あるサラリーマンの夜カフェ ①
「疲れた……死にたい……」
金曜日の深夜。終電も逃すような時刻にようやく仕事を終え、俺はいつもの口癖を呟きながらとぼとぼと歩いていた。
不夜城の街はこんな時間でも昼間のように明るく、そして、うんざりするほど大勢の人に溢れている。
「ねーねー、今からカラオケ行こうよ~」
「イイねー!私、アミンの新曲歌いたい!」
「飲み足りねえから、もう一軒付き合えよー」
「おいおい、飲み過ぎだぜ、お前~…つーて、付き合うけどよw」
俺なんかと違って周りの人々は、週末の夜を満喫し楽しんでいるようだった。
明日から『連休だ』と思ったら、仕事の疲れなんて吹き飛ぶんだろう。
ホントに羨ましい限りだ。
俺は──俺だけが何故か、明日もまた出勤しなくてはならないのに。
それも、定時近くになって上司が押し付けてきた、急な仕事のせいなんかで。
考えるとそれだけで憂鬱になり、疲労が心身に襲い掛かってくる。
「はああ……死にたい……」
家までは徒歩で40分。
35年ローンで買った一軒家では、妻と中学生の娘が待っている。
──いや、果たして待っていてくれてるのかどうだか?
考えてみれば妻とは、ここ何年もまともに話していないもんな。
年頃の娘だって俺のことを、たぶん空気かなんかと思ってる。
それもまた、無理のない話で。
残業、残業、休日出勤と、365日仕事ばかりで、ろくに家族と過ごせる時間もないし。
たまの休みも疲れて寝てばかりの俺なんて、きっと、ATM以上の価値なんて無いに決まっていた。
典型的な仕事人間。
そのくせ、今の会社ではろくに出世も出来ていない。
勤めているのは大学を出てからすぐに入った会社だけれど、入社したての頃は仕事が楽しくて仕方なかった。
学生の頃から希望していた職種の、それもかなりの大企業で、内定をもらった時は空を飛ぶくらいに嬉しかった。……いや、飛べねえけども。
そして就職の2年後に妻と出会って、3年目に結婚した。次の年には娘も生まれて、順風満帆の人生だったのに。
それなのに──
入社8年目で上司が変わってから、俺の人生は転落の一途を辿った。
本社から異動してきたと言う上司は、典型的なパワハラ・モラハラ上司だったのだ。しかもやたらずる賢く狡猾で要領も良く、パワハラの実態を俺以外の周囲にはまるで気付かせない。
俺はそんな(ある意味有能)な上司のターゲットにされてしまった。
いったい、いつから上司の『工作』が始まったのかは解らない。
ただ、彼が着任した翌日から俺は、仕事にやりづらさを感じるようになっていた。
そして気付いた頃には『俺が無能で要領が悪く、有能な上司がそんな俺をフォローしている』──という図式が、周囲にも上層部にも広く認知される事態となっていたのだ。
最初の内は俺も、そんな環境に異議を申し立て、上司のさらに上へ訴えかけたこともある。
だけど上司の方が一枚も二枚も上手で。
すでに上層部には俺の無能な勤務態度ばかリが、取り返しつかないくらいに印象付けられてしまっていた。
しかも知らないうちに、本来は俺の手柄である仕事まで奪われていて。そのことをどれだけ抗議しても、主張しても、誰からも受け入れられることはなくて。反論すればするほど、抵抗すればするほどに、かえって印象を悪くするばかりだった。
1年も経つころには、俺は、すっかり諦めてしまい。
今では俺も『俺は俺自身が思っていたほど、有能ではなかったんだ』と、そんな風に思えてきてしまっている。
「俺は駄目な奴…なんだよな…」
こんな駄目な人間に、生きてる価値なんてあるんだろうか。
俺なんかが居なくなっても、会社はきっとなにも困らない。
明日、俺が突然世界から消えてしまっても、この世界は何ごともなく回るのだ。
「…………俺が、死んでも…」
何も変わらない。悲しまない。困ったりしない。
そんな俺に生きてる意味なんて──存在の価値なんてあるんだろうか。
そう考えることが多くなってきて、気が付いたら口癖のように『死にたい』と呟くようになっていた。
死んだようにただ、毎日、毎日、通勤し、言われるがままに与えられた仕事をこなす日々。
そんな日々を過ごしていた俺の人生に、その夜、不思議で不可解な出来事が舞い降りた。
もちろん誰に話してもきっと、絶対に、信じてなんて貰えないだろうけど。
でも、この日から俺の人生が変わったことだけは、まぎれもない事実だった。