第2章 貴族制度の闇と初めての改革
朝の光が差し込む王都の大通りを歩いていると、街の様子があまりに殺伐としていて驚く。昨日は日が暮れかけた時間帯に宿探しのため、そこまで詳しく見回る余裕がなかったが、改めてこうして昼の姿を目にすると、崩壊寸前という噂が大げさでないと感じる。
道端で物乞いをする人、瘦せこけて力なく項垂れる商人、家の扉や壁が破壊されて修理もままならない建物。何より、人々の顔に漂う“諦め”の空気が一番堪える。どこか陰鬱で、朝の陽ざしにすら活気がない。これがエルミナ王国の現実なのか、と実感させられる。
「参ったな。図書館がボロボロなのも納得できるくらい、この国は全体が疲弊しきっているんだな」
正直、気分は重たい。せっかく異世界に来たなら、もっと華やかな冒険の景色でも見たかったけど、どうやらここじゃ無理があるらしい。むしろ見るべき現実は“貧困”と“腐敗”だ。俺は宿で食べた朝飯が胃の奥に沈んだまま、消化不良を起こしているような気分になる。
一方で、俺は懐に古書のメモを忍ばせている。昨日図書館で整理した資料の中から、特に目を引いた“改竄された法律”と“貿易の裏帳簿”に関するメモだ。どうやら貴族たちは税や関税を自分たちに有利になるよう巧妙に書き換えてきたらしく、その結果、多くの民衆がとんでもない重税を押し付けられている。そのせいで街は疲弊し、国の経済は回らなくなり、貧困が一気に拡大したのだろう……と推測している。
「となると、まずは本来の法律がどうなっていたのかをはっきりさせる必要があるよな。貴族だけが税を逃れている状態はどう考えてもおかしい」
俺は小声で独りごちる。もともとの文献によれば、過去のエルミナ王国では貴族も一定の税を負担し、それによって王都や地方の治安維持、街道の整備などを支え合っていたらしい。それが今は形骸化してしまい、支配層が“免除特権”をほぼ自動的に得るようになっている。表向きは「公務や領地経営のために経費がかかるから」という理由だが、実際はほぼ法令を改竄しただけというのが昨日の調べで判明した。
「クラウスの話だと、王都の中心部に“貴族会議”の事務所があるらしい。そこが法律や行政を牛耳っているとか」
歩きながら何とか道標を探す。よく見れば、石作りの建物が密集したエリアにだけ、豪華な装飾の門がそびえ立っているのが見える。門の前には甲冑に身を包んだ衛兵が数名立っている。剣を携え、しっかりと検問のようなものをしているのだろう。あそこが“貴族街”か。周囲の建物と比べて、明らかに生活の匂いが違う。
俺はちょっと立ち止まって門を眺めていると、衛兵の一人と目が合う。睨まれるような視線で、まるで「用がないなら入ってくるな」と言わんばかりだ。観光客でもないから、堂々と入っていく勇気はまだない。正直、怖い。武器もなければコネもない、ただの“司書スキル持ち”が、貴族街に入り込むなど無謀にも思える。
「けど、こんなとこで立ち止まってても仕方ないし……一度、王都の広場にでも行ってみようか」
当てもなく彷徨うより、まずは人が集まりそうな場所へ向かうのが得策だ。クラウスからは「市民がよく集まる広場を覗いてみるのもいい」と言われている。実際に街の声を聞かないと、机上の文献だけで国の現実は分からない。そう思って、俺は門を離れ、大通りをさらに奥へ進んでみる。
歩き出してしばらくすると、広場らしき開けた場所に出た。そこには露店が並び、野菜や雑貨を売る店主がいる。しかし、客はまばらで、みんなおどおどした表情をしている。値札が驚くほど高いのが遠目に見えた。そりゃあ誰も買えないだろう。米や小麦の袋が山積みになっていても、それを買える金が市民にはない、そんな印象を受ける。
「……お客さん、どうですか? 安くはないけど、最近はどこもこんなもんで……」 声を掛けられた商人は、やせ細った腕を伸ばしながら申し訳なさそうに言う。俺が軽く野菜を手に取ってみると、トマトみたいな果菜が数個で銀貨三枚と書いてある。正直、それが高いのか安いのか、この国の物価基準が分からないけど、周囲の人たちの表情を見る限り、これはだいぶ高値らしい。
「ごめん、ちょっと手持ちが少なくて……」 と答えると、商人は暗い顔でうなずき、すぐとなりの露店にぼそぼそ声で話しかけ始める。聞き耳を立てるつもりはないが、自然と会話が耳に入る。
「まったく困ったもんだよ。貴族連中はどうせ税も払わず酒宴ばっかり。こっちは仕入れ値が高騰するばかりで、誰も買わん。いずれ潰れるんじゃねえか、この国」 「だろうなあ。子どもが飢えてるの見てると気が滅入るよ。……商売もやめたいが、借金があるから逃げられない」
なるほど、農作物の流通過程で、貴族の圧力や税が絡んで相当コストが上がっているらしい。結果、商人が高値で売らざるを得ないし、買える人は限られる。誰も得しない不毛な状況だ。
こんなにも分かりやすい“悪政”なのに、なぜ変わらないのか。いや、変わらないどころか、ますます酷くなっているっぽい。ここに住む人たちは諦めの境地に入りつつある。政府に陳情しても貴族に門前払いされるのがオチだろうし、下手に改革を求めれば睨まれてしまう。だからみんな声を上げないまま、じわじわと生活が崩壊していく。
