4 夜の帰り道
――誰かが後をつけている。
学校帰りの少女がそのことに気付いたのは、街路灯の光の頼りない、中央公園の外周の歩道に差し掛かった時だった。
月のない晴れた晩のことである。濃い闇が頭上に覆いかぶさり、生け垣越しに見えるカラフルな遊具もどこか不気味な気配をたたえていた。
人気はすっかり絶えている。ブレザーに身を包んだ少女が、スカートの裾を揺らし、リュックを背負って歩く後ろから、コツコツと、コンクリートの道を蹴る乾いた音が聞こえて来た。足音は、まるで少女自身の立てる足音と重なるようで、少女が心持ち足を速めると後ろの足音も速まり、逆に、あえて少女が足を遅くすると、後ろの足音もゆっくりになるようだった。
(間違いない。誰かが私の後をつけてる……)
そう確信すると途端に、少女の胸の中に冷たい大きな塊のようなものが入り込んで来た。きっと、そのうち、後ろの男――そう、男に違いない――は、自分との距離を詰めて行動を起こすだろう。それは世の中が絶対に許さない行為だ。少女は、自分が、男の厚い手の平に口をふさがれ、そのまま中央公園の遊具の陰の暗がりに連れ込まれるところを思い描いた。その光景はまざまざと、現に起こっていることのように想像することができた。
(このままじゃ、わたしは……)
少女が息を呑む。
(『なろう』では書けないことをされてしまう……!)
少女の大きな瞳が見開かれた。その黒い二つの宝石のような瞳が放つ光は、恐怖と、そして嘆きによって彩られていた。嘆き。それは、自分が美しく生まれてしまったことへの嘆きであった。ある種、どうにもならない後悔とでも呼ぶべきものであった。
(神様は、こういう無惨な運命に散らされる一輪のあでやかな花として、わたしをお作りになったのね!)
思い返してみれば、ここ数年、少女の体つきが女らしくなっていくにつれて、学校で、男どもの視線を感じることが多くなった。同学年の男子も、先輩も、後輩も、教師も、用務員も、少女の女らしい魅力的な肢体を、時に値踏みするように、あるいは時に舐め回すように、じろじろといやらしく見るようになった。その粘ついた汚らわしい視線は、学校にいる間中、絶えず少女に付きまとうのだった。
(いったいどういう妄想の中で、どれだけの数の男たちに、わたしは汚されてきたのかしら?)
そのことを思うと、少女はただ不快なだけではない、ある種、体の芯がカッと熱くなるような、羞恥とも悦びともつかない奇妙な感覚に襲われるのだった。
少女は、男どもを魅了せずにはおかない、自らの不運を呪った。
匂い立つ女。狂気の果実。
そんなフレーズが少女の脳裏に躍ったその時だった。
少女の左肩にポンと厚い手が置かれた。
その瞬間、少女は後悔と恐怖で全身を固くした。あれこれ思索を弄している間に男の接近を許し、逃げる機会を逸してしまったのだ。いよいよ、なろうでは書けないことをされるという無惨な運命が少女を捕らえたか。そう思った時――。
「落としましたよ」
やわらかな笑みを含んだ男の声が聞こえた。少女はまたも驚くと同時に、ややあって軽い安堵を覚えた。男は少女が落とした何か――学生手帳とか財布とかハンカチとか、いろいろ考えられる――を、単に渡そうとしているらしい。男の気配に、まったく害意や危険を感じなかったことが、いっそう少女を安心させた。
だが、少女が振り向いてその『落とし物』を確認した時、少女の安心は完全に裏切られた。
「落としましたよ」
男が笑みを浮かべつつ、右手を近付けて来る。
「ヒッ!」
それを見た瞬間、少女の大きな瞳がいっそう大きく見開かれた。
「落としましたよ」
「いやっ!」
少女はよほど駆け出して逃げようと思ったが、恐怖で体が動かない。
「落としましたよ」
男が右手でつまんでいるそれを少女の鼻先に近付けた。
いったいどんな執念が、男にそれを発見させ、拾い上げさせたのか。
それは、男が執拗に少女に突き付けて来るそれは、少女が落とした、
「いやあああああっ!」
一本の陰毛だった。
少女がへなへなとその場に座り込む。男は――サラリーマン風の若い男だ――は、少女を見下ろしながら、満面の笑みを見せた。
「おやあ? いらないんですか? せっかく僕が拾ってあげたのに。残念だなあ。まあ、そういうことなら……」
男はコートのポケットにそれを丁寧にしまい込んだ。
「ありがたく頂戴します。ありがとうございました」
男はそう言って振り返ると、夜の闇の中へと消えた。