第5話 初めての辞表
「……書き方が分からない……!」
机の前で頭を抱えるアルヴェリトを、クロは面白そうに眺めた。
奇麗な便せんの上には
『退職届』
とだけ書かれている。
だが続きが分からない。だって書いたことがないから。
「参ったな……」
深夜の執務室にアルヴェリトのため息が響く。
先ほどの騒ぎで衛兵が起きるかと思ったが、ナーシャが侵入するときに睡眠煙を撒いてきたらしい。さすがプロ暗殺人形。辞表を書き、支度を整えるくらいは時間がありそうだ。
「せめて前の世界の検索アプリがあれば」
「異世界だし、自由でいいんニャ。辞表という文字と、辞めると言う宣言と、名前さえあればOKニャ」
「うーん、思い出しつつやってみよう……」
さらさらと便せんにペンを走らせ……。
『辞表
このたび、一身上の都合により、バルディオス帝国皇帝の職を解任いただきたくお願いいたします
バルディオス帝国八代皇帝 アルヴェリト・レナス・バルディオス』
「悪役皇帝の辞表って初めて見たニャ」
「私もだよ……」
アルヴェリトはしみじみと辞表を眺めた。
前世でもこの世界でも、何度こうして辞表を書きたいと思ったことだろう。そのたびに周囲や家族への影響、自分の生活への不安、そのほか様々なことに遠慮して諦めてきた。それを運命や環境のせいにして、流されるように生きてきた。
いや、流されたんじゃない。
それは確かに自分が……自分の弱さが選んだ道だったんだ。
「これを、クロに渡せばいいのか?」
「そうニャ」
差し出した辞表を、クロの小さな手が受け取る。
「これを管理局に受理させる『おまじない』をすれば、ご主人は皇帝ではなく無職になるニャ」
おまじない。そんなものは聞いたことがないが……いまは信じるしかない。
「お兄様、バルディオス皇帝を辞されるのですか……?」
心配そうなナーシャに、ああ、とアルヴェリトは頷く。
「少し事情があってね。あとで詳しく話すから。心配?」
「ええ。でも……お兄様の選ばれた道なら、ナーシャはどこにでも付いていきます」
ニッコリと微笑んだ顔が最高に可愛い。本当に助けられてよかった。アルヴェリトはしみじみと頷いた。
「しかし無職になった後はどうしようか」
「気ままに旅をするでもいい。どこかで新しい仕事をするでもいい。ご主人の『自由』だニャ。なにしろ無職なんだからニャ」
自由の響きは嬉しいが、同時に不安もある。
「その……私が辞めたら、帝国はどうなる?」
「さあ? その予想もつかない状況を作り出すために辞めるんだからニャ」
クロはぺろりと辞表を舐める。
「だいたい辞める奴はみんなそういう心配をするが、まったく無駄だニャ。辞めた後の職場を心配しても仕方ニャい。だって、あっちも世界も物語だって、ご主人のことなんか心配してないからニャ!」
言葉は冷徹だが、正論でもある。一身上の都合で唯一無二の職を辞めようとしているのだから、そのあとを心配するなんて確かに偽善だろうし、無駄かもしれない。
でも。
「……今後のためにひとつ、偽装工作をしていきたい」
「偽装?」
「ああ。その前にまず、代わりの服を見繕って……」
アルヴェリトはクローゼット室に入って服を眺めまわした。身分を替えたとなったら軍服以外、なるべくアルヴェリトだと分からない私服がいいだろう。
「といっても、普段使わないから碌な私服がないけど……この格好良さそうな奴と、冒険者っぽいマントがいいかな。クロはサイドテーブルの上の兜を持ってきてくれ」
「了解ニャ」
いくつかの装備を手に取り、魔術杖を持つと、部屋の端にある本棚へと向かった。
並ぶ本の一冊を確かめ、グッと押す。
がこん、と何かが外れる音がして、本棚がわずかに浮き上がる。そのまま手前に引くと、奥に地下への階段が現れた。
「隠し扉だニャ!」
「ついてきて」
アルヴェリトは軍靴を鳴らして階段を下りて行った。兜を捧げ持ったクロ、それにナーシャも後に続く。
「ここは……?」