俺はあらためて、昨日整理した文献の存在を頭に思い浮かべる。昔はもう少し、まともな制度があった。この国の先人たちが築いたルールや法が、いつの間にか書き換えられてしまった――。ならば、どこかに“オリジナル”を示す文書があるはずだ。実際、図書館に残された断片を見る限り、貴族優遇を廃止する根拠になるような条文は数多くある。それを今の人たちに公開すれば、何らかのきっかけになるかもしれない。そう考えると、自然と身体に熱がこもってくる。
「どうすれば効率よく情報を広められるんだろう。新聞みたいなのはないのかな。……あれ、あそこに掲示板らしきものがある」
広場の一角に、木製の大きな板が立っている。周囲には人だかりがあるものの、あまりに険しい空気が流れているので少し躊躇する。近づいてみると、そこには何枚か布告書が貼られている。どうやら王国や貴族会議が発行した“お触れ”のようだ。代表的なものに目を走らせると、
『新たに都税率を二割上昇する。経済難に苦しむ王国のため、協力を仰ぐ。
貴族連合議会』
「うわ、こりゃきつい……。二割アップかよ」
ただでさえ苦しい民衆にさらなる増税。これでは確かに暴動寸前になるのもわかる。貼り紙を読んでいたおばさんが、「またかよ、もう払えないよ……」と頭を抱えながらその場を去るのが見えた。どうやらつい先月にも似たような増税令があったらしく、短期間で繰り返す“緊急税率アップ”に市民は疲れ切っているらしい。
「おい、おまえ、見慣れない顔だな? どこから来た?」
低い声に驚いて振り返ると、衛兵がこちらをじろりと睨んでいる。全身に軽鎧をまとった屈強な男だ。俺がよそ者に見えるのだろう。荷物もロクに持っていないし、他の住人と雰囲気が違うかもしれない。素性を問い詰めたいのか、あるいは単なる職務質問か、どちらにせよ怖い。
「えっと、俺はレオンっていう司書……というか、ちょっと調べたいことがあって王都に来たんだけど」 「司書? ……変わった肩書きだな。貴族街へ行く用事か? あそこへ行きたければ通行許可証が必要だが」 「今のところは、まだ行く予定はないけど……」
うまくごまかそうと思ったら、別の衛兵が横から口を挟んできた。これまた大柄な男だが、さっきの衛兵よりは少し柔和な顔つきだ。
「おいおいディラン、そんないかつい顔で睨むなよ。見たところ武器も持ってないし、危険なやつには見えないじゃないか」 「うるせえ、俺は仕事をしてるだけだ。怪しい動きがあったらすぐ捕まえるようにって、上から言われてるんだよ。……おまえ、どこで宿を取っている?」 「えっと、王都の外れのほうの小さな宿だよ。まだ名前もろくに覚えてないけど。……とりあえず怪しい者じゃないです。市民に話を聞きに来ただけで」 「ふん。まあいい。トラブルは起こすなよ」
にらむような視線を向けていた衛兵は“ディラン”と呼ばれているようだが、一応それ以上は追及してこない。むしろ横の衛兵のほうが気さくで、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「なんだよ、ディランがあんな態度なのは最近おかしな連中が増えてるせいさ。貴族に納得いかない連中が暴れたり、逆に騙されて領主の手先になる奴がいたり。……ま、あんまり余計なことしないでくれよ。俺たちだって揉め事はごめんだからな」 「わかったよ。ありがとう。あんまり騒ぎは起こすつもりないし、ただ色々調べたいだけだから」
「ただ色々調べたいだけ」――正直、現時点ではそう言うしかない。心の中では、この掲示板や広場の人たちの前で“本当の税制度”を暴いてやりたい気持ちがあるが、いきなりこの国の価値観を覆す行動を取ったら、ディランみたいな衛兵に即刻捕まるかもしれない。下手すると命の危険すらある。
衛兵たちから離れて、広場の中央付近でうろうろしながら状況を観察する。道行く人々に多少声をかけてみたり、露店の店主に軽く質問したりしているうちに、民衆が求めているのは“真っ当な法”と“公平な税制度”だという確信が強まっていく。だけど貴族や役人の顔色をうかがって誰も表立って行動しない。ここが最大のネックだ。
――それなら俺が、持っている“過去の正当な法令文書の復元版”を公開するのはどうだろう。文字通り「これが本来の姿だぞ」って見せてやれば、多くの市民がそれに気づいて声を上げるかもしれない。もちろん、偽造だとか言われる可能性も高いが、そこは《司書スキル》の力で“元データ”を証明すれば、説得力も出るはず……。
そう考えていると、頭の中に次々とイメージが湧いてくる。ポスターのような形で広場に貼りだす? いや、それだとすぐ破り捨てられる可能性がある。ならば複数の場所に同時に貼る? 一瞬で見つかって撤去されるだろうけど、数が多ければ対処しきれないかもしれない。問題は、そんな大掛かりな作業を俺一人でやれるのか、という話だ。
「うーん、クラウスを巻き込んでもいいんだけど、あの人一人じゃ無理だろうな。仲間を集める必要があるのかも」
