『少女は、赤い花を咲かせる』
雨の音がぽつぽつと、外から聞こえて来る。
その微かな音によって、私は目が覚めた。
いつものように朝起きて、いつものように起き上がろうとした。
だが……。
「おはようシルヴィアさん、身体の具合はどう?」
「霧華、さん?どうして私の部屋に?」
霞んだ視界の中で、ぼやけた彼女が顔を覗かせている。
だけどシルエットになっていて、ここが本当に私の部屋なのか分からない。
いや、この室内にある匂い……これは私の部屋ではないだろう。
嗅いだ事の無い不快感を煽られるような匂いが、この室内には充満しているようだ。
「まだ寝惚けているの?じゃあ、目を覚まさせてあげる――えい」
「……っ!?」
バシャン、と頭の上から冷え切った水を掛けられる。
その影響で、私の意識ははっきりと覚醒した。そして私は、言葉を失った――。
◇◇◇
シルヴィアの意識がはっきりとした瞬間、彼女は自分の現実というものを疑った。
正確には、『今見えているモノが、現実なのか?』という事を疑ったのだ。
そこには不快感の原因も、匂いの正体も、室内の現状も、全て理解の外だった。
「これ、は……っ!」
「目が覚めた?――ようこそ、黒薔薇の世界へ。シルヴィア・エルフォーレさん」
霧華は片手を彼女に差し出して、まるでピエロのような仕草で言った。
腐敗した悪臭に包まれて、地面を這い回るネズミの鳴き声が微かに聞こえる。
赤錆びた鉄の匂い。様々な薬品が混ざった匂いが、シルヴィアの嗅覚を刺激する。
「黒薔薇?これはどういう事ですか!?霧華さんっ!」
シルヴィアは身を乗り出そうとしたが、椅子に自分の身体が括り付けられている事に気づく。
椅子の背には腕が、椅子の足には自分の脚が縛られている。
「霧華さん、どうしてこんなっ」
「どうして?それが私の役目で、私の仕事だから。貴女が私に見せたこれが、何よりも説明させてくれていると思うけど違うの?」
そう言いながら霧華は、シルヴィアの携帯の電源を入れる。
するとそこには、赤色に染まる鋏を持った霧華の写真だ。
カメラ目線ではないにしても、その場に在った監視カメラの映像の一部にも見える。
「懐かしいと思えば懐かしいけれど、この時の事……覚えてないな、私」
「覚えてないって……その写真の奥に写っているのは人の足で、赤く濡れているのは返り血。それ以外も何者でもないっ、貴女は自分が何をしているのか、分かっているのですか!?」
「うるさい。静かにして」
パチン、という皮膚音が響く。
叫ぶように訴えるシルヴィアを、霧華は何も躊躇する事無く頬を叩いた。
そして近くの椅子に座り、黙々と作業を開始したのである。
その様子を見て、シルヴィアは悔しさ混じりに奥歯を噛むのだった――。
◇◇◇
初めて会った時から、彼女に私は注目していた。
中途半端な時期での編入生にして、物静かなで小柄な少女。
見た目は人形のようで、その肌は透き通る程に綺麗だった。
ある授業で一緒になった時、私はそれが間違いだったと気づかされた。
「同姓しか居なくてもノックをするのが常識、ではなかったのですか?」
初めての対話。彼女との初めての接触は、一番最悪だった。
綺麗で透き通る肌だと思っていたの一部だけで、その服の下には火傷や切り傷などがあったのだ。
小柄で着飾っていた少女は、その身体に刻まれた醜い傷を隠す為のものだったと知った。
だけど私は、何故か迷いも無く口を開く。
「――私と、お友達になりませんか?」
「え?」
その状況で、何を言っているのだ。そう彼女は思った事だろう。
どんな事を思われようと、私は彼女に魅かれたのだと自覚したのだ。
彼女の過去は知らないにしても、辛い事があったのは明確なのだ。
それを思わせない立ち振る舞いを、私は「綺麗」だと思ったのである。
心底、羨ましいと思ったのに……。
「――どうして、ですか。霧華さん。私をこうして監禁しても、貴女が得る物は何もないはずです。私と貴女は、お友達なのでは無いのですかっ」
「友達よ。だからこうするの」
「意味が分かりませんっ。貴女は何がしたいのですか!」
「私はマスターに命令されただけ。数時間だけ、貴女を拘束しろと言われてる。そして……はい、もしもし」
彼女が何かを言いかけた瞬間、彼女の方から着信音が響いてくる。
それを彼女は無表情で応答する。冷え切った瞳で、崩す事の無い無表情で。
「はい、はい。分かりました」
やがて彼女は耳から携帯を離した。だが応答を切るのではなくその場に置いた。
私の目の前に、私が見えるように画面を表にして私の足元に置いたのだった。
『初めまして、シルヴィア・エルフォーレさん?私は霧華のマスターである所、つまりはご主人様でございます。以後お見知り置きを』
「……っ」
