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ポケットの中のビスケット  作者: 葦原葛西
天使は名前を棄てる
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 世界は残酷だ。

 私が住んでいる世界では、銃声は日常の生活音と変わらないものだし、装甲車の駆動音もヘリのローターの音もいつも鳴り響いていて当たり前のものだった。そこに迫撃砲の砲声が加わると逃げる準備をして、軍靴が地面を踏み躙る音が続いてきたら逃げる。

 そうなるとご飯を食べるのが大変で、糞尿の処理に困るようになる。体を清められないのはどうしようもないので諦めるしかないが、ご飯と糞尿は困る。ご飯を食べられないと死ぬし、糞尿の処理をできないと伝染病にかかってしまう。私の小さい弟はそれで死んだ。お母さんは病を得た。そして、私の生活はまた困窮する。

 どこのだれがどんな理由で戦っているのか知ったことではないが、生活出来ないのは困るのだ。

 綺麗な服を着たいとも思わないし、宝石を集めたいとも思わないし、美しい恋人が欲しいとも思わない。私が欲しいのは生きるためのご飯と、伝染病におびえないで済む最低限の環境だ。一番上の兄は何を感化されたのか知らないが、とっとと泥沼の戦争に体を沈めてしまった。便りもないし、仕送りもなくなったのでどこかで肉片にでも成り果てたのだろう。二番目の兄は必死に働いたが、バザールで働いていたところを治安部隊の砲撃で吹っ飛ばされて、これまた肉片になった。回収はしなかった。と、いうか出来なかった。数十人まとめて吹っ飛ばされたのでどれがだれなのか解らなくなったのだ。なので、私に出来るのは冥福を祈ることだけだ。殉教者として天に召し上げられていてほしい願うだけだ。

 残念だけれど、私は自分の命を繋ぐことで忙しい。

 ちなみに、私は七人兄弟の下っ端から一つ上だ。でも、弟が死んだので、私が一番下。その時のお母さんにはもう子供を産む体力はなかっただろうから、ずっと下だろう。

 一番上の姉は、二番目の兄が死んだあと、武装集団に拉致された。行方は解らない。酷い目に合う前に死んでいることを願うしかない。二番目の姉は治安軍の将校に見初められて家を出て行った。便りはない。しばらく生活に困らないだけの金を置いて行ってしまった。二番目の姉は私たちを捨てたのだ。ま、それもいい。ここの生活はそれなりに地獄だから、逃げたって責めはすまい。金は貰ったし、二番目の姉は最低限の義務を果たした。

 三番目の兄。

 彼は、全てを諦めていた。自分を包み込む現状も、終わらない戦争にも、全てを諦めて・・・・・・けれど、全て受け入れていた。あるがままを、まるで聖人のように。

 だから、お母さんが彼に向って懇願した言葉は、そのまま現実となる。

 苦しい、死なせて。

 解った。

 ズドン。

 お母さんは派手に脳漿を壁にぶちまけて死んだ。ついで、彼は自分の口に、どこからか調達してきた拳銃を銜えて、躊躇なく引き金を引いた。ズドン。二発目。三番目の兄は地獄に落ちることにも躊躇しなかったわけである。ぬるぬるとした血と脳漿と骨が入り混じった何かが天井にぶちまけられて、私はひどく困ったことになったのだが。

 これを掃除する手間を考えたら、これからの方策を考えるほうが良いのだけど、放っておくと臭くて眠れたもんじゃなくなる。

 私にとって、死というものはあまりにも近過ぎて、もはや肉親の死にも動じなくなってしまっていた。それよりも明日のご飯と、伝染病の心配のない寝床だ。外で寝ていたらレイプされて性病にかかってしまうから、これから寝床の確保も物凄く大事な事項になってしまった。考えることが増えたのはよくない。憂鬱な気分になってしまう。

 とりあえず、だ。

 銃声二発が木霊した。子供二人と病人しかいない小屋である。異変以外の何物に捉えられないだろう。

 私は拳銃を拾い上げて、しょうがないと呟いて、子供でも壊せる脆い壁をぶち壊して外に逃げた。夕暮れの、綺麗なだけしか取り柄がない空を一瞥して、私は空腹を抱えて走ることになってしまった。

