02 ノイル
「あなた様ですよね? パンをお恵み下さったのは?」
そう言う割に感謝の念は感じられない声色だった。
とげとげしいというか、刃物を突き付けるような感じ・・・いやそれよりも割れたガラスか?
「お陰様で生きながらえる糧とさせて頂いたことには感謝致します。あなた様はあの子を・・・ルセを身受けするおつもりですか?」
「・・・いいや、そんなつもりはない」
身受けとは、確か金銭などの対価を支払い、情婦として扱うということだったか。この場合だと親にいくらかお金を渡して、夜のお相手をさせるために囲うというような意味のはずだ。
さすがにあのような子供は守備範囲外というか、守備範囲を考慮しなければいけない相手ですらない。
キュユですら子供に見えて、後10年たったらいい女になっているかなとか思っているような状況で、ルセに劣情を抱くというそのものが理解できなかった。
「でしたら施しなどやめてくださいませ。確かに私は貧乏です。このような凡そ人が住むべきではない場所に身をやつし卑しい生活をしておりますが、金持ちの気紛れな施しは必要ありません」
「・・・その言い方だと身受けするなら良いとも取れるが?」
「当たり前です」
「だよな・・・えっ?」
施しは必要ないが、身受けは良いという感覚に理解が追い付かない。
「身受けするということは、少なくともあの子の性根なり容姿なりを気に入り、愛でるために手元に置くということです。こんな場所で生活を強いられるよりは、よほど幸せな生活を送れます」
「・・・なるほど?」
確かに食うに困るようなホームレス生活を送るよりも、金持ちの家で愛人をやった方が遥かにいい暮らしができるというのは分かる。
うん、理解した。
「では何故? 身受けしないと仰るならば、何故? 善意ですか?」
善意というものの存在を頭から信じていない口振りだ。
確かに金持ちのやる善意の施しというのは胡散臭い物しかないよな。一定水準以上の金持ちは、慈善活動をすることで一人前として認められるという価値観があると聞き及んだことがある。そしてそんなものがこの世界にもあるなら、何故スラムの人たちは救われないのかということになる。
善意のみの慈善活動であるなら救うべき人たちだ。
だが、どちらにしてもそういう物じゃないんだよな。
「ただ利害が一致しただけだ。俺が要らないと思ったものを、あの子が欲しがったので上げただけだ。処分にも困っていたので都合が良かった」
自分で言葉にして、なかなか身も蓋もない事を言っていると自覚するが、嘘は言っていない。
地面に落としたパンなど、ふつう食べない。失敗した、もったいない事をしたと思い後悔こそしても、普通は食べない。少なくとも普通に金を稼いで生活できている日本人は、道路に落ちた食い物は食わない。
食べ物を無駄にしてしまうよりも、地面にある汚れに含まれる毒性や細菌汚染を警戒する。もったいないと拾い食いして腹痛などを引き起こし医療費がかかるくらいなら、落とした食べ物を諦めて新しく買い直した方が遥かに安上がりだ。飽食の時代だからできることでもあるが、それが一般的な論理の組み立て方だろう。
まして、汚れた手で触られたなら、それはもう食料だったもので、生ごみへと状態を変化させている。
「・・・ウソではないのですね。そうですか、そうでしたか。大変申し訳ございませんでした」
外見が獣じみているだけあって、獣のような超感覚でも有しているのか、俺がウソを言っていないことを理解したようで、深々と頭を下げる。
「ですが、それでは今朝のパンは? 何故今朝のパンがあったのでしょう。不要と処分した物なら、何故また?」
「うっ・・・それは、こちらにも事情があるんだよ」
普通の生活を偽装するために買わざるを得ない状況で生活をしているとは言えない。
食べ慣れていないし、慣れるためにも買い続けているのだが、偽装でないなら買う理由もないんだよな。黒パンの食感や味にどうしても馴染めなくて食べられないとしても、普通なら黒パンを買うのをやめて、少し値の張る上等なパンを買って食べるだろう。
黒パンが余るといった事態は発生しない。
俺はそれをしなくてもストレージ内に食い物が大量に格納されているから、普通に食べ物を必要とする人間であるアピールをしつつ、一番出費が少なくなる手段を取っているのだが、こんなことを説明してもしきれない。いっそノイルにも塩ラーメン食わせるか?
いや駄目だ、ここでは人の目が多すぎる。
「まさか? 私が目的ですか?」
あ、やばい。ノイルさん何か勘違いしたぞ。
巧くストレージを誤魔化して説明する言葉が見つからず頭を悩ませていたら、ノイルはそれを別の何かと解釈したようだ。
「勘違いしないで下さい」
「えぇえで、でも・・・そういうことですよね?」
どういうことなのでしょうか?
