あるサラリーマンの夜カフェ 妻の独白
今日、帰ってきてくれなかったら、離婚についての話し合いをしよう。
そう考えながら夫を送り出した。
今日は夫の40回目の誕生日。
この日を見極めにしようと、数年前から決めていた。
結婚当初の彼は、とても優しい人だった。
気遣いも出来る、素敵な夫だった。
娘が生まれてからは、子煩悩な父親になった。
出来る範囲で子育てにも参加してくれる人だった。
本当に良い人と結婚した。そう思った。
ある頃から彼の様子が変わり始めた。
連日残業が続いて、家族との時間も取れなくなった。
一時は浮気も疑ったけど、それはすぐに違うとわかった。
けれど彼は、いつでも酷く疲れた様子で。
だんだんと疲弊していく彼を見るのが辛かった。
どうやら会社でパワハラ・モラハラを受けているらしい──と、彼の夜中の寝言などを聞いて私は察した。
翌朝、心配して問い掛けても、『大丈夫』と彼は無理に笑って、何も言ってはくれなかったけれど。
辛い目にあっているはずなのに、彼は家族に当たることはしなかった。
ただ、ストレスで太ったり、精神を病む様子を見せたりするだけで。
彼が私達のために無理しているのは解っていた。
だから自由になって欲しかった。
娘が中学に入学すると同時に、私はパートで働き始めた。
少しでも夫を支えたかったこともあるし、いざという時に自立できる資金を貯蓄するためでもあった。
もちろんこのことはきちんと娘とも話したし、娘もそんな私の考えに理解を示してくれた。
私と娘という楔がなくなりさえすれば、彼は、辛い仕事に見切りを付けられるのではないか??そんな風に考えていた。何度か転職をすすめたりもしたけど、彼はその提案を頑なに拒否し続けたから。
「今以上に高い給料のとこに再就職できるか解らないからな…」
私や娘に苦労させたくない。そう言って苦笑いする彼を見るのが辛かったのだ。
彼の40歳の誕生日。
私は朝から彼の好物を作る支度をした。この日を最後にしよう。彼を自由にしてやろう。
「今日は早く帰って来てね」
見送る時にそう言ったけど、彼はいつも以上に生返事で、聞いてるかどうかも怪しかった。
きっと無理だろう。彼は帰って来ない。いや、帰って来れない。諦め半分のお願いだった。それなのに。
「おかあさーん!!奇跡!!奇跡!!おとうさん、帰って来たよ!!」
部活で帰宅が贈れた娘の杏美が、弾んだ声でリビングに駆け込んできたとき、夢ではないのか??と自分を疑った。こんな時刻に彼が帰って来るなんて、半分以上諦めていたことだったから。
「「誕生日おめでとう、おとうさん!!」」
これが最後と張り切って用意した食卓を見て、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
そして娘に押し出されるようにして、椅子へ腰かけさせられると、彼は、言葉もなくポロポロと涙を零した。
「ありがとう……」
泣き笑いになる彼を見て、私も泣いたし、娘も泣いていた。
数年ぶりの一家団欒だった。
「今の仕事をやめて、転職しようと思っている…」
誕生日パーティーを家族3人で楽しんだ後、彼は、なにか憑き物でも落ちたような顔でそう言ってくれた。
「再就職先が見つかるまで苦労かけるかも知れないけど…あの、出来たら…その、着いてきて欲しい…んだ……」
恐る恐るそんな言葉を絞り出す彼はきっと知らない。
それは私がずっと待っていた言葉だった。