一人でやっても限界がある。情報を公開する場を確保し、守る仕組みがないと一瞬で封じられるのがオチだ。かといって、貴族の許可を得るなんて無理ゲーもいいところ。もし市民の中に協力してくれる人がいるなら……。そう考えて周囲を見渡していたら、視線の先にやけに目立つ金髪の青年が立っているのが見えた。
彼は衛兵の制服こそ着ていないが、腰に剣を下げていて体格もしっかりしている。顔立ちはまだ若い感じで、どこかひょうきんな笑顔を浮かべて周囲の露店をちらちら覗いている。何か探しものをしているのか、それとも誰かを待っているのか分からないが、俺と目が合うと「ん?」といった表情を見せる。
「なんだ、おまえ、あんたも腹減ってんのか? この辺は値が高くてかなわんよな」 「……いや、まあ確かに高いなと思ってたけど」 「だろ? こんなもん買えたもんじゃないぜ。俺も今は仕事帰りで腹ペコなんだが、さっきから値段見てため息ばっかりさ」
気さくに話しかけてくれるものだから、つい俺も警戒心を忘れてしまいそうだ。よく見ると、彼の腕にはちょっとした傷があって、以前戦闘か何かをした痕跡のように見える。軍人か冒険者かもしれない。しかし、その明るい口調と笑顔からは敵意を感じない。
「冒険者か何か?」 「まあ昔はな。いろいろあって今は衛兵隊長の代理をやってるんだ。名前はディラン=フォード。ああ、さっきの鎧着た連中と同じ名前だって? そりゃ、俺のことさ。ちなみに今は休憩中だ」 「え、ディラン? でもさっき俺が話した衛兵が『ディラン』って呼ばれて……」 「うん、それ俺。へへ、悪いが一応、勤務中は甲冑を着けてやってる。今は一服タイムで、軽装ってわけさ」 「そう、そうなのか……てっきりさっきのは別人かと思った」
さっき見かけたディランはもっと恐い印象だったのに、今はサラリと軽いテンションで話してくる。人は鎧を脱ぐとこんなにもキャラ変するものなのか、と不思議な気分だ。
「まあ俺も、衛兵としてちゃんと仕事してるときは厳しい顔になるんだよ。周囲の目があるし、命令だってある。だけど、実際はこの有様だろ? 庶民の暮らしがこんなに荒んでて、衛兵の給料だって上がらない。税負担ばかり増える。ほんとに疲れるよ」 「隊長代理、なんだよね? その立場なら、どうにか改善しようとか思わないの?」 「思うさ。けど、上にデカい壁があるからな。具体的には宰相とか貴族会議とか。下っ端の俺が口を出したら職を失う。最悪、捕らえられることだってあるし」 「……やっぱり、そう簡単じゃないのか」
苦々しい表情でディランは肩をすくめる。衛兵といっても公務員みたいな立場だから、偉い人に逆らえばクビ、あるいは罰せられてしまう。だが、そのせいで庶民を守れない現状に不満を抱いているらしい。
「でもおまえ……名前なんて言うんだ?」 「レオン。図書館で“司書スキル”持ちとして働いてる……と言っても、まだ一日二日だけど」 「ははっ、司書スキル? それは珍しいな。……え、ってことは、あのボロボロの王立図書館にいるのか?」 「うん、そう。管理人のクラウスに手伝ってくれって言われてさ」
ディランは急に目を丸くして、少し驚いたように言う。どうやらあの図書館を知っているらしい。というより、誰もが知っている廃墟みたいな場所なのかもしれない。
「いや、俺あそこがまだ機能してるとは思わなかったよ。ほとんど人が寄りつかないし、危険だから封鎖されてもおかしくないのに。クラウス爺さん、まだ元気なんだな」 「それなりに元気そうに見えるよ。……俺はそこに残された文献を読み解いて、今の腐敗をどうにかできないか探ってる感じかな」 「へえ、正直、すごいと思うぜ。俺も貴族たちのやり方にはうんざりしてるけど、何もできずにいる。……なあ、もしおまえ、何か改革っぽいことを本気で考えてるなら、俺もこっそり協力していいか?」 「へっ?」
予想外の言葉に思わず声が上ずる。隊長代理という肩書を持つディランが、いきなり協力したいなんて言い出すから驚く。多少は民衆に同情してる衛兵もいるかもしれないとは思っていたが、こんなストレートに申し出られるとは思わなかった。
「いや、俺も表立って動くのは無理だ。上司の目があるし、家族だっている。だけど、もしおまえが王都でなにか“正しいこと”をやろうとしてるなら、多少は力になりたいと思うんだよ。……こんな言い方すると胡散臭いかな?」 「胡散臭いというか……あまりに突然でびっくりした。でも、助かるよ。俺も一人じゃ限界があるから」 「そうか! なら、そのうち図書館に行くよ。勤務の合間を見つけて、こっそり手伝いに行く。市中の情報とか、衛兵が知り得る内情とか、教えられる範囲でならいくらでも協力できるしな」
ディランがやけに嬉しそうに笑う。その笑顔は決して悪意があるようには見えない。むしろ、長らく鬱屈していた何かを放出できたかのような晴れやかさだ。きっと彼は本音で「今の状況を変えたい」と思っているんだろう。こういう人が味方になってくれるのは心強い。
