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その男はボス、師匠、先生、バディ、あるいは悪魔と呼ばれていた。男は零細警備会社の社長で、優秀な傭兵だった。特に人を騙し、裏から、あるいは不意に殺すことに長けていた。アジア系の人間で、東の果てから来たと言っていた。本当の名前は知らない。私も、男もそれを名乗ることはしなかった。私は、男の、書類上の養女となった。別の戸籍上の名前をもらったがそれで呼ばれたことはない。
「おー。ボス、また若いのを拾ってきたなぁ」
恰幅の良い男が、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべて男を迎え入れた。男の養女になってから一月後、男の会社の支社である東南アジアにある名前も知らない国にある小屋にやってきた。がんがんと冷房の効いた部屋で、私は寒さに震えた。
そんな様子を一瞥することもなく、男は恰幅の良い男から何か書類を受け取っていた。
「よー、お嬢さん、初めまして。そのおっさんの友人のハマオカだ。名前は?」
「・・・・・・シッタ」
「・・・・・・おい、書類と名前が違うぞ」
「あれは俺が勝手につけた名前だ。戸籍で変な名前を使うわけにはいかないだろ」
「おいおい・・・・・・」
ため息をつきながら、ハマオカは私に上着を着せてから立ち上がった。私に向けたものとは違う、険しい表情で男を見据える。
「どういうこった、そりゃあ」
「どうも何も。そいつは、自分をそう名乗ったんだ。なら、それでいいだろ。名前なんてのは、自分が覚えておけばいい。本当の名前は、な」
「オーケィ、解ったよ、ボス。そういうことでいいんだな?」
「ああ」
「で、飯はどうする?」
「俺は部下を見てくる。そいつに飯を食わせてやってくれ。ここで寒さに震えているよりはマシだろう」
「解ってたなら対処してやれよ!」
「いいから、行け」
「ったく」
やれやれとハマオカは肩を竦めると、そういうことだ、と言って私の手を取って外に出た。敵意は感じないから私はされるがままハマオカに連れ出された。正直、冷房の効きすぎた部屋にいたくなかった、というのもあるが、それよりも空腹が勝っていた。
外は故郷とは違う蒸し暑さがあった。そのことを言ったら、ハマオカは湿度が違うからな、と言った。湿度というのが解らず、私は首を傾げた。
「湿度っていうのは、俺たちの周りに漂う見えない水だ。水を火で沸かしたものを見たことないか? 湯気が立ってただろ? それだよ。ただ、俺たちの目には見えない」
「ん~・・・・・・なんとなくわかった、かも」
「ま、今は何となくでいいさ。そのうち勉強することになる」
「勉強・・・・・・」
本当に勉強できるのか解らず、私は首を傾げた。今までは生きるので精一杯で、それはきっとこれからも変わらないだろう。私は、きっと、あの男の情婦で終わるのではないだろうか、と薄々思っている。そして、それでもいいかと考えている。あの男は私をそんなに悪いようにはしないだろう。まぁ、抱かれる気配は一切ないのだけど。
「あいつは人を育てるとき、そうする。ま、人生の選択肢を与えるとか、そんな高尚なもんじゃないがな。これまで十二人、そうやってきた」
「十二人?」
「お前の兄姉、になるのか? 戸籍を作ってやったことはあるが、ボスが自分の籍にいれたのは嬢ちゃんが初めてだが」
とはいえ、とハマオカは続ける。それも偽物の戸籍だがな、と。まともな「人間」としての戸籍を持っているのはハマオカと、故郷を愛している人間だと、ハマオカは言った。
「ハマオカの故郷はどこ?」
「ん? カナガワ・・・・・・あー、日本だ。知ってるか?」
私は首を振った。私は、私の育ったであろう国だったものの名前すら知らない。
「そうか。ま、まだ小さいものな」
「ハマオカは、奥さんと子供いるの?」
「ああ、いるぞ。俺は日本にいる時の方が長いからな。ボスはほとんど帰ったことはないな。いつもどこかを彷徨ってる」
「たくさんいるの?」
「いいや、一人だけだ。息子がいるよ。お嬢ちゃんよりもずっとずっと年上だ。もうそろそろ受験だな」
「受験・・・・・って、なに?」
「学校に行くための、試験だな。良い点数を取らないと学校に行けない」
「ふぅん・・・・・・・」
私には縁のないものだし、正直ハマオカが何を言っているのか解らないのもある。試験って何、と聞いてもハマオカは困るだろう。説明されても私も困る。
ハマオカが連れて行ってくれたのは市場のすぐ近くで開いている屋台だった。そこで鶏肉のヌードルを食べた。箸というものが使えない私は、フォークをハマオカに買ってもらい食べた。正直、味は解らなかったが、がっついて食べた。この一ヶ月三食食べさせてもらっていたが、その前の食うか食えないかの生活の癖が抜けず、食べられる時に早く食べてしまう。食べ方は男も同じだったので特に何も言われなかったのだが、ハマオカは顔を顰めた。
「誰も盗りはしないから、ゆっくり食べなさい。それじゃ味が解らないだろ?」
「・・・・・・・どうでもいい」
「飯は味が解らなきゃ、つまらんぞ。レーション食ってるわけじゃないんだから。それにここはお嬢ちゃんがいたところと比べてもずっと平和だ」
そう言って、ハマオカは私の口元をハンカチで拭った。・・・・・・・でも、そんなことを言われても困る。平和というものが何なのか私には解らなかったのだ。銃声と砲声。悲鳴と絶叫。肉と骨と内臓と脳漿が私の世界のすべてだったのだ。
確かにここは平和だろう。何もないのだろう。穏やかなのだろう。
でも、だからって、悲鳴が響かないわけじゃない。絶叫が木霊しないわけじゃない。レイプがないわけじゃない。どこにだって、血と肉と脳漿と、強烈な性があるのだから。
でも、それにハマオカは気付かないフリをしている。きっと、ハマオカの住んでいる国はとても。とても平和なのだろう。けれど、そこにだって地獄はある。それに気付かないほうが幸せだから、それを知っているから、ハマオカは見ないのだ。だったら、説明する必要はない。ハマオカは大人なのだから。子供の私が知っていることを、知らないはずがないのだ。
「お嬢ちゃん」
「なに?」
「無理をしてあいつについていく必要はないんだぞ。俺が説得してやってもいい。日本で暮らせる手配もしよう」
私はハマオカの言っていることが解らなかった。別に日本に行きたいとは思ってもいないし、無理なんてしていない。私が必要としているのは安心して眠れる寝床と餓えることのなく食事をすることだけだ。今はもう、それは満たされているから、それ以上望むことはない。そもそも言葉も通じないところに行きたいとは思わない。それに・・・・・・どこにいても、私は孤独だ。それを更に見せ付けられるのは、嫌だ。
だから、ハマオカに嫌だ、と言う前に、その異変は起こった。
私たちから少し離れたところで、どん、と何かが破裂したのだ。
私は食器をひっくり返しながら、地面に伏せて身も蓋もなく頭を腕で覆った。ハマオカも同じようにしていて、同時に懐から携帯電話を取り出していた。
私の知らない言葉でどこかに電話をかけ、怒鳴り散らしていた。くそ、と忌々しく吐き捨てるように呟くと懐から拳銃を取り出した。
「お嬢ちゃん、ケガは!」
「ない!」
耳の奥でキーンと何かが鳴っていて、自分の声も聞き取り辛いから声は必然的に大きくなる。たぶん鼓膜は敗れていないはず。ハマオカは私を片腕で引き起こし、ざっと私の体を見た。
「走るぞ。ここから逃げる!」
頷いて、まだ呆然としている人垣を掻き分けるようにハマオカは私を担ぎ上げて走り出した。私は、大ぶりの――私から見れば――ウェストバックから拳銃を取り出す。安全装置を外して、あの男に最初に教わった通り周囲を見渡す。こちらに注意を払う人間はいない。
ハマオカは私の持つ拳銃を見て顔を顰めたが何も言わなかった。
その中で小銃を持ち、弾倉をぶら下げた男たちがわらわらと現れるのが見えた。
「ハマオカ! 小銃を持った男がいる! たくさん! 軍人だ!」
「軍人だと!? もう展開した? 馬鹿なっ!」
テロではないのか、とハマオカは唸った。
直後に、小銃の一斉射の甲高い音が鳴り響いた。反射的に撃とうとした私をハマオカは止めた。
「今は撃つな! 不利だ!」
相手は私たちを狙っていなかった。逃げ遅れた人たちを中心に彼らは小銃を撃っている。ばたばたと人が倒れ、ばらばらと肉が散った。悲鳴と怒号が木霊する。
「相手の顔は見えるか?」
「見えない。布で隠してる!」
「・・・・・・まぁ、身内ではなさそうだな。それと、お嬢ちゃん、あれは軍人じゃないよ。ただのテロリストだ」
「でも、私のいたところではあんな感じだったよ」
「・・・・・・・なるほど。ま、なんにせよ、だ。武装集団には変わりない。とっとと離れてしまおう。ボスがもうすぐ迎えに来る」
「あいつらを殺しに?」
「・・・・・・あいつにそんな正義感はないさ」
見物だろうよ、と呟いてハマオカは忌々しげに顔を顰めた。・・・・・・・ハマオカは男のそんなところが嫌いらしい。その気になれば、これを収めることを簡単に出来るのに、それをしないところが気に入らないのかもしれない。
しばらく街区を走って。喧騒がなくなったところで、ランドクルーザーに乗って、あの男がやってきた。武器は持っていない。軽装だった。軍用ブーツがコンクリートの道路を踏みしめる。
「ケガはあるか?」
「ない。・・・・・ボス、あいつらが来るのを知っていたな」
「・・・・・・シッタ。自分で歩けるな?」
「・・・・・・」
ハマオカの言葉を無視して、男は私に問いかけてきた。頷いて、ハマオカの肩から飛び降りた。ウェストバックに安全装置をかけた拳銃を突っ込もうとして、ハマオカがそれを横からひったくった。
「お前が持て、ボス」
「・・・・・・それはシッタにやったものだ。返してやれ」
「ボスっ!」
「同じことを言わせないでくれ、ハマ」
私はじっとハマオカを見据える。ハマオカはため息をついて、私に拳銃を手渡した。男はそれを見て、細葉巻を取り出して火をつけた。
ゆっくりと紫煙を吐き出して、落ち着けよ、と静かにハマオカに言った。ケガがないのならそれでいいじゃないか、とも。
「子供ができてから、お前は甘くなったな」
「・・・・・・そうなれば、お前も変わるさ」
どうだろうな、と男は呟いた。
「ハマ、ランクルに乗って帰れ。俺はあれを見学してから帰る」
「・・・・・・仕事が出来そうか?」
「そのための偵察だ」
ハマオカは息を吐いて、私の手を引いてランドクルーザーに乗り込んだ。私は男が逃げ惑う民衆の中に紛れるまで見送った。