フライングキッド市原選手とFMWの話。
フライングキッド市原選手が好きだ。
何を隠そう、間近で初めて見たプロレスラーが市原選手だった。
忘れもしない97年のいつだったかのFMWの大会。
地元の体育館でプロレスの初観戦をした。
まず初観戦のプロレス団体が(当時は故・冬木弘道ボスのエンタメ路線邁進中の)FMWだったというところに私のマニアックロードが始まっているのだろうが、それはまあいいとして。
体育館の正面入り口にポスターや当日券の受付があって、その周りにダフ屋のお兄さん(知り合いの不良のお兄さんが駆り出されてたりした)が居たり、マニアなおじさん方が三々五々集まって何やら話し込んでたりした。
で、私は体育館の中をウロウロして、亡くなったハヤブサ選手や先日引退してしまった金村キンタローさん(当時のリングネームは「金村ゆきひろ」だった)を探していた。と、体育館の2階にトイレがあったので入ろうとすると、そこに通りかかったのが市原選手だった。
「あっ、ごめんね。そのトイレは選手も使うから…良かったら下のトイレ使ってくれないかな。」
そう言って、私を案内してくれたのだ。私はあの市原さんだと言うんで、あわわわ、となっているばかりだったが、何とか握手をしてもらい、頑張ってください!!と通り一遍の事を言って走り去った。
わー!フライングキッド市原だ!!!
と喜んでいたら結局トイレに行くのも忘れてしまった。
試合が始まると、第一試合がリッキー・フジ選手とフライングキッド市原選手のシングルマッチ。
これがとても良かった。
じっくり始まって、手を取り、バックの取り合い、腕を決めて、寝技に持ち込む。
今でも鮮明に覚えているのは、5分くらいピーンと集中した空気の館内に、二人のシューズの音と息遣いだけが聞こえているところ。そして、そこからボディスラムを一発。
バーーン!
と凄い音がして、オオッ!と場内がざわめいた。
あの当時、プロレスといえばテレビ中継かゲームで、ボディスラムなんて技は使ったこともなく。
あんな技の何が効くんだと思ってた私には衝撃的だったのだ。
試合は市原選手がムーンサルトプレスで快勝。
その日のFMWで一番の出会いは、ハヤブサさんも然ることながら冬木弘道ボスだった。
完全にハヤブサさん目当てだったのだが、気が付けばあの黄色いパンツの理不尽大王に夢中になっていた。あの当時、後楽園ホールのバルコニーから
WE WANT TO BOSS「ボスと共にどこまでも」
の垂れ幕がかかっていた。私もそれと同じ気持ちで、FMWを追いかけ始めた。
あの頃のFMWには今は新日本プロレスの邪道選手・外道選手のタッグが居て。
ミスター雁之助選手、黒田“最高”哲広選手、男の中の男・大矢剛功選手など魅力的な選手が沢山居た。雁之助選手がチョーシュームーブを見せれば長州コール、黒田選手の哲っちゃんカッターやコーナーポストに相手の足をぶつけて「もう一丁!」の掛け声も文字通り「最高」だった。黒田選手は売店でもとても親切で、サインと握手をしながら話しかけてくれたり「サインペンが乾くまで、パンフレット閉じないようにね!くっ付いちゃうから!」と言ってくれたり。今でも書いてると色んなことを思い出す。
あの頃のFMWは、もうない。今でも同じ名前の興行はあるけど、自分が見ていた頃の延長線上にあるものではないと思っている。私は大仁田さんも好きだったし、旗揚げ当初のFMWもビデオで見た。あれはあれで好きだった。
でも、やっぱり引退や復帰、衰えた選手たちを見るときは複雑な気分になる事もある。
こないだのガッツーワールドに出てた黒田選手の肉体は…見るも哀れにたるんでいた。
どうしちゃったんだろう…と心配なほどに。
市原選手もブログで膝の不調を吐露する事があって心配だけど、出来る限り続けてほしいし、ずっと元気でいてほしい。
私も市原選手のブログを毎日欠かさず読んでいるけど、今は地元徳島でお店屋さんをしながらプロレスの種をまいている市原さんは、とても素晴らしいと思うのだ。近所のお店でケーキを食べたり、差し入れのお菓子を食べてたりするところは、あの時の私と話していた優しい市原さんの姿がオーバーラップする。
いつか市原選手のお好み焼き屋さん「ムーンサルト」にお邪魔して、バトルロイヤル大盛を食べてみたいと思っているので、これからも遠くでひっそり応援しています。
こんな風に幸せな、ささやかでも大変でも明るい人生を送れるプロレスラーの人が、少しでも増えてくれればと思う。結局復帰したり、それすら叶わずに亡くなってしまう事も悲しいかな多い。
ただ、それもこれも飲み込んで選手と一緒にプロレスと生きていくのもファンの宿命ではあると思う。
それに甘えられても困るけどね。結局は、こっちも自分の生活や生きる理由があっての事だから…。
FMWに対する思いは、今でも心で大事に燃やしている。
お楽しみは、これからだからね。