シールズ地方①
恐ろしい唸り声が聞こえる。
時折、耳を劈くような咆哮がそこかしこから聞こえてくる。
暗闇でも光る真っ赤な目は無数に繁殖し、彼を睨みつける。
四方を取り囲まれた長身の男は舌打ちした。
右腕が、鋭い爪と牙で抉られ、ダラダラと血を流す。
その匂いに反応するかの如く、咆哮がこだまする。
右腕を庇いながら辺りを見渡すも、助けはおろか逃げる場所も見当たらない。
もはやこれまでと、男が諦めかけたとき、ぴたりと咆哮が止んだ。
直後、がさがさっと周囲の草がうねり、そこから素早く飛び出した黒い無数の塊は、空を駆けるように男を飛び越えた。
そして、彼を傷つけ追い込んだ獣、大きな夜に紛れるほど黒いオオカミの化物は何頭もの列をなし、男など目に入らない様子で風のように去っていった。
「助かったのか?」
右腕を止血しながら、男は安堵の溜息をつく。
すると、背後に気配を感じた。
利き腕が動かない今まともに剣が握れるわけもなく、男は飛び退いて、いつでも逃げられるような態勢をとる。
草をかき分けてやってきた影は人間の姿をしているようで、少しだけ不安が和らぐ。
暗闇の中小さな明かりを頼りに近づいてくる人物が、誰なのか見当もつかなかった。
男が話しかけるよりも早く、やってきた人物は被っていたフードを脱ぎ、彼に笑いかけた。
「ご無事で何よりです」
「は?」
男は驚愕した。
女だ。
正確には、まだ子供に見える女性がそこにいた。
こんな夜に、暗闇の深い〝深淵の森〟に少女ひとりでいるなんてどうかしている!
と、花の綻ぶ様に微笑む少女を見下ろし、彼は口をあんぐりと開けた。
そんな男の衝撃などどこ吹く風か、少女は自分の下げていたカバンから薬の瓶と清潔な布を取り出すと、彼に手渡した。
「治療してあげたいけれど、先を急ぐので」
「あ、ありがとう」
突然の出来事に思考が停止しながらも、彼は瓶を受け取る。
それに満足したのか、小さく頷いた少女は、先ほど大きなオオカミが去っていった方向に歩き出した。
「君! そっちは危ないからダメだ!」
「大丈夫です。知り合いが待っていてくれるので」
「知り合い? じゃあ俺が途中まで着いて行くよ。絶対に危ないから」
男が少女の隣を歩こうとするや否や、突風が彼を襲う。
「うわぁ! なんだこれ!」
少女と男の間に吹いた風に目を背ける。
ほとんど一瞬に近い風は瞬く間に止み、男が胸を撫でおろし少女に目を向けると、もうそこには誰もいなかった。
木々を走り抜け、時々大木を足場にして跳躍する。
黒いオオカミを追いかける彼らは、闇をもろともせず進んだ。
「彼、心配してくれていたみたいですよ」
少女が、自分を小脇に抱え、風のように走る男を見上げて頬を膨らませる。
「あんな場所であんなケガする輩は危険だし、第一、俺がいるんだから必要ないでしょ」
まったく、とこちらも頬を膨らませている。
金色の短く切り揃えている男は、呑気なことを言う少女を盗み見ると、苦笑いした。
「ゲリが待ってるんだろ。急ごう」
「そうですね。それにきっともうすぐ彼が来てくれますよ、フレキ」
「はぁ、俺はケモ耳美女の方がいいんだけどなぁ」
男がそうぼやくと、黒髪を靡かせた少女はエメラルドの瞳を真ん丸にした後、盛大に笑った。
「まだ言ってるんですか? ヒノトさん!」
空いている方の手で小突かれた少女は、心底おかしそうに彼の顔を窺う。
表情は見えないが、彼の声もどこか弾んでいるように感じた。
「その名前で呼ぶのは、あれが来てからだったろ! カノエ!」
今度こそくすくすと声を上げて笑い出した少女・カノエに、フレキと呼ばれていた男・ヒノトは頭を掻いた。
「これじゃいつまでたっても追い付かないな!」
そう言うと、ヒノトは立ち止まり、カノエを地面に立たせると、深呼吸した。
体を大きく震わせる。
そして、獣のような慟哭に似た大声をあげたかと思うと、その姿が変化していった。
徐々に膨らむ体躯。
黄金の髪の毛が逆立ち、やがて全身を覆う。
深い青に縁どられていた瞳は鳴りを潜め、代わりに鮮やかな赤が彼の目を覆う。
人間の姿を留めることを止めた彼は、カノエの一回りも大きなオオカミへと変貌を遂げた。
鋭い爪が地面を掴むと、視線を少女に投げる。
カノエは、平然と彼の変身を見届け、そのワーウルフの視線を受け、困ったように微笑んだ。
「フレキの背中、とっても滑るんですよ」
乗りにくいなぁと不満を漏らすカノエを叱るように、ヒノトは小さく唸った。
ずっと更新できずにいましたが、やっと投稿できました。
読んでくださっている方に届いてくれたら嬉しいです。
これから物語が大きく動き、面白くなっていくと思います。飽きずに、呆れずに、付き合ってくれたら嬉しいです。
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