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第七話 運命の人~憧れだけじゃダメですか? ~

「ちょっと待って。人の後をつけるなんてこと、やっていいの」

「信乃、お主は黙っておれ」

 山東京伝とその取り巻きは次の店に移ったようだ。俺たちは遊びに来ていたこともそっちのけで彼らの後を追った。

「追いたい気持ちもわかるけど、せっかく気晴らしに来たんだから……」

「いやこの好機、逃すわけにはいかない」

 興奮状態に入った興邦くんを止めるのは至難の業だった。彼は普段は落ち着いているようにみえるが本来猪突猛進タイプなのだ。

「仮に今の俺たちが話しかけられたとして、何を話すんだ」

「弟子入りしたいと」

 マジか。興邦くんは本気だった。確かに今はプー太郎だが夢追い人でもあったのだ。

「信乃、わかってくれ」

 お兄さんが聞いたら逆の意味で涙を流しそうだ。残った家族のうち、かなりの心配をかけているからね。

 でも俺は彼の夢を応援したいと思った。だって俺自身も作家を目指しているから。

「仕方ないなあ。あの人の取り巻きがいなくなったところを狙うぞ」

 そして興奮気味の興邦くんの手綱を握って、茶屋で一息ついている憧れの人の元へと向かう。

「どうした、お武家さん。私に何か御用でも」

 彼はキセルをふかしながらこちらを一瞥する。そういうのが様になる男だった。

 肝心の興邦くんは口を開かない。どうしたんだ。

「俺は貸本屋の信乃と申します」

 さっきまで興奮していたはずの興邦くんがもじもじしていて話が進まないので、自己紹介をする。

「山東京伝の作品の売れ行きはどうだ」

「それは押しも押されぬ大作家さまだから、人気ですよ」

「それはありがたい」

 どうやらファンだと思われているようだ。間違いじゃないけど。

「信乃の坊主は商売上手そうだ。それでお武家さんの方は何の御用か」

「……」

 あれだけ豪語していた男が恥ずかしそうにしているとどうしたと突っ込みたくなる。だが心を鬼にして山東京伝の前に突き出す。

「ほら、言わないと」

 俺はお前の母さんかよ。興邦くんの普段の威厳はどこかへ消え、蚊が鳴くような小さな声で一言。

「……弟子入りしたいのだ」

 まさかこのタイミングで言うか。そしてあまりに小さすぎて本人に伝わっていないぞ。

「今何と? 」

「いえ、だから、あの」

 興邦くんの緊張が俺にまでうつってきてしどろもどろになっていた。

 俺たちやるときはやる男だと思っていたけど全然違っていたね。

「弟子入り、したいのだ。弟子にしてくれっ」

 もうバカの一つ覚えみたいに繰り返す興邦くん。ここまで来ると後に引けないと悟ったらしい。

「断っておくが私は弟子は取らない。それに素人に請われて教えを説くつもりもない」

「私は素人なぞでは」

 だったら何者だと問われる。新進気鋭の作家に問われれば俺たちなんて何者ですらない。素人に毛が生えた程度の存在。

「名を何という」

「瀧澤興邦、いや曲亭馬琴だ」

 この瞬間衝撃が走った。俺が今まで高学歴ニートと思っていた興邦くんがなんと、曲亭馬琴を名乗ったからだ。

 これは何かの偶然か。それとも運命か。

「私が筆名を考えた。漢書陳湯伝に『巴陵曲亭の陽に楽しむ』という言葉がある。そして十訓抄の中の小野篁の一節、『才、馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ』から拝借した」

「ほう。漢籍の素養はありそうだな。お武家さん」

 難しすぎて何を言っているかさっぱりです。しかし山東京伝は理解したらしい。

「小野篁を引き合いに出すとはな。嵯峨天皇の御代に活躍した彼は若いころは学問に興味を持たなかったという。学問に優れた父を持つのに本人は弓馬の士となっていたそうだな。それを御門が嘆いたのは有名な話だ」

 つまり学問に興味ありませんよといいつつ、過去の偉人の言葉を借りるという謙虚なんだか、そうじゃないんだかよくわからない名前のようだ。

「お武家さんのそういうところは気に入った。だがな、作家というのは厳しい道だ。特に家という後ろ盾のある人間に、すべてを捨てる覚悟があるとは思えない」

 興邦くんはその言葉にハッとしたようだった。今までずっと家に甘えてきた自覚はあるのだろう。すべてを捨てる覚悟があるかと問われれば、答えに詰まった。

「久方ぶりに学のある人間と会話ができたのは面白かった。昔は弟子をとるのに抵抗はなかったのだがこのご時世だ。私にも生活がある。弟子の生活にまで責任は持てないからな」

 時期が悪かったと呟く。今は田沼時代の華やかな時代ではない。節制や、禁欲が叫ばれる苦しい時代だ。

 浮世絵師としても活躍し、作家としても大成した山東京伝が言うのだから間違いない。

 俺たちの憧れた相手は現実的で、商売以外のことも考えていた。

 情けは人の為ならず、というけれど。

 こんなのあんまりだ。

 確かに俺たちにすべてを捨てる覚悟はない。

 生きるのにだって金は要る。

 そして作家が必ずしも儲かるという保証はなかったが。

「山東京伝殿のお言葉、かたじけない」

 ずっと目を伏せていた興邦くんが、突如彼の方を見上げる。

「覚悟、ならここにあるまする」

 そして腰に携えた刀を鞘のまま差し出す。

「私は侍の身分も辞する覚悟のうえで、作家を目指しているのだ」

 震える声でそう告げる。

「だから私に覚悟がないと申されるのは、間違いにありまする」

 そして俺の方を見やる。

「信乃、もう身内に頼るのはやめにする。ついてきてくれるか」

 そう言われたら断れるはずもない。

 俺だって彼の覚悟が伝わってきたから。

「お武家さんの熱意は伝わった。だが弟子はもう取らないと決めている。貴殿の活躍を祈るくらいしか私にできることはない」

 でも俺たちに期待してくれているのは確かだった。

 そして興邦くんは深川の町で新たな生活を始めることを決意する。

 それは武家として生まれた彼が、町人として生きることだった。

 ついでに貸本屋を生業とする俺も深川の長屋で一緒に暮らすことになる。

 俺たちの時間が動き始めたのだった。

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