『あぁ、何も答えなくて結構。別に私は、貴女とお喋りがしたい訳ではないの。だけど貴女と話したいと懇願されまして、ちょっとした時間だけ。その要望に答えてあげようと思った次第です。―-さぁ、話たければどうぞ?』
電話の向こう側で、何が行われているかは分からない。
そして多分、携帯の相手は手で持って、その場に居る誰かの耳元に向けているのだろう。
あるいは目の前に、今彼女がやっているように。
『……シルヴィ?聞こえるかい?私だ』
「おとう、さま?お父様なのですかっ!」
『あぁ……あぁ良かった。シルヴィはまだ、何もされていないんだね。良かった。本当に良かった』
「お父様?大丈夫ですか?随分とお声が遠いようですけれど……」
遠いだけではない。所々に息を詰まらせながら話していて、まるで衰弱しているような話し方だ。
例えるなら、病院のベッドの上で患者と話すような……そんな感覚だ。
今にも息絶えるかもしれない。そう思うと、身体中に不安が走る。
「お父様?」
『シルヴィ、君が生まれてきてくれて、私は本当に嬉しい。本当は最期まで君の成長を見届けたかったが、私はここでリタイアのようだ。とんだジョーカーを引いてしまったらしい、ははは』
「お、おとうさまっ、いやです、私はっ!シルヴィアは、お父様と一緒にっ」
ピ……。携帯に向けられた細くて綺麗な指先。
それは真っ直ぐ、そして迷いもなくそのやり取りを遮断した。
恐らくこれが最期になるかもしれないというやり取りを、彼女は躊躇する事無く断ち切った。
「満足した?携帯、これ以上通話するとお金掛かるから」
「ぐすっ……お父様に何をするつもりなのですか!霧華さんっ」
「私は何もしない。マスターがする事だから、私が分かる訳が無い。――あ」
彼女は視線を下ろし自分の携帯を見た。
やがて目を瞑った後、目を開くと同時に私の足元に携帯を流した。
床を滑ってきた携帯の画面を見た瞬間、私は抱いた事のない感情が込み上げてきた。
「あぁ、お父様っ!お父様お父様っ。……ぐっ、殺してやるっ、貴女も、貴女の大事にしているモノ全部壊して、私と同じ思いを、苦しみを、味合わせてやるっ!」
「そう。じゃあどうぞ」
そう言った瞬間、私の体の自由が戻った。
私を縛っていた縄が解けて、手も足も身体も、全部の自由が利く事になった。
そうなれば、私のやるべき事は一つ。一つしかないのだ。
「ぐっ……あぁああああああ!」
「…………」
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。
今まで抱いた事のない感情が、どんどん溢れるように込み上げてくる。
「ふふふ……待ち焦がれたよ、シルヴィ」
「え?」
それはほんの一瞬だった。
首を絞めていたはずの腕が、私の目の前から片腕が消滅した。
いや違う……周囲が全てスローモーションに見える。
私の腕が、空中に浮かんでいた。
「ああああああああああああああああああああっ!!!!痛い痛い痛い痛い痛いっ!イヤだイヤだイヤだイヤだっ、こんなの嘘っ、夢に決まってる。ヤダ、ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダッッ!!!」
◇◇◇
彼女は叫ぶ。悲痛に嘆き、自分の叫びに合わせる様に、もう片方の腕を振り回す。
落ちていたナイフを拾い、霧華に向かって振り続ける。
だが短絡的な動きによって、霧華は何も臆する事無く回避する。
ただ霧華の中に眠るそれは、躍動を感じさせて感情を刺激する。
怒号により、我を忘れた少女が、自分に牙を剥く悪魔と化している。
その様子を見て、霧華はただ――
――ただ、笑っていた。
「……飽きちゃった。もう良いよね、マスター」
「ぁぁぁぁぁああああああああっ!!!」
「うるさいから、死んで」
思い切り振られた腕を掴み、霧華は彼女を地面に叩きつける。
そして間髪入れずに、腰に忍ばせたナイフを取り出した。
首を抑えつけ、
狙いを定め、
そのただ一点のみに、
ナイフを突き刺した。
「足りない」
噴水のように溢れる血を霧華は浴びる。
だが霧華はそう呟いた後、また何度も同じ場所を突き刺した。
何度も、何度も、何度も、何度も……。
そして突き刺す度に、彼女は不気味に笑みを浮かべる。
その赤い花を愛でながら、声も無く笑みを浮かべた。
その表情には、『喜』が見えるようで。
まるでそれは、『生』を実感しているようにも見えるのだった――。
翌日。雨が降る日。
灰色の下で死体が発見されたという記事が新聞に載せられた。
無造作に刺され尽くした死体は、首元の頚動脈切断以外にも、多数の刺し傷が見つかったという。
警察が調査を進めたが、痕跡は残っておらず、手がかりも掴めないまま事件は過ぎていった。
そして白皇学園の名簿の中から、『霧華』という名前も消滅していたのであった――。