「じゃあ遠慮なく頼るよ。実は俺、広場の掲示板や市民の前で“本当の税法”を公開しようかなとか考えてたんだよ。もちろん証拠を示してさ。……けど、いきなりやったら捕まる可能性大だなと思ってたところで」 「やめたほうがいい。やるならタイミングが大事だ。俺たち衛兵だって、命令されたら止めざるを得ない。下手すりゃ暴動扱いされるぞ」 「だよね。先に根回しをするにしても、誰を頼ればいいのか分からない。クラウスくらいしかいないし……」 「なら、俺が知り合いを数人探ってみるよ。実は、王都には下級役人やら文官やらで、現状に不満を抱いてる者も少なくない。上層に直接逆らえないから大人しいだけで、改革派の芽は意外とあると思う」 「おお、それはありがたい。俺は図書館で文献を復元する作業に集中するから、頼りにしていい?」 「もちろんだ。よーし、ちょっとやる気が出てきたな。毎日鬱憤ばかり溜まってたけど、こうやって動くと決めると少し胸がスッとする」
ディランが右手を差し出してくる。俺も少し照れながらその手を握る。力強い握手だ。これは、ただの思いつきではなく本気の意思表示だと感じる。まさか王都に来て二日目で、こんな協力者に出会えるとは想像していなかった。
「んじゃ、俺はそろそろ戻るよ。昼休憩が終わる。……貴族の連中にも見つからないよう気をつけろよ。最近は特に“怪しい動きをするやつは即連行”とか言い出してるからな」 「わかった。俺もあんまり無茶はしないようにする。後で図書館で会おう」 「おう、またな!」
そう言ってディランは足早に人混みの向こうへ消えていく。ついさっきまで“恐い衛兵”だと思っていたのが嘘みたいだ。まさか同じ人物とは。当初の冷たい視線も、仕事モードの顔だったというわけか。人は見かけによりまくりだなと実感する。
一人残された俺は、広場の片隅にある古めかしいベンチに腰を下ろしてひと息つく。昼の陽射しがジリジリと肌を焼くようだが、気持ちはそれほど悪くない。むしろ、やっと一歩を踏み出せた気がする。行動を起こすには味方や協力者が不可欠。偶然とはいえ、ディランと出会えたのは幸運だった。
「さて、とりあえず一度図書館に戻って、今日集めた情報を整理してみるか」
重い腰を上げようとしたその時、周囲から怒声が聞こえた。何かトラブルの予感がする。俺は思わずそちらに視線を向ける。すると、市場の端で大柄な男が商人を怒鳴りつけているのが見えた。男は上等そうな布の服を身にまとい、腰には護衛らしき人物が控えている。派手な装飾があちこちについているから、どうも貴族かその手先かもしれない。
「こんなクズ野菜を定期の貢納に当てるつもりか! 貴族様に差し出す品がこれじゃあ、俺たちの顔を潰す気か!」 「す、すみません……売り物自体の質が落ちてて……でも、そっちの買い取り額が低すぎて、こういうものしか仕入れられなくて……」 「言い訳するな! おまえら平民は黙って働けばいいんだよ。仕入れが高い? そんなのは知らん! 税が上がったら、それ以上に稼いで納めるのが当たり前だろうが!」
聞いているだけで嫌悪感が込み上げる。商人の必死な弁明も馬耳東風。貴族らしき男は当然の権利とばかりに激昂している。周囲の人々も怖くて近寄れないようだ。護衛らしき男が横で腕を組んでいるのも威圧感がある。
「くそ、これが“特権階級”というわけか……」
憤りを感じつつ、俺はどうするべきか迷う。下手に関わってもこっちが返り討ちを食らう可能性が高い。だけど、このまま放っておくと商人が一方的に搾取されるだけだ。ディランみたいに権力を持ってる人間でも、すぐ口出しはしにくいだろうし……。
とはいえ、今ここに立っているのは俺だけだ。市民たちはみんな一歩引いて、恐る恐る様子をうかがっている。助けを求めるような視線を向けてくる人もいるが、多くはただ俯いて沈黙している。ああ、なんてやるせない空気なんだろう。
「ねえそこのあんた、なんか見てないで助けてよ……!」と、小声で誰かが言う。ふと見ると、さっきの商人の隣にいる若い女性が俺を目で訴えている。彼女も商人仲間だろうか。
「いや、俺に何ができる……」
言葉に詰まる。剣を持ってるわけでもないし、魔法が使えるわけでもない。唯一の武器は司書スキル。本の内容を読み解く力だ。今のような場面で、一体どうやって使えばいい? 貴族に「法律の条文によれば……」と説明しても、彼らが聞き入れると思えない。むしろ逆上されるだけかもしれない。
それでも、見て見ぬふりをするのは気分が悪い。この国の“闇”をどうにかするために動こうと決めたのに、今ここで一歩も踏み出せないようでは話にならない。少なくとも、相手が“法を捻じ曲げた上で偉そうにしている”なら、その矛盾を突けるかもしれない。
「ちょっと、いいですか? ……これ以上、その商人さんを責める理由はあるんですか?」
気づいたら口が動いていた。俺は震える足をなんとか踏ん張りながら、貴族の男の方へ歩み寄る。周りの人々が「まじか……」「あの人、大丈夫か?」とざわつく声を背中に感じる。
男は俺の姿を見るなり、上から下まで睨みつけるような目をする。年の頃は三十代くらいか。ヒゲを薄く蓄えていて、派手な宝石の指輪をはめている。明らかに権勢を振るってきた人間というオーラがある。
