03 リアル
気持ち良い風が頬を撫でて行く。
「・・・ふぁ・・・あ」
あ、やべぇ。変な声出た。
燦々と降り注ぐ陽光の下で草原に寝っ転がるのが、こんなに気持ちいい物だなんて今まで知らなかった。意外とチクチクする草が、何故か心地良く感じるし、青臭い草の匂いも悪くない。
直近の外出した記憶は、家と会社をあくせくと往復したくらいしかないしな。
小学生の頃なら校庭で感じていたかもしれないが、既に遠い記憶に埋もれてしまい、その頃なんて碌に思い出せなくなっている事に気付いて、少しだけ悲しくなる。
忘れてしまった事で、まるで小学生時代が無かったかのように感じたせいだ。
大人になり、コンクリートとアスファルトに囲まれ熱の籠った空気に、エアコンの室外機が練り上げる不快な風と、自動車の排気ガスの臭いくらいしか・・・もう記憶にない。
地面に生えている草も、こんなにリアルになっている。
今までの、テクスチャを張る為の板と比べてしまうと、本物の草と言うものはこうも構造が違うんだな。
「ん? 何だこの白いの?」
思わず脊髄反射で、口に出してしまった言葉に反応するように、小さなウィンドゥが開いてその詳細を明示してくれる。
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【名称】メジハダニ
【種族】虫
【性別】メス
【年齢】0才
【食性】草食性
【状態】通常
【生殖】単為生殖/有性生殖
【取扱】害虫
【価値】皆無
【概要】極小の真っ白いダニ
農作物を枯らすことから、害虫と呼べるだろう。
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わしゃわしゃと体長1ミリに満たない大きさの虫が、元気に、数十匹単位で草の葉に張り付いているのが見て取れた。
今時の社会ではカブトムシのような昆虫すら、触れ合う機会が激減しているのだ。ペットショップで奇麗なケージに展示されたモノを見るか、ハエや蚊、クモにGと言った何所にでも沸く不快害虫くらいしか見たことは無い。
少年時代の夏の遊びの一つに“蝉取り”と言うものがあったことが実感できない程度には、虫と言う存在が生活から遠ざかって久しい。
「ひぇ!」
寒気がした。
思わず寝転がっていた草原から飛び起きる程度にはビビった。
ピントが合い、それなりに形を把握した瞬間に、視界内だけでも数百匹存在しているなんて思わなかった。
全身・・・寝転がっている体の面積を考えれば、数千では利かない数が居るのではと想像してしまったのが間違いだ。
「リアルに成り過ぎだっての! ・・・ああリアルか。リアルになったんだよな」
この世界はゲームに似ている。
いや、俺のやっていたゲームがこの世界に似せてあるらしい。
取り敢えずダニから離れたくて、歩き出すつもりで辺りを見回せば、一面の草原が俺から気力を奪って行った。
「ああ・・・。ここら一帯でダニって何万・・・いいや何億匹くらいいるんだろうな。キモイな・・・燃やし尽したいわ、ほんと」
いや、もっとか。
数えるのも馬鹿らしいくらいの数が居る筈だ。
そう、これはゲームじゃない。プレイヤーに楽しんで貰うため、伝えるために用意されている情報ではないのだ。有象無象の塵芥のような情報が溢れている。
少しでも距離を取りたかったからか、無意識に爪先立ちになっていた踵を地面に下ろし、思わず溜息を吐いてしまった。
「・・・ああ、面倒なことになった」
辺り一面は草原で、遠くに木々が・・・林は見えるが人工物は見当たらず、文明から孤立したような錯覚を覚える。
とにかく体を休められる場所は必要だ。探さなくては。何所か雨風の凌げる村か、東屋・・・最悪洞窟でも良い。野宿なんてしたことはないし、したくもない。
「俺の万年床を反せよ・・・あそこが一番落ち着くんだ」
だがそこにはもう戻れない。
そう、端的に言って俺は死んだらしい。
東京でサラリーマンをしていた。下町で生まれ、義務教育課程も高等教育課程も、取り立てて何かに強く打ち込む機会も気概もなく、無難に進学し就職し、そして、働いて、倒れて、結果として死んだ。
結婚する暇も余裕もなく、歴史に残るような事業に携わることもなく、漫然と生きた日々の中で、余命をすり減らし、生活の潤いとしての娯楽と言えば大して金のかからないゲームのみ。生きる目的を見失った果てのあまりの結果。
「酒も最近は飲んでなかったし、たばこもやってなかったんだけどな・・・」
健康には気を使った生活をしていたつもりだった。
それでも健康には程遠い生活になってしまっていたようだ。
確かに若い頃は酒を飲んでいたが、何時しか飲まなくなった。日々の潤滑剤としては安酒では物足りなくなり、量を増やせば翌日に響き、質を上げれば財布に響いたのが、飲まなくなった一つの原因だと思う。
止めはゲームに熱中する余り、脳の回転の鈍るアルコール摂取をしなくなった。ゲームでストレス解消できるようになり、アルコールに依存し無くなったのだ。
ゲームも、古くはビデオゲームと呼ばれる種の近代派生したもので、没入型と呼ばれるゲーム内に意識だけで入り込んでプレイする、フルダイブ型と言われている物だ。仕事で疲れ切った身体でも、プレイ中は身体を休ませながら遊べたのも良かった。
初期投資は確かにそれなりに掛かるが、酒を毎晩好きなだけ飲むよりは、トータルコストで雲泥の差が出る。
まあ、ゲームの仮想現実世界で、酩酊状態を仮想体験できたのが酒を飲まなくなった一番の理由だろうか。
リアルマネーを使わないので経済的だし、飽くまで仮想的に体験しているだけなので、体内にアルコールが残留することが無く二日酔いにならないんで、どんなにゲームの中で深酒して泥酔しても、翌日の業務に支障も出なかった。
旨い酒も、旨い飯も、幾らでも食べれた。確かに生きて行く栄養は取れないが、心の栄養にはなった。
今だから言うが、正直「現実ってもう要らなくね?」と・・・少しだけ、思っていた。
ほんと、少しだけだよ。
そして、審判を受けた。
その時に会った“神の使い”とやらが言うには、俺の生き様があまりにも無様で哀れで救いが無いので、やり込んでいたゲームの元となった世界に転生させてやると言うものだった。
その世界が好きなのだろう?
