第1章 崩れかけた書架の下で
目を開けた瞬間、視界が暗い。本来なら蛍光灯の灯りがちらつくはずなのに、ここにはない。むせ返るようなホコリのにおいが鼻を突き刺す。床はひんやりと冷たく、しかも硬い。どう考えても、いつも働いている大学の図書館の床じゃない。
「……あれ?」
声を出してみても、誰の反応もない。背中を軽くひねるように起き上がると、妙に古めかしい本棚が見える。木製の大きな書棚がところどころ壊れて、背の高い書物たちが雪崩のように散乱している。曇った天窓から差し込む薄い光だけが、ほこりまみれの室内をかろうじて照らしている。
いや、ちょっと待って。ここ、どこだ? 俺はつい数分前まで、大学図書館の地下書庫で古書の整理をしていたはず。気になる一冊があって背表紙を手に取った瞬間、まるで本の中に吸い込まれたような感覚があった。――あれが夢なのか、それとも今が夢なのか。現実感が一気に混乱している。
「おい、そこの君」
不意に背後から声が響く。反射的に振り返ると、白髪の老人がこちらをじっと見ている。年のころは……相当な歳だろう。目元には深いしわが刻まれているが、その瞳には妙に生気が漲っている。まるで廃墟の中で唯一動いている人間、という不思議な存在感だ。
「うわっ……びっくりした。えっと、ここはどこ……いや、あなたは誰……?」 「落ち着きなさい。私の名はクラウス。この王立図書館の管理人だよ。もっとも、図書館と呼ぶにはずいぶん惨めな姿になってしまったがね」
クラウスと名乗った老人の背後に視線をやると、巨大な穴のあいた天井から、砕けた石や折れた柱が乱雑に転がり込んでいる。辺りには、ほかに人の気配がまったくない。廃墟同然のこの場所が“王立図書館”……? まるでファンタジーの世界か何かだ。
「王立図書館、って言った? ……その、王国があるってこと?」 「そうとも。この国はエルミナ王国。……ま、ひとまず簡単にそう思っていてくれればいい」 「エルミナ……聞いたことないけど……」
まったく聞き覚えがないどころか、明らかに日本じゃない。こんな薄汚れた中世風の図書館、観光地だとしてもありえない。いやいや、待てよ。俺、なんか本に吸い込まれたんだっけ? 頭がガンガンする。これはどこかのテーマパークではなく、本気で異世界転移とかそういうやつなのか。
「顔が真っ青だ。何か口にするものを探すか? と言っても、ここには本しかないが……」 クラウスが苦い笑いを浮かべながら近づいてくる。俺は改めて床に散らばった本の山を見下ろす。タイトルはどれも見たことのない文字で書かれている。英語でもなければフランス語でもない。記号みたいな文字がびっしり並んでいて、まるでお手上げ……かと思ったら、ふと視線が吸い寄せられるように、ある本の表紙が目に入る。
なんでだろう? 読める。いや、正確には読めるという感覚ではない。「何が書かれているか分かる」という状態だ。内容が頭に直接流れ込んでくるような奇妙な感じ。
「え……まさか、これ……普通に読めるんだけど……」 俺は本のページを何枚かめくってみる。そこには誰が見ても暗号じみた文字が並んでいる。けれど、意味を考えるまでもなく、内容が自然と脳内に伝わってくる。いわく、この本は“王国暦三百七十二年以前の行政記録”。古代王政の成立に関わる――なんてことが書かれているらしい。そういう単語が次々に脳をよぎる。読んだ覚えなんか一切ないのに、どうしてだ?
