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その思いはアンバーとモリオンに


 “夢は忘れてしまいたいことを処理する場所”

と言っていたのは誰だったか…。

心傷き忘れてしまいたい思いを持つ者の背中を押してくれるという〜bar oblivion(忘却)〜はそんな貴方の夢の中に時折開店するbar。

私はbar oblivionのバーテンダーのハルク。本当は“春が来る”と書いて“春来ハルキ”なのだが海外のお客様もいらっしゃるので名前が呼び易いらしい“ハルク”と名乗っております。さてさて今夜のお客様は…。



 bar oblivionの開店と共に古めかしいドアのノブがガチャリという音共にゆっくりと回り、黒髪の色白な化粧っ気のない女性が現れた。


『どうぞ。』


と声をかけると彼女はキョロキョロと辺りを窺うようにしながらカウンターの椅子に手をかけ、ゆっくりと腰掛けた。

barに馴染みがない感じのする彼女はハンカチを握りしめながら自身の手元を見つめている。


 『いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか?』


ハルクはコースターを彼女の前に置いて彼女の反応を待つ。目線を上げた彼女はハルクの方を見ながら


『あの、こういうお店に入るのが初めてで何を頼めばいいか思いつかないんですが…』


ともじもじしながら応えた。彼女は見たところ、年の頃なら30代後半から40代前半くらいか。紺色のニットワンピースに黒のパンプス、肩にかけられたバッグは黒の小ぶりなショルダー、服装は至って地味だ。少し失礼な言い方だが年齢の割にはこういった粋な場所には彼女は不慣れなように見える。



『お好きなお酒の種類などありますか?甘いのが好きとかスッキリ甘くないのが好みとか…、味の好みとかだけでも教えていただけるとそれに合わせてお作りすることもできますよ。』


彼女の目の前にいくつかのカクテルグラスやモルトグラスを並べて微笑んでみせる。


『お酒の種類もよく知らなくて…、えっと、あんまりお酒には強くないんですが…は、変な注文かもしれないんですけど飲んで嫌なことが忘れられそうなのを…ってお願いできますか…?』


ハンカチを握り締めながら手を膝の上に置いてそう彼女は言う。


『では甘過ぎない飲みやすいものをご用意させていただきますね。』


ハルクはシェーカーに氷とリキュールなどを入れ、ゆっくりしたリズムでシェーカーを振る。しばらくハルクの様子を見ていた彼女だが、少しするとシャカシャカという穏やかなリズムに目を閉じて聞き入るようにしていた。グラスにミントとソーダ、シェーカーの中身をゆっくりと注ぎ、グラスの縁にはレモンの香りを纏わせた後にスライスしたレモンを飾る。


『お待たせしました。』


彼女はコースターの上に置かれたカクテルをしばらくじっと見つめた後、一気にそれを煽った。飲みやすくはしているが正直少々度数の強いから一気に煽る飲み物ではない。一瞬ハルクは頬を引きつらせた。


『…っ、はあ、…。あ、あの、もう一杯同じものをお願いします。』


下を向いたまま飲み干したグラスを前に押し出して注文をする彼女。アルコールに弱いのか、少しすると徐々に顔が赤く色づいてきていた。二杯目のカクテルを差し出した時、彼女は誰に話しかけるという感じでもなく、突如話し始める。


『あ、あの、他人の話だし、退屈な話かとは思うのですが、私の話を聞いてもらってもいいですか?』


声は出さずハルクは静かにうなづくと彼女は伏せ目がちに話を続ける。

『私、結婚して20年なんです。夫の言うことを信じて疑うこともなく生活してきて、幸せだとずっと思ってたんです。お恥ずかしい話、付き合ったのも夫だけ、そのまま結婚して子どもにも恵まれて大変なこともあったけどお互いを大切に思いながら暮らしていました。』


目蓋をギュッとつむり、フルフルと震える目蓋は目尻に涙を浮かべ始める。


『子どもの成長と共に日々忙しくて日常に追われてて、気がつくともう30代も終わりに近付いた頃、夫から求められることが随分と減ってて。ほぼ没交渉に近くなってきているのにある日気になって…。