ならばその世界で、人生の続きをやって見せよ・・・だと。
「大きなお世話だくそ野郎」
自分でも今までの人生に満足していた訳じゃない。
だが憐れまれた果てに転生なんて、望んじゃいなかった。
死にたくは無かったが、もう死ぬ以外の道が無いことも感じ取っていた。
――それが哀れだからやり直しの機会を与える――
どれだけ上から目線だ! 何様のつもりだ!
神がそんなに偉いなら、人生のやり直しなど要らない。
今の身体を直してくれるだけで十分だったのに。
奇跡を与えてくれるなら。
それだけで良かった。仕事をして、疲れて帰って、飯食って、ゲームして寝る。
その繰り返しが出来るだけで、それは十分幸せな事だと今更ながら気付いたんだ。確かに他と比べれば、華もないし随分と寂しく映るかもしれないが、華の美しさを知らなければ焦がれる事は無いんだよな。
そして自分と他人を比べない事。比べて劣ると自分を卑下しない事。
それは俺なりの処世術だった。
生まれも、育ちも、存在も周囲とは違うのだ。
違いがあって当たり前で、妬みを持たなければ何気ない日々を生きるには十分だった。
だが、それは叶わず、死は決定事項。
その代わりに、健康な、年若い肉体。しかもゲームの時の性能のままなのは憐憫の埋め合わせ。
・・・そして転生。
ゲームの世界へ、いや・・・ゲームの元になった異世界へ、人の能力が数字で可視化された世界へ。
ゲーム『テン・タレント~10の才覚が彩る幻想生活~』と言うのが正式なタイトルだ。
内容は未だに人気のあるファンタジーな世界で、モンスターを倒したり、作物とか武器とか作ったりするゲームだ。
ゲームの売りはプレイヤーキャラクターを強化する要素が10あると言うもので、自由度はとても高い。
遊び方の方向性を自分で見いだせない初心者などにも、随時与えられるクエストを熟すだけで、それなりに楽しめるように配慮されていた。
そして、俺がこのゲームに魅かれた理由は、プロデューサーがゲーム内で何を再現したかったのか、何を再現したのかというインタビュー記事で、コーヒーの風味と味だと言った事だった。
味気ないリアルに、香りが着くような気がしたんだ。
それがゲームに触れたきっかけで、やり出した理由で、のめり込んだ原因だった。
そんな世界に転生するのであれば、まあ、そんなに悪くないのかもしれないと、少しだけ思ってしまった。
そして、この手の話でお決まり・・・と言って良いかは分からないが、その“神の使い”と言う輩は、何か望みを一つ叶えてくれると言っておきながら、勇者の力でも、絶世の美形の姿でも、巨万の富でも、それこそチート的な能力でも一つだけならなんでも叶えてやると言っておきながら、俺の一番の望みは受理されなかった。
それは出来ない。
それでは意味がない。
そう告げられてしまうと、少しだけ期待した感情も一気に萎える。
俺の人生も、望みも意味の無いものなんだな。
だから、高揚感なんてものは無い。
あっさりと燃え尽きた。
ただ面倒事が起きたか、巻き込まれたかは知らないが、延々と続くと言う予感だけはしていた。
“神の使い”にどのような魂胆があったのかは分からないが、一つだけ言えることがある。
それは完全な、人選失敗だ。
「俺以外の、こう言う転生を望んでいる奴に権利をくれてやればいいのにさ」
気を取り直し、雨風を凌ぐ為に人里でも探そうかと諦め、歩き出した。