「おまえは何者だ。平民風情が俺に口出しをするとはいい度胸だな?」 「平民かどうかはともかく……事実として、商人に無茶な要求をしているのはそっちのほうじゃないですか? 彼らに安い買い取り額を押し付けて、それで質が悪いとか言って怒鳴るのは筋が通らないと思うんですけど」 「なんだと? 貴族の私に意見するとは……命が惜しくないのか?」
ビリビリとした緊張感が広がる。護衛の男が一歩前に出てきて、こちらを威圧するように睨む。周囲の野次馬はさらに遠巻きになり、俺が袋叩きにされるんじゃないかとひやひやしているようだ。おれだって、今すぐ逃げ出したい気分だ。それでも踏みとどまっているのは、どこか腹の底で“理不尽さ”を認めたくないからだろう。
「王国の法律は知ってます? 本来なら貴族も相応の税を負担する制度があった、っていう事実。あるいは、貿易や販売の基本ルールで過度な圧迫は認められない、なんていう条文も……」 「くだらん。法律だと? この国の法律は、貴族である私が決めるものだ。もしも古い条文を持ち出すなら、その時点で無効にしてやる。ここにいる商人が弱い立場なのは当たり前だろう? 貴族が強く、民が従う。それが当たり前の秩序だ」 「……っ」
腹立たしさで喉が詰まる。ここまで堂々と“今の体制がすべて”と言い切られると、言い返す言葉も出てこない。確かに、この国の実態はそうなのかもしれない。力を持つ者が法を書き換え、誰もそれを止められず、民衆はただ従うだけ。だからこそ腐敗が蔓延し、街がこんなにも荒れている。
「さあ、消え失せろ。さもないと護衛に命じておまえを牢へ放り込むぞ。そちらの商人ともども罰を受けさせるだけだ」 「……くっ」
俺は拳を握りしめる。理不尽すぎる。だけどここで殴りかかれば、今度は俺自身がただの暴漢として片づけられてしまう。力で抗えば、力で押しつぶされるだけ。司書スキルは紙上の知識を読み解く術であって、場の空気を変える剣にはならない。じゃあ何ができる? どうやったら目の前の傲慢を打破できる?
一瞬、足がすくむ。もしここで黙って引き下がれば、また一歩、貴族による横暴が当然のように認められることになる。周囲の人々も絶望を深め、改革の意志がさらに遠ざかるかもしれない。ならば、何かしらの言葉でこの傲慢をぐらつかせたい。だけど、いかんせんカードが足りない。この場で証拠文書を振りかざしても、連れ去られる未来が見える。
「おいおい、どうした? 平民が口答えするなら、もう少し声を張れ! ははっ」
相手は完全に俺を見下している。商人はうなだれ、護衛は不敵な笑みを浮かべるばかり。野次馬たちも何も言えずにいる。この場の空気は完全に貴族の男に支配されているのだ。言葉では勝てないのか? いや、そんなのは認めたくない。何か切り札を――
「そこの貴方、やりすぎではないかしら」
透き通るような声が横から響く。振り返ると、人混みの向こうから一人の少女……いや、雰囲気としては少女とは呼べない凛とした女性が歩み出てきた。年のころは十代後半くらいか。金と銀が織り込まれたような淡い髪色、背筋の伸びた気品ある姿勢が目を惹く。見るからに庶民とは違う高貴な香りが漂う。それでいてどこか優しげな雰囲気もある。
周囲の人々がざわめき、息をのむ。何人かは「姫様……?」と小声でつぶやいている。驚いて目をこする者すらいる。まさか王族の人間がこんな場所に現れるなど、誰も思っていなかったのだろう。
「誰だ? 俺のやり方にケチをつけるとは、ただ者では……」
貴族の男も、一瞬気圧されたように言葉を失う。少女は静かに胸を張り、まるでここが自分の庭であるかのように大きく息を吸い、言葉を放つ。
「私の名はセリナ=ユスティア。このエルミナ王国で生まれ育った者だわ。……貴族である貴方が、商人をここまで追いつめる必要があるのか、教えていただける?」 「セリナ……まさか、第三王女の……?」
周囲の人が驚嘆の声をあげる。なるほど、この子が王族。俺の視点からすればほとんど歳下に見えるけれど、その威圧感というか、ただ者じゃない雰囲気が伝わる。遠目で見ると細身で華奢な印象なのに、妙に説得力のある立ち居振る舞いをしている。
「へっ、こんなところに王女殿下がわざわざ何の用だ。ここは庶民の市場だぞ?」 貴族の男が憎まれ口を叩く。だがセリナは微笑みながら、淡々と返す。
「市場だからこそ足を運ぶの。王族として、民の暮らしを知らねば務まらないでしょう? それに、あまり乱暴なやり方を見過ごすのも気分が良くないわ。……貴方、名前は?」 「……ラグナー=ボルディ。地方貴族だ。まあ、王家からすれば些末な存在かもしれないが、この街を陰で支えているのは我々貴族だと自負している」
傲慢さを隠そうともしない男がラグナーと名乗る。セリナはその名を聞いても特に表情を変えず、落ち着いたまま続ける。
「ならば、その貴族としての責任を果たしているのかしら。支えるべき民が、苦しんでいるわよ?」 「責任? 笑わせるな。民が苦しむのは無能だからだ。……私が買い取った作物をまともに揃えられない商人が悪いのだろう。王女殿下には関係のないことだ」 「そう。じゃあ、その“無能”という言葉を、ここにいる民衆たちの前で堂々と言い切るのね?」 「言い切るさ。これが現実だからな!」