「ほう。やはり、あんたがそうなんだな」 「そう……って、何の話……?」
クラウスはゆっくりと、だけどはっきりと頷いている。初対面なのにまるで俺のことを知っていたかのような雰囲気だ。こっちは目の前の異常事態でいっぱいいっぱいなのに。
「ふむ、何から説明したものかね。……まずは、おまえさんのその力。“本を読む”以上の何かがあるだろう」 「力……って、俺はただの大学図書館の司書補だよ。人並みに本は読むけど、こんなの初めてだ……」
自分で言いながら、脳裏に妙なひっかかりがある。図書館の仕事は大好きだったし、古書の整理も苦じゃなかった。それどころか、俺は文字と向き合う時間に幸福を感じるタイプだ。だからって、こんな超常現象がいきなり身につくなんて聞いてない。
「“司書補”……なんとも奇妙な響きだが、ここではそう名乗っても誰も知らんだろう。こっちの世界では、それを“司書スキル”と呼ぶのかもしれんね」 「スキル……って、ゲームみたいに言うけど……マジで異世界ってこと?」 「ああ、ここはエルミナ王国。戦乱と腐敗で、ずいぶん荒れ果ててしまった国さ。……だが、あんたみたいなのが現れたのは初めてじゃない。異界から来た者が時折この世界で“特別な能力”を発現することがある。世の中じゃ“ユニークスキル持ち”と呼ばれていてな」
ユニークスキル。聞くだけで中二病全開な単語だけど、目の前で起きている現象を考えれば否定もできない。どうやら俺は、“ハズレ”感満載な文系スキルを手にしてここへ来てしまったらしい。もしゲームや小説で言うような“最強剣士”とか“召喚された勇者”とかなら格好もつくのに、よりによって司書……?
「正直、こんな魔法じみた読み取り方ができるなら、相当使い勝手がいいと思うがね。今のこの国には、失われた記録や消された歴史が腐るほどある。全部復元して読み解けるなら、大した英雄にもなれるやもしれん」 「英雄? 俺はただの読書好きであって、戦えるわけじゃないんだけど」 「戦うには剣だけが必要ではないさ。知識によって国が救われるなら、それも立派な戦い方だ」
クラウスの言葉に嘘は感じられない。むしろ真剣だ。だが、英雄だの国を救うだの、そんな大事を急に背負わされても俺は困る。こっちとしては、そもそも自宅に帰る方法を見つけないといけないのに。
とはいえ、辺りを見回してみても、天井に大穴のあいた崩壊寸前の図書館が広がるだけ。帰り道どころか、出口すらまともに見つからない状況だ。
「いや、そもそもこの図書館の状態がひどい。崩れかけてるし、本も散乱しているし……」 「ああ、今の王都はろくに予算も回らん。図書館なんて維持しても誰も得をしないと思ってる連中が多いからな。おかげで、この場所は放置されるばかりだよ」 「そんな……。本って、人々の知識や文化を記録する大事なもんだろ?」 「そうだ。だが、この国の上層部は利権や権力闘争にうつつを抜かし、文字や過去の記録など見向きもしない。王立図書館の歴史は古いが、今では“役立たずの遺物”くらいに思われているのさ」
胸がざわつく。本が散乱している光景を見ていると、まるで人間が軽々しく踏みにじられているような気分になる。俺は本好きだからこそ、その扱いにどうしても腹が立ってしまう。そんな環境が何年も続いているのだとしたら、そりゃあ見かけもボロボロになるだろう。
「……どうしてそんなことに?」 「ひと言で言えば、国がもう終わりかけなんだ。経済は破綻寸前、民は疲弊し、貴族だけが特権をむさぼる。この図書館の瓦礫は、そんな長年の積み重ねの象徴だよ」 「終わりかけ、って……うわ、本当に最悪のタイミングで俺が来ちゃったわけだ」
頭を抱えたい。日本でぬくぬく暮らしていた俺が、いきなり崩壊寸前の王国に迷い込むなんて、神様はどんなイジワルをしているんだ。だけど、今さら嘆いても仕方ない。目の前にいるクラウスは、何かを期待しているように見える。もし本当に“司書スキル”が俺にあるなら、ここで一度それを試してみる価値は……あるんじゃないか。