 どこまで走ったかは、解らない。子供の足だから、そうそう遠くに行けたとは思えないし、そもそも満足に食べられなかった私には体力なんてものはほとんどなかったはずだ。それに拳銃が酷く重たくて、なぜ投げ出さなかったのかが疑問だ。

 結局、私の足は止まった。しかも、安全とは程遠い場所で、だ。まぁ、銃声が日常的に響くような街に安全な場所というものがあればだが。とにかく、疲れてしまった私はそこでへたり込んでしまった。

 ・・・・・・訂正しよう。やっぱり私は動揺していたのだ。こんなところで、道の真ん中で、もうすぐ日が沈もうかという時間に立ち止まってしまうなんて。襲ってくれといっているようなものだ。子供が金銭なんて持ってないから強盗に合うことはないだろうけど、子供だろうが何だろうが性別が女である以上、危険は危険なのだ。変態はどこにでもいる。

 本当にその時の私は運が悪かった。戦闘が終結したばかりで、反政府部隊に蹴散らされた治安部隊の残党が呻き、あるいは吠えながら、痛みと恐怖を引きずってそこら辺をうろうろしていた。

 絶え間なく降り注ぐ砲弾と破片。命の際の際を歩き過ぎた常人は、美しい戦争音楽で精神をぶち壊される。美しい祖国のため、自由のため、家族のために戦っていた普通のお父さんは心を壊して、戦争音楽で猛り狂った精神を制御できず、身体に溜まった膿と熱とを放出する機会を欲してしまう。どんなものでもいいから自らを現実に繋ぎ止める鎖を探す。まぁ、言ってしまえば何でもいいのだけど。酒でも薬でも。血と肉片と硝煙と砲声と、「死」の象徴から逃れられるのであれば。手近にあったのは、私というメスの体。ぶち込める穴がある便利な肉袋、というわけだ。生きているのがたまたま私で、私がいなかったら死体を犯していたかもしれないが。

 さておき。

 それは唐突であったのは間違いない。そもそも襲う側がわざわざ警告してくれる、ということはないのだ。不意に襲い、素早く目的を達する。兵士として行えば優秀なそれを、余計なところで発揮して、男は私に襲い掛かってきた。

 痩せた男だった。

 傷ついて衰えていた。

 それでも私より強いのは間違いなくて。逃げようとした私は、背中を押されて無様に転んでしまった。転がって、立てなくて、無様にゆらゆらと近付いてくる痩せた男を見上げた。星明りに背後から照らされて、男の顔は見えなかった。どうせ、痛みと恐怖がないまぜになって、憤怒と憎悪の行き所をなくした顔をしているのだろうけれど。

 私は知ってる。

 その顔を知ってる。

 どうしようもなくなってしまった、その顔を知っている。

 弱いものを甚振って、自分が強いと矮小にも思うのだろう。子供を殴って犯して、泣き叫ぶ様を見て、留飲を下げるのだろう。気分が悪いし、やられる方はたまったもんじゃないけど・・・・・・その気持ちは解る。弱者でいたくないという気持ちは解る。けど、やっぱり納得出来ないし、気分が悪いのだ。

 拳が振り上げられて、私の顔面を打つ。瞼の裏に火花が散った。鼻から、熱い液体が流れ出る。抵抗されたくないから、自分の強さを実感したいから。圧倒的な暴力の炎に炙られて、その恐怖を忘れたくて、殴る。私は防御をしなかった。殴られる回数は少ないに限るし、それで腕の骨でも折られたらたまったもんじゃない。打撲打ち身の方が、骨折よりましだ。来ると解っていれば、痛みはどうとでもなる。動けなくなるのが問題なのだ。