ラグナーがあくまで強気に応じるが、周囲の空気が微妙に変わっていくのを感じる。セリナがあえて言質を取るように話を誘導している。さっきまで貴族の威圧で黙っていた人々も、王女の登場で少しずつ呼吸を取り戻しているようだ。
「民衆は無能、貴族が支えてやっている。……そう言いたいのね。私はそうは思わない。実際、彼らは貴族に隷属するために生きているわけではないでしょう」 「くっ……偉そうに。貴女は第三王女だとか言うが、どうせ王位継承でも端っこにいる身だろう? 政治に口出しなどできやしない」 「端っこであろうが王家は王家。ましてや私は“民を守りたい”と思っているわ。民も、王家も、貴族も、できる限り共存できる道があるはず。でも貴方はそれを放棄している」
澄んだ声が広場に響く。俺は完全に圧倒されて、思わず息をのむ。セリナ=ユスティアという第三王女。たしかクラウスが“王家の中でも比較的民寄りの存在”と言っていた気がする。実際に目の当たりにすると、若い外見からは想像できないほど強い意志を感じる。嘘偽りなく、本気で民の側に立とうとしている……そんな印象がある。
「……ふん、言ってろ。私は私のやり方でこの街を支えている。その対価を払うのが民衆の義務だ。――それとも、この商人の肩を持つのか?」 「もちろん。私は、貴方が踏みにじっている一人ひとりが、貴族と同じ“国を形作る存在”だと思っている。だからこそ、過度な力の行使には反対よ。何より――私には、正しい形の法律があると聞いているわ。それを知れば、貴方の言動がどれだけ逸脱しているか分かるはず」
セリナがそう言うと、ラグナーは一瞬表情を曇らせる。あるいは“正しい法律”という言葉に反応したのかもしれない。今の王国で法の話をするのは、まさに過去の原典が改竄されているという核心を突く行為だから。
「はは、正しい法律? 誰がそんなものを持ち出す? 今この国で実効力を持つのは、我々貴族が管理する最新の条文だけだ。……民衆を甘やかすような過去の遺物は、とうに破棄されているのさ」 「破棄されたとは限らないわよ。文字は消し去っても、記憶は残る。誰かが“記録”を守っているかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、セリナがちらりとこちらに視線を送るのを感じる。俺と目が合った……ような気がする。まさか、気づいているのか? 俺が図書館に眠る“改竄前の法令文書”を手がかりに動こうとしていることを。いや、まさか王女はそんな情報を持ってるのか? 俺は急に心臓がドキリとする。
するとラグナーは苛立ちを隠せない様子で、護衛に目配せをする。もしかすると、この場を力ずくで収めようとする気かもしれない。さすがに王女を傷つけるほどの無謀はしないだろうが、周りの庶民を威嚇して追い払うくらいはやりそうだ。そんな空気が漂い始めた瞬間だった――
「きゃっ……!」
小さな悲鳴が上がり、商人の一人が尻餅をつく。もみ合いの際に足を引っ掛けられたらしい。その人が持っていた木箱から野菜や果物が広場の石畳にゴロゴロと転がる。と同時に、ラグナーの護衛が容赦なく蹴りを入れようとするのが見えた。思わず俺は咄嗟に身体を動かす。――幸いにも護衛の腕を掴み、なんとか止めることに成功する。
「おい、なにしやがる!」 「それはこっちのセリフだろうが!」
護衛と睨み合いになる。さすがに鍛えられた体格で、腕力もかなりある。無理に押さえ込むと逆にやられそうだが、反射的に飛び込んでしまった以上、後戻りはできない。
「離せ、平民風情が。痛い目を見たいのか?」 「痛い目は見たくない。でも……これ以上、民に乱暴するのはやめろ!」
俺も必死だ。王女の前で商人が蹴り飛ばされるのを見過ごすなんてできない。護衛が本気を出したら確実に負けるとは思うが、スキをついて手首の角度を変え、最低限の反撃はできるように構える。向こうも驚いたのか、一瞬引くような形になった。
「おまえ、意外とできるな……」 「ゴホン……。貴方たち、広場で暴力なんて見苦しいわ」
セリナが冷ややかに言うと、その場の空気がピタリと静止する。さすがに王女が見ている場で、これ以上の暴力を振るえば問題が大きくなると悟ったのか、護衛は不満そうに拳を下ろす。ラグナーも歯噛みするように苦い表情を浮かべるが、仕方なく睨みを解く。
「……下品な騒ぎに首を突っ込んで損した。王女殿下、お好きにどうぞ。私は帰らせてもらう」 「そうなさい。帰るなら、これ以上民を追いつめないでね」
ラグナーはプライドが傷ついたのか、吐き捨てるように言って背を向ける。護衛も憮然とした表情でついていき、周りの野次馬を押しのけるようにして立ち去っていく。沈黙の中、貴族の傲慢が去ったあとの広場には、どこか少しだけ安心した空気が漂い始める。
「……はあ、何とか大事には至らなかったか」