「じゃあ、俺にできることって、何かあるのかな? 正直、帰る方法を探しつつとはいえ、こうして埃をかぶった本を見ると放っておけない」 「ふむ。たとえ些細なことでも、記録を守る意志があるならば助かる。いま王国中の公文書がずいぶん散逸していてな、何が本当で何が偽りか、誰も分からなくなっている。……おまえさんのその読み取り力なら、混ざった書類の真贋を見極めたり、破損した文献の復元をしたりできるかもしれん」
俺はあちこちに散らばった紙片を拾い上げてみる。一見すると文字がかすれたり破れたりで判読不能だが、なぜか視界の端にぼんやりと“文字の輪郭”が浮かんでくる。ページをなぞると、断片的な文章が頭の中で繋がっていくのを感じる。どうやらこれが俺のスキルの力っぽいな。戦闘能力ゼロって気はするけど、本の情報を復元できるなら、やり方次第では相当役に立ちそうだ。
「意外と……いけるかもしれない。自分でも驚くくらい、文字が浮かんできた」 「はは、それは心強い。実は私も、ここの司書として昔から文献を守ってきたが、もう老体でな。詳しく調べるだけの気力も尽きかけていたところだ」 「俺一人の力なんてたかが知れてるだろうけど……でも、やれる範囲はやってみるよ。生かされてる以上、こうしてうず高く積まれた本を見過ごすなんて嫌だ」
自然と言葉が出てくる。正直、自分でも意外なほどスラスラ口をついて出た。図書館のほこりくさい空気を吸っていると、“本を介して人を救う”という思いが湧いてくる。今までの俺は、ただの図書館バイトで、せいぜい迷える学生に参考文献を教えるくらいしかできなかった。でも、ここでは本当に誰かの役に立つかもしれない。そう考えると、意外と悪くないのかもしれないな、この状況。
「あんたは不思議な男だな。まるで初めからここで働いているように見える。……そうだ、名前は?」 「俺はレオン。日本って国から来た……って言って通じるのかな」 「レオン、か。いい名だ。じゃあレオン、さっそくだがこの辺りの文書を整理するのを手伝ってくれないか? 国の記録とは言っても、埃をかぶったままじゃ何もわからんからな」
クラウスが片手で本を抱え、俺に差し出す。書物の背表紙には、またしても異世界文字の列がぎっしり。しかし、俺の目に“法律・財務関連”というイメージがふっと浮かんだ。しかも相当古い。読み解けば何かしら面白い情報が出てきそうだ。俺はその本を慎重に受け取る。
「うわ、けっこう重い。……どれどれ、中身はどんなもんなんだ……」
ページを開いた瞬間、頭がチクチクと熱くなる。まるで本の内容がダイレクトに脳に流れ込んでくる感じだ。法律用語や経済の仕組み、さらにこの国でしか使われない特有の単語まで、一気に理解できてしまう。それもただの文字情報じゃなくて、誰がいつ制定したとか、当時の情勢はどうだったとか、そういう背景が同時にわかる。これが司書スキルの“読み取り”ってことだろうか。
「へえ、王国の貴族層には大きく分けて三つの階層があって……。ああ、なるほど。これ、税の仕組みが滅茶苦茶に崩れてる……っぽい?」 「何か興味深いことが書かれているのかね?」 「うん。表向きは“貴族も相応の税負担をする”とあるけど、実際には法令の一部が上書きされた形跡がある。消し跡というか、改竄跡みたいなものが見えるよ」
ページをよく見ると、下の層にある文字を別のインクで塗りつぶした跡が透けている。普通ならわからないかもしれないが、俺の頭にはその“塗りつぶされる前の文言”が映っているのだ。どうやら長い歴史の中で、貴族たちが自分たちの都合のいいように書類をいじりまくった形跡がある。今の民衆の苦しみが、こういうところにも現れているってわけか。
「どうやら、本当に大変な国みたいだね……。このまま放っておいたら、もっとひどいことになるのかも」 「その通り。実際、街では毎日のように“徴税”と称した取り立てが横行している。貴族が好き放題税率を吊り上げ、庶民を追い詰めているんだ。この図書館が荒れ放題なのも、民に回す資源すら不足しているからさ」 「そりゃ……笑えない話だな」