何か言葉で繕おうとするたびに、どんどん誤解が加速しているような気がしてならない。
「・・・でも、ですが、今はこのようななりなので、流石にそのような価値は」
「いいえ、たかが黒パンですので・・・」
「ああ、そうね、そうですよね。私ったら・・・そうですよね、今は黒パン程度の価値ですものね。フフフ・・・黒パン」
何だろう。この何を言っても聞いてもらえず、深みにはまっていくような感覚は。
ノイルもさっきから自虐めいた笑みが浮かび、こけた頬と相まって・・・ぶっちゃけ不気味だった。
「ここでは他人の目もございますので、少し場所を変えましょう」
そう言ってノイルが歩き出すので、俺としては無視して帰ってしまいたかったが、変な誤解をしているようなのでそれだけは解いておきたいという気持ちが強く、よせばいいのについていくことにした。
スラムでも少し離れると、人の手が満足に入っていない荒れた土地になる。
昔、果樹園でも経営して頓挫したのか、まばらに木が生えているあたりに来た。
川から水を引いた農業用水なのだろうか、小川があったが堤防が崩れ、半分湿地帯の様になっていた。
「私どもの部屋は、とてもお招きできるような場所ではありませんし、あちらの使われていない納屋をお借りしましょうか?」
果樹園の管理用の農具をしまっておくための納屋だろうか、辛うじて原形をとどめている廃屋がぽつぽつと点在していた。
「だから何の話ですか? 要領を得ないのですが?」
「・・・その、私を求められたのでは? おっしゃる通り、こんなボロの姿では黒パン程度の価値しかございませんが・・・」
辺りに人がいないことを確かめるように、先を歩いていたノイルが振り返る。
その表情にどきりとした。
母親の顔ではない。
男を惑わす・・・いや、男の本能を掻き立てるようなメスの顔をしていた。
嗜虐心や征服心といった、仄暗い感情に火が灯る。痩せていようと、薄汚れていようと、そんなことに構わず、このメスを滅茶苦茶にしてしまいたくなる。
「ルセをご所望でなければ、差し出せるものはもう私しかありません」
なるほど、ようやく合点がいった。
ノイルとルセの親子に施しをして、見返りを求めるのであれば、奉公させるにしても仕事の覚えが良さそうで長く使える若い方、つまり娘であるルセを所望するのが一般的な考えなのだろう。
金銭での見返りはまずありえない。プライバシーもくそもない生活環境なので、溜め込めるような財産を持つことはかなり厳しい。鍵もかえない場所にお金を置いておけば留守の間に盗まれてしまう。もしくはそんな価値のある物を持っていれば、命と一緒に強奪される危険性が高くなる。
ルセの宝物が色付きの石英だったことも、子供が奇麗な石だとそこいら辺で拾った物に価値がないと分かっているから、誰も奪ったりしないだけだ。
簡単な消去法である。
財産もなく、人的財産として価値の高いルセでもないのであれば、親であるノイルの個人の持ち物である自身の体ぐらいしか選択肢が残らない。
「そういうことを言っているんじゃないんですが? 俺は?」
「ご安心ください。これでもルセを身籠るまでは、夜の店で働いておりましたから」
ああ、なんかだめだ。パンのお返しをしないと気がすまなくなってる。
正直に言うと、ノイルの放つ雰囲気というのだろうか、それは痩せ細った体ですら色気を感じさせるようなものだったので、理性が悲鳴を上げだしかねない状況に陥っていた。
そっと、俺の頬に触れようと伸ばされたノイルの手が、妙に艶めかしく囚われたら最後と言われる淫魔の触腕にも等しく見える。
だがノイルは痩せぎすのせいで細すぎて、俺が触ったら簡単に砕けてしまいそうでとても手を出せない。健康的で筋肉もついているキュユにすら触れるのが怖いのに・・・ん? キュユ?
「すいません! これでも一応婚約者が要るので! 失礼します! パンについは貸しということにしておいて下さい!」
「えっ? ちょっと待っ・・・」
そう捲し立て一方的に言い放ちノイルを置き去りにして、俺は一目散に逃げだした。
話が通じない相手には、こちらも話を聞かないことにしなければ対抗できない。
何にせよ、キュユの事を思い出せて良かった。
脳裏に浮かんだキュユの笑顔が、ノイルの誘惑を打ち払ってくれたのだ。
俺は大きくため息を吐きながら、危うく一線を越えてしまうところだったと、変な汗をかいた額を拭った。