あるサラリーマンの夜カフェ その後
随分と早く帰ってきてしまったから、妻や娘が何事かと驚くことだろう。
「うーん……入りづらい……」
ここ10何年もずっと連日深夜帰宅。妻も娘も寝てしまった家へ帰るのが普通になっていたから、2人がまだ確実に起きているであろう時間に帰宅するのは、なんとなく怖気づいて躊躇われてしまった。
家族の反応が怖い。
歓迎されるとも限らないし、うまく会話できるかも自信がない。
おかげで自分の家のはずなのに、やたらと敷居が高く感じられた。
もしも2人から無視されたり、拒絶されたりしたら──という恐れもある。
なにせ10数年も仕事ばかり優先して、家事や子育ては妻1人に任せきり。
娘が小学校入学したての頃は、それでもまだ、なんとか休みをもぎ取って運動会などには参加できていたが、高学年になるころからはそれすらも出来なくなっていた。
いつ、離婚を申し込まれても、おかしくないほどの家庭放置だ。
もちろん俺自身は妻も娘も愛しているし、なにより大切に思っているのだけども。
そう、どんなにつらくて、死にたいと思っていても、これまで死なずに仕事を頑張り続けられたのは、家で待つ2人がいるからだった。
──でも、そんなの、きっと2人とっては、当たり前のこと過ぎて、特別感謝すべきことではない。
だから家庭を顧みる余裕のない不甲斐ない俺を、妻と娘がどんなに嫌って軽蔑していたとしても、それは仕方のないことだ、と──今までずっとそう思っていたのだ。
俺は諦めていた。諦めきっていた。
家族の縁を修復することを。
だけど今は──今は、諦めたくない、と思っている。
あの不思議な猫カフェで、白猫に猫キックを食らったおかげだろうか?今の俺は、理不尽な勤務環境に耐え続ける馬鹿馬鹿しさについても気付かされていた。だから俺は、クソ上司のパワハラ・モラハラが、今後も続くようであるのなら、いっそのこと退職して新たな職に就こうと考えている。
再就職からの再出発。
今さらな俺の人生のやり直しに、出来うることなら、妻と娘にも寄り添って欲しかった。
こんなの完全に俺の我儘だ。酷いエゴでもある。
そんな今後についての話も、妻としようと考えていたから、余計に玄関を開け辛かったのだが。
「えっ、うそ!?お父さん!?」
「え……あっ、杏美??」
決意を定め玄関前で深呼吸してドアノブに手をかけた途端、背後から娘の驚いた声が聞こえてきた。
「わっ、わ!!奇跡!!良かったー!!無駄にならずにすんだ!!」
「えっ…え??な……何が…」
「お母さーん!!お母さーん!!お父さん、帰って来たよー!!」
想像もしてなかった笑顔で娘の杏美は、戸惑う俺の背中を押して共に玄関へ入った。そして、なにがなにやら??と困惑する俺を置いてけぼりにして、さっさと靴を脱いでリビングへと駈け込んでいく。
「え…えっ、な……なんなんだ…??」
明かりのついたリビングの入口からは、なにやらこそこそと2人の話し声が聞こえてきた。何を話しているのだろう??気のせいか、ちょっと楽しそうな声にも思える。
「お……おい、アズ…」
訳が解らないまま恐る恐る、リビングのガラス戸を押し開くと
「「ハッピーバースデー!!おとうさん!!」」
「…………………は?」
突然、クラッカーの破裂音がパンパンと鳴りひびき、続いて妻と娘の嬉しそうな声が出迎えてくれた。
見るとテーブルの上にはホールケーキと、豪華な妻の手作り料理。しかも全部、俺の好物ばかり。
「あなた、40歳のお誕生日おめでとう」
「んもー、今日も残業で遅くなって、せっかくのお母さんの料理が無駄になるかとハラハラしたんだよー。さあさあ、早く座って、おとうさん!!」
……………は?…誕生日??
そう言えば、忘れてた。
てか、えっ。何これ。夢じゃないか??
現実と思えなくて思わず頬を抓る。痛い。夢じゃない。いや、夢の中でも痛みを感じることがあるっていうから、もっかい強めに抓ってみよう。俺は半信半疑のまま、頬を抓る力にありったけの力を込めてみた。
「イテテ!!!!!!」
痛すぎるあまりに声が出た。そんな間抜けな俺の様子をみて、妻と娘がおかしそうに笑う。
「もう…何やってるんですか」
「夢じゃないって、おとうさん」
「あ……ハハハ……」
コロコロ笑う母と娘の笑顔を見るうちに、じわじわと胸の奥から歓びが込み上げてきた。どうしよう。嬉しすぎて泣けてきた。いい年食ったおっさんが泣くなんて、みっともないことこの上ないが。
「あなた…大丈夫?」
「なっ、なによ~泣かないでよ、おとうさん~」
「あ…うん……うん……」
心配そうな妻の視線と、貰い泣きしそうな娘の瞳。
愛する家族に見守られながら、俺は、これが夢ではないことを心から祈った。
その後は家族3人で、幸せな時間を過ごした。
そうして改めて俺は、理不尽な上司と勤務体制のせいでこれまで、なにより大切なものを蔑ろにさせられていたのだと思い知ったのだった。