「皇帝用の隠し部屋だ。秘密通路の入り口も兼ねていて、有事の際はここを通って城外に出る手はずになっている」
降り切った先は暗い地下室だった。真ん中に一つ、円筒形の水槽が置かれ、中には人間めいた何かが浮いている。
近づいたクロが目を丸くした。
「ご主人そっくりだニャ!」
「さっき言っただろう、バルディオスの皇族はもしもに備えて魔術人形を用意していると。私の人形もいくつかあったのだが、暗殺騒動や何かで残ったのはこの一体だけ。……『封印解除』」
赤い紋様が浮かび上がり、水槽に付随した魔術機構が動き始める。徐々に水が引き、ガラスの覆いも外れて、もう一人のアルヴェリトが裸のまま横たわって残された。
「これを私の死体に偽装していこう」
「お兄様の複製を、殺すのですか?」
「あくまでただの人形だよ。壊すだけだ」
心配そうなナーシャにアルヴェリトは首を振る。
「ここに私の死体を残していけば、皇位継承へすんなりと進むことができる」
「でも人形ってバレバレニャ」
「それでも『死体』があったら嬉しい勢力というのがある」
「あ、ナーシャを差し向けた黒幕……」
アルヴェリトは深く頷いた。
「ジョブとしての『皇帝位』が空席になっていて、しかも怪しい死体があれば、彼らにはそれで十分。揉めるだろうが、皇位継承者はすでに定めてある。大混乱とはならないはずだ」
確か皇帝が崩御した場合は玉座の飾りに明かりが灯り、皆に知らせる仕組みになっていたはずだ。宰相職が帝国のステータスを確認した場合にも文字として反映される。
皇帝ジョブは空位で、しかも偽装とはいえこの死体があれば『皇帝崩御』のつじつまはあう。皇族、貴族、宰相、各々思惑はあるし、犯人を追及する動きもあるだろうが、確実に次代皇帝は擁立されるだろう。
少なくとも、アルヴェリトの生存を信じて探す者は誰もいない。
そんな者が側近でいてくれたら、悪の皇帝などと呼ばれずに済んだはずだ。それほど、ナーシャを失ってからのアルヴェリトは孤高であり、孤独な人物だった。
「さて、あとはいまの服装をそのまま着せて……あ、ナーシャは上に上がっていてくれ。ここからは着替えもあるし、見せたくない」
「分かりました、それがお兄様のご希望なら」
ナーシャはなおも心配そうだったが、少しだけ迷ってから階段を上がっていった。
「ご主人、手伝うニャ」
「ありがとう、助かるよ」
アルヴェリトはせっせと着替えると、クロの手を借りて床に倒れた人形へと軍服を着せていった。着せ替えを終えればそれは本当にアルヴェリトと瓜二つ。まるで自分がそのまま眠っているかのような、奇妙な感覚が湧いてくる。
「でも、なんでそこまで帝国の未来のことをお膳立てするニャ? いままでいろんな悪を押し付けられてキライなんじゃないのかニャ?」
「まあそれはそうだが」
さすがにループ八回二十一年も生きていたら、ろくでもない目にはたくさん合っている。暗殺されかけるのは日常茶飯事。虐殺の首謀者にされたり、陰謀に巻き込まれたり、奇病の原因にされたり。
最後の処刑の前だって、断罪するのは自分だけで許してくれ、帝国は痛めつけないでくれと懇願したら、なにがどう伝わったのか売国奴だと罵られてしまった。
「それでも『皇帝』は自分の仕事のひとつだった……うまく勤められなかったかもしれないけど、辞める直前まではベストを尽くしたい」
「八回処刑されてもそんなこと言うなんて、真面目でおひとよしニャ」
アルヴェリトは、はにかんだように笑う。
「クロにそう言ってもらえただけで、満足だよ」
床に横たわった自分と向き合う。見れば見るほどそっくりなで、過去そのもののようにも思えた。
最後に愛用の魔術杖と兜を脇に転がし、手をかざす。
「無言の刃よ、千々に圧せよ(シヴ・レサル・ミラ・ヴェス)」
手の上に大きな刃の塊が出現する。
「……さよなら、悪役皇帝……」
アルヴェリトが手を下ろすと、その塊が人形を飲み込み、鈍い音で圧壊させた。