『甘い誘惑』
自分の中に違う自分ではない存在が居た場合、他の者たちはどう思うのだろうか。
そんな状態を嬉しく思うのだろうか、それとも嫌悪感に包まれるのだろうか。それとも……。
などと考えている私は、自分自身の事を詳しく知らないのだから考えても仕方無い。
「…………」
昔の自分の事を少し語るとしたら、まずは彼女、マスターに会う前の話だろうか。
そうだな。語るならまずは、そこからの方が良いだろうという自己判断である。
自己判断して、自問自答を繰り返して、自己完結する話でも語ろうではないか――。
――それは幼い頃の私、まだ私に『霧華』という名が無い時の話である。
物心が付く頃に私は気付いた事があった。それは自分が孤児である事だ。
何処から来て、誰から産まれて、という事が分からない子供である事を知った。
「あっ……」
『……ちっ、何だぁガキがっ!余所見してんじゃねぇ!』
人が多い場所で他者へぶつかった幼い私は、まるでゴミでも見るような目で蹴り飛ばされた。
孤児であるが故に、親も無く住む家も無いという状況は、とても苦しい状態だと思えた日々だった。
私の他にも様々な子供が居た。孤児たちをまとめる者や差別する者……真面目に働こうとする者。
食べ物に困っている状況下であれば、誰だって死ぬ気で何かをする事が出来るのだろう。
だが……私は違った。
「…………」
何もせず、何も期待する事が出来なかった。
そもそも私が産まれた場所が違うのか、そこでは言葉が通じない場所でもあった。
その所為もあるのか、私は周囲から逸れ者として扱われていたのである。
「…………」
『おや?お嬢ちゃん、君は日本人かい?』
「わたし?」
『そうとも……お嬢ちゃん以外に誰かと話していると思うかい?』
そんなある日の事だった。
食料もなく、金銭もなく、生きる事に途方も暮れていた私の元に一人の男が現れた。
その男は商人のような服装をしていて、表面上は柔らかい表情をしていた。
そしてその男の言葉を聞いた私は、初めて自分の言葉が通じた事が分かった。
「……おじさん、だれ?」
その男の瞳に映る私は、ボロボロの服装で酷く衰弱した様子で映っていた。
こんなのが自分なのかと思いながら、私は彼の次の言葉を待った。そしてそれは、訪れた。
『お嬢ちゃん……困っているなら、私が仕事を紹介してあげよう。大丈夫、お嬢ちゃんでも簡単に出来る仕事だ』
「ほんと?」
『あぁ。どうだい?やってみるかい?』
「うん!」
そうやって私は、甘い言葉に誘われて男の差し伸べた手を握った。
これから自分がする事が、どんなに惨く今よりも苦しい事になるという事を知らずに。
私はその男が微笑んだ時に、つられるように笑っていた事を覚えている。
それが私が心の底から笑った、最後の笑顔になるとも知らなかったのであった――。




