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男はソファーに深く腰掛けて、ゆっくりと葉巻を燻らせていた。小さなテーブルの前には灰皿と琥珀色の液体に満たされたグラス、そして小さなビスケットがぞんざいに突っ込まれたお皿があった。どこを見ているのか解らない、奇妙に精気の欠けた瞳がゆらゆらと小さく揺れている。深い思考の中に、男はいる。私が近寄っても、お皿からビスケットを取っても何の反応も示さなかった。
ただ、葉巻を吸う動作が、グラスを傾ける手が、男が生きていることを示している。
私は、誘われるように男の懐の潜り込んでその膝の上に陣取った。
「何してる」
「何も。・・・・・・だめ?」
「・・・・・・好きにしろ」
紫煙と灰を私の方に向けないように、男は少しだけ顔を横合いに逸らした。もう一枚ビスケットを手に取って口に放る。男と初めて会った時に貰ったものと同じ味がした。
琥珀色の液体に興味を惹かれ、グラスを手に取ろうとしたが、男はそれを許さなかった。私の手の横合いから掻っ攫うようにグラスを取って、それからゆっくりと口をつけた。それから、お前にはまだ早い、と言った。じゃあいつならいいの、と聞きたくなったが、私は口を噤んだ。其れは答えてくれないような気がしたからだ。
「今日の騒ぎ、どうなったの?」
だから。それとは別に興味を引かれたことを聞く。
「実行者たちはみな射殺された。被害はそれなり。この国に進出してきている海外企業は少しばかり不安になっている。平和だった国に興ったテロは、今時珍しくもないが、それでも武器を持たないものは不安になるものだ」
「仕事ができたってこと」
「そうだ。上手くいったよ」
「・・・・・・?」
「奴らはうまく立ち回ってくれた」
私は目を男に向けた。男は平素そのものだ。口調とは裏腹に表情は全く面白がっていないのが奇妙だ。そこで、私は気付いた。
「あれを、企画したの」
「ああ。金を貰ったからな。教育と、戦闘計画の作成が、依頼だった」
「失敗するとわかってたの?」
「練度さえあれば、死にはしなかったさ。奴らは性急でいけない。あんな状態での戦闘は自殺と変わらない、と教えてやったんだがな」
それに俺は手を出してはいない、そう言って、琥珀色の液体を口に含んだ。罪深い男だと、私は思った。幼い私がそう思うのだから、ハマオカはもっとだろう。大人が何も感じないわけがない。でも、ハマオカにしても所詮は他人事でしかない。巻き込まれてしまったのは本当に運がなかっただけ。死んだテロリストどもが性急だっただけ。そして、ハマオカはこれでまたお金を稼いで、ご飯を食べることができる。男の会社の要員は、仕事を得ることができた。
何も悪いことはない。・・・・・・私たちには。
「ハマ・・・・・・ハマオカが言っていなかったか。俺のそばを離れて、日本に行かないか、と」
私は問われたことに正直にうなずき返した。
「あの国は俺の若いころほどじゃないが、平和だ。あそこでなら、食うものに困ることはないだろう。ハマオカも子供が大きくなって手隙になってきたといっていた。お前が望むなら、日本に行け。俺の戸籍が、お前を保護してくれる」
男が言っていることは事実なのだろう。私は、その国に受け入れられることができるのだろう。穏やかな国で食べ物に困ることなく、静かに、平穏に生きていける・・・・・・かもしれない。その可能性は私にとって重要ではない。所詮可能性の中の出来事でしかない。知らない人しかいない国に、丸腰で行くなんて考えたくもない。
私は世界が残酷なことを知っている。どこにだって血が流れることを知っている。強烈な性の臭いがあることを知っている。知らない他人に対してどれだけ残酷になれるのかも知っている。
そんな世界、冗談じゃない。
そんな世界が大嫌いだ。
大嫌いだから。冗談じゃないから。私から、抵抗する力を奪うことは、絶対に赦さない。私から、奪おうというのなら、神だって殺して見せよう。もう決めた。それで地獄の果てに追放されようとも構わない。私は抵抗することを諦めない。絶対に。
世界は残酷だ。
どんな国だって一緒だよ。
私はそれを知っている。
「冗談じゃない。私をそんなところに押し込むの。だったら」
「・・・・・・」
殺してやる、そう言って男の腹にウェストポーチ越しに銃口を突き付けた。手探りで安全装置を外す。すでに薬莢は薬室に叩き込まれている。いつでも男を殺すことができる。今ここで発砲音が聞こえたら、男の部下が殺到してくるだろう。寄ってたかって私を殺そうとするだろう。私はその全てに全力で抗う。
殴られるだろう。蹴られるだろう。銃で撃たれ、レイプされるかもしれない。別にいい。どんな状態になっても私は抗うことを諦めない。そんなつもりはさらさらない。最後まで生きることを諦めてたまるか。
「解った。それでいいんだな」
「今更、私を捨てようとするな」
「馬鹿だな。だが、解った。お前が俺の最後の弟子」
生き残り方を教えてやろう。この地獄の片隅で。血と肉と脳漿に塗れた世界で、屍の山を気付き、死体畑の良き農婦にしてやろう。