腕がガクガクする。実際、相手は護衛のプロだし、もし殴られでもしたらひとたまりもなかったかもしれない。だが、セリナの存在が抑止力になったのは大きい。まさか王女がこんな形で“助っ人”みたいになってくれるとは思わなかった。
尻餅をついていた商人も、周りの人々に助け起こされている。ほっとした顔の者もいれば、王女の出現に困惑している者もいる。それでもラグナーが去ったあとということもあって、緊張はだいぶ解けたようだ。
「大丈夫だったかしら?」
セリナが俺に向かってそう声を掛ける。あらためて見ると、本当に綺麗な人だ。見た目の美しさだけじゃなく、その瞳に強い光を宿しているのが分かる。どこか誇り高く、それでいて民衆に寄り添おうとする意志。周囲の人たちが「姫様……ありがとうございます」と頭を下げている姿からも、彼女がいかに慕われているかが伝わってくる。
「えっと、はい。どうにか大丈夫です。あなたは……本当に第三王女なんですか?」 「そう。私の名はセリナ=ユスティア。王族として偉そうに言う気はないけれど、こうした問題を少しでも解決したくて動いているの。……あなたこそ名は?」 「俺はレオン。司書スキル持ち……といっても、まだ駆け出しだけど。王立図書館で働いてる」 「まあ、図書館に人がいたのね。驚いたわ。実は私も子どものころあそこによく通っていたんだけど、もうずいぶん荒れていると聞いていたから」
セリナが柔らかく微笑む。周囲の市民が彼女に感謝を伝えるため、次々に礼を述べたり話しかけたりしていて、ちょっとした人だかりができ始める。彼女はそれに対して一人ひとりに目を合わせて頷き、ほんの少しではあるが励ましの言葉をかけている。なんとも優雅で、しかも温かい振る舞いだ。
「実は最近、王都で“図書館の司書が過去の文献を掘り起こしてる”って噂を聞いたの。まさかそれがあなたなのかしら」 「多分、そうかもしれない。まだ大した成果も出してないけど……この国の制度がおかしくなっている根本原因を探ろうとしてるんだ」 「そう……やっぱり、図書館には本来の法令や制度が記録されているはずよね。私もそのあたりに強い興味があるの。近いうちにお話を聞かせてくれない?」
一瞬、俺は「ここで“ぜひ一緒に改革を”と盛り上げて言ってもいいのか?」と迷う。王女は王女で政治的に立場があるし、どう動くかは分からない。だが、その瞳には明確な意志が宿っている。俺が欲しかった“上の層の味方”になってくれる可能性を感じる。
「もちろん、協力できることがあれば何でも。俺もこんな状況を何とかしたいから」 「ありがとう。……では、また図書館でお会いしましょう」
セリナはそれだけ言うと、慕っている市民たちを残さないよう、穏やかに別れの言葉を告げてから、数名の護衛騎士(ラグナーの連中とは別の、王家直属っぽい騎士団員)を連れて静かに広場を後にする。姿が見えなくなっていくまで、周りの人々はどこか感激した様子で彼女の後ろ姿を見送っていた。
俺は先ほどの出来事を振り返りながら、ふう、と息を吐く。突然の王女登場で話が大きくなりすぎた気もするが、逆に考えれば大きなチャンスかもしれない。ラグナーのような貴族だけが国を牛耳っているわけじゃない。セリナみたいな“民を思いやる王族”がちゃんといるのだ。そして彼女は「昔、図書館に通っていた」と言った。ならば、あの資料たちの価値を理解してもらえる可能性が高い。
「よし、なんかやるべきことがはっきりしてきた。まずは図書館の文献を整理して、最初の改革の根拠となる資料を完成させよう」
ディランという衛兵隊長代理の協力も得られそうだし、セリナ王女が力を貸してくれるなら、広場で文書を公開するにしても以前より格段に現実味が増す。もちろん危険は山積みだが、確実に道が見えてきた感覚がある。
俺は最後に野次馬となっていた人々にちらりと会釈して、少し急ぎ足で図書館へ向かうことにする。もっと詳しく資料を読み解き、そしてまとめ上げる。具体的に「本来の税法」と「今の違法改竄」とを対比したリストを作り、分かりやすい形で示せれば、多くの庶民の共感を得られるかもしれない。さらにセリナ王女がその内容を後押ししてくれれば、貴族たちも無視できなくなる――そんなシナリオが頭に浮かぶ。
道中、朽ちた建物や貧しそうな子どもたちの姿も目に入るが、今の俺は逃げずに見据えるだけの覚悟がある。ずっとこんな光景を変えられなかったのは、法がねじ曲げられているのに誰も声をあげられないからだ。ならば声をあげる準備をするのが、“本を読む”しか能がない俺の使命なんだと思う。
街の一角を越えると、ぼろぼろの王立図書館が姿を現す。昨日よりも少しだけ、ここが愛おしく感じる。だって、ここがなければ俺は国の闇の正体をつかむ手段も得られなかった。無力な自分が唯一戦えるフィールド――それが、この埃まみれの図書館だ。
扉を押して中へ入ると、クラウスが書棚の脇で頭を抱えていた。どうやら崩れた文書の中に紛れた重要資料を探していたらしい。俺の足音に気づくや否や、彼はパッと顔を上げる。
