを優先させる!」
レミィが低い声で呪文を唱える。杖先から青白い光が広がり、私兵たちの足元に一瞬だけ氷が張る。思わず何人かが転倒している間に、ディランが剣を振って相手の棍棒を弾き飛ばす。クラウスも古い杖(?)を手にして、かろうじて振り払うような仕草を見せる。まさか爺さんまで応戦するとは思ってなかったが、ともかく必死だ。
「この……何者だ貴様ら! ただの市民じゃないな?」 私兵が叫びながら立ち上がり、今度は後方の者が弓を構える。まずい、距離を取られたら一方的に撃たれるぞ。周囲に民衆もいるし、回復魔法使いなんていないから被害が拡大しかねない。
「わるい、まともにやり合うと危険だ。民衆を少しでも逃がす時間を稼ぎつつ、こっちも撤退するしかない!」 俺は思わず声を張り上げ、仲間に合図を送る。市民の何人かが俺たちの後ろへ回り込もうとし、「助けて!」と悲鳴をあげている。情けないが、この場にいる人たちを守りきるのは正直難しい。それでも、せめて逃げ道を作ってやりたい。
「ディラン、奴らの注意をひきつけられるか!?」 「わかった、任せろ。おまえらはこっちだ! 早く裏路地へ!」
ディランが剣を高く構え、一人で私兵の前に踏み出す。俺とレミィは市民たちに「こっちへ来い」と手招きして、少しでも安全そうな隙間へ導く。クラウスは険しい表情で、レミィとともに短い呪文を唱え始めた。
「《氷柵》――っ!」 杖先から放たれた淡い光が、路上に低い氷の壁を生み出す。完全に防ぎきれるほど強固ではないが、一瞬のバリアにはなる。私兵の弓兵が射放った矢が氷にぶつかり、パキンと砕ける。
「おのれ、ちょこまかしやがって……!」 連中はイライラを募らせているようで、何人かが斧や盾を構えて再突撃してくる。ディランが懸命に食い止めるが、さすがに数が多いし装備も重厚だ。火の手はなおも大通りを照らし、多くの住民が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。
「あまり時間は稼げない……! 市民はもうだいぶん奥に逃げたし、俺たちもここを脱出するぞ!」 「ちっ、今は無理に戦っても負け戦だ。わかった、引くぞ!」
ディランが刀身を振り払い、急いで後退する。レミィが氷の壁をさらに厚くするように魔力を注ぐが、それほど長くはもたないだろう。とにかく民衆のいくらかは抜け道へ逃がせたし、俺たちもやられないうちに退散するしかない。
「クラウス、急げ!」 「わ、わかってる!」
俺たちは小走りで火の海から離れる。背後では私兵たちが「追え!」「逃がすな!」と叫んでいるが、こちとら狭い路地を知り尽くしている。ごちゃごちゃした建物の隙間を縫いながら、どうにか彼らの追撃を振り切る。途中で民衆を何人か巻き込んでしまったが、何とかみんなで後方に抜け出した。
しばらく走って、大通りとは反対の裏手へ出た頃には、全員が息を切らしていた。火事による熱気と煙が遠くに見え、夜の闇に赤い炎が揺らめいている。この王都の片隅が、まるで戦場のように荒れ果てていると思うと、怒りと悲しみで胸が締めつけられる。
「はあ……はあ……何なんだよ、これ……。宰相が本気で“恐怖政治”に出たってことか?」 ディランが荒い呼吸の合間に言葉を吐き出す。クラウスは額の汗を拭いながら、悔しそうに唇を噛んでいる。
「デモを強行鎮圧するだけじゃない。街を焼き、店を破壊してまで威嚇しているんだ……。もしこれが広がれば、王都は地獄絵図だ」 レミィも青ざめている。あちこちで燃え上がる炎や悲鳴を耳にする限り、混乱は一部では済まないかもしれない。宰相が放つ私兵が、あちこちで意図的に火を放っているなら、すぐに街全体を呑みこむだろう。