私の髪を指で梳きながら、男は優し気に微笑んだ。記憶にもう、ほとんど残っていない父の笑顔。それが男に重なる。何故だろう。なんでだろう。私が物心つく頃には父はすでにいなかった。父がどんな顔をしているのか、どんな風に話すのか私には解らない。解らないはずなのに・・・・・・
私は父をそこに見ていた。
◆◆◆
彼は己が罪深い人間であると自覚している。幼子は必死に何かに縋りつくように、強く強くシャツを握りしめて離さないで眠っている。その姿を見下ろして彼は、まだ燻る葉巻の火をねじ消した。葉が崩れ、煙草葉を灰皿に撒き散らす。今まで耕してきた戦場のあった肉と同じように。
幼子は何かに縋ろうとしている。縋る先を間違えた、とは言えない。
「ボス、いるか」
「ああ」
「・・・・・・大丈夫か、話をしても」
「もう寝てる。心配するな」
ハマオカは彼の懐で小さくなって眠っている幼子に目を移しながらそう問うてきた。彼はそれに鷹揚に頷いて、勝手に注いで呑めとウィスキーの瓶を指示した。ハマオカはそうさせてもらおうと答えて、グラスを持って彼の対面に腰を下ろした。
ゆっくりとウィスキーを生のまま味わい、ハマオカは微笑を浮かべた。しかし、すぐに険のある表情を作る。そうしなければならないと、自分に言い聞かせるように劇的に表情を変えた。
「その娘、どうするって言ってた?」
「お前と一緒には行かない、だそうだ」
「・・・・・・別に俺はこの娘をお前から引き離したいわけじゃないぞ」
「知ってる」
「・・・・・・お前と一緒にいても、その娘は幸せになれない、と俺は思ってる」
「俺もそう思うさ」
「だとしたら・・・・・・なぜだ。その娘は、セダの子だろう。お前、迎えに行ったんだろ。セダはどうした」
「・・・・・・死んでいたよ。一足遅かった」
ハマオカは額を抑えて、そうか、と小さく呟いて天を仰いだ。ままならない世界に、少しばかりの後悔を滲ませる。怒りも、憎悪も感じはしない。彼がそれを表していないし、幼子もそうだ。それを差し置いて己がそれをどうこう、というのは違うようにハマオカは感じていた。
「結局、耐えられなかったのか」
「元々、彼女は病弱だったよ。仕方ないさ。今までの生活のツケが回ってきたんだ。戦いには向いていなかった。それを助長させた俺が言うのもどうか、とは思うがな」
「戦いはセダが望んだものだ。誇りを守るために彼女の一族は命を懸けるからな。俺たちは請われて戦い方を教えた。彼女たちは勝った。少なくとも復讐は果たしただろ」
「・・・・・・そうだな」
そうして彼女は去っていった。両親を、兄たちを、姉たちを、一族を虐殺した敵に復讐を果たして、彼女は兄姉の子供たちを引き取って去っていった。生きるのに最低限の金だけを持って。彼らから離れた後の彼女の生活を知ったのは、本当に最近のことで、その時はハマオカも彼も仕事が立て込んでいた。すぐに彼女のもとに行くことは出来なかった。
セダの死因は、頭を撃ち抜かれたことによるが、それを誘発したのは梅毒。彼女は彼から離れた後も、結局人を殺すことをやめられなかった。ナイフで人を切り裂き、その血を浴びすぎた。そうして彼女は病に侵され、結果として貧困に喘ぎ、病に耐えられずに、死んだ。
ハマオカは思う。
セダは、病に侵された自分を見られたくなかったかもしれないと。誇り高い女性だった。でも不器用だった。そんな女性が、彼に会いたいと思うだろうか。病に侵された自分を見られたくはなかったのではないだろうか。結局、早いか遅いかの違いだったのではないだろうか。セダは、彼女は、彼がどんな人間を愛するのか知っていたから。
けれど、彼はそんなことを考えるだろうか。病に侵され、弱った女を、彼は見捨てられるだろうか。見捨てはしないだろう。彼は・・・・・人を覚えることがひどく苦手で、簡単に物事を忘却する彼が、忘れることなく覚えていた女を、病を理由に捨て去ることはない・・・・・だろう、とハマオカは思う。
「ままならないな」
「世の中、そんなことばかりだ」
酷い諦観のこもった言葉にハマオカは苦笑を浮かべる。
「お前も諦めてしまえばよかったんだ。結婚して子供を作ればよかっただろうに」
「俺がか?」
く、と彼は自嘲する。そんなことをしても、何も変わることはない、と彼は嘲笑う。人は皆違う。そうである人間もいれば、そうはならない人間もいる。幸せがどこにあるのか、人それぞれだ。苦しむのも、悲しむのも、怒り狂うのも、憎むのも、その人それぞれの基準によって変わる。実際に何も変わりはしなかった。人の本質を変えることは出来なかった。
「ハマ、言ったじゃないか。世の中はままならない。そして、そんなものだ。変わりはしない、何もな」
「お前は変える努力をしなかっただけだ」
「・・・・・ああ、知ってるよ」
彼は立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「ベッドにおいて来る。いつまでもこのままというわけにはいかないだろう」
抱き上げた幼子を軽く揺すって見せるが起きる気配を見せない。抱き上げ続けるのもいい加減疲れたんだ、そう言って別の部屋に向かって歩いていく。
その後ろ姿を見て、ハマオカはため息をついた。
「変わらないというのなら、慈しむなよ。自覚しろ、馬鹿が」