不安に思って夫にそのことを言ったんです。そしたら“俺の身体のことだから察しろ”って言われてしまって…。』

ぽつぽつと話していくと共に感情が昂ったのが声がうわずってきた。


『不安になってこちらから何となく誘うも、何度も断られて私、女としてのプライドも自信も無くしてしまったんです。でも…、もう、そういう欲求がなくなったのかとどこかで納得しようともしました…。』


二杯目も飲み干し、無言で3杯目を注文する彼女。


『極々たまに夫からの要求の時に“これを逃したらもうないかもしれない”という危機感。そのためどんな時でもどんな状態でも受け入れてました。どうにかなにかを共有していると思いたくて…。』


彼女は流し込むようにまたカクテルをあおる。ずいっとカクテルグラスがまた押し出されて4杯目の注文がされる。


『そんなある日、夫から《他所で病気をもらったみたいだから悪いが病院に行ってくれ》ってメールがきました。』


そう言い終わると彼女の目からは次々と涙が頬を伝って流れていく。泣きじゃくるわけもなく、ただ冷静に涙の滴だけが頬を伝っていく。


『それも“どこどこの風俗で病気うつされたのが治ってないからお前にもうつってる可能性がある”って…』


両手でハンカチを口に当てて息を殺すように震える彼女。

思い出したその出来事は彼女を滅多刺しするかのように傷つけていたようだ。肩を震わせながら言葉を更に続ける。


『その経緯を医師に説明するのって惨めでした。自分で言って、言ったことが自分に突き刺さるようで。』


グラスを離すとまたハンカチを握りしめていた。

ハルクは4杯目のカクテルにはグラスの縁に軽く塩をつけ、シェーカーには先程と違い蜂蜜を1垂らし入れ、別皿に金平糖を入れて彼女の前に置いた。


『塩に蜂蜜に金平糖?』


『泣いた分、ミネラルの補給と甘味は脳への栄養補給です。甘い分、飲むのがゆっくりになりますよ。』


2粒の金平糖を口に入れて一口カクテルを含むとグラスの縁の塩と相まって甘味が深くなる。先程までの飲みやすさ重視の時よりも美味しく感じているようだ。



『夫の前では問題を不問としたけれど私の中ではあれからずっと燻り続けたまま…。でも夫にはもう終わったこと、何事もなかったようにしてる…。私は傷ついたままだというのに。辛かった…、でも、それを夫に言い続けたらきっと夫は私からもっと離れていってしまう。夫に吐き出さないなら…、誰か、誰かに吐き出したいのに情けなさ過ぎて誰にも言えない…。1人の時に泣くしかないなんて、いっそこの世から消えてしまいたいと何度も思ったの。そしたらね、気がついたら何故だかこのお店の入口に立ってたの。何かのお導きなのかしらね。



微笑みながら大きく溜息をついた後、グラスから目線を上げてハルクの方を見る。


『つまらない話に付き合わせてごめんなさいね。黙って聞いてもらえるってことないからついつい喋り過ぎちゃったわ。飲み過ぎちゃった感じはあるけど嫌な気分にもならないし素敵なカクテルだったわ。ありがとうね、マスター。』



モルトグラスを磨きながらハルクは軽く首を横に振り、



『いえいえ、お話を聞かせていただけるのは光栄ですよ。うちのカクテルがお客様にお気に召して良かったです。』


切れ長の目でハルクが優しく微笑む。彼女の目がしばらくするとトロンとしてきて身体が左右にゆらゆら揺れ出す。アルコールの限界が来たようだ。


『おしゃべりしたら何だかちょっとスッキリしたわ。そろそろお暇しなくちゃね。』


トロンとした目でフニャリと笑う彼女がバッグから財布を取り出す。


『お客様、お支払いは本日流した涙と胸に刺さっていた楔に致しましょう。どうぞ次に目を開けた時には過ぎたことと流せるように…。』


ハルクの指がパチンとなると座っていた彼女はすうっと陽炎の様に揺れて消え、彼女の前のカウンターにはグラスに溢れ出さんばかりの琥珀色の大きい滴型の粒と漆黒の深い色味の楔型の結晶が残っていた。


『今回の報酬は沢山の琥珀の粒と黒水晶の結晶になりましたか…。これは仕立て上げるとなかなかのシックな逸品になり得るでしょうね。宝飾職人のもとへお持ちしないとね。』


ベルベットのトレーに琥珀の粒と黒水晶を並べるとハルクはバーの奥にある扉の向こうへと消えていった。


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