「くそっ、こんな暴力を見せつけられたら、多くの市民は完全に萎縮するか、逆に暴発するかの二択だ。どっちに転んでもバルドの思う壺だ……!」 思わず拳を壁に叩きつける。宰相バルドが狙っているのは“民衆の希望を根こそぎ折る”ことかもしれない。改革を求める声を暴力と恐怖で抑え込み、誰もが彼に逆らえない空気を作り上げる。それこそ、独裁そのものだ。
「……だからこそ、俺たちは言葉を失っちゃいけない。何とかこの状況でも、民が本当に求めるものが何かを伝えなければ」 クラウスの震える声が響く。そうだ。負けられない。こんな暴挙に沈黙したら、宰相の独裁が加速するだけだ。
「レオン、今こそ“改竄前の法令”を示すタイミングじゃないか? こんな騒ぎの中だからこそ、一気に情報を広められるかもしれない。市民だって怒りの行き場を探してるはずだ」 ディランが真顔で言う。心臓がバクバクする。こんな命の危険がある状況で、大量のチラシをばら撒いたらどうなる? 私兵に捕まれば終わりかもしれない。でも、このまま市民が虐げられる様を見ているだけでは済まされない。
「よし……やろう。レミィ、頼む。明日の昼までにコピー用の魔法インクを作れるか? できるだけ多くの部数を刷って、夜には各地に分散して貼り出したい」 「きついけど、不可能じゃない。何人か魔法の心得がある仲間を呼べば対応できると思う」 「いいな。俺も衛兵仲間を信用できる範囲で集めて、街角に貼るのを手伝わせる。……危険すぎるが、やらなきゃ変わらない」
炎が燃え上がる王都の片隅で、俺たちは無謀な“逆襲”を決意する。バルドの私兵が暴れている最中に、正しい制度を提示する文書を広める――混乱を利用して人々の意識を一気に転換させる。それは一歩間違えれば一瞬で鎮圧されるだろう。だが、ここで黙ってしまえば、この国の闇は決定的なものになる。
「やりましょう。デモに参加してる若者や、苦しんでる民に届けるために――俺たちが“本当の法”を記すんだ。宰相の放火なんかに負けてたまるか」 俺はきつく拳を握って誓う。レミィとディラン、そしてクラウスもそれぞれ呼吸を整え、夜の闇を見据える。あちこちで上がる炎の煙が、まるで地獄の警鐘のように俺の鼻をつく。だけど、もう目をそらさない。
「絶対に、こんなやり方で国を支配させるわけにはいかない――」
王立図書館を取り戻すどころか、今やこの街そのものが火に包まれつつある。だけど、だからこそ、俺たちが掲げる“言葉”には価値があるはずだ。剣も魔法も及ばない領域で、少しでも国を“正しい姿”に戻すための情報を拡散する。それこそが、“司書”として今できる唯一の戦い方だ。
そうだ――暴力には暴力でなく、知識をもって対抗する。バルド宰相が恐れているのは、本当はそこじゃないか。民衆が真実を知り、“正しい秩序”を思い出すこと。だからこそ、あいつは火を放ち、恐怖で全てを塗りつぶそうとしているのだ。
「ならば、俺たちの使命は明白だ……!」
熱い息を吐きながら、全員がうなずく。明日はきっと、さらに苛烈な一日になるだろう。この炎は簡単に収まらない。人々が命の危機にさらされ、混乱が深まるほど、情報の伝達は困難になるかもしれない。しかし、それでも――火の海が広がる街を見つめ、俺は自分の中で決意を燃やす。
「ごめん、もう少し踏ん張ってくれ。俺が書く“反撃の書”が、絶対に道を拓くから……!」
祈るような思いで、仲間とともに血のにおいが混じる煙の中を駆け出す。星の消えかけた夜空が、不気味な赤黒い光に染まっている。王都が燃え、宰相の影が巨大にうねる―― そんな地獄のような光景を背に、“司書”としての戦いを止めはしない。俺たちの言葉が、いつか火を鎮め、新たな夜明けを連れてくると信じたいから。