苦い気持ちになる。税金は国を支える仕組みであるはずなのに、権力者の思惑次第でどうとでも歪められる。まるで歴史書で読んだ“悪政”の時代みたいだ。日本でいう江戸時代の天領がどうとか、そんなレベルじゃないかもしれない。実感はまだ湧かないけど、薄暗い図書館でぼろぼろの本を抱えている俺は、どうやらとんでもない世界に降り立ってしまったようだ。
ただ、妙な胸の高鳴りもある。俺のスキルが役に立つのは、こういう“歪みを正す資料”の復元や照合なんじゃないか。自分の“文系知識”なんて大したことないと思っていたけど、ここに来れば無双できる――とまでは言わないまでも、何かを変える一手にはなりそうだ。
「そっちは覚悟あるかね? もし、あんたが国の闇を暴くようなことを始めれば、貴族やら怪しげな役人やら、いろんな連中に目をつけられるかもしれんよ」 「うーん、正直怖い。だけど、このまま廃墟の図書館に閉じこもってても状況は変わらないんだろ? 読み取りスキルがあるなら、試す価値は……あると思う」 「その言葉、待っていたよ」
クラウスは穏やかに笑って、本をそっと撫でる。その仕草は本当に大切な宝物を扱うようで、俺の中の図書館愛がくすぐられる。なぜだか、このご老人を放っておけないと思う。元来、俺が司書の仕事に興味を持ったのも、“誰かの知りたいに協力したい”という気持ちからだったし、同じ匂いがここにある。
「よし、じゃあ手始めにこの図書館の中にどんな資料があるか把握してみるよ。崩れてる書棚が多いから、危なそうなところから整理しないとね」 「助かる。図書館のあちこちに散らばった紙片や古文書を一度こちらに集めて、分類してもらえるか? 私もできる限り手伝うが、歳だからな……」 「大丈夫。スキルの力を使って、破れた文書でも何とか解読してみる。やってみなきゃ分からないけど、今のところは不思議とできそうな気がする」
腰を上げ、崩れた書棚の隙間をそろりと歩き出す。天窓から射す薄い光が、埃を舞わせている。ボロボロの本たちがまるで助けを求めているように見える。ここに散らばった知識が、ひょっとすると、この国を変える鍵になるのかもしれない。そんな想像が頭をよぎる。
「よっと……うわ、重っ……でも読めそうだ。何が書いてあるんだ……?」
一冊抱え込んでページをめくると、頭にまた膨大な情報が入り込む。最初はちょっとクラクラするけれど、少し慣れてきた。読み取った文字は自然と理解できるし、ページに破れがあっても脳内で“補完”される。そのおかげか、文字だけじゃなくて当時の情景までうっすら浮かぶような気さえする。
「……ふんふん、これは“貿易協定”の内容らしいけど、表裏で数字が違うみたいだな。どうやら“表向きの税率”と“本当の取り決め”が違うというか、裏で勝手に操作してるっぽい」 「それは重要だな。ちゃんと控えておきなさい。後々、証拠になるかもしれない」 「証拠……うん、確かに。これを突きつければ貴族連中が逃れられないかも」
なんだかワクワクしてきた。もちろん危ない橋だろうけど、自分が掘り起こす資料が“国の在り方”を左右するかもしれないって、すごい話だ。世界史の研究者が未発見の古文書を見つけるようなロマンを感じる。しかもここは自分が元いた世界じゃない。何もかもが未知数だ。
――こうして俺は、よく分からないままこの図書館で文献整理を始めることにした。帰る方法も分からないが、目の前に“やるべきこと”があるなら、その道を選ぶしかない。俺は単なる読み手でも、ただの司書補でもなくなった。今はこの場所でしかできない仕事がある。
「そっちの棚は大丈夫か?」 「こっちは平気。かなり古い本もあるけど、いくつか破れてる程度で、読み取るだけなら問題ない」
クラウスに声をかけられ、顔を上げる。細かい埃が舞うなか、彼は静かに笑っている。まるで「よく来てくれたな、レオンよ」と言わんばかりだ。俺は苦笑いを浮かべつつ、膝についた埃を払う。
「しかし、あんたは怖くないのかね。この国の権力者に立ち向かうかもしれないっていうのに」 「さっきも言ったけど、正直怖い。でも、放っておいても腐っていく一方なら、やらないよりはマシかなって思う。それに……本を読むのは楽しいし」 「はは、なんとも頼もしい司書だ。ならば私も、できるだけサポートさせてもらうとしよう」