「おお、レオンか。どこに行ってたんだ? ……ずいぶん活気づいた表情をしてるな」 「うん、ちょっと収穫があったんだ。まずは紙とペンを貸してほしい。貴族に改竄された法令と元の条文を見比べた一覧表を作ろうと思って」 「ほう。誰かに見せるのか?」 「そう。まずはここの書架で見つけた“旧時代の原本”を整理して、できる限り分かりやすくまとめる。いずれ町中で公表できるようにね……いや、それだけじゃない。王女も関わってくれそうな気がする」
クラウスは目を細めて笑う。俺の勢いに嬉しそうな表情を浮かべている。どうやら大歓迎らしい。
「王女殿下が……? それは頼もしい。そりゃますます仕事に力が入るな」 「もちろん。ディランって衛兵とも知り合ったし、少しずつ仲間を増やすつもりだよ。……俺が持っている“司書スキル”は戦闘向きじゃない。だからこそ“情報”で勝負する。絶対にこの国の人たちに伝えてみせるんだ。昔、本当にあったはずの正しい制度が、どれだけ大事かってことを」
言葉にすると、意志がさらに明確になる気がする。クラウスが貸してくれた羊皮紙やインクを手に、俺は書架の一角に腰を下ろした。集めてある複数の文書を読み返しながら、黙々と手を動かす。この作業そのものが“戦い”だ。恐らく、貴族たちや宰相はこれを最も嫌うだろう。だからこそ価値がある。
ページをめくるたびに、過去の王国が垣間見える。貴族もまた“役割”を担い、民とともに豊かな暮らしを築いていた痕跡がある。今とはまるで違う理想的な姿だ。なのに長い年月をかけて、徐々に利権や権威を得た者が法をねじ曲げ、今の悲惨な状況が出来上がった。
「元に戻すんじゃなくて、さらに良い形にしてみせたいよな」
声に出さずにはいられない。旧制度をそのまま復活させても、現代の問題をすべて解決できるわけじゃない。だけど、そこにヒントがあるのは確かだ。俺は司書として、そのヒントを紡ぎ出す仕事をしていこう。王女セリナや衛兵のディラン、それにクラウスと一緒に、一歩でも前に進む手がかりを形にする。
書き込んだインクが乾くころには、図書館の窓から夕刻の光が差し始めている。外ではまた日が沈み、暗い夜が訪れるだろう。この国の闇はまだまだ深い。だけど、俺の心には確実に小さな火が灯っている。
「……よし、今日はこんなところか。明日はディランが来てくれるかもしれないし、この一覧をもとに次の手を考えてみよう」
一人ごちて、整理した紙の束をそっとしまう。遠からず、俺たちがこれを庶民に公表できる日が来るはずだ。そのとき、街の人々は何を思うだろう。少なくとも、無力感や諦めを少しでも打破してくれたら嬉しい。あるいはセリナ王女の力を得て、堂々と“初めての改革”を宣言できるかもしれない。
夕日が照らす図書館の床には、俺とクラウスの影が伸びている。荒れ果てた空間だけど、知識の匂いが満ちているここが、今の俺には何より落ち着ける場所だ。司書スキルを持ってこの世界に来たこと――まだ自分の中で完全に納得はしていないが、きっと意味があると信じたい。
一日の作業を終え、ほっと息をついて立ち上がる。外は赤く染まった雲が流れている。今日、目の前で貴族の横暴を見たのは衝撃だった。だけど同時に、“王女セリナ”という可能性に出会えたことも大きかった。彼女もまた、王家に生まれながら上の者に媚びることなく、民を守りたいと本気で考えている。もし彼女が俺の作りあげた資料を活用してくれるなら、ただの不満やデモで終わらない本格的な改革が実現するかもしれない。
「さあ、あとはいつやるか、どうやるか、だな」
心の中の炎が、さらに強く燃え上がる。この国を覆う闇が深いほど、知識という光で照らす価値も大きい。俺はそう信じて疑わない。頭の中では、すでに次のステップをイメージしている。表で広げるための文書をもう少し簡易版にして大衆向けにまとめようとか、ディランの助けを借りて安全に掲示できる場所を探そうとか……。
「……うん、まずは作戦会議だ。明日が楽しみになってきた」
クラウスに別れのあいさつをして、俺は図書館を後にする。正直、夜に一人で街を歩くのはちょっと怖いが、それでも昨日よりは前向きな気持ちがある。守るべき“資料”という武器を手に入れた俺なら、そうそうくじけない気がする。
重い扉を押して外へ出ると、夕焼け空に一番星が瞬き始めていた。どこかで鐘の音が鳴り、人々のざわめきが遠くまで聞こえる。あの広場の騒動、そして王女の凛とした姿を思い出して、胸がじんわりと熱くなる。気づけば、口元が自然とほころんでいた。
「さあ、やってやろう。こっちは“知識”があるんだ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。廃墟同然だった図書館の片隅から始まる俺の改革は、まだほんの一歩を踏み出したばかりだ。だけど、ちゃんと手応えはある。何より俺自身が一番面白がっているんだから、きっといい方向へ行くに違いない。
そんな予感を胸に抱きながら、王都の夜へ足を運ぶ。今日も市場や宿場には苦しげな声が満ちているだろう。だが、彼らの目に映る景色がいつか少しでも明るいものになるように――。本に書かれた正しさを信じ、俺は明日もペンと紙を握り続けるつもりだ。