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夜が明けたら何になるのだろうか。
そんなわかりきった問いを、いつだったか投げかけたときがあった。
友人は少し苦笑して、「朝焼けは、美しいですよ」と答えた。
自分は、内心唾を吐いていた。
朝が、嫌いだったのかもしれない。
皆が夜を嫌うように、自分も朝を忌避していたのだ。
きっと。
だから、こんな景色を、彼は見たことがなかった。
夕日よりも清烈に、刻々と溢れ出す朝色。たなびく雲は鮮やかに紅を纏い。先導する白色はさながら波飛沫のごとく。これほど強く輝いているのに、差し込む光は驚くほど柔らかく、そして優しい。
重なり合った細い草木の間から、それは絹糸のように彼へ降り注いでは、微かな温もりだけ残して溶けてゆく。
「……草?」
彼は自問した。
首を傾げてみれば、確かに草だ。青々とした若い草。その向こうから、朝日は差し込んでいる。荒野などどこにも見当たらない。
「これは、驚いた……!」
他者の気配に気付き緩慢に視線を動かす。見上げた先には火神ユリウスその人が、目を見開いて驚嘆していた。神の琥珀の瞳のなかで、同様に驚愕する己が姿が映る。
「……火神!?」
「記憶があるのか……いや、身体ごとこちらへ流れ着いてしまったのか?」
ここは死後の世界か。
友人が言っていた。命あるものは肉体を失くしたあとも、天の世界と地の世界を巡るのだと。そして魂はまた新しい種となり、命の花を咲かすのだと。
なら、やはり自分も死んだのだろう。
友人と、同じように。
(生きろ、と。言われたのに)
身じろぎするたび、ぱしゃりと水が撥ねる。濃い水草の匂い。沼のような湿地に、彼は横たわっていた。さらさらとした水質がとても心地良い。
火神は束の間沈思したようだった。
「これも奇跡、か」
「……?」
近付けば裾を濡らすだろうに、しかし火神は一片の躊躇もなく彼の傍へ屈みこむと、
「ここは天界。本来ならば、人間界で死んだ者は肉体を地界に還し、心は種のかけらとなって天界へやってくる。そして長い間漂い続け、やがて成長してその花を咲かせ、新たな生命を生むのだ。ここに住まう者は皆、そうやって生を享ける」
涼風が彼の黒髪をさらって撫でた。
「……だがお前は少々違うようだ。還すべき身体、溶かすべき記憶も持ったまま、花すら咲かせずこの場所に来た」
「つまり……俺は死んでいないのか」
独白めいた彼の問いへ火神は静かに首を振った。
「いいや、お前は一度死んだのだ。その証拠に、もうあの力はないだろう」
確かに。ふるおうと思っても何も起こらない。やり方すら忘失してしまったかのように。
呆気にとられた思いで掌を見る。これほど簡単に、失うことが出来る力だったとは。
「それに、ここでは夜が来ない。日が沈まないから、暗い夜を嫌う者もいない」
「夜が、ない?」
「そうだ」
火神が力強く頷く。
「お前はもう、黒夜ではない」
一瞬、言われた意味が理解出来なかった。
黒夜ではない。
もう、恐れられ、迫害されることも、ない。
やっと外れた枷に安堵と歓喜を覚えるも、ならば今の自分は何者なのだろうと再び不安に陥る。
そんな彼の内心の揺れを察したかのように、火神は微笑んだ。
「そうだな、では、新しい名前は東雲にしよう。まさにこんな景色のように、夜明けを齎す名だ」
「……しののめ」
空が一面、彼の名に染まる。
「――東雲。私の、眷属にならないか」
心に生まれるのはいまだ微かな灯し火。
『生きて』
己の力で。己の意志で。
生きるという、何にも代え難い情熱。
幾千の時が過ぎようと絶えることのない、彼だけの火焔――
――それは、柔らかな朱色。大空を鮮やかに彩る、夜の果ての黎明。
黒夜に別れを告げる、暁の夜明け色。
「東雲」
主が呼ばう声に振り返る。
長身を黒衣に包んだ彼のその髪、瞳は共に美しい黒。
「何でしょうか、ユリウス様」
そして彼はしなやかに一礼をして、涼しげに笑む。
部屋の窓の向こうに、眩しい朝焼けを眺めながら。
fin.