クラウスの支えがあると思うと心強い。歳は取っているが、そこには確かな知識の蓄積と意志の強さが感じられる。こんな師匠みたいな人と一緒なら、すぐに心が折れることはなさそうだ。
しばらく作業を続けていると、隣の崩れた書架の奥から、何やら不自然に封印された木箱が出てきた。錠前が壊れていて、中には古い巻物がいくつも詰め込まれている。見た目にはただの紙きれだが――俺の頭の中でスキルがビリビリと反応する。これは相当古く、重要な記録の気配がする。
「ねえクラウス、これ、やばい匂いがするよ。というか、スキルが騒いでる」 「ほう。どれどれ……。ふむ、かつて禁書に分類されていたものかもな。王国内でも表に出せない記録があると聞いていたが……」 「中を見ても大丈夫かな。破れたらまずいような気がするけど……」 「気をつけて扱えば問題なかろう。おまえさんの読み取り力でこそ見つけられる文書だろうからな」
意を決して巻物を開く。最初の数行を読んだだけで、ざわり、と胸の奥がざわつく。王家が何か“大きな密約”を交わしているような記述が見える。これが事実なら、今の王国が腐敗している理由の一端が説明できるのかもしれない。まだ断片的で何もはっきりしないけれど、その雰囲気は尋常じゃない。
「……どうやら俺は、とんでもない本に手を出しちゃったみたいだな」 「案ずるな。あんたがそれを解き明かしてくれればいい。図書館が崩れようとも、真実まで消えるわけではないさ」
クラウスの言葉を背中に受けながら、俺は巻物の文字を一つひとつ脳内に取り込んでいく。正直、不安や恐怖がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に“知りたい”という思いが勝っているのはなぜなんだろう。もしかすると俺は、危機の国を前にしても「知識があればなんとかなる」と信じているのかもしれない。図書館の廃墟の隅で芽生えた小さな決意。それはまだ弱々しいけれど、確かに燃えはじめている。
巻物を解読しながら、朽ちた床に腰を下ろす。ここから先、何が待ち受けているのか想像がつかない。帰る方法も分からないまま、俺は“司書スキル”を頼りに、この崩壊寸前の王国で本とともに生きる道を選ぶしかない。でも、それは決して悪くない選択だと感じている。
「クラウス、これからよろしくね。なんか、踏み込んじゃったけど、もう後戻りする気はない」 「こちらこそ。レオン、あんたが来てくれたのは幸運だよ。……さあ、続きを調べようか。まだこの図書館には、封じられた本が山ほど眠っている」
そうして俺は、古い書棚と山積みの文献の中へと目を凝らす。微かな光の下、破れかけた古文書が一枚ずつ手の中で声を上げるように情報を告げてくる。脳内には途切れ途切れの歴史が映し出され、この国の姿を少しずつ浮かび上がらせていく。
――まるで、視界の先に何万ページもの物語が待っているような感覚だ。正直なところ、わくわくしている自分がいる。異世界の廃墟図書館で、俺は“司書”という立場を得た。ならば徹底的に読もう。知ろう。この崩壊しかけた王国が抱えている問題を、すべて書き記してみせよう。
頭に渦巻くのは、日本にいた頃には感じられなかった情熱。たかが本、されど本だ。知識を突き詰めれば、あるいは目の前に落ちている絶望を跳ね返すこともできるんじゃないか。今はまだ根拠もない確信だ。でも、司書スキルを得た俺なら、ほんの少しでも世界を変えられるかもしれない。
埃だらけの本の束を抱えて、俺は心の中でひっそりと宣言する。
――ここが俺の新しい居場所だ。読み取るだけじゃなく、いつかきっと、新しいページを書き足してやる。
胸の奥に灯る小さな炎を感じながら、ページをめくる手が止まらない。言葉が、記録が、世界が、次から次へと俺の意識へと流れ込んでくる。古い紙の手触りに、かすかなインクのにおい。そして何より、この場所が発する“知の匂い”を全身で味わう。まさか自分が異世界で司書としてスタートするなんて、朝まで想像もしなかったのに。人生何があるか分からない。
