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虚生  作者: サボタジュ
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幼少~小学校

振り返ってみると無為なものでした。

 私は幼少のころは愛想にあふれた子供だったらしい。

 母方の祖父母は車で一時間の同じ広島県内に住んでいて、父方の祖父母は遠い仙台の地に住んでます。

 母方の祖父母は親戚が少なかったので、親戚にはいつも明るく振舞っていました。

 別にその振る舞いをすることが嫌だったわけではなくてむしろ積極的に肯定していたほどです。

 だが、その振る舞いをすることに少なからず違和感を覚えたのは確か、五つの時だろうか。

 これは私の最も古い記憶で父方の祖父母に会った、則ち仙台に言った記憶です。

 その時、酷く褒めもてはやされたのを覚えています。向こうは親戚が多いから多くの人に褒められたためとても印象に残っています。

 祖父のフレーズは未だに記憶に残っている。


「君は神童だ」


 さて、五つばかりの子供にこの言葉の意味が解ろうか。無論、解ろうはずがない。当時の私は、ご褒美と称してフライドチキンを買ってもらえて大いに満足していた記憶があります。

 では、私は「神童」とまで言われるほどの何をしたのか。未だに謎です。

 仙台に行って感じた違和感。

 それは、母及び母方の祖父母の正義感です。

 無論、五歳児がそんな哲学的な言葉で理解しているはずはなく何となく、「かあちゃんとばぁちゃんが言ってることはなんだかおかしいなぁ」といった程度でしたが。

 よく考えてみれば私は典型的な「箱入り」だったのです。(仙台では自由に外出出来たり、買い物さえできた)幼稚園以外では家から出してもらえず、母方の祖父母の家は田舎にあるため他社と触れ合う機会など滅多にないのだ。

 ただ、私の世界は教えられた世界であって自分の目で見たものではない。

 特に母や祖母にはいつも「いい子でありなさい」と言われていた。それにはいつも「うん」と笑顔で返していたが、仙台に行ってから思うようになった、「いい子」とは何か。

 周囲に笑顔を振りまくことがいい子にである方法なのか。やはり、五歳の脳には些か難しすぎる問題でありました。


 父には幼少の頃から羨望の眼差しを向けていました。

 なぜなら、大体のことは何でもできる。料理、運動、裁縫。

 父は海上自衛隊に勤めていた。

 自衛隊(特に海上自衛隊)というものは出張が多く、一か月、二か月帰ってこないことは特に、陸上勤務でなく、船に乗っていた父にはザラにあることでした。

 様々な国に行っては買ってくる土産を楽しみに、毎日「とおちゃんはいつ帰ってくるん?」と朝起きるたびに聞いていたことを今でも鮮明に覚えています。

 今思えば、父が自衛隊に入っていて家に居なかったということが私の箱入り要素を強めていたのではないかと強く思います。

 だが、小学校に入ればもっと世界を知れるのでは、と淡い期待を抱いていました。

 結果から言えばその期待はまったくもって外れることになりましたが。

 私の通っていた小学校には学区というものがありました。

 その学区は、私の家を含める小高い丘の上の住宅地を覆うもので、丘から下は学区ではないと明確にわかるもので、出ようと思うと罪悪感で胸が締め付けられ、出ることができなかった。

 今思えば、なぜ、罪悪感というものを感じていたのかさっぱり見当もつきませんが。

 小学校の半ばになると母に対して憎しみにも似た何かを覚えるようになりました。

 なぜなら、母は(父は家に居なかった)一向にゲームなどを買ってくれないからだ。

 その頃から、多くの友達付き合いが始まった。

 それまでは、友達なんてなんで必要なのだ。と考えて、自分から積極的に話しかけたりといったことは一切しなかった。

 だが、この頃は世界を知る「道具」として、友達付き合いを始めたのであった。

 この時私が意識したのは相手にとっていい友であること。

 それは幼少の頃の「いい子」とは全く反対の性質を持っていた。

 できるだけ楽しく、滑稽であるように。

 授業中に突然大声をあげては友達を楽しませ、下校中に蜥蜴を捕まえ、プレゼントしては喜ばせた。

 こうして友達を作っていき、家に行ってはゲームをした。

 この頃、地域で流行っていたカードゲームを始めたのだが、ここで私に一つの感情が芽生えた。

「もっとカードが欲しい」その感情は私を人間の底辺に引きずり込むものであった。


 小学五年で私は劇的な出会いを果たしました。

 担任が変わった。その先生は(今でも鮮明に名を覚えていますが、プライバシーの観点から伏せておきます)私の父が出張で良くいなくなるのを理解して本当の父親のように振る舞ってくれた。

 私は大変うれしかったのを今でも覚えています。むしろ、本当の父よりも会う機会が多かったため、父よりも気軽に、より砕けたことを話せるという印象でした。

 この頃、父がアフリカの国に一年ほど出張しました。其れを機に私は自我というものに目覚めた気がします。

 母に対する尊敬などとっくに薄れて、「死ね」や「くたばれ」を連呼するばかりの会話でした。

 普通なら反抗期の売り言葉で終わるのですが、私は明確に母が死ぬことを望んでいました。

 ここだけ切り抜けばなんとも親不孝な息子だと思われることでしょうが、私にはここまで思うだけの明確な理由がいくつもありました。

 その中でも特にこの時期に憎悪を抱くにあたった大きな理由はとある言葉の意味を知ったからです。

 母は私を叱るときよく用いた言葉があります。

「飢え死にしろ」

 言葉の解らなかった当時は何の疑問も抱かずに聞き流していましたが、今となっては母に対して強い憎しみを抱くには十分な理由となる言葉です。

 母は飢え死にをするということがどういうことかわかっていない。

 それは幼少の子供にかける言葉ではないから

 或いは本当に飢え死にした人の苦しみを知らずに軽々しくその言葉を口にしたから。

 とにかく母が大嫌いになったのはこの頃です。

 さて、母の威信は皆無。父は不在。

 こんな抑止力がなくなった家庭で私は一つの罪を犯します。

 母の財布から金を拝借したのです。無論、カードを買うための金。

 それはあっさりばれ、私は一生母からの信頼を失うことになります。

 だが、私は微塵も公開していません。

 その金で得たものは、恐らく母と過ごす思い出よりもずっと価値のあるものだから。

 この頃から私は頻繁に街に繰り出すようになりました。

「道具」であった友達は置いて。

 ですが、私はその友達を失うことはありませんでした。

 先生が私のクラスでの立場を「滑稽な見世物」にしたからです。

 ですが、まったく不快に思ったこともなければ、言い方はおかしいですが、悪い意味での見世物ではなかったのです。

 おかげで男女問わず多くの友達ができました。

 この頃、数えきれないほどの嘘をつきました。

 クラスの人をだまし、挙句先生まで騙しました。

 実は自分はもうどちらが本当のことかわからないほどに錯乱していました。

 まぁ、よくもこんなにすらすらと嘘が出たものだと思いました。

 罪悪感なく、抵抗なく嘘をつく。真の意味で嘘つきであるのは私でしょう。

 嘘で塗り固められた人格。それが私の正体だったのです。


 思えば幼少の頃から、作り物の笑顔を振りまいていました。

 そんな「嘘つき」は中学校に進学するのです。

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