1 鯉と張三
昔、中国で起こった出来事である。
その年、日照りが続いたため、各地で作物が枯れ、人々は大いに困っていた。
この川も、例年は水がとうとうと流れ、谷の両側には、緑の木々が生い茂っていたのが、この年は、木々も枯れ果て、干からびてヒビのいった川底がのぞくばかりの、惨憺とした有様だった。
今、その干からびた川底に、一匹の、黒い、大きな鯉が、苦しそうに息をしながら横たわっていた。川にはすでに水が無いから、鯉はどこへも動くことができない。
この鯉には、ある一つの目的があった。それはこの鯉にとって、どうしても果たさなくてはならない使命とも言えた。その目的を叶えるために、鯉は日に日に水量が乏しくなっていく川を、目的地へ向かって、一心に遡上して来たのである。
しかし、とうとう川は干上がった。鯉の旅もここまでと見えた。
その目に暗い絶望の影がよぎった。
ところで、ここに張三という名の旅人がいる。特に変哲のない、ただの旅人である。
張三は、今、山道を歩いている。山道と言っても、日照りのために、木々の緑の絶えた、殺風景な山道である。
この山道で、張三は、不意に、ある欲求を感じた。それはある種の、ごく自然な、生理的欲求である。
張三は、干上がった谷川に面した、急な崖の上で立ち止まると、おもむろにズボンを下ろした。そして、力を緩めると、体内に蓄えられていた水分が、金色の弧を描きながら、はるか下方の川底へと降り注いだ。音も立たないほどの高さである。
張三の放水は長く続いた。しばらくぶりのこととあって、すべて出し尽くすにはまだまだかかりそうであった。その行為に常に伴う安楽とした快感が張三を満たした。無防備に己をさらしながら、張三は「ほう」と息をついた。
その時、下方から音が聞こえた。
バシャバシャと水を跳ねるような音である。
それまで遠く空を見やっていた張三は、けげんに思いつつ、音のする方、つまり下方を見た。そして目を見張った。
張三が作る黄金色の水の流れを、一匹の鯉が登って来る。黒い、大きな体をした、あの、川底で死にかけていた鯉である。無論、張三はこの鯉の素性を知るよしもないが、この鯉が何をしているかということは、おぼろげながら察することができた。
鯉まさに其の滝を登らんとす。
張三は、この鯉が、張三の放つ小便を滝に見立てて、必死に登っているのを悟った。
鯉は最前の絶望的な目とは違って、生き生きと黒目を光らせていた。張三がその目と目が合った時、張三はぶるりと身を震わせた。これほどの驚きは初めてだった。
鯉が滝を登りきる。
たちまち、黒い鯉が、まぶしく光って、張三はまたもや驚かされた。光のまぶしさに閉じた目を開けてみると、さらに張三は驚かされた。張三のはるか頭上を、黒々とした鱗を持つ一匹の見事な龍が、長大な身をくねらせながら、じっと張三を見下ろしているではないか。龍の体からは黒い雲のようなものが発散され、それまで晴れていた空を覆いつつある。龍は「オオ」とうなると、牙をのぞかせつつ、張三に語りかけた。
「旅の方。あなたのおかげでどうにか龍になることができました。これで使命が果たせます」
張三は、ぽかんと口を開けて、ただ黒龍を見上げるばかりである。
「旅の方。あなたへの感謝の印に、何か一つ、あなたの願いを叶えて差し上げましょう。今の私にはその力があります。何でも一つ願いをおっしゃってください」
「あっ、ああ、そうだな……」
張三は、依然、驚きから抜けきらないまま、自分の足元を見やった。しばし間があって、張三は再び龍を見上げた。曰く、
「お前さんに驚かされたおかげで、ズボンがびしゃびしゃになっちまった。代わりのズボンを取って来てもらえるとありがたいんだが」
「承知!」
龍は喜んで願いを叶えた。
その年、一匹の黒龍が天を舞い、各地に大いに恵みの雨を降らせたという。人々はこの龍に心から感謝し、この話を語り継いだが、この龍を誕生させたのが、一人の男の立ち小便であったという事実は知られていない。