傍らではクラウスが小さくあくびをしながら、巻物の束をくるくると巻き直している。どうやら彼もまた、“この時”をずっと待っていたんだろう。廃墟の図書館がまだ完全に崩れ落ちず、こうして俺の登場を迎えたのは、きっとほんのわずかな“救いの余地”が残されているからじゃないかと思う。
日差しはもう夕刻に近づいているのか、天窓の射す光が赤みを帯びてきた。冷たい風がひゅうと入り込み、古紙が舞う。その風の音が、どこか始まりの合図のようにも聞こえる。
「さて、ひとまず今日のところはここまでか。暗くなると作業もままならんからな。続きは明日だ」 「うん……クラウス、今日はありがとう。俺がいる意味、なんとなく見つかった気がするよ」 「そうか。では、疲れたろう。宿を探してやりたいが、王都の宿屋はあまり状況が良くない。ここで寝起きするのも一手だが、瓦礫が落ちてくるかもしれんぞ?」 「ぶっちゃけここも治安悪そうだし、転がる本を枕に寝るのはちょっと……やばいか。仕方ない、ちょっと街に出てみるかな。せっかく異世界に来たんだし」
思いがけず飛び込んできた世界。足元はぐらついているし、明日からどうなるかも分からない。でもなぜか希望が湧いてくる。俺は残り少ない陽の光を背に、崩れかけの扉へと歩み寄る。どうやら、この図書館を拠点に、いろいろ動くことになりそうだ。
出口の扉がきしみを上げて開くと、外の空気が思ったより冷たく感じられる。高い城壁のようなものが見え、その向こうにいくつか建物の尖塔がのぞいている。まるで中世ヨーロッパを想起させる街並みだ。かすかに家畜の鳴く声や人の叫び声が遠くから響いてくる。まったく日本とは違う雰囲気。
「……本当に異世界なんだな、ここ」 小さくつぶやいて、胸をドキドキさせながら一歩を踏み出す。王国が崩壊寸前だというのに、自分はなぜか怖さよりも期待感に包まれている。この国の歴史を知り、問題を解き明かすことが、俺にとっての冒険なのかもしれない。
埃にまみれた本の匂いとともに、俺は見知らぬ街へと足を進める。背後ではクラウスが手を振っているのが見えた。あの図書館を見捨てるわけじゃない。むしろ、あそこからすべてが始まる――そう思うと、自然と足取りが強くなる。
俺の名はレオン。元・日本の大学図書館スタッフ。今は異世界の崩壊しかけた王立図書館で、“司書スキル”を武器に、なぜか国の行く末に関わる羽目になりそうだ。そりゃ不安も大きいが、何より燃えてくる。
本が好きでよかった。文字が読めてよかった。そう心から思う。この世界に転がる無数の書物には、まだ俺の知らないことがぎっしり詰まっているはずだ。それをすべて開いて、知って、誰かに伝えられるなら――。そこにこそ、俺の戦いがあるのだと感じる。
「よし、とりあえず寝床をどうにかして、明日の準備をしないとな」
街の中へ一歩踏み出す。夕焼けに染まる石畳の道はどこか物悲しいが、その先で俺を待っている何かは、決して悪いものだけじゃないと信じたい。そう、自分の役目は“読むだけ”で終わらない。俺は司書スキルを最大限に使って、ここに眠る知識を掘り起こしてみせる。たとえ王国が崩壊寸前だろうと、本に書かれたものを読めば新たな道が見えるはずだ。
胸の中で静かに熱が高まる。瓦礫だらけの図書館でも、上手くいかない政治でも、その“本当”が分かれば対策だって立てられる。――俺はそう信じている。輝く夕日を見上げながら、手に残る古書の感触を握りしめ、そっと微笑む。
まったく、忙しくなりそうだ。だけど、こんな面白い展開なら大歓迎だ。俺は笑いながら、夕闇に溶けていく王都の一角へ歩を進める。明日はどんな本に出会うだろう。どんな情報が眠っているだろう。そう考えただけで、夜の寒さすらちょっとだけ和らいだ気がする。
――こうして俺の“司書”としての一日目は幕を下ろす。だが、心はむしろ開幕に向かっている。果たして、埃をかぶった図書館の奥底には何が隠されているのか。胸が高鳴るのを抑えられないまま、俺はとりあえず宿探しの冒険へと出かけるのだ。