 暴力が終われば、昂った逸物をぶち込んで吐精して終わり。ま、そのころには私は襤褸雑巾みたいになっているだろう。

 黙っていれば、だが。

 男は動かなくなった私を見て、拳を止めて、軍服のズボンのベルトに手をかけた。私を抑える必要がなくなったから、両手を使って丁寧に屹立した逸物を引き出す。

 そして、ぎょっと目を剥いた。

 私はにたりと笑って、しっかりと男の胸に銃口を向ける。おっと忘れちゃいけない。安全装置解除。これしないと撃てないからね。バン。バン。バン。地面にしっかりと背中を預けて、立て続けに三回引き金を引く。腹から胸へ、制御できない銃の制動をそのままに、弾丸が打ち出され痩せた男の血液が体内にあるポンプに合わせて吐き出される。何が起こった解らないという顔で、男が仰向けに倒れる。

 立ち上がろうとしたら、肩が痛くて地面を転がる羽目になった。手首も痛い。顔も痛い。お腹を殴られなかったのだけは本当によかった。

 のろのろと立ち上がって、痩せた男を見下ろす。

 初めて殺したが、意外と感慨はない。家の仕事を終えた時と同じだ。どうせ、明日も続く。

 鼻血を拭い取り、ため息を吐き出す。

 ふと顔を上げると、小銃を肩から吊った男が珍しいものを見たような顔で突っ立っていた。私は反射的に拳銃を持ち上げていた。こいつはやばい、と何となく思った。殺さないと、死ぬ。引き金を引こうとした時には男は目の前にいた。軍靴の音が聞こえなかったし、どうやって近付いてきたのかも解らなかった。男は柔らかい手付きで拳銃を上から押さえつけていた。それだけで引き金を引けなくなってしまい、私は混乱する。


「え、あ」


 突然、天地が逆転して、私は空を見上げていた。何をされたのか解らない。いつの間にか、手から拳銃も抜き取られていた。

 男は弾倉を引き抜いて、薬室から弾を抜き取る。滑らかな動作だった。


「おい。あれをやったのは、お前だな?」


 低い声。ゆっくりと確実に言葉を紡いでいて、酷く優し気ですらあった。私を痛めつけようとする意志がないことが解る。地面に転がされたのは危険を排除するためだろう。その気だったならば、押さえつけるなんてせず、吊っている小銃で私を撃てばいいだろうし。

 私は大きく息を吸い込んでから、こくりと頷いた。

 男は無造作に伸ばされた顎鬚をそっと撫でて、どうしたものかと考えるように息を吐いた。


「親は?」

「死んだ」

「兄弟は?」

「一番上の姉は行方不明。二番目の姉は嫁に出た。今はどこにいるか知らない」

「連絡はつかないのか?」


 私は無言で首を振る。そうか、と男はまた髭を撫でた。


「行く場所は?」

「ない」

「・・・・・・・飯と寝床ぐらいはやれるけど」

「お金・・・・・・」

「そいつをやった手間賃だよ。信用できないなら、ついてこなくていい。こいつも返してやる」


 そう言って、男は拳銃を私の横に放り投げた。私は、それを拾い上げ弾倉を込め直して薬室に薬莢を送り込んだ。

 男は無線連絡をどこかに入れながら、歩き出していた。私は、少しだけ迷った後、男の背中を追った。少なくとも殺されることはないだろう。犯されるのなら・・・・・・性病を患っているようには見えないし、病気がないのなら、それもいいだろう。どうせ私に残されている道は、人を殺して奪い取るか、娼婦になるぐらいしかないのだから。

 男はついてくる私を見て、歩く速度を落とした。

 バックパックから、ビスケットを取り出して私に手渡してきた。水も。

 私は、それを貪るように食べ、飲んだ。やっと空腹が満たされて、足りなかった水分を与えられた。瞳から、何かが一滴溢れたのはその直後だった。

 男は私を一瞥しただけだった。

 それに流れ出たのは一滴。鬱陶しく思いながら、私は鼻血と一緒にそれを袖で拭った。


「ああ、そうだ。お前、名は?」

「・・・・・・・・私」


私の名前は・・・・・・・


「シッタ。ただの六番目シッタ